私の実家には17歳くらいの老犬がいます。私が小学5年生の頃に実家にやってきました。 世話はお母さんと私がやっていましたが、部活で忙しいとか理由をつけて散歩に行かなかったりした日もありました。今思うと可哀想なことをしたなと思います。社会人になってからはできるだけ散歩に連れて行ったりしました。結婚してからも実家に行ける日は、散歩をしに行っていました。 去年までは老犬にしては元気なほうでしたが、今年に入ってから一気に老いたなと思うようになりました。今日体調を崩し動物病院に連れて行ったら、人間で言ったら100歳くらい。貧血もあるし、衰弱してると言われました。注射と飲み薬をもらいましたが、歳も歳なのでいつどうなるか分かりません。 2〜3年前から覚悟はしていましたが、近い将来別れが来ちゃうんじゃないかと思うと辛いです。離れたくないとも思ってしまいます。
私は持病の症状とは別に、この世の者ではないものが見えたり聞こえたりする事があります。 ご先祖様や亡くなった家族は助言をくださり、時には叱ってくださり、とてもありがたいです。 ですが、苦しんでいる霊にも会ってしまいます。 戦で亡くなった落ち武者は、「利用された、苦しい、辛い」と言っていました。沖縄戦で亡くなった霊は、軍服を着たまま首から上が無く、断末魔のような叫び呻き声を上げていました。 死んだ後もあの世へ行けず苦しむ程にこの世の試練は苦しく残酷なのは何故ですか? 仏教では輪廻転成があると聞いたのですが、人が他人を殺すこと、人が動物植物を殺すことが許された世界に、私たちは何故何度も生まれてくるのでしょうか? 輪廻転成はいつまで続くのですか? 転成しなくて良いまでに、学び成長した後は私たちはどうなるのでしょうか? たくさん質問をしてしまって、申し訳ございません。 生きる意味のヒントが頂けたらと思い質問させていただきました。 宜しくお願い致します。
次の文章は、「シュタイナー 魂について」(ルドルフ・シュタイナー著 高橋巖 訳 春秋社)の一節です。 人間の魂は輝く月に似ている。しかしその輝く光を月は太陽から受け取っている。人間の魂は水に似ている。その水は、それ自身では冷たくも温かくもなく、熱を火から受け取っている。人間の魂は高次の動物魂に似ている。しかしそれが人間の魂でありうるのは、その光を人間の霊から受けとるからなのである。 シュタイナーは、シャタイナー教育を提唱した人で、読み進めるには難しいです。 この一節から、人間は影響を与え合うことで、魂を高めるということだと理解しました。前の文脈から引いてこないと分かりづらいとは思いますが・・・ いろいろな人がいていい。どんな光を受けとるか。そう考えると、技術が発展して、人間にとって都合のいいように外界世界を操作(著者の考えにあっていないかもしれませんが、霊を操作する)と、せっかくの魂の向上が妨げられるのではないかと考えました。 仏教では、どのように考えますか?
私は本当に何もできなくて、親にも周りの人からも嫌われます。 自分に自信がなく、やりたいこともなんにもなく三大欲求だけあって動物みたいに生きています。 ニートみたいな生活しています。 でも人と関わるのは怖いです。頭が悪くて会話が出来ず、私がどんなに優しい態度で接しても誰からも好かれません。顔が怖いとよくいわれるのですが、そのせいかな?と思っています。(普通の顔が目付きが悪くて眉毛がつり上がってて口角が下がっていて隈がひどいので) 19年生きてきて付き合った人もいなくて友達もいなくて好きな人にも嫌われていたので辛いです。 自分には何もないし、誉められたこともないのでなんの充実感も得られたことが少ないです。 趣味もないです。強いていうならハスノハです。 何に手をつけてもダメで、続けることができません。 今までの性格とか、やってきたことが間違ってたのかと思うと自分はなんてダメなんだと思います。 でも人に好かれて楽しいことをするキラキラした人生を送ってみたいです。 まずはどうしたらいいんでしょうか?
私は今から二十年前に自動車の運転免許を取りました。合宿で取ったのですが教習所の先生に散々こっ酷く叱られて、他の人がスムーズに取るところを二日延長させて貰って、それでも仕方なくと言った形で卒業させていただきました。 本当なら車を運転出来る喜びを満喫すれば良いのだろうし、あるいは私が住んでいるところはど田舎なので否応なしに車を運転しなければならないのですが、その頃こっ酷く叱られたことが尾を引きずっています。私は車を運転出来ません。 自分は事故を起こすのではないか、人を轢き殺すのではないか……身近な交通事故のニュースを知ると、私が人を轢き殺してもおかしくないのだと気分が重くなります。 最近町田康さんの『人生パンク道場』という本を読みました。人間は変わることが出来る生き物である、あるいは変わらないと生きて行けない動物である……そんなことを学びました。だから勇気を出して相談します。 是非、この悩みが幼稚なら叱って下さい。皆様の言葉が私を変える切っ掛けになればと思います。
初めて質問させて頂きます。 家には敷地内に、いつ誰が建てたのか分からないお地蔵様があり、既に他界した祖母がそのお地蔵様のお参りをしていました。 祖母が亡くなってからは、私たち家族がたまに手を合わせたり掃除をしたりしていましたが、今朝、ふと祠を見てみるとお地蔵様が地面に倒れていて首が取れていました。もともと昔から首が取れていたようで祖母が業者に頼み、石膏で修理をしてもらっていたようですが、今回の転倒でまた首が取れました。 私はぞっとして母を呼び、直ぐに元に戻してろうそくとお線香をあげましたが、とても不安です。 知り合いに聞いてみると、そのお地蔵様を管理もしくは建てた人がお寺に供養をお願いした方が良いと言われました。 菩提寺に供養をお願いしても大丈夫でしょうか? 動物に荒らされた様な形跡もありませんし、あんなに重いお地蔵が倒れているなんて只事ではなく、本当に不安で怖くて仕方ありません。何か不吉な事やメッセージやあるのでしょうか? ご回答宜しくお願い致します。
お世話になります。 夫の実家が真言宗でしたので 娘の供養は真言宗でさせて頂いています。今も毎月ご住職に来てもらっています。 私の実家は浄土真宗でした。 子どもの頃、 祖母の朝夕のお経を聞き 暮らしました。 近くのお寺の日曜学校にも行き 南無阿弥陀仏を唱えることが当たり前でした。 子どもですから、怖いテレビを見た日の夜のトイレや、物音など、恐怖を感じたり心配事があると、おまじないのように南無阿弥陀仏を唱えたりしていました。そうすると仏様がそばで守ってくれる気がして安心できたんです。 大人になってからも、手を合わすと南南無阿弥陀仏を唱えてしまいます。 車で走っている時に、道路で動物が轢かれているのを見ると 条件反射のように「南無阿弥陀仏」が出てきます。 でも、真言宗では南無阿弥陀仏は唱えませんよね。 ひとりで娘のお仏壇で手を合わせる時 喉元まで出る南無阿弥陀仏を止めて 今日あった出来事などを話します。 でも、やっぱり心の中で唱えてしまう。 母親がこんなんで、娘が彼方で他のご先祖に責められないか心配です。 南無阿弥陀仏は真言宗では ただの呟きなのでしょうか? 唱えても大丈夫ですか?
私の家では今まで色々な動物を飼っていました。 今も飼っています。 私が生まれる前から暮らしていた犬や、他にハムスターや金魚、様々な子達と一緒に暮らしていました。 その子たちの中には、めんどくさいと思ってしまい、あまりお世話できなかったせいでなくなってしまった子もいました。 今では、最低なことをしたと、とても思います。 また、飼っていた子たちの中に亡くなった後、自宅の裏庭や花壇などに埋まっている子たちがいます。 亡くなってしまった当時は埋めた場所に手合わせなどをしていましたが、年月が過ぎると私は手合わせをしなくなりました。 また、忘れるまでは言わないものの年月が経つと気にしなくなりました。 この子達は、私のことを恨んでしまったりしているんでしょうか? また、今後もし引っ越す場合、埋めていた子達はどうしてあげればいいのでしょうか? ペットの共同墓地などにいれてあげたほうがいいのか、そのままでいさせてあげるべきなのでしょうか? また、共同墓地などに入れてあげる場合、埋めたところを掘りかえさなければいけませんが、掘り返してもいいのでしょうか? また、掘り返したところはどうするべきなのでしょうか? 多く質問があり、すみません。 ご回答お願い致します。
地球上の生命は生まれてから死に向かって生きるのはなぜですか。 自分以外の生命との出会いは、いつかくる別れ、いずれどん底の悲しみ苦しみを味わうのに、相手に対する止まらない愛情を育てながら同じ時間を過ごし、そして自然とくる別れに向かって進んでいかなければならない。 家族、子供、友達、動物、地球上に生きる全てと出会い、生活のために働き、愛情表現をしたり、辛い思いをしたり、傷つけたり傷つけられたりもする。 いつ誰に何が起こるか分からない。 なぜ、生まれた喜びと同時に、誰もが悲しく苦しい死へ向かうのでしょうか。 出会えた事が、生まれてきてくれた事が、とてもとても尊い、ずっと一緒にいたい、ずっと生きていたい、なのにそれが叶わない。 なぜですか? なぜ生まれ、生き、死へ向う事を生命は繰り返さねばならないのでしょうか。辛いです。
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
7月12日に『愛犬の死 その後不思議な生活音が聞こえる』とご相談させていただいた者です。 kousyo Kuuyo Azuma様、りゅうよう様 温かなお言葉を本当にありがとうございました。 不思議なことに愛犬が亡くなってから四十九日間近頃になって、物音がすっかり聞こえなくなりました。 旦那さんとふたりで、愛犬はきっと無事に天国に行けたのだろうと、確信を持って話しました。 人が亡くなってから四十九日が経つと、仏様になると言われていますが、動物にもそのお話はあてはまるのですね。 まだまだ悲しさは消えませんが、それでもだいぶ気持ちが穏やかになってきました。 毎日朝晩、愛犬の小さなお仏壇に手を合わせ、骨壺を撫でて話しかけています。 kousyo Kuuyo Azuma様、りゅうよう様 本当にありがとうございました。
年を取ると涙もろくなるといいますが、最近それを実感しております。ドラマやドキュメンタリ番組などの悲しい場面、スポーツ番組などの感動シーン、可愛い動物などの映像などですぐに涙腺がゆるんでしまいます。 涙を拭いながらテレビを見るのは日常茶飯事です。 しかし一方、自分自身が辛い時は、涙はほとんど出ません。もちろん、人前でではなく、一人でいる時のことです。泣いた方が楽になるのに、とよく言われますが、どうしても涙が出ないのです。胸がはりさけそうになるほど辛かった時、泣いてみようと努力しましたが、やはり涙が出ませんでした。その時は、犬が出て来る感動映画を見て、ようやく泣く事ができ、一時的にですが辛さが和らぎました。 今は仏教に出会い、こちらのサイトでも皆様のアドバイスを頂き、だいぶ平常心で過ごせるようになりました。それでも数日に1~2度、ふと、たまらなく辛くなることがあります。でも相変わらず涙は出ません。辛い時に涙が出ない、というのは何か問題があるからなのでしょうか?
いつもお世話になっております。 諸経典に、「法身、報身、応身」「自性輪身、正法輪身、教令輪身」などと記載がありました。 ✳︎ その中の、阿弥陀如来の三輪身、三輪応身(どう違う…?)について、一説には 「阿弥陀仏→文殊菩薩→大威徳明王」、 もう一説には 「阿弥陀仏→白衣観音(うろ覚えですが…)→馬頭明王」とありました。 ✳︎ 私の本山でも、祈願殿に馬頭観音様をお祀りしています。馬頭観音様は一説によると、 競馬場などにお祀りされて動物の供養、回向の本尊とされているそうです。 ✳︎ なぜ、阿弥陀様は分岐しておられるんでしょうか。それと、「輪身」「輪応身」も違うんでしょうか。教えていただけたら幸いです。
以前質問させて頂いた老猫が今朝旅立ちました。 日曜日から今日の臨終の時まで馬鹿みたいに泣きました。 ですが、今は恐ろしく冷静です。 愛猫が亡くなった事を知った方から連絡がきたり、お世話になった動物病院の先日に連絡したりすると気持ちが溢れるのですが、それ以外は冷静なんです。 愛猫が飲まず喰わずでいた時は、私だけ食べるのが申し訳ない、可哀想だと言う気持ちが強く食べれなかったのが、亡くなった今日は食べたい欲が急に出てきて…罪悪感を感じながら食べてしまいました。 確かに20年一緒に生きてきたあの子を愛していたはずなのに何故こうも冷静なのか。 友人などが愛猫の事を泣きながら悲しんでくれるのを見ると本当におかしな話ですがもらい泣きしているような感覚です。 悲しい気持ちはあるのに涙も出ない自分に、数時間しかたっていないのにこんな質問が出来る自分に、どこか他人事のような自分にとまどっています。 私はやはり悲しんでる自分に酔っているだけなのでしょうか…?
「法」と言えば、真っ先に「法律」が思い浮かびますが、 そもそもの成り立ちは、「さんずい(川)」を「去る」と書きますよね。 そしてこれは漢字、すなわち中国が統一する直前の漢の時代に、 漢字文化を輸入したと考えられます。 紀元前300年程の、2300年程前ですね。 私なりに考えると、「(架空の)川を去るもの=魂」に行き着きます。 すなわち、仏教で言うところの輪廻転生という揺るぎのない約束事で、そこに疑問を感じてはいけないことです。 ところが、現在の法律の多くは、理由が存在しています。 民法で言えば、「20を迎えてタバコやお酒を許される」など。 20を超えると日本人は体の完成に近付くからかな、というきっかけがありますし、 刑法で言えば、「他人の物(命を含む)を奪ってはいけない」など。 堕胎なんかでは平気で殺しますよね。 精進料理だってそうです。 「命を授けてくれてありがとう」という意味なため、本来は動物も食べていいことになっていると思いますが、その文化は既に廃れています。 植物だって生き物ですし。 定理でありながらも、きっかけや理由が存在する。 その事自体が疑問です。 掘り下げて考える癖がついているため、ぜひ納得行けるご説明をお願い致します。
顎変形症という病気の為、顎を動かす手術をしました。 顔貌が変わり、元の顔よりも随分と不細工になり、動物みたいな顔になりました。 どうして手術を受けてしまったのかと悔やむ毎日で、 涙がでたり、自殺の方法を調べたりしてしまいます。 鏡にふと映る自分の顔を見ては、間抜けになった、ブスになったと落ち込みます。 術前の顔は嫌いじゃありませんでした。 医者からは、顎が曲がっているけれど、治しても治さなくてもいいと言われました。 治るなら治したいと思い、手術を受けましたが 顎は前より真っ直ぐになったものの、上顎がムッと前に出て、 人中は伸び、下顎は異様に小さくなり、間抜けなブスになりました。 まさかこんなブスになると思っていませんでした。 自らブスになりにいったようなものです。 家族にも友達にもこんなこと相談できません。 友達にはもう会いたくもないです。会えません。 夫も、ブスになったなと思っていると思うと、何も聞けません。 時を戻せないなら、無痛で死にたいです。死なないとこの悩みは手放せないと思います。 後悔ばかりして、毎日泣いています。 どうしたら良いでしょうか。
動物が好きで、ハムスターを数匹飼っており、最近保護猫を1匹引き取りました。 ハムスターが猫に襲われることがないように対策をし注意して暮らしていましたが、昨日1匹のハムスターが脱走してしまい、猫に咥えられるような形で襲われてしまいました。 同居人が音ですぐに気がつき助け出しましたが、平気そうに動いたあとに結局息を引き取ってしまいました。(おそらくショック死) 対策はしていたものの完全に油断してしまい、とてもかわいがっていたハムスターが自分たちのせいで死んでしまったことが本当につらくて仕方ありません。後悔も悔しさも申し訳なさもいっぱいで、気持ちが整理できず、仕事も生活もぼんやりしてしまいます。 今は猫のいる部屋を制限したり、ケージの扉を二重にロックしたり、今生きている子たちを危険に晒さないようにしています。でも、それをしても死なせてしまった子は戻ってこないし、後悔してもし足りません。 お叱りでも構いません、気持ちを整理するため、なにかお言葉をいただけたらと思います。よろしくお願いします。
昨日の朝、人生の半分を共にした愛犬が旅立ちました。 急な事でしたので、火葬も遺骨を拾わずに全て斎場側でお任せするものとなってしまい、手元には愛犬が使っていたお散歩紐、タオル、服しかありません。 仏壇には家族の遺影と共に、写真だけを飾ってあります。 遺骨が無いため、仏壇にお参りをしても愛犬はそこには居ないのでしょうか? 天国と住んでいた場所を行き来する、飼い主が呼びかけたらきてくれる、という文言を目にしたので、もしそうであればいいな、と思っているのですが家に遺骨が存在しないから…と考えてしまいます。 例え存在が感じ取れなくても、そばに居てくれると嬉しいのですがやはり遺骨がないから家や隣には居ないのでしょうか。 初めて動物と過ごした為、悲しみも強くあの時もっとこうしてあげれば良かった、この家で過ごせて幸せだったのかな、など後悔がたくさん浮かんでしまいます。
年末に愛犬を13歳で亡くしました。 闘病していて、体の機能が落ちているのと栄養がとれないので嫌がってかわいそうでしたが点滴をしていました。 最期は一緒にいる時に看取ることができました。 今までもペットを飼っていましたが、最期の瞬間に立ち会うことがなく、今回の少し苦しそうな姿がトラウマになっています。 治療をして、苦しみを長引かせなかったか? 怖がりな子だったので死は怖くなかったかな? 私自身、死がとても怖いので余計にそう思ってしまいます。 人と動物は行き先が違うかもしれませんが、かわいいあの子が寂しい思いをしていないだろうか…と苦しくなり泣くことが多いです。 この13年、愛犬が生活の中心になっていました。 毎日「死後のペットの気持ち」のような動画を見ていて、あまり苦しむとペットも苦しむなど出てきますが、割り切れません。 まだ悲しみが続きそうです。 どう気持ちに整理をつけていったら良いでしょうか。