先日、祖父が亡くなりました。 その際にお世話になったお寺のお坊さんは 祖父が亡くなった日に枕お経を頼んだところ17時頃なのに、営業時間外と断られてしまいました。 その他にも葬儀中でお経を唱えてくれている時に数珠の紐が切れて、床に玉が転がりました。 縁起が悪いと思ってしまいました。 葬儀が終わった後、なにか数珠の紐が切れたことに対して言ってくるかなと思いきやそのままスルーでした。 調べた所によると縁起が悪いのではなく悪縁が切れた、数珠に守ってもらったなど良い意味もあるそうですね。 普通、誰もが不振に思うことならお坊さんがフォローの言葉など言うべきだと思います。 あと、腕時計を外しながらお経を唱えていました。 他にも葬儀が終わった後、喪主である私の父に「お礼を言ってください。」と言い、 父が「ありがとうございました」と言うと 「立って言ってください」と言われました。 葬儀にきてくれた親戚や祖父の知り合いなどがいる前で…… 恥をかかせたいのかな?と思ってしまいました。 確かにお礼を言わない父も父ですが、 違う言い方があったのではないかと思ってしまいます。 今回お世話になったお坊さんに対して とても不快な思いになってしまいました。 いくらお坊さんでも失礼ではないでしょうか? どこのお坊さんもそんな感じなんでしょうか? 今後関わりたくないのですが、どうすればいいですか?
お経には観音菩薩とか不動明王とか釈迦以外の仏様がたくさん出てきますが、仏教ではそういう霊的な存在を本当に存在すると教えているのでしょうか? それとも実在しているわけではなくて、仏教の教えを象徴しているだけの架空の存在なのでしょうか?たとえば、不動明王の剣は智慧の象徴とか、座ってる石は固い菩提心の象徴とかいう感じで、仏教の教えを大衆に分かりやすくキャラクター化して説明しているだけで、崇拝の対象ではないのでしょうか。 お経の中ではお釈迦様がいろいろな菩薩や如来を紹介しますが、お釈迦様自身がそういう存在を拝んでいたとか護摩祈祷をしていたとか逸話は聞いたことがないので、不思議に思い質問させていただきました。よろしくお願いします。
私の母と御先祖様のお骨が納められているお墓参りの後、帰ろうと車に乗る間際に毎年必ずといっていい程、涙雨が降ります。 また、以前母の納骨の際には、お経をあげていただくはずのお坊さんが遅刻をして2~3時間滞在時間が長くなったりしたことがありました。 私の親族が「お母さんがまだ私たちに 帰らないでと引き留めているのかもしれないね。」と言っていました。 その他、別の年にはお墓の掃除中に雨が降っていたのにお坊さんにお経をあげていただいている間にフと空をみると私たちのお墓の真上だけぽっかり雲がなく日の光が差していたということもありました。なんともいえない不思議な出来事でした。 涙雨のことも親族と「どんな意味があるのかねぇ。なにか伝えたいのかなぁ。」と話しています。 「意味などないのでは?たまたまだよ」と思う方もいると思いますが、何かこのことについて回答いただければと思います。よろしくお願いします。
私は、お坊さまがお経を唱えている最中に、「ゴホッ」と咳き込んでしまう場面に出くわしたことがありません。 何故、あんなに大きな声でお経を唱えているのに、途中で咳き込んだりしないのですか? もし「ゴホッ」「ゴホッ」「ゴホッ」と咳が止まらなくなった場合、どうされているのですか? 私を担当して下さっているカウンセラーさん(臨床心理士であり僧侶)は、気管支が弱いらしいのです。 でも、将来はカウンセラーさんから住職さんになるはずなので、今、咳き込む姿を目にしていると、つい、差し出がましいですし、要らぬお世話なのは分かっているのですが…この方は大丈夫なのだろうか…?と思ってしまうのです。 特に何も持病がないお坊さまでも、風邪を引くことはあると思いますし、もし咳が止まらなくなったりしたら、どうされているのかな?小さく「失礼」とか「すみません」とか言って、元に戻るのかな?と思ってしまって… もしかして… 何かを超えると、途中で咳き込まなくなるのでしょうか? 忙しいのに、質問内容が素朴過ぎて申し訳ごさいません。 お答えいただけるとありがたいです。
大乗の車の両輪は法華経と無量寿経だと思いますが、我が浄土宗は法華経とは縁が薄いです。このことに後ろめたさを感じるようになってきました。 天台宗はもちろん、禅宗でも法華経を重視してらっしゃいますね。真言宗でも法華経を扱ってらっしゃいます。こんなに広く支持を集める法華経を無視していていいのだろうか? 敬愛する一遍上人が「法華すなわち名号なり」と鮮やかに言い切っているのに慰められるぐらいでしょうか。 かと言って僕は法華経そのものには特に惹かれているというわけではなく、むしろ現代語訳された法華経を全部読みましたが「法華経が法華経を自画自賛してるだけで結局何が言いたいのかよくわからんお経だな」と思ったぐらいです。 このモヤモヤした後ろめたさを晴らしてください。
(こちらの質問は編集部により一部編集しています) 婚家の宗教に、一度はなじもうとサイトを開いてみた。 しかし禁忌項目についていけません。般若心経はダメとのことですが私は 小学3年から読んできているお経。神棚もダメともことですがしっかりありま す。小学3年から敬神崇祖の教えを基本に生きてきましたが、神も祖先も 大事にしたい。他にも禁忌項目があるけどついていけず寝込んでしまいました。 主人に改宗を依頼してもいいでしょうか。お寺参りも趣味で主人が定年に なればいろいろ廻りたいですがそれもダメなようです・・・。実家は曹洞宗です。
我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
我が家は浄土真宗本願寺派です。 菩提寺の御住職様は御高齢の為、お勤めをしておらず、県外にいる息子様が行事等がある際に戻ってきていらっしゃるとの事です。 先日親族が亡くなり、すぐ菩提寺へ連絡した際に「すぐには対応出来ないので、そちらで別のお寺を探してもらえませんか」と言われました。 葬儀社を手配し、その葬儀社へ菩提寺から言われた事を相談し、お寺様を紹介して頂きました。 葬儀も滞りなく、無事に終了した為、菩提寺へ連絡し、「七日毎のお勤めをお願いしたい。家へ来れないのであれば、お寺でお経をあげて欲しい」と伝えたところ、お断りされました。 その後四十九日の法要にあたっては、事前に連絡をして日程を決めてお願いし、了承を頂けたのですが、後日連絡があり、「葬儀でお世話になったお寺様へお勤めしてもらわないでいいのですか?」と言われました。 こちらから「本来菩提寺であるそちらへ葬儀の時もお願いしたかったのに、お断りされたのはそちらで、代理で立てて頂いた方です。」とお伝えしました。なんとか四十九日の法要はお勤めして頂けるとのことです。 このような事があり、家族や親族より、菩提寺を変更した方がいいのではないかと話が出ております。 ずっとお世話になっている菩提寺様なので、今回の事は少しショックでした。 今回お勤めをして頂けるお寺で依頼していたのは、「浄土真宗本願寺派のお寺様」でした。 私は仏教に興味があり、お寺を調べたところ、「天台宗のお寺様」でした。 お経は、仏説阿弥陀経や正信偈だったので、通夜・葬儀の際は「なんかお経の読み方が新鮮だなあ〜」と感じていただけでした。しかしとても親切で、四十九日までの間、毎週お勤めに来てくださいます。 普段から仏壇へ向かい、お経を読む事もあり、こんな事があるのなら、私が学校に行き、僧侶の資格を取ってお勤めしたいとも頭をよぎりました。 菩提寺を変更するというのは、やはり避けた方が良いのでしょうか。それとも変更しても良いものなのでしょうか。 どこに相談していいものか分からず、投稿させて頂きました。 宜しくお願い致します。
いつもお世話になります。 今夏、母の二度目のお盆を迎えます。 葬儀社からの紹介で葬儀を行っていただいたお寺様より、 お盆の棚経のお参りの日程のお知らせが届きました。 それが8/7(木)でした。 ちなみに我が家は真言宗です。 お盆は8/13からだと思っていたので、家族の霊が帰ってきていない時にお経をいただいて意味があるのかどうか疑問です。 そして、7日から15日までお盆としてお祀りするものなのか、二度目のお盆なので仏壇でお祭りして良いものか迷っています。 お寺様に直接電話ででもお聞きするのが早いかとは思いますが、お寺様の都合で日程を組まれていて、それに不服を言うような感じになってもいけないので、こちらで質問させていただきました。 ご回答よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 私の母方の祖父、伯父は菩提寺の総代を務めさせて頂いておりました。 私が小学校中学年の時に、祖父が亡くなりました。祖父が親しくおつきあいさせて頂いていた先代のご住職様は既に亡くなっていらっしゃいました。次の代のご住職はご本山からやって来た地域にまだそんなに根差しておられない方でした。 祖父の葬儀の時に、その新しいご住職は手を合わせてはいるのですが、カセットテープのボタンを押し、お経のテープを流したのです。 その場にいた大人達は驚き、小声で「テープだ。」と囁いていました。親族は怒っていました。私も子どもながらに「お坊さんなのに何でお経を読まないの?」と不思議でした。 法話もありませんでした。 祖父は生前、先代のご住職とは親しくてご住職を交えて祖父の家で一緒に食卓を囲んだりしておりました。古い木造のお寺なのでもし何かあった時にと山から木を切り出してきてすぐに使える状態にしておいたり、祖父は総代という事もあり、何かと菩提寺の為に肉体労働で尽くしておりました。祖母もご飯を作る時には「典座しなくちゃ」等とお坊様の言葉を真似ているほどでした。 祖父はご本山から感謝状を頂きました。 そして祖父が亡くなった時にはテープのお経でした。私は今までずっと喉につかえた小骨のように、その事が気になっておりました。 先代のお坊様と家族で食べた楽しい食卓の思いでがテープのお経のせいで黒く塗りつぶされてしまった様な気がしていたのです。 でも最近、諸行無常なのかな。と思うようになりました。 私の諸行無常の理解は間違っていますか? 教えてくださいませ。
お世話になっております。 私は30代の会社員男性なのですが、 僧職を続けるべきかどうか悩んでおります。 元々仏道に御縁を頂いたのも 義父が地方の小さな寺院の住職を務めており 「棚経とか、休みをつかってやれば謝礼を出すから、得度しませんか?」と 副業感覚でお誘い頂いたので、深く考えず了承したという お恥ずかしい限りのものでございます。 (特に髪の毛に拘りも無かったもので(笑)) その後、棚経だけのつもりが… ・正月の会で、お経と儀式をやらされる(会前日の晩にやる事を聞く) ・本寺の副住職の「住職襲名の式」での役を勝手に受けてくる。 (その役が大変重要な役で、袈裟を3回しか着た事がない上、 お経を知らない者が出来るようなものでないものだった) ・「住職襲名の式」での内容に関しても、式の内容と問答が 書かれた本のコピーを頂くのみだった。 (その後、副住職のお寺での打ち合わせで、作法や動きの面で 知らないことが多い事が発覚、急遽義父に改めてお寺での 練習を依頼する) ・「襲名の式」当日にも知らなかった「やるべき事」がある事が 発覚。youtube等で検索して何とか乗り切る。 ・また私への確認無しに仕事を受けてくる。 (これに関しては「会社の仕事の都合があるから容易に受諾 出来ない」として保留にしています) というような事があり、会社の仕事もある中で 時間・体力の面と、何より義父の『報連相』の無さに 「これは続けるのは無理だ!」と考えているのが現状でございます。 その内、義父が勝手に「住職の修業の予約を入れてきた」などと言ってきそうで恐ろしいです… また、家内も家を空ける事に不満があるようで (お寺が地方の為、大体の場合は日帰りは不可能) 「やらないで欲しい」と言っております。 反面、文化的・歴史的な事が好きで、僧の儀式等に嫌な思いはありません。 「襲名の式」でお世話になった新命和尚様や 同年代の先輩の僧の方々には、大変感謝しており 他所者兼「にわか坊主」の私を仲間として受け入れてくれ、 大きな気持ちで導いて下さった事への恩も感じております。 (本来であれば師匠である義父が行う役割ですが(苦笑)) 「御恩や興味」と「現実」の間でどうするべきか悩んでおります。 また、厳しいご意見でも有難いので、ご助言頂ければ幸いでございます。
こんにちは。今回、正信偈についてお伺いしたいことがあり、質問させていただきます。 先月亡くなった祖父のことが何かにつけて思い出されるのですが、自分なりの方法で供養をしてあげたいと思っていたところ、祖父自身が「両親(私から見て曾祖父母)の供養のため」として正信偈を書写していたことを思い出しました。15年ほど前のことになります。生前に書き残したものによると、長年交友のあった知人の方から書写を勧められたとのことです。 こうした祖父のおこないに自分自身を重複させることで、祖父の旅立ちが安らかなものになるようにしたいと思っています。同じ浄土真宗でも唱え方は宗派によって少し異なるようですが、書写に際して気をつけるべきことがありましたら教えていただきたいです。本当は法要でお経を上げてくださったお坊さんにお尋ねするべきなのですが、孫の私が聞くのも差し出がましい気がして、この場で質問してみようと思いました。 正信偈のなかで説かれている教えについてもこれから勉強していかなければならないような段階ですが、何卒よろしくお願いいたします。
義父が3年前に亡くなった直後、どこの宗、お寺にてお経を読んでもらうか、生前義父が言っていたことを忘れていて、同じ真宗ですが、最近葬儀を行った宗派とは違う宗派でした。 義父が亡くなる3年前に義母が亡くなった時、義父が言っていた宗派と違う宗派で葬儀をしたので、 義父が亡くなった時、義母と違う宗派の葬式はまずいと思って、そのままその宗派で葬儀をあげました。 それで、せめて分骨だけでもと思いまして、調べたら檀信徒のみ納骨できるとのことです。 私たちがそこの宗派の寺の檀信徒になれば納骨できるなら、宗派替え、お寺を替えないといけないと考えてます。 替える場合、今のお寺さんにはお墓も作ってないのでお墓もなく、檀家というほどの付き合いはありませんが、どう言ったらいいのでしょうか。 また、宗派替えまですることもないのでしょうか。 生前、嫌がられてもはっきりと聞いておけばと後悔してます。
飼っていた猫が死んでしまいました。 今までありがとう、という気持ちを伝えたくて、そして愛情を伝えたくて、供養をしたいのですが、お経など、何か私や子供にできることはありますでしょうか。 私は輪廻転生を信じていますし、身体は死んでしまったけれど、魂はまだ近くにいてくれている感じがします。 たくさんの愛情を届けるためにはどうしたらいいのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いいたします。
幼少期から波乱な事ばかりあり 現在も生きる事に疲れる事がありました。 人付き合いなど苦手で 今でもあまり人を好きになれない体質です。 そんな中度々仏様(大日如来様 が近くにいる気配がします。 自身も小さい頃から仏の道に興味があり 経本、お経を上げ、仏像を眺めるのが趣味。 最近この歳になり より一層仏様の事に興味を抱くようになりました。 色々なサイトを拝見すると 得度と言うものを授かり修行に励むと書いておりました。私自身十三仏真言や般若心経を毎日聞いており たまに声にし発しております。 私自身、学力も何もありませんが 今一度生きる事を真剣に考えて出家を致したいと 切に願っております。 どうかお力をお貸しください。。
最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。 毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。 それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。 知人いわく、 「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。 何かの法話で、 「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。 と聞いたことがあります。 私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。 ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。 しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。 理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?
私はうそを吐いてしまう癖があります。 孤独感を感じることが怖かったり、相手に心配されたいという気持ちでうそをついてしまいます。 ありのままの自分のお話や気持ちを話しても誰も相手にしてくれないと感じてしまいます。 うそを吐いたあとに後悔や罪悪感を強く感じます。 うそを吐いてしまった後悔と、相手の気持ちを考えたときの罪悪感、自分の気持ちを傷付けてしまった後悔を感じます。 気持ちが黒く染まってしまったように感じます。 神様、菩薩様、仏様、閻魔様、あの世の方々に見られていると思うと、不安を感じたり、とても怖くなります。 般若心経や観音経、十三念仏を一生懸命唱えたり、神様に『慈悲の心』を大切にします。という気持ちを伝えているのですが、その気持ちにうそをついてしまっていることが苦しいです。 うそを吐いて、自分の気持ちに傷をつけたり、相手のことを騙してしまったり、毎日後悔を感じた日々を送るそのようなことをやめたいです。 どのようなことをしたら、うそをやめることができるのでしょうか? 一人ではなかなか難しいので、ハスノハの 皆さまのお力をお借りしたいです。 もっと、相手や自分のことを大切にできるようにアドバイスをいただきたいです。 お忙しいなか、文章を読んでくださり ありがとうございます。
つい最近父の13回忌だったのですが 親戚も高齢になり家族のみの法要でお願いしたいとお寺に伝えたところ 「この時期はとっても忙しくて、塔婆さえたててお墓参りしていただ ければ法要と同じなので。 塔婆はちゃんと住職が前日にお経をあ げますのでそれで大丈夫です」 と奥様に言われ当日塔婆をたてお墓参りだけの13回忌になってしまったのですが・・・ そんなものなのでしょうか? 素人考えだと本殿もしくはお墓前でお経を唱えていただきお焼香をしての法要だと思うのですがこれは普通のことなのでしょうか。 13回忌までの年忌法要はすべて本殿でした。 毎年のお盆時の供養とまったく同じなのと忙しくなかったらちゃんとした法要だったのかな? とか考えてしまい気持ちがすっきりしないのと父が供養されているのか心配で質問させていただきました。
はじめて質問させていただきます。 よろしくお願いいたします。 もう30年ぐらい前ですが、 過去に多くの失敗をしました。 言い訳ですが自分が未熟でした。 今になって気づきました。 反省しています。 それから私は人と関わるのが苦痛です。 過去の失敗をある人に町中に言いふらされました。話を盛って。今まで良くしてくれた人から、まるで村八分みたいな扱いなのです。 それが原因でとてもたくさんの大事な方を失いました。 町で出会っても余所余所しく、居場所がありません。 今は違う場所で平和に暮らしています。 自分の未熟な過去の失敗に潰れそうで苦しいです。