世界一愛される大道芸人になるという夢を抱き、日々努力をしています。 ですが、知り合いの大道芸人さんたちのように、ブログやFacebookなどでファンの方からコメントをたくさんもらえるような人になかなかなっていきません。 単純に活動回数が少ないからかもしれませんが、良く、家族を大切に出来ないと成功しない、というような話を聞きます。 私は家族を捨てて家出してます。 家を出るまでに、大好きだった母親には精一杯出来る限りの親孝行をしたつもりで、後悔はありません。 ですが、身勝手だった父親は今でもキライです。 人から 『嫌ってもいいけど感謝はしないとね』 と言われました。 父親がとにかく大嫌いで、感謝なんて出来そうにありません。 それなら、代わりにこの世に生を受けたことに感謝してみよう、って考えたんですが、それも無理でした。 幼い頃から学生時代ずっといじめられ続けた私は、常に “私なんて消えてなくなればいい” と思いながら生きて来ました。 自殺願望みたいなものです。 だから、生を与えてくれたことやここまで育ててくれたことになんて感謝出来ないし、いっそ生んでくれなきゃ良かったとすら思います。 ずっとずっといじめられっ子で何一つ頑張れなかった私が、大道芸の夢だけは諦めずに頑張ろう、って、思えているんです。 何もかもを怖がって1歩も踏み出せなかった私が、夢のために留学も経験しました。 きっと死ぬまでやり続けるんだろうなと思えるほど、大好きな仕事です。 足かせになる全てのものを取り除きたい。 父親への確執があるうちは成功出来ないんでしょうか? また、私はどうするべきなんでしょうか?
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。
去年の12月に夫が救急車で運ばれ、1月に小腸がんの発覚、1か月の余命宣告を受けました。抗がん剤治療をしてうまく合っても5か月程しか生きられないと言われ、本人がしないという選択をしました。 夫は当時35歳でした。 1月で私は仕事を辞めて、毎日病院にお見舞いに行っていました。 その後緩和ケア病棟を経て在宅医療を受けています。 最初のうちは良かったのですが、体調がどんどん悪くなり、痛みがひどくなり、今はもうトイレもベッドで行い、自分で寝返りを打つこともできません。 介護は義母と2人で行っています。義両親とは物理的に距離が離れているところに住んでいたので、年1-2回しか会うことはありませんでした。 今回共に介護をしてみて、考え方や生活スタイルが違い、ストレスを感じています。 そうは言ってもトイレにも行けない相手を一人で介護することはできないため、なんとか頑張って暮らしています。 夫は食べると腸から出血が増すため、点滴で生きているのですが、その点滴の中に今日から睡眠薬を混ぜて眠らせることにしました。 痛みがひどく、モルヒネや座薬などではもう効果が少ないための、最後の手段です。 痛みが酷い以外にも、私や義母を呼びつけてお願いをされるため疲労が蓄積してしまったことも、混注に踏み切った一因です。(本人了承済みですが) きっとこのまま、どんどん状況は悪化していき、いつか旅立ってしまいます。 本題です。 私は自分も後追いしてしまいそうです。 今は職もないし、夫の介護が生きてる意味になりつつあります。 介護はとても辛いです。 私は親族と絶縁しているため、頼る身寄りもなく、子供もいません。 義母とは争うこともあるので、義父母に頼ることはできません。 友人はいますが、友人がいたからなんなのでしょう? 私が死んだらきっと悲しむでしょう。でもきっといつか忘れます。 生きる意味を探しているのではありません、もう何をすることもできません。 苦しまない自殺があったら、確実に行っていると思います。 死ぬ気になればなんでもできると言いますが、なにかを始める気力がありません。 将来私は1人で死ぬのであれば、今死んだ方が遺骨も夫の墓に入れてもらえるしいいのではないかとしか思えません。 相談したところで、何か解決できるわけでもありませんが、書き込んでみました。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、宗教は対立し得ないと思っています。現実に起こっている戦争は、宗教を大義名分にした、個人的な諍いに過ぎないと思います。 さて、宗教に関心はあるのですが、法華経を読んでも、聖書を読んでも、古事記を読んでも、自分が特定の立場をとる根拠が分かりません。 どのような基準で特定の宗教に入るのでしょうか? 「親が○○教だったから自分も」というのは、宗教性と何ら関係がないことだと思います。 みなさまは、なぜ仏教を選び、その宗派を選んだのでしょうか? また、他の宗教についてどう思いますか?
はじめまして。 質問失礼します。 長いですが、お付き合いください。 お願いします。 幼い頃、両親は離婚し、母に引き取られました。 離婚するまで、両親は喧嘩の毎日。 私自身も父に殴られたこともありました。 父が怖くて仕方がなかった。 離婚後、母に引き取られました。 母は、朝から晩まで仕事。 私は、新たな学校で、「夜逃げした、父親に捨てられた奴」としてイジメられました。 しかし、一人の先生との出会いで元気な人間になり、友達もできました。 しかし、中学校に入学後、先輩にイジメを受け、友達もその先輩に加担して私をイジメました。 先生たちは、見て見ぬ振りをしてました。 高校では、教師Aにイジメを受けました。 小学校のとき、私は自分を助けてくれた先生に出会ってから、先生になりたかった。 中学校のときは、中学の先生たちは悪い先生の見本だと思い込んでいました。 でも、違いました。 教師Aに出会ってから、胃は痛み、自分で自分の髪を引き抜いたり、吐いたり、食べ物が食べなくなったり…、私は床から起き上がれなくなりました。 そして、高校を辞めて、私は家でずっと寝ていました。(起き上がれなかった) 身体や心の痛みがなくなるまで、2年あまりかかりました。 そして、今、ある目標が出来て、大学へ進学を決意しました。 しかし、世間から見れば私は、二浪生もしくはニート。 近くに住む親戚からは、 「親不幸者」 「恥知らず」 「バカ野郎」 と言われました。 自分だって本当は、消えてしまいたくないくらい自分の存在が恥ずかしい。 こんな生き方したくなかった。 街で見かける、綺麗な洋服に身を包んだ同世代の女の子たちを見ると、羨ましくて仕方がない。 私は、私が憎くて仕方がない。 日に日に痩せてく母を見ると、自分さえいなければ、母は幸せに生きていけたと思います。 こんな私は、もう消えたほうがいいのでしょうか?
50歳代自営業者です 「運も実力のうち」 と言われますが、 この運でない 人には、どうにもならない運があると 諸先輩から教えられます。 私は 運の無い人生を送っていると言われます、 これが持って生まれた、どうにもならない運なのですか?? 運とは、仏教の教えでどのように考えたらよろしいのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
両親は10年ほど前から家業を持ち、私に後継者になる人との結婚を望んでいます。私は一人娘です。今、結婚したい人がいますが、その人は後継者にはなれない別業種の人間です。 両親は、私が後継者と結婚するということを条件に、私のやりたいことを全て許してくれました。その約束を具体的に交わしたのは大学進学時です。それから10年以上経ちますが、今になり、その約束を守る覚悟がなかったことに気づきました。この約束は自分の夢を簡単に叶えるために安易に交わしたもので、事の重大さに気づかずに過ごしてきました。かといって、今の私にはこの約束を果たすことはできません。 両親はただ一つの望み(後継者との結婚)を信じ、これ以上ないほど慈しみ育ててくれました。私の自己実現のために惜しみなく援助してくれました。何も落ち度はありません。また、後継者との結婚を前提に経営を進めています。 ですが、親と交わしたこの約束を反故にしてしまいたい。 子として、どのような誠意がみせられるでしょうか? また、この約束を反故にすることは因果応報するのでしょうか?
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
結婚14年目の寺嫁です。 結婚して数ヶ月後に女の子とデート約束のメール発見。飲み屋の子とふざけてのメールと言い訳。 結婚五年目頻繁に会ったり旅行したりの浮気。 こちらは離婚を申し出ましたが 頑張ると言われて今回だけと許しました。 そして今日出張だと思っていたところ 37歳の女の人と旅行中という事が 分かりました。 僧侶としてはお檀家さんからは信頼され 優しくて、何でも出来ると評判。 お寺では義父(住職)と喧嘩ばかり 寺の仕事も中途半端、家庭の事は何もせず、自分中心。 義両親は旦那の事を二重人格だと言っています。 今回の浮気はもう許せず、子供を連れて離婚をしたいのですが いつも私の事を考えて大切にしてくれている義両親は、旦那を追い出して 私にはずっとこのまま ここに居たらいいと言っています。 そんな事が可能なのでしょうか?
新興宗教の3世となる女性と結婚しました。 彼女は勧誘してこないのですが、義父が熱心に勧誘してきます。 うまく付き合っていくために、いっそのこと入会してしまうのがいいかと軽く考えて入会する方向に話を進めてしまったのですが、 いざ真剣に考えると自分は長男なので守るべき墓や納骨堂があることに気付きました。 浄土真宗大谷派の寺に納骨堂があり、また祖父が建てたが納骨されていない墓があります。 その事を義父に伝えたのですが、「そんな50年以上先になることを今心配してどうする。50年も経てば考えも変わる」と取り合ってくれません。 私は父子家庭で祖父母に世話になった時によく墓掃除やお参りに行っていたので納骨堂やお墓、祖父母にとても思い入れはあります。 父がなくなった時にはもちろん祖父母と同じ納骨堂に入れてあげたいですし、自分が亡くなった時も同じ場所に入りたいのです。 そういった自分が真剣にお墓のことを考えてると言うと、某宗教に入会しても「同じ納骨堂に入れるから安心して入会しなさい」と言うのです。 「親の葬儀は浄土真宗大谷派としてできる。位牌(宗派的に位牌はありませんが)は某宗教の仏壇に置くことになるが問題ない」と。 私はできれば仏壇も継いでいきたいですが、それは叶わないようでした。 それから法華経が最高ですべてを網羅したものであるのになぜ法華経より劣る教えにすがるのかなどと話をされましたが私は現段階では一切興味もありません。 私はただ良い家族関係、親戚関係を気づきたかったために入会してもいいと伝えたのです。 しかし、婿養子になったわけではないのに、なぜ妻の実家に宗派を合わせなくてはいけないのかと思うこともあります。 義父は休日を全て宗教活動に使うほどの活動家で地位もそこそこ高いためにメンツもあり、断るのは難しそうです 私は義父の言うとおりに某宗教に入会し、納骨堂とお墓を継いでいくことが望ましいのでしょうか。 断るのだとしたらどのように断ればいいのでしょうか。
私は息子を亡くしました。 それから考えることは『死』についてです。 やはり『死んでしまいたい』という気持ちが消えません。 前向きになっても、ふと『死んでしまいたい』と思ってしまいます。 それは、亡くなった息子に会いたいと言うよりは自分の将来が不安で生きるのが辛いからなのかもしれません。どうせ不幸が待っていると思ってしまいます。 このまま生きていくのが不安で押し潰されそうです。 仕事をし前のような生活をしたいですが、上手くいかず主人にとうとう怒られました。 『全てが中途半端』『どう生きたいんだ?』と、、主人も息子を亡くした親なのに私が甘えすぎていたのだと思います。 私のうじうじした気持ちをなくし、頑張りたいのですが将来(未来)を思うと苦しくなります… どうすれば前向きな気持ちが続くでしょうか。どうすれば強くなれるでしょうか。
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
簡単に言うと、“考え方や本当に思い込めばその通りになる”ということらしいです。 量子物理学的に「思考は現実化する」という学者もいたりします。 言葉に発するなどはできるのですが、心に思い込むというのはなかなか難しいですし、どうしても悪いことや嫌な事、嫌なニュースに怒りを覚えたり、他人を妬んだりうらやんだり。マインドコントロールでもしない限りそんな人にはなれない気がします。 プラス思考は大事だと思いますが、そんな四六時中プラス思考になることなんてできるのでしょうか。嫌なことから目をそむけ、ある意味思考を停止して単純思考にならないと難しいと考えます。 量子物理学、プラス思考、コントロールとなるとなんとなく胡散臭く感じてしまいます。 そもそも“引き寄せの法則”という考え方は仏教にはあったりしますでしょうか? 教えて! お坊さん!
以前の投稿では表現が回りくどくてイマイチ聞きたいことが伝わっていない様でしたので簡潔な質問文にして投稿し直しました。 宜しければご回答お願い致します。 私の悩みの元に関してはプロフィールに記載しました。 『なぜ愛する女性の命を出産という危険に晒してまで子どもを望んだのですか?』
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
久しぶりのご相談となります。 表題の件について、ご相談させてください。 職場での人間関係および業務量から精神を病んでしまい、現在休職中の身です。 心療内科に通院した際に、かかりつけ医から「仕事は淡々と行うことが大切。そのイメージを持って、復職に向けて前に進むことが治療になる」と言われました。私自身、淡々と生きる、とは遠い生活をしてきたと思っております。どちらかというと、喜怒哀楽が激しく、なにかの判断を下すときは理屈より感情が優位です。 淡々と生きる、淡々と働くとはなにでしょうか。先生は、例として住職の方をあげていましたので、こちらで相談させてもらいました。 回答をお待ちしております
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。