先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。
昨年末に母を亡くしました。恥ずかしながらそれまで仏教とは無縁の家庭でしたが、親父の実家が浄土真宗大谷派だったということで浄土真宗のお坊さんにお経をあげていただき、葬儀、49日の法要とすませました。49日に合わせて小さいお内仏も設け、今は朝晩、手を合わせるのが日課です。 毎日手を合わせるなかで、今は「おはよう。今日もみんなを見守っててね。なんまいだぶ、なんまいだぶ・・・」とか「安らかに眠ってください。なんまいだぶ、なんまいだぶ・・・」みたいな感じで心の中で呟いているのですが、浄土真宗の考えでは亡くなったら仏様になって極楽浄土に行くとお聞きしましたので、わざわざ安らかになんて言わなくともすでに安らいで極楽浄土にいるのだから、言葉としておかしいのかなと素朴に思って質問させていただきました。本来は手を合わせてお参りするとき、どのような心構えでお参りしたらよいのでしょうか?それと母なので生前のように親しくタメ語で話しかけていますが、仏様になったのだから、タメ語では失礼なのでしょうか? また関連してもうひとつお聞きしたいのですが、自分の身内に限らず他人のお葬式などでお坊さんの読経に合わせて手を合わせることがありますが、お経の意味やその宗派やしいては仏教のことを知らない私のような一般人というのは、どのような心持ちで手を合わせるのがよいのでしょうか?何も考えずお経に耳を傾けているべきですか?「安らかにお眠りください」のように故人の冥福を祈るのですか?個人との思い出にひたるのがよいのでしょうか? 純粋に疑問がわきました。 よろしくお願いします。
今から12年前に母方の祖父が亡くなり、それから100日法要?だったかで魂入れの時に突然肩が重くなり、お経の時に体が前後に揺れました。お経の終わりと共に、ふっと軽くなり、元に戻りました。両親や親族も見ていました。 それから年月が経ち、昨年の初夏に父方の祖母が亡くなったのですが、火葬場でお骨になってから葬儀場に戻ってからのお経の際にもやはり体が揺れました。横揺れでした。不思議と、「入ってくる」のがわかり、正直言ってあまり良い関係とは言えず、悲しさなどはなかったのに涙が止まりませんでした。 体が揺れる間、色んな人達への「ありがとう」と言う感情が込み上げてきたのがわかりました。終わってから、私は炭酸飲料を買い、一気に飲み干したのですが、普段はまず飲みません。両親は驚きながらも「ばあさんが来たんだ。ばあさんは炭酸が好きだったから」と。そういえば、昔は家に行く度にファ◯タグレープが出されたものです。それを、私は350mlも飲み干したのです。 そして先週、親しくしていた叔母(母方)の義母の告別式へ参加しました。前述以外にも色々と不思議な事はあるので、このときも「来るかも……」と思っていました。両親も思っていて、事前に叔母一家にも言いました。実は、私の親戚にも同じ体質の人がいますので、叔母も理解がありました。 そして、やはり体が揺れました。実家の宗派と違うし、私にはお経の終わりはわからないのですが、縦に揺れたあと、横に揺れ、「終わるのかな」と思い、揺れが止まったあとにすぐお経も終わりました。 叔母夫婦や従兄弟たちは「おばあちゃんが喜んでくれた」と言っていましたが、そうなのでしょうか。ただ、揺れていた間、やはり「ありがとう」という思いがあったので伝えました。 最近では、実家の祖父の仏壇に手を合わせると体が揺れたり、合わせている手が上下や横に、円を描くように揺れたりするのです。 嫌な感じはしません。困っているというわけでもないですが、やはり不思議でなりませんし、他人には理解してもらえないと思うと、多少悲しくもあります……。気持ち悪いのかな、とか。 気になるのは、祖父母たちは本当はどんなことを訴えようとしているのでしょうか?
はじめてのご相談をさせて頂きます。長文でちゃんと文章になっているか心配ですがよろしくお願いします。 私は今、医療系私立大学の2年生です。現在家でオンライン授業を受けている身です。 私は1年生の時、学校でちゃんと勉強をしていた身でして、先生へ質問もたくさん行っていました。そのおかげで、1年の時はフル単位で終えることができました。 しかしオンライン授業になってから、先生への質問もままならず、オンラインの内容は薄く、このままじゃ試験に落ちるかもしれないです。 もちろんわからないところは友達に聞いたり、調べたりしています。レポートなども期限内に必ず提出しています。 昼夜逆転はしていない、ご飯はしっかり食べている、…ちゃんと生活しているはずなのに、夜は寝付きが悪く、集中力が皆無です。理解力がオンライン授業になってからひどくなりました。 何でちゃんと理解できないんだろう、問題が解けないんだろう、友達はちゃんと勉強してるんだとずっと考えてしまいます。 15分間ちゃんと集中する方法で勉強していますが、これも効果がいまいち…。 家に居続けると辛いので、外で散歩したりもしますが、全然気分転換にもなりません。試験が近づいているのにこの様です。 試験に落ちたらどうしよう、留年したらどうしよう、親に迷惑をかけたらどうしようとずっと毎日考えています。 みんな同じく大変な状況なことぐらいは十分分かっています。これは甘えなのかもしれません。でも辛いんです。夜とか少し泣いてしまいます。 私はこの辛さをどうすればいいのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いします。
お盆にお坊さんにお経をあげて頂くため、昨年もお願いした同じお坊さんに連絡しましたところ、いっぱいと言われました。 「命日の7月半ばにお盆もいっしょにやりましょうか?それとも8月初めなら空いていますけど」ということです。 7月に命日といっしょにお盆の読経をしていただいたり、8月初めにして頂くのは大丈夫なのですか?お盆の読経は、霊が戻って来ている間にしてもらわないと意味がないのではないでしょうか?それとも、自宅でお供えなどすれば、お盆に読経は必要ないのでしょうか?
初めて質問させていただきます 世界でコロナウイルスの感染が広がり たくさんの尊い命が犠牲になっています 私自身も感染するのでは?っと不安です SNSでは、コロナが憎い!コロナ許さん!など、皆、心もズタボロです 私は日蓮宗の信徒ですので毎日 お経をあげています、そして、 コロナの早期終息、疫病退散を 祈願しています。 沢山の命を奪ったコロナ、憎い、辛い、 しかし、コロナ終息を願うのであれば コロナも成仏して欲しいと思うのです 憎い、コロナ消えろ、当然の心理です 疫病退散の願いの中に コロナも成仏して下さいと 敬いの気持ちを入れる事は おかしいでしょうか? 御教示願います 最後に亡くなられた全ての方に 謹んでおくやみ申し上げます 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 合掌
祖母が亡くなり23年目を迎えます。 7年前の冬、両親と共に西本願寺を訪れ永代経をさせていただきました。 私が京都近隣に転居してきたこともあり西本願寺にてお参りをさせていただきました。 本堂でのお経を聴きながら、この7年間のことを思い出し仏様や天井を見上げながら言葉にならないことがありました。 両親と共に訪れ、私も互いに歳を重ね高齢となる両親と共に近い将来に訪れ共に想いを馳せたいと考えております。 健康上や経済上のこと故郷から呼ぶことは難儀でもあります。 故郷へ帰ることやご先祖様が眠るお墓参りにはなかなか行けなくなりますが、近くとなりました西本願寺でお参りをさせていただければ…幸いです。
先日、祖父が亡くなりました。 その際にお世話になったお寺のお坊さんは 祖父が亡くなった日に枕お経を頼んだところ17時頃なのに、営業時間外と断られてしまいました。 その他にも葬儀中でお経を唱えてくれている時に数珠の紐が切れて、床に玉が転がりました。 縁起が悪いと思ってしまいました。 葬儀が終わった後、なにか数珠の紐が切れたことに対して言ってくるかなと思いきやそのままスルーでした。 調べた所によると縁起が悪いのではなく悪縁が切れた、数珠に守ってもらったなど良い意味もあるそうですね。 普通、誰もが不振に思うことならお坊さんがフォローの言葉など言うべきだと思います。 あと、腕時計を外しながらお経を唱えていました。 他にも葬儀が終わった後、喪主である私の父に「お礼を言ってください。」と言い、 父が「ありがとうございました」と言うと 「立って言ってください」と言われました。 葬儀にきてくれた親戚や祖父の知り合いなどがいる前で…… 恥をかかせたいのかな?と思ってしまいました。 確かにお礼を言わない父も父ですが、 違う言い方があったのではないかと思ってしまいます。 今回お世話になったお坊さんに対して とても不快な思いになってしまいました。 いくらお坊さんでも失礼ではないでしょうか? どこのお坊さんもそんな感じなんでしょうか? 今後関わりたくないのですが、どうすればいいですか?
お経やお題目 勤行など 繰り返す事で 得られるものが 有りますが それは言霊という事でしょうか? 素晴らしい言葉は繰り返す事に意味があると 受け止めたらよろしいのでしょうか 私くしは、仏様はとてもありがたいのでしょうが 聞こえてまいります 仏様らしき言葉で 苦しみ普通に 生きていけていません。言葉とうりに生きたら 私は 子供を置いて出家し お坊様になる道だけを一心不乱に歩み 自分の人生全てを仏様に尽くして参らないといけません。 でも、私は自分に甘く 子供や親も心配ですし 無責任に 子供を置いて 仏様に尽くしていくわけにいきません。 仏様の心を無視し生きてもいいのか 苦しくてしかたございません。 師は私のせいじゃないから 今自分の人生を歩みなさいとおっしゃってくださいましたが どの言葉を私は 受け取ればいいのかわかりません。 悩みというか どう表現していいかわかりかねますが 自分達の幸せをとるか 皆様の幸せを自分が背負っていくか その様に選択を迫られている様に感じ 答えをだせません。 仏様は本当に仏様なのか 私には怖い存在でございます。
お経には観音菩薩とか不動明王とか釈迦以外の仏様がたくさん出てきますが、仏教ではそういう霊的な存在を本当に存在すると教えているのでしょうか? それとも実在しているわけではなくて、仏教の教えを象徴しているだけの架空の存在なのでしょうか?たとえば、不動明王の剣は智慧の象徴とか、座ってる石は固い菩提心の象徴とかいう感じで、仏教の教えを大衆に分かりやすくキャラクター化して説明しているだけで、崇拝の対象ではないのでしょうか。 お経の中ではお釈迦様がいろいろな菩薩や如来を紹介しますが、お釈迦様自身がそういう存在を拝んでいたとか護摩祈祷をしていたとか逸話は聞いたことがないので、不思議に思い質問させていただきました。よろしくお願いします。
私は、お坊さまがお経を唱えている最中に、「ゴホッ」と咳き込んでしまう場面に出くわしたことがありません。 何故、あんなに大きな声でお経を唱えているのに、途中で咳き込んだりしないのですか? もし「ゴホッ」「ゴホッ」「ゴホッ」と咳が止まらなくなった場合、どうされているのですか? 私を担当して下さっているカウンセラーさん(臨床心理士であり僧侶)は、気管支が弱いらしいのです。 でも、将来はカウンセラーさんから住職さんになるはずなので、今、咳き込む姿を目にしていると、つい、差し出がましいですし、要らぬお世話なのは分かっているのですが…この方は大丈夫なのだろうか…?と思ってしまうのです。 特に何も持病がないお坊さまでも、風邪を引くことはあると思いますし、もし咳が止まらなくなったりしたら、どうされているのかな?小さく「失礼」とか「すみません」とか言って、元に戻るのかな?と思ってしまって… もしかして… 何かを超えると、途中で咳き込まなくなるのでしょうか? 忙しいのに、質問内容が素朴過ぎて申し訳ごさいません。 お答えいただけるとありがたいです。
大乗の車の両輪は法華経と無量寿経だと思いますが、我が浄土宗は法華経とは縁が薄いです。このことに後ろめたさを感じるようになってきました。 天台宗はもちろん、禅宗でも法華経を重視してらっしゃいますね。真言宗でも法華経を扱ってらっしゃいます。こんなに広く支持を集める法華経を無視していていいのだろうか? 敬愛する一遍上人が「法華すなわち名号なり」と鮮やかに言い切っているのに慰められるぐらいでしょうか。 かと言って僕は法華経そのものには特に惹かれているというわけではなく、むしろ現代語訳された法華経を全部読みましたが「法華経が法華経を自画自賛してるだけで結局何が言いたいのかよくわからんお経だな」と思ったぐらいです。 このモヤモヤした後ろめたさを晴らしてください。
私の母と御先祖様のお骨が納められているお墓参りの後、帰ろうと車に乗る間際に毎年必ずといっていい程、涙雨が降ります。 また、以前母の納骨の際には、お経をあげていただくはずのお坊さんが遅刻をして2~3時間滞在時間が長くなったりしたことがありました。 私の親族が「お母さんがまだ私たちに 帰らないでと引き留めているのかもしれないね。」と言っていました。 その他、別の年にはお墓の掃除中に雨が降っていたのにお坊さんにお経をあげていただいている間にフと空をみると私たちのお墓の真上だけぽっかり雲がなく日の光が差していたということもありました。なんともいえない不思議な出来事でした。 涙雨のことも親族と「どんな意味があるのかねぇ。なにか伝えたいのかなぁ。」と話しています。 「意味などないのでは?たまたまだよ」と思う方もいると思いますが、何かこのことについて回答いただければと思います。よろしくお願いします。
タイトルの通り、 田舎の祖母からもらった韋駄天の20センチほどの像を持っています。 木彫りで黒く塗られた簡素なつくりのものですが、かわいらしい姿をしています。 祖母はこの像に私の無事を守るよう祈ってくれていたそうで、 以前、つらい節目に実家に帰った時に一緒に連れて行けと持たされました。イケメンで足が速い小間使いさんだと。 自宅はアパートで仏間がないので、背の高い本棚の一番上の段を そうした空間に見立てて飾ってあります。なんとなくですが、お守りや大事なものはその周囲に保管するようになりました ^^; このように結構適当にお迎えしてしまったのですが、 せっかくなので何か家の中でのお作法や相性などあれば知りたいです! お詳しい方、ぜひご教授願います。
(こちらの質問は編集部により一部編集しています) 婚家の宗教に、一度はなじもうとサイトを開いてみた。 しかし禁忌項目についていけません。般若心経はダメとのことですが私は 小学3年から読んできているお経。神棚もダメともことですがしっかりありま す。小学3年から敬神崇祖の教えを基本に生きてきましたが、神も祖先も 大事にしたい。他にも禁忌項目があるけどついていけず寝込んでしまいました。 主人に改宗を依頼してもいいでしょうか。お寺参りも趣味で主人が定年に なればいろいろ廻りたいですがそれもダメなようです・・・。実家は曹洞宗です。
我が家は浄土真宗本願寺派です。 菩提寺の御住職様は御高齢の為、お勤めをしておらず、県外にいる息子様が行事等がある際に戻ってきていらっしゃるとの事です。 先日親族が亡くなり、すぐ菩提寺へ連絡した際に「すぐには対応出来ないので、そちらで別のお寺を探してもらえませんか」と言われました。 葬儀社を手配し、その葬儀社へ菩提寺から言われた事を相談し、お寺様を紹介して頂きました。 葬儀も滞りなく、無事に終了した為、菩提寺へ連絡し、「七日毎のお勤めをお願いしたい。家へ来れないのであれば、お寺でお経をあげて欲しい」と伝えたところ、お断りされました。 その後四十九日の法要にあたっては、事前に連絡をして日程を決めてお願いし、了承を頂けたのですが、後日連絡があり、「葬儀でお世話になったお寺様へお勤めしてもらわないでいいのですか?」と言われました。 こちらから「本来菩提寺であるそちらへ葬儀の時もお願いしたかったのに、お断りされたのはそちらで、代理で立てて頂いた方です。」とお伝えしました。なんとか四十九日の法要はお勤めして頂けるとのことです。 このような事があり、家族や親族より、菩提寺を変更した方がいいのではないかと話が出ております。 ずっとお世話になっている菩提寺様なので、今回の事は少しショックでした。 今回お勤めをして頂けるお寺で依頼していたのは、「浄土真宗本願寺派のお寺様」でした。 私は仏教に興味があり、お寺を調べたところ、「天台宗のお寺様」でした。 お経は、仏説阿弥陀経や正信偈だったので、通夜・葬儀の際は「なんかお経の読み方が新鮮だなあ〜」と感じていただけでした。しかしとても親切で、四十九日までの間、毎週お勤めに来てくださいます。 普段から仏壇へ向かい、お経を読む事もあり、こんな事があるのなら、私が学校に行き、僧侶の資格を取ってお勤めしたいとも頭をよぎりました。 菩提寺を変更するというのは、やはり避けた方が良いのでしょうか。それとも変更しても良いものなのでしょうか。 どこに相談していいものか分からず、投稿させて頂きました。 宜しくお願い致します。
我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
いつもお世話になります。 今夏、母の二度目のお盆を迎えます。 葬儀社からの紹介で葬儀を行っていただいたお寺様より、 お盆の棚経のお参りの日程のお知らせが届きました。 それが8/7(木)でした。 ちなみに我が家は真言宗です。 お盆は8/13からだと思っていたので、家族の霊が帰ってきていない時にお経をいただいて意味があるのかどうか疑問です。 そして、7日から15日までお盆としてお祀りするものなのか、二度目のお盆なので仏壇でお祭りして良いものか迷っています。 お寺様に直接電話ででもお聞きするのが早いかとは思いますが、お寺様の都合で日程を組まれていて、それに不服を言うような感じになってもいけないので、こちらで質問させていただきました。 ご回答よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 私の母方の祖父、伯父は菩提寺の総代を務めさせて頂いておりました。 私が小学校中学年の時に、祖父が亡くなりました。祖父が親しくおつきあいさせて頂いていた先代のご住職様は既に亡くなっていらっしゃいました。次の代のご住職はご本山からやって来た地域にまだそんなに根差しておられない方でした。 祖父の葬儀の時に、その新しいご住職は手を合わせてはいるのですが、カセットテープのボタンを押し、お経のテープを流したのです。 その場にいた大人達は驚き、小声で「テープだ。」と囁いていました。親族は怒っていました。私も子どもながらに「お坊さんなのに何でお経を読まないの?」と不思議でした。 法話もありませんでした。 祖父は生前、先代のご住職とは親しくてご住職を交えて祖父の家で一緒に食卓を囲んだりしておりました。古い木造のお寺なのでもし何かあった時にと山から木を切り出してきてすぐに使える状態にしておいたり、祖父は総代という事もあり、何かと菩提寺の為に肉体労働で尽くしておりました。祖母もご飯を作る時には「典座しなくちゃ」等とお坊様の言葉を真似ているほどでした。 祖父はご本山から感謝状を頂きました。 そして祖父が亡くなった時にはテープのお経でした。私は今までずっと喉につかえた小骨のように、その事が気になっておりました。 先代のお坊様と家族で食べた楽しい食卓の思いでがテープのお経のせいで黒く塗りつぶされてしまった様な気がしていたのです。 でも最近、諸行無常なのかな。と思うようになりました。 私の諸行無常の理解は間違っていますか? 教えてくださいませ。
義父が3年前に亡くなった直後、どこの宗、お寺にてお経を読んでもらうか、生前義父が言っていたことを忘れていて、同じ真宗ですが、最近葬儀を行った宗派とは違う宗派でした。 義父が亡くなる3年前に義母が亡くなった時、義父が言っていた宗派と違う宗派で葬儀をしたので、 義父が亡くなった時、義母と違う宗派の葬式はまずいと思って、そのままその宗派で葬儀をあげました。 それで、せめて分骨だけでもと思いまして、調べたら檀信徒のみ納骨できるとのことです。 私たちがそこの宗派の寺の檀信徒になれば納骨できるなら、宗派替え、お寺を替えないといけないと考えてます。 替える場合、今のお寺さんにはお墓も作ってないのでお墓もなく、檀家というほどの付き合いはありませんが、どう言ったらいいのでしょうか。 また、宗派替えまですることもないのでしょうか。 生前、嫌がられてもはっきりと聞いておけばと後悔してます。