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検索結果: 1393件

死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

有り難し有り難し 73
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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 49
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自分のようなニートはどうしたらいいですか

ニートと社会人の違いは社会に恩があるかどうかなのかなって今の自分は思っています。そこから考えるとニートって社会に不参加の意思が有る人達なのかなとも思いました。 ただ現代ではサブカルチャーだったりの文化もかなり発展して、現実社会以外でも社会に似たものを参加したり出来ますよね。 それで若者が現実社会より、サブカルチャーの社会を好きになってしまったり恩返しとか自己の成長をその社会でやりたいと思った時について、お坊さん目線ではどのような事を考えるのでしょうか。 現実社会で成長しないままサブカルチャーに入り込んでしまって時を過ごして、途中から現代社会に戻ろうとしても現代の厳しさでは将来が怖かったりそもそも社会が嫌いだったりで、必要なことだとしても気軽には現実社会に戻ろうとはなれない人が沢山居るんだと思います。 そして環境次第で、完全に詰んだと思った子は自殺を選択肢に入れたり、環境に余裕を感じた子は余裕の中をニートで過ごしたりとか考えるのじゃないのかなって それで自分はそのニートのほうで、現実社会は怖いし苦手な考えの人が多いって思ってて、だけど環境の余裕に限度を感じてきて、怖くて楽しめそうにない社会で自立を目指さないといけないのかなって不安で仕方ないのです 自殺も辛い思いして頑張るのも、結局自分でしか決められない物って思うと本当に辛いです お坊さんから見て助言とかあれば嬉しいです。自分はまだ若くて目線が足りてないんだろうなって思うから今回質問させてもらいました。 長くなってしまい申し訳ないです、よろしければ回答お願いします

有り難し有り難し 21
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SNSの人と上手くいきません

SNSの人間関係で恐縮しますが、ご相談させてください。 ネットで度々嫌な思いをします。 口だけで態度にせず約束を作りたがるのに 破る人の多さで約束ごとが嫌いになりました。 態度で示して守る人を信用するようになりましたが、示さない限り相手を信用できません。 人の言葉の使い方や、伝え方で誤解されても仕方ない言葉の足りなさ、誤字によって嫌味に聞こえる「幸せそうでなにより」→「幸せそうでないにより」ことで不快を感じたりします 一旦、それらは我慢して見なかったことにするのですが、相手が何度も繰り返すと私も限界で本人に伝えます。 すると相手はこちらの人格を否定して、勘違いするのが悪いと責め立てます。 今でもその人に対しては失礼な人として二度と関わりたくないと思ってますが その人に陰で嫌がらせを受けています。 また、相手がこちらへの配慮がなく不満を募らせ堪忍袋の緒が切れたときに相手に不満を打ち明けたら私のせいにして逃げた人がいます。 当時は言わなければ良かったととても後悔して、辛い日々を過ごしてました。 月日が経つごとに、やはりあれは相手が失礼だった。そして私のせいにして逃げた相手を今でも好きだとは思えないしもう二度と見たくない。 相手の事が信じれないと思うようになりました。 でも、話せるなら話したいとも寂しく思います。 自分は楽しく平穏に過ごしたいけれど過去に嫌な思いをした人と一緒のSNSに嫌悪を感じます。 しかし、自分は他の人とその場所で楽しく過ごしたいです。 前に進めず何もできません。やる気も下がって嫌なことばかり思い出します。嫌がらせも受けるようになり 今のSNSを手放して、見つかるかもしれないけれど別のアカウントで始めた方がいいのでしょうか 過去に不快に感じる人たちをどうやって許すことができるのでしょうか 許せない限りいつまでも不快感が残り相手を軽蔑した目で見てしまいます。そのような考えはしたくないです SNSでこちらが一度でも不快に感じてしまうことは、自分にとって正しい感情でしょうか? ずっと我慢して堪えてきての爆発だったので 爆発した自分がいけなかったのか、我慢し続けて見ないふりを貫き通せば良かったのか それを思うとゾッとしてSNSの付き合いが分からなくなって怖いです。 私はどうすればいいのでしょうか

有り難し有り難し 28
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昔人を呪い、今悪霊にとりつかれています

こんにちは。 中学だったか高校の時、人間関係の苦しみから人を呪い、自分の幸せを願いました。 その人は私の願ったとおり怪我をしたり部活が変わったりしました。 私は今夫もいて、いろいろあって彼を好きだけど愛せずにはいます、 しかし、物質的には幸せで、困ることはありません。ある意味幸せをつかみました。 ただ、自分の願ったとおり幸せになったので、怖くなり人に見てもらったところ 低級霊の悪霊と契約してしまっているといわれました。多分神社仏閣などのお祓いでは祓えないといわれました。 もし、カルマをなくしたいなら、ボランティアとか寄付などして見ると少しは軽減されるかもしれないともいわれました。 悪霊は、私の健康と寿命を引き換えに契約したそうで、確かに今私は精神的病と糖尿病を患っており、思い当たるふしがあります。 今はもう呪いもしていませんが、契約は続いているそうです。 どうしたら、この状況を打破できるでしょうか? 一応寄付などはしていますが、ボランティアをやる気力が今はなく落ち込んでいます。 何かそういったものを取り除くお経や方法などありますでしょうか? 呪いをしてしまったこと今とても反省しています。 どうかご教授ください

有り難し有り難し 51
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死ぬと地獄行き

すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません

有り難し有り難し 1133
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イライラを観察してみました

私はとてもいらっちです。 よく考えたら、長い付き合いなのに自分のイライラについてよく知らない。 そう思い、イライラを観察してみることにしました。 そして分かったことがありました。少し、お付き合いください。 イライラには突発的にイラっときたことを引きずってしまうイライラと、 普段から不満に思っていることに自動で反応して起こるイライラがありました。 突発的なイライラは、思いがけない出来事で予定が狂ったり、たまたま機嫌が悪くて些細なことで腹が立ったり、一時的なエラーといった感じです。 一方で、自動で反応して起こるイライラはなかなか収まりません。 このイライラを更に掘り下げてみると、 「本当は嫌いなのに」 「本当はここに居たくないのに」 「本当は関わりたくないのに」 「本当はこう思っているのに」 不本意なのに、我慢している。でも本当は我慢したくない。 すぐに解決できない。かと言って気持ちの切り替えもできない。 それらのことが受け入れられなくて自分がキャパオーバーしている。 意外と根深い問題だと気付きました。 私はアレルギー体質ですが、それに似ていると思います。 心のアレルギーとでもいうのでしょうか。 もちろん止められることは、すぐに止めれば解決します。 でも、今すぐに止められないこともあります。 例えば仕事に関することがそれです。 最近では「好きなことだけする」といった考え方もありますよね。 私は横着なので、考え方ひとつで楽になれないだろうか、とつい思ってしまいます。 そんな都合のいいことはないかもしれませんが、お坊さんは、こういう時にどうやって気持ちを切り変えていますか?

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肉食について

お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。

有り難し有り難し 45
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2023/09/10

最愛のペットを殺めてしまいました。

昨日最愛のペットを私の不注意で殺めてしまいました。 その子はハムスターで「おはぎ」ちゃんといいます。 私の人生で初めてのペットで、妻が一目惚れをしてお迎えしたある意味特別な子でした。年は1.6年と人間でいう60〜70歳くらいです。 ※以下生々しい描写があります。ご注意ください。 その日はいつも通りおはぎちゃんがお外に出たがっていたため、お部屋を散歩させるべくケージから出してあげていました。おはぎちゃんはお利口なので目を離してても部屋をぴょこぴょこ歩いているか、飽きたら自分のケージに戻るような子でした。 少しして私と妻はコーヒーを買いにコンビニに行こうという流れになりおはぎちゃんをそのままにして家を出ようとしました。 車に向かう途中で忘れ物をしたので部屋に戻り後ろ手で部屋の引き戸を閉めようとしたら、いつもと違う感触が。 下を見るとおはぎちゃんが倒れていました。口から血を出してピクピクとしている様子。顔面蒼白で叫ぶ妻の顔。ジタバタしながらもがき苦しみ普段鳴かない子がキュゥキュゥと弱っていく様子。 ことあるごとにフラッシュバックして自責と後悔の念に駆られ胸が痛いほど締め付けられます。 その後、1時間かけて緊急の夜間病院に車を走らせましたが間に合わず息を引き取りました。 おそらく扉に挟まれた衝撃での内臓破裂だろうと獣医さんから言われました。 なんて可哀想なことをしたんだろう。 こんなことがなければ明日がまた来ていたのに。 天命を全うしていたのに。 部屋を離れるときにケージに戻していれば… 後悔してもしきれません。 こんな間違いを2度と犯さないように徹底して他のハムスターたちに愛情を注いで可愛がろうと心に誓いました。 しかし、心の切り替えというのは未熟な私にはすぐにできるわけもなく、思い出しては心が締め付けられます。 妻は私を責めずに励ましてくれます。 ただ、私は自分が許せない状態です。 どうしたらおはぎちゃんは報われるでしょうか。 おはぎちゃんのためにできることはあるのでしょうか。 殺めてしまったのは私なのに助けを求めるのはおこがましいとは思いますがお坊さんから助言や救いの言葉をいただけたらと藁にもすがる思いで質問させていただきました。

有り難し有り難し 8
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お参りの仕方について

こんばんは、毎日の生活のヒントにいつもハスノハのお話を参考にさせていただいています。 仏教には縁があまりなかったのですが、311の震災で被災し、お坊さんに親切にしていただき心が救われた事があり身近に感じるようになりました。 近所にお不動尊のお寺がありまして、そこは普段は誰もいないお寺ですが、縁日だけは開いていて、滝があってとても美しく大好きなお寺です。 そのお寺に毎日とはいかないまでも2日に1度はお参りしています。最近娘が精神的に不調をきたしてしまい、快復を願ってお参りしています。願いを込めてお酒を絶ったりしてみたりしています。 ですが、そんな事してみても関係ないような気もするし、娘は元気にならないし、お参りをしたところで、時折果てしなく虚しい事をしているような気がして、お参りをしたってなにも変化しないのかなと、単なる困った時の神頼み的な気がして、どうしようもなく涙が出てきます。 なににどう祈ればいいのかわかりません。 身近にはお坊さんも仏教徒もいません。 どのような気持ちで礼拝すればいいのかご教授いただけませんか。 仏壇には朝夕手を合わせていますがお線香を先祖にあげてるだけのような感じです

有り難し有り難し 16
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