40歳のシングルマザーです。 最近、高2の息子が反抗期に悩んでいます。 今まで、反抗期がなかったので心配でしたが いざ始まってみると 息子の一言一言が胸に刺さり 今まで経験したことがない、苦しい気持ちになります。 私は、1年半前に離婚をし、子供と一緒に、元夫と住んでいた場所から離れて 新しい生活を始めました。経済的に苦しく、子供に不自由な思いをさせてしまっているのは申し訳ないと思っています。 それでも、協力してやっていこうと決め、笑って暮らそうとやってきました。 今、思うことですが、離婚を決めてから今まで、「何とかなるだろう」と考えがあり、自分自身が甘かったな部分もあると感じました。 今度こそ、生活を立てなおそうと思った矢先の息子の反抗期、暴言で 心が折れそうです。 息子の話を聞いていると、自分の意見を言うというよりも、 私の全てを否定しているように思え、息子が私に何を伝えたいのかが分かりません。そして、今までの私のように甘えているとしか思えません。 まとまらない文章で申し訳ありません。 今後、息子にどう接すれば良いのか、頂けたらと思います。 よろしくお願いします。
高校生の男子です。 お寺に生まれたご縁から、2年前から 仏教に魅力を感じるようになりました。 さて、質問は「冷静さを保ちたい」ということです。 自分は性格的に弱い部分があります。 進学校に進んだものの、いつもなにかに急かされるというか 精神的余裕を失ってしまいます。 心の平安が大切なことはよくわかっているのですが、 冷静になることができず、へとへとになって帰宅します。 精神的余裕がないので、いただいた命を輝かせることができていません。 むしろ腐らせてしまっているようにも思います。 そんな自分が情けないし、 みっともないです。 でもお坊さんは、日頃から冷静沈着で 命を輝かせているようにおもいます。 そこでこの行き詰まったこの状況をどうにかしたいと思い 質問しました。 どうしたら、どんな状況にあっても冷静さを保ちつつけることが できるでしょうか。 よろしくお願いします。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。