人の人生は、変えられない定めのような力が存在するのでしょうか?前世の罪の償いのためだけの今世を送る人もいるのでしょうか? 生まれた家庭は、母からの虐待、暴力、暴言で、人生の前半は逃れられない境遇でした。 社会人一年目の担当指導員は、部内で有名な典型的なお局上司に当たり、精神を壊しかけました。 その後は非正規雇用で転職の回数が多い中、明らかに人格障害のような異常性格者に絡まれる割合・確率が異常に高く、みえない呪いのような運命を疑わざるを得ません。 物事は捉え方次第と言われてしまうかもしれませんが、もちろん、逆にとても素敵な人達や、素晴らしい、温かい職場に出会えたこともあったことは自覚し、感謝もしているのです。 それでも、前世で何か大きな過ちを犯し、その償いの為に、もしくは怨念を背負った状態で、人生を送っているのなら、もうその覚悟を決めるので、 「その通り。あなたの人生はそういう人生なのだ」 と言い切って貰えたらどんなに楽かと思うのです。
私の好きになる人は大体私の事を好きになってはくれません。 毎回そうなのでこのまま好きな人と結ばれないのではないかと不安になっています。 こういう運命だと思うしかないのでしょうか。疲れてしまっています。
パワハラに転職した後もあい、ひどい扱いを受けました。そうした経験から余裕もなくなり配慮ができず、友達も周りから去り、今残ってる友達もいるのですが、そんなに頻繁に会えず、頻繁に連絡をとるほどの仲でもないです。毎日が寂しくてたまりません。自分が傷つくと分かっているのに、離れた友達に連絡をとってしまいそうになったり、なにをするのも手がつけられません。この寂しさをずっと消えないのでしょうか。数年間ずっと寂しいままです。早く落ち着きたいです。どうしたらいいですか。
私は占いを見て行動しないと不安で仕方ありません。毎日複数の占いサイトをチェックしています。 少しでも悪いことが書いてあると1日行動するのが怖くてたまらなくなりブルーな気持ちで行動してしまいます。 いいことが書いてあっても悪いことが起こったり、占いの順位が低くてもいいことがあったりすることがあるのは当たり前で信じるべきではないと分かっているのですがつい占いを見てしまします。 占いに頼らないで生活するには自分をどのように保ったらよいのでしょうか?
過去に似た質問があったらすみません。 こんにちは、私は27歳の一児の母です。 私は高校生くらいのときから、 寝る前に、自分が死んだ後の世界について 考えて、怖くて眠れなくなることが よくあります。寝室で、恐怖で叫んでしまうこともあります。私達は、 当たり前に回っている地球の、ほんの 一瞬を生きているだけで、私が死んでも 世界は回って、過ぎていきます。 何が言いたいかというと、つまり 死ぬのが怖いのです。人が死んだら、 どうなるのですか? 魂と肉体が、とか言いますが、 脳の働きで精神と自我があるだけですよね。 死んだら無に還るのですか? お坊さんだからこそ、 お聞きしたいです。 よろしくお願い致します。
はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。 表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。 決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。 私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。 そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。 5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。 大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
旦那が自分わもう死ぬと言ってここ最近毎日飲んだくれてます。 元々精神的に弱い人で私と出会う前にも自殺未遂をしています 今年に入り精神的におかしくなり 仕事に行けなくなりました それでもなんとか頑張って立ち直ろうとしていたのですがここ最近色んな事重なりすぎて 旦那さんの中でプツンとなってしまったみたいで 私が何を言ってももう自分わ死ぬといいます 自分が死んだ後こうしろあーしろといろいろ説明してきます。 私にわもうなにもしてあげれないのでしょうか ここ3日頑張るとなってわまた夜には死ぬと言う繰り返しです 生きることがそんなにも辛いならもうなにも言わず受け入れるべきなのでしょうか ちなみに子供が3人います(5ヶ月2歳6歳)です こんなに小さい子供もいるのに 子供の為に頑張るという選択肢はないみたいです 働けない精神的に弱い自分がそばに居るより居ない方が子供達のためと言います ほんとにどうしていいかわかりません
毎日死にたいとしか思えません。 楽しく生きたいと思っています。 ですが死にたくなります。 死ぬ勇気はありません。 どうしたらいいですか?
最近(2、3ヶ月くらい前から)、はやく死ななきゃ、生きててもいいことあるのかな、など考えています。 何度か自殺未遂をしています。 ふとした時に【死なないと】【私は必要ない】【なんでここまでして生きるんだろう】など考えています。 死にたいって相談を友人や親にしてもいいのかな、どうせかまって欲しいから死にたいって言ってるんだろうな、と考えてしまい相談出来ないです。 自殺は悪いことですか、?
前回は質問に答えてくださりありがとうございました。 今の私は周りに頼れる人もなく孤独感を感じ、独り身で生きることに意味を感じません。 また、生きていても誰の役に立てるとも思えません。何事に対しても興味を持てません。 ただただ無気力で現状を何とかしなければという気持ちはありますが、実際は身体が動かず、心療内科に通院はしていますが、それ以外は食事をすることさえ苦痛で何もできません。 元々人間不信なところもあり、周りに迷惑をかけるだけだし、いっそのこと死んだ方が楽なのでは?という気持ちになります。 こんな状態で生きることに意味はありますか? 死ぬことは本当に悪いことなのでしょうか。
夜、道路で猫をひいてしまいました。 気づいた時、咄嗟に避けようとしてハンドルを切ったのですが猫も同じ方向に動いてしまい、ブレーキを踏む間もありませんでした。 運転していた時スマホを手に持っていました。スマホを見ずにもっと前方を注視していたらもっと早く気づけたかもしれません。 ああやってしまったと思ったのに、怖くてすぐに確認せずそのまま元々の目的地に向かってしまい、冷や汗や動悸や自責の念に駆られながらも頭の中で帰りはこの道は通らないようにしようなどと考えてしまいました。 なぜ私なのか、毎日死にたいと考えている罰なのかと、神様なのか運命なのかどちらに対するもよなのか、恨みすら湧いてしまいました。 自分の用事を終えたあとに、このままではダメだと思い一度家に帰って家族に同行してもらい、ダンボールとバスタオルを持って亡骸のもとに戻り、連れて帰ってきました。抱き上げた亡骸はまだ暖かかったです。 近所に動物の供養をしてもらえるお寺があり、明日の朝伺う予定です。 自分が命を奪ってしまったことも、その時の思考、行動も怖いです。法律で罪に問われないだけでとんでもないことをしでかしたのに、人間だったらどうなっていただろうかなどと考えてしまったことも怖いし、そのままにしておく人も多いのに自ら向き合いえらいねと家族に言われたことも腑に落ちません。えらいわけがないです。 家族は、こういうときはごめんねと思わずに成仏してねと願うんだよ、と言いますが本当でしょうか。 わたしはどのような気持ちでいるべきでしょうか。 なんの償いにもなりませんが、しばらく供養をしていただくお寺には通うつもりです。こうしてここで相談して心を軽くしようとしているのも卑怯で、本当に申し訳ない気持ちです。
子育てや、生活していく上で意見や考えが大きく違い、精神的に限界を感じ別居を始めてから六年経ちます 離婚にはなかなか応じてくれず、毎日の生活に追われているうちに、これほど時間が経ってしまいました 正直、子供達を育て終わるまでは、このままでもいいかと思ってしまった時期もありました 六年の間、主人は毎回同じことを書いたメールを何度も何度も送ってきます 許して、全部なおす、全部ママの好きなようにしていいなどと… 最近は、それが毎日のように届き、私は読む度に精神的ダメージを受けます ただ、もともと、鬱でクスリを飲んでいた主人で、最近は酷くなってるから、助けてくれとか、死にたいなどとメールにもよく書いてきます 私は、離婚を考えているのに、主人は自分の望まないことは完全に無視です 裁判をすることも考えてはいますが、鬱が酷くなってる状態で、どのようにを対応をしたらいいのか分からなくなっています 私の対応によっては、おかしな行動をしないかと不安で、何も切り出せない状態です
はじめまして。 30代、男性です。 10代の頃から漠然とした 生きる不安感があり、それを希求する上でたくさんの宗教学やカウンセリングの勉強などをしてきて現在に至るのですが、この『道』だと言う手応えがないです。 実際に一つの教えを研鑽していけば通ずる道は同じだと思うのですが、語っている方に違和感がでてきてしまいます。 たくさんの宗教家やその筋の方(一般的なカウンセラーやスピリチュアリスト)などにお会いしてきましたが、凄く懐疑的になってしまう自分がいます。 それでいて信仰心のようなものは非常に強く、唯一の趣味は神社などに一人で行ってその土地の空気感などを感じることです。 もちろん、信仰や信心などは他と共有したりするものではないですが、どこかしら独学的に勉強している部分もあり他人と共有したり する必要性があるのかなと感じてしまいす。 何かアドバイス頂けたらありがたいです。 宜しくお願いいたします。
周りの人にあまり話せないのでここに書かせてください。 好きな芸能人の方が亡くなりました。 もう10年以上ずっと推していて、写真集も全部持っています。 舞台もたくさん見に行きました。 私はいつも彼の笑顔に支えられていました。 でも、彼は自分で命を絶ってしまいました。 私が支えられていた、芸術や音楽や舞台は彼を救いませんでした。 今年は最愛の祖母を亡くして、最近やっと立ち直ったばかりです。 確かに彼は身近な人ではないけれど、大事な人でした。 悲しみが溢れて押しつぶされそうです。 彼の40代50代になった姿が見たかった。これからの活躍を期待していた。 残念で残念で、涙が止まりません。 幸せになってほしかった。 周りの人は、泣き続ける私をさすがに理解してくれません。 それは仕方ないことだと思います。祖母とは違うのだから。 でも悲しくて悲しくて、どうしたらいいのかわかりません。 心の整理がつきません。
はじめまして。 私はTVで、たまたま見た恐ろしい予言が忘れられません。 気になりすぎてあれこれ調べてしまい、もう、恐怖で 触れるもの見るもの全てに悲しくなり、1人で泣いたり、食欲が減ったり 趣味が楽しく無くなったり、怖い夢を見るんじゃないかと寝るのも嫌になってしまいました。 それでも誰かにそのことを打ち明けたら、その方も同じ悩みを抱えてしまうのではないかと いつも内緒にしています。 自分でも、このままではいけない。その時にならないと分からない。みんな一緒だ。と言い聞かせています。 それから、どうにか明るくなるために ネット等で気持ちが塞いだ時にする事、幸せを感じる方法など調べてみるのですが やっぱり、いつも虚しさで 明るくなろうとか、今を生きよう、という気持ちに至りません。 寂しさ余って、彼に抱きしめてもらっても余計に悲しくなってしまいました。 今度入籍するのでお祝いの席、新生活、旅行なども控えていますが、TVを見る前のように素直に喜べないです。 本当に彼や両親に申し訳ないです。いつも考えこんでしまう性格なので、改善する方法があれば教えて頂きたいと思います。 どうか、助言ください。
私はちょっとした否定ですぐ自分を見失ってしまいます。 優しく指摘してくれる人とか、相手にそういうつもりがなくても、自分はダメだと烙印を押された気持ちになってしまいます。打たれ弱いです。 このままだと辛いなと、変わりたいと思っています。 ハスノハで色々ヒントを頂けて、楽になった部分もありますが、体験談なども聞いてみたいです。 もう少し甘えさせてください。
私にしてはお久しぶりです 最近ニュージーランドでテロ事件があり沢山の人々が亡くなりました 宗教を越えて祈りが捧げられているというニュースが流れています 私がhasunohaをお休みしていたのは これまで何度も挑戦してきたのですが様々な宗教を勉強する為に仏教からいったん離れていたからです 正当な宗教(?)から怪しげな宗教(?)まで其々の教えに耳を傾けてきました 旧オウム真理教のテロ事件の被害者やご遺族の方々の意見や現在の心境なども極力汲み取るよう察せられるだけ察してきました 学べば学ぶ程いろんな宗教に寄り添っていきたいなぁと思うようになり そして信仰の自由のない家庭で勝手に信仰心を持ちつつ改めて思ったことは… 今の私は仏様の教えが一番好きだということです とってもとっても大好きだということです なのでまたhasunohaに戻ってきました 巡り巡って元に戻る それだけ今の私は仏教に魅力を感じているようです 質問になりますが 仏教三昧のお坊さまにとって も~ここがたまらん!と強く強く想う仏教の素晴らしさとは何ですか? 一言では言い表せないとは思いますが お坊さまの皆様にとって ついつい熱く語りたくなる ラブラブ「これぞ私の仏教愛」をお聞かせ下さい
私が小学校2年生のころ、目の病気にかかってしまいました。 それから今まで10年間の間、手術を繰り返し、キツイ薬を打ち、なんとか病気が悪化しないように生きてきました。 しかし、つい2ヶ月ほど前に右目が失明してしまいました。残った左目も状況は芳しくありません。 それまでは私が楽観的な性格だったこともあり、必要以上には気にしないようにしてきましたが、失明したことにより、やっと私の病気の深刻さに気づき、それからというもの、これからのことを悪く悪く考えてしまいます。 それから私は、高校に通うのをやめてしまいました。 それは高校を卒業し、大学を出て、就職したとしても、ひとたび目が悪化してしまえば、すべて水の泡になってしまうのではないか? と考えるようになってしまったからです。 しかし、もしこのまま学校に通うのを辞めたとしても、先に進めないのはわかってはいるのです。 先のこと考えすぎても仕方のないことだというのもわかってはいます。 しかし、わかってはいても、どうしようもない不安感が勝ってしまうのです。 家族は、辛いのなら辞めてもいい、これからのことは病気を少しでも良くしてから考えればいいとは言ってくれます。 けれど、その言葉に甘えても良いのか?もしこのままこの言葉に甘えたら自分はどうなってしまうのか。 もし高校を中退したことが知り合いにばれたのなら、みんなは僕を軽蔑するのではないかと思ってしまいます。 家族は僕のことをわかってくれても、祖母やいとこや親戚は、僕をどう思うのか? そう考えると私は一歩先に進むことも、一歩後退することも、立ち止まることも出来ず、宙ぶらりんの状態が続いています。 こんなことは自分自身で決めるのが一番良いことはわかっています。しかし、どうにも足を地につける勇気がないのです。 私はどうすれば良いのでしょうか? 読みづらい文章ですみません。
辞めようと思いつつも続けて数年 良いところも悪いところも人間関係も 仕事量も不満点も多々ありました。 でも、もうほとほと困り果てた辞めたいと思う原因は休日を潰されることです。 有給取れない、産休や入院した人の分まで働いた。急な予定変更も対応して事前の希望休日も予定ないので取らない 休みが勤務先の都合で勝手に潰れ 後日連絡で呑むものの当日になって予定より二時間早く来てくれの通知で間の二時間どうするんだの話で予定通りの時間でいいということがあり 家族に話すと「勤務先がおかしい」「都合のいい人になっている」等言われました。 自分が頼まれる一方で自分が頼もうとしても断られた事があって以来頼むこともやめました 1人仕事のローテなので体調が悪いときは我慢して何度も早退したくても出来ず、トイレも店を閉めて立札をかけてダッシュなのでお腹を度々壊してるのでネックでした 家族からは今やってる仕事を数年出来たのだから他に行っても大丈夫と言われてます。 丁度家族の勤務先で一人辞める予定の人がいて空きがでる話を聞きました そこは自分と真逆で肉体労働だけど休みたいときに休むことができ、予め決まった休日は休日確定、人ではなく野菜や虫と接しトイレは自由に行ける 虫を殺さないといけないことや屋外なので暑さ寒さは大変ですが休日が確定なことや、体調不良で休みたいとき気軽に休めること、トイレが自由にいけることなど、そちらに行きたい気持ちがあります。 ただ辞める人がいつ辞めるのか 辞めた後募集はするのか分かりません 未確定な状態で今の仕事先に辞める話をしてもいいだろうか 来月の勤務表は出来てるので辞めるのは再来月〆日にしようか それとも希望先が募集する状態になってから動いた方がいいのか、もう今のうちにその話を匂わせた方がいいのか分かりません 辞めたいと思うことは常でして 希望の勤務先が行けなかったとしても 個人的にもうついていけない部分があります こういうことがあったと家族に話すたびに可哀想とか酷いとか理不尽とか都合のいい人になってると言われてるのですが 自分も辛いのをずっと耐えて我慢してたので麻痺してしまって分からないんです。良いところもあるしと思ってしまいます。 こういうときはもう辞めどきでしょうか?
先月は半分くらい寝込んでおりました。よくもこれだけ眠れるな、と自分でも思いましたが、「それだけ疲れて心身が眠りを必要としているんですよ」と看護師さんに言われて、安心して(?)眠りました。 わずかずつですが、起きていられる時間も長くなりました。 実は夏以来、天涯孤独で一人暮らしである方の相談相手をさせていただいています。遠方の方なので、メールと電話が主になりますが。その方が体調を崩されて、いろいろ困っておられたので、そのこともあって、私でわかる範囲のことをお伝えしたり調べたりもしました。 伊達に長く介護や持病と付き合っているわけではなくて、公的制度や医療的なことには多少詳しくなってしまいました。 私にできることはわずかですが、それでも「死にたい=助けて」というSOSに少しは対処ができたと思います。そして他人をサポートすることに懸命になっていると、自分のしんどさや辛さを忘れるのです。 思えば両親もよく人のために行動した人たちでした。二人が積んでくれた徳は今でも私を守ってくれています。ありがたいことです。 私は高校生の頃から30年以上長くパニック障害に悩まされていて、しかしながら、両親や弟のために走り回っているうちにパニックが治ってしまった経験があります。 母の介護を覚悟して決意した途端、病室で瞬時にして五十肩が治ってしまったこともあります。見えない誰かにとても応援されている気がします。 人のために行動することは巡り巡って帰ってくるという「恩送り」は本当だな、と思います。いつかは自分や子孫のためにも現在ご縁がある人たちのためにできる限りのことをしたいと思います。きっとそれは両親の本意であって、今後の課題だと思います。 自分のためには死ぬまで絵を描きたいという目標があるので、そちらも大切にしたいと思います。自利利他のバランスが取れるように、これからも充実した人生を全うできるように過したいと願います。 こちらでいただいたご好意はとても嬉しかったので、ひとことでもお礼を申し上げたいと思って投稿させていただきました。 本当にどうもありがとうございました。