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hasunoha 問答検索結果 : 「 自殺」
検索結果: 3457件

死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

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頭がおかしくなりそうです

前にも似た様な質問を行いましたが、また、その時の恐怖が出てきました。 仏教では輪廻転生の教えがありますよね。死後に自分の行いや業によって六道のどれかに落ちるという。 前に仏教は今をどう生きるかを説いている、死後の事は分からないというお答えを貰いました。 だけど、折角お答えを貰ったのにまた生まれ変わりに対して恐怖が出てきたのです。 私はまだまだ自分の人生を生ききっていない二十代の小娘です。 だけど、来世を恐れ、来世を心配するという考えに取りつかれています。 来世が動物や虫になってしまったら、どうしよう。それで酷い目に会ったらどうしよう。怖い目にあったらどうしよう。 運よく人間に生まれ変わっても、今の様に平凡だけど幸せな環境のようば場所じゃなくてテレビいえ、私が知れないだけで想像も絶するような場所に生まれたらどうしよう。 もし、そこで酷い目に会ったらどうしよう、非人道的な扱いを受けたらどうしよう、誰かに殺されたらどうしよう。悪人になってしまったらどうしようという考えが頭の中をぐるぐると回り、自分が酷い目にあっている所まで想像してしまいます・・。 別にそんな目にあいたくないですし、本当に嫌です。 こんな事を考えても仕方ないし、今の心配をしろよですし、来世だから今の私の自我があるかどうかも分かりません。だけど、こんな目にあいたくないという気持ちが強く出ているのです。未来の私かもしれないという考えがあるのかもしません。 こんな目にあいたくない。こんな目に合う位なら死にたくない。 死後の地獄も嫌。死んでも自分が消えるのも嫌。 死んだらもう、この世に生まれ変わりたくない。人間にも動物にも虫にもなりたくない。死後の世界があるのならただ穏やかでありたい 嫌だ!嫌だ!嫌だ!とか心の中で叫んだり あれ?私はこんなに信心深い方だったけ?私は何の為に生まれたの? この世は魂の修行場だと聞いたけれど、そんなの誰が決めたんだ、苦しいのは一回きりで十分なのに、という考えが自分の中になってそれで体調が悪くなったり気分が沈み胃が荒れている状態です。 もしくは引きこもっているから、こんな事を考えてしまうのか、精神的にはおかしくなっているのでは・・と思います。 折角頂いたお答えもあるのにどうにかしたいけれど、またこんな調子になってしまい解決策が見出せない状態です・・。

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お寺変えるべきか悩んでます…

昨年長男である旦那が正式に墓守に。 去年墓経時に棚経もお願いしても連絡なし棚経も来てもらえず。 今年も盆前墓経時に棚経をお願いしてて、連絡なしで7月末にポストに名刺だけあって夜に連絡をしたら「棚経に行ったけど不在だった」と。 連絡もなく来て不在と言われても共働きで常に家に居るわけじゃないし、日時を指定してもらってその日は電話を切りました。 棚経は午前中との約束だったので、義母も9時前には我が家に。10時過ぎ確認も兼ねてお寺に電話。 「住職が他所回ってるから午前中は無理、午後に行く」と。 11時半過ぎに電話がかかってきて「午後は施餓鬼があるから棚経は無理。お寺来たら一緒に棚経のお経あげてあげてもいいけど?」 去年はお願いしても無視、 今年は連絡もなく勝手に来てその後約束した日時は来れず、上からの物言い。 何のための約束か⁈と旦那も義母もブチ切れ。 実は仏壇開きもやってもらえるまで2年かったという経緯が。 元は旦那の祖母が檀家、義父と曽祖母の位牌を義母が管理をしてました。(祖父は祖母が勝手に集合墓地に遺骨を巻いてしまいこの時は位牌なし) 当時、義母の再婚があり長男である旦那はまだ未成年。墓守は無理で、出来る歳になるまではお寺に位牌を預ける形をとりました。 5年前に祖母が他界。その際叔父が別宗派で葬儀、納骨もしないまま2年。叔父の方から祖母の位牌と遺骨をそっちでどうにかして欲しいと連絡があり、これをきっかけに成人した結婚もしたと旦那も墓守を決意。菩提寺になるお寺で祖母の戒名と祖父の相談、位牌の引取りをお願いしました。 はじめはお寺も対応が早く、 叔父から位牌遺骨引取り→その日のうちにお寺へ行く事ができて、4人の位牌も早くに受け取る事ができたのですが… その後からはぐだぐた。 お寺へ行ったのが秋の終わり。 これから寒くなるから納骨は春先、その時に仏壇開きも、との事。 春になりでも連絡はなく、こちらから連絡。納骨当日はその日別の方の納骨があってそのついで?な扱い。 仏壇開きも仏壇等を揃えた状態でお願いしてましたが、納骨以降仏壇開きの連絡なし。墓前法要の度に直接話しても「また連絡する」の繰り返しで、我が家が引っ越す話をしてやっと返事がもらえて漸く…な流れ。 こんなに適当なら同じ日蓮宗の別のお寺さんに変えた方がいいのか?と思ってしまうのですが…。

有り難し有り難し 45
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生きていてやりたいことがなく、未来への希望もないので死にたい

はじめまして。 ここに初めて質問させて頂きます。 個人的な相談ですがよろしくお願い致します。 私は18歳男の浪人生です。 ただ3月に学校を卒業してから一切勉強はしていません。 やりたいことがあってそれをやるために志望校を目指そうと奮い立ち予備校には入ったのですが それもほとんど行かず、現在は毎日ネットサーフィンをして現実逃避をしてしまっています。 なぜこうなってしまったのかと言えば、先述したやりたいことが、本当にやりたいことなのかと思ってしまったために モチベーションを失ってしまったからです。 どうせ自分には無理だし、良く考えたら別にやらなくてもいいやと思ってしまいます。 私は去年の6月頃からずっとこんな状態で、学校でカウンセリングを受けていました。 ただそれではほとんど回復せず、そのころから学校に行く以外はずっとネットサーフィンをする生活が続いています。 本当は勉強して大学に入るのが良いと思うのですが、そこに踏み出せません。 大学に入ってやりたいこともなくなってしまったので、もはや勉強ができる状態にありません。 もっと大きなことを言えば、生きていてやりたいことや、社会に出て実現したいことなどもないので、 もはや生きている理由はありません。 こんな生活を続けている自分が嫌になり、親にも申し訳なく、未来への希望がないので 生きているのが辛く、死にたくなってしまいます。 でもできれば死なずに、なんとか生きて、この状況をどうにかしたいとは思っています。 どうすればよいのでしょうか?

有り難し有り難し 290
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

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退職理由について

現在退職を考えています。 理由は、勤務シフトに暮らしがついていかず体調不良が続いていることと、休憩中の受動喫煙が辛いということなのですが、甘いでしょうか? 職場は、勉強出来る環境ですし、業務内容やスタッフに不満はありません。 2交代制のシフトなのですが、遅・早・遅・早となるのについていかないのです。 始発で出勤して終電で帰宅するような激務の人もいるんだぞ!と言われればその通りです。 帰宅が遅くても朝がゆっくり出来たらいいじゃないか!と言われても当然なのですが、帰宅が遅くて夕ご飯が食べられないのが何よりのストレスなのです。 休日にたくさん作って冷凍するなどの努力はしていますが、足りません。 元々同年代の人に比べて食事の必要量が多く、いわゆる痩せの大食いです。すぐに底をつきてしまいます。 コンビニの弁当やカップ麺など便利なものもあるだろうといわれるかもしれませんが、 そんな粗末なものを毎日食べても食事の多幸感が無く涙が出ます。 手作りの健康的な食生活を送っていて、たまにジャンクフードを食べるからそれが美味しく感じるのです。食費は浪費するのに、食事内容が不幸であるなんて、不幸以外の何物でもないと最近は感じます。 好きな仕事をしているのに、仕事のために自分の暮らしを犠牲にしている被害妄想が激しくなってきました。 栄養状態が悪いので貧血になり、休憩室の受動喫煙も頭痛に拍車をかけます。喫煙者は上の人ばかりなので誰にも言えませんし、鼻をタオルで覆うなどのあからさまなことは嫌味になるので出来ません。 けれど、お昼休みにまで外で食事をしていてはお金がもちません。 今のところ、貧血と頭痛・吐き気・舌の痺れ・疲労くらいの症状なのですが、病院でもらった薬を飲んでいても改善していません。痛みは強くなっています。 これ以上長く続けたら本当に体を壊すと思っています。 社会人として体を壊すまで働かないと、甘えによる退職になるのでしょうか。 症状を文字で羅列しても、「そんなんみんな一緒や。みんなしんどいねん」と言いたくなるようなものでしかありません。 今は、同じ業種のほかの会社から「うちに来たらいい」と言ってくれてるところがあるので、 いろいろと考え込んでしまい、結果そちらに転職したい気持ちが強くなりました。 でも、自分の退職理由がただの逃げな気がして、何とも表現しがたい苦い思いです。

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なぜ自分が生きているということが尊いのでしょう

虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?

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跡継ぎの悩み。お坊さんとしての在り方とは

 実家が寺院です。  住職をしている父親の在り方に疑問を覚えるとともに、自分の将来について悩んでいます。  現在、人々のお寺への関心は少しずつ薄れているものと思います。そんな中、私の実家は今でも多くの檀家の方々に支えられ、お寺として成り立っています。しかし、父はその有り難さが分かっていないように思うのです。    具体的な収入(僧侶が頂くお金を収入と呼ぶのは語弊があるかもしれません)を私は知りませんが、高級車を何台も乗り継ぎ、沢山の娯楽品を購入し、暴飲暴食…。具体的な発言があったわけではありませんが、「僧侶も職業だ。稼いだ収入を好き勝手使ってもいいだろう」というような気持ちが根底にあるように思います。  お寺の管理として沢山の工事も行い、綺麗なお堂を建てる一方で、景観として素晴らしい大きな木を何本も切り倒すようなこともありました。  非常に恥ずかしく思うとともに、悲しく、また、檀家の皆様に申し訳なく思います。そんな父の「粗さ」に母親が涙する日も増えました。ただ、私もまた、そんな父の援助があって、仏教科ではない別県の大学へ進学しているため、やっていることは本質的に父と変わりないのだと思うと、苦しくなるばかりです。  父親のような僧侶にはなりたくないと思います。ただ、日々誰かの死と向き合う仕事ですし、お寺としての管理も父なりに苦しんで考えているものと思います。大きなストレスもあるでしょう。父がどんな気持ちで高級車を乗り回しているのか、分かる気もします。改めて、現代におけるお寺や僧侶というものの在り方の難しさを感じます。「苦しすぎて私にはとても継げない。」「自由に暮らしたい。」「普通の家庭に生まれたかった。」そんなことを連連と考えてしまいます。  悩みやすい性格で、父親のことも悩みの一端に過ぎません。ただ、お寺の道に進むのか否か選択を迫られる時期が近づいてきており、「お坊さん」として生きていらっしゃる方々の言葉を聞いてみたいと思い投稿しました。  お坊さんとしてお金とどう向き合っているか。お寺への関心薄れる現代において、お坊さん・お寺として、今後どう在るべきか。また、悩んだ末に実家を継いだ方がいらっしゃいましたら、その決断に至るまでのお話など、相談としては漠然としており申し訳ないですが、何かご意見頂けると有り難く思います。

有り難し有り難し 147
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どうすれば、すべての人を尊敬できるようになるのでしょうか?

長文で申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。 私は小さな頃から「天才だね」「何でもできるんだね」と言われて育ちました。実際にかなりの才能に恵まれているようですが、自己肯定感が強いので、どうしても傲慢な気持ちが捨て切れません。 私は長い間、業務能力が芳しくない人と一緒に働くことで生じてしまう様々な非効率に悩まされてきたので、正直「賢くないことを自覚していない人」がとても苦手です。 正直「賢くない人と働きたくない」という思いもあり、学生の頃に個人事業を起こして順調に経営していましたが、25歳の頃に孤独なお金儲けが虚しくなり、大きな仕事を純粋に楽しむことを目標に一流企業に入社しました。 日本でも指折りの入社難易度を誇る会社でしたので、入社後は優秀な人に囲まれて本当に楽しく働いていました。「やっぱり、優秀な人に囲まれて過ごせば悩みは解決するんだ。賢くない人に関わりさえしなければ、健全な気持ちで働くことができるんだな」と感じたのです。 しかし心の底では、「優秀ではない人を見下してしまう自分」がすごく嫌いです。その人の人として尊敬できる部分を探して尊敬しようとしても、「あ、この人頭が悪いんだな・・」と感じるとどうしても上から目線になってしまうんです。 これではいけない、傲慢だ・・・と思い何度も謙虚になろうとするのですが、「頭の悪い人に対する嫌悪感」が強く、うまくいきません。 「頭の良さ=人徳」ではないことはわかっているのですが、経験上「頭が悪い人からは迷惑をかけられたり失礼な目にあう」という認識が拭えないのです。 しかし、私が人より器用に生まれたのは、自分ではなく誰かを助けるためなのだろうな、とも感じています。 どうすれば、賢いとはいえない人に対して尊敬の念を持つことができますか?

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 412
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