私は今30歳です。が、見た目は20歳くらいに見えているらしく、こちらから言わなければ実年齢は分からないようです。実年齢を伝えても信じてもらえませんが。 今まで、そういう事は気にしていませんでした。年齢をいくつに見られるだとか、実年齢との差だとか。 ただ容姿に関してはコンプレックスが強く、昔から何とかして理想に近づきたいと躍起になってきました。周りからは、容姿に恵まれていると言われてきましたが自分ではそれが分からず、そんな事で悩んでいるうちに30歳になっていました。 ふと、最近好きなアーティストの方が18歳の男の子だと知った時、いきなり自分の年齢を突きつけられたような気持ちになりました。 今までは、この人の声が好きだとか世界感が好きだと思ってそこを追求していましたが、ああそうか、自分が好きなジャンルを作っているのは自分よりもずっと年下の人達なんだと思いました。 そうすると、ここまで容姿だけにこだわってそこばかり見てきた自分には何も無いと感じました。実際特に何かを積み上げてきた経験もないです。若さもなくなり、これからもっと老いて沢山の若い才能に触れたら私は耐えられないかもしれない。そう思ったところから死を望んでしまい、食欲は全くなくなりました。自分の価値を容姿や若さにしか見出せなかった結果、手元には何も残りませんでした。これから自分としてどう生きていけばいいのか、そもそも自分としては生きたくない、30歳で自殺したとしても若いのに…とは言ってもらえない。などということをぐるぐる関する考えてしまい、目の前の現実を生きられないでいます。 何もしてこなかった自分を呪い、無駄に若さを使った事を悔み、 若さに嫉妬して、発狂しそうです。いっそ発狂でもして何にも分からなくなりたいです。 私はどうしていくべきなのでしょうか。
どうして人は生きなければいけないのでしょうか? どうして人は簡単に自殺してはいけないのでしょうか? お坊さんの知見が知りたいです。
どうしてすべてには実体がなく、空なのですか? 又、思ったのですが、いまはひとが多く居過ぎるのと、加えて、社会生活をしないといけないから、自分のものなんて何一つない、所有できるものはなにもないだけなのではないでしょうか? 執着していられない、つかまえていられないだけなのではないでしょうか?社会のなかで生きていくために。 たとえばですが、もしも、世に自分だけしか存在しなかったら、どうですか? すべて自由だし、すべて自分のものに出来ますよね?執着していられますよね。その時、すべてには実体がないといえますか? いまはただ、なにも自分の好きなように出来ない、執着していられない社会で生きていかないといけないから、すべてには実体がない、といえるだけなのではないでしょうか?そう捉えて生きていくしかないというか…。
30半ばになりかけで無職だから生きる価値がありません。死んだ方がいい気がします。
私は動物看護師をしていました。 小さい頃から動物はなんでも大好きで、彼らのためなら何でもしてあげたいと思ってこの職を目指しました。 でも実際勤めたら、人手が足りずにいつも多くの業務に追われ、先輩達はとても怖くていつも行動を見られている気がしてだんだんと心に余裕が無くなってきました。 そしてついに入院してる子達に対して「なんでこんなに苦労ばっかりかけるんだ」という気持ちまで湧いてきてしまいました。 そういう仕事だとは分かっていたのにです。一番苦しんでいるのはその子達とそのご家族なのに、自分が一番みじめで苦しい思いをしていると勘違いしてこんな酷い事を思うほど自分が非情で身勝手な人間だと知って絶望しました。 そんな中で四匹の子が亡くなりました。 一匹は熱中症の小鳥で、私はそうと知らずにセオリー通りに小鳥の籠に蒸しタオルをかけてしまい、それが原因で小鳥は一瞬で息を引き取りました。私が殺しました。 もう一匹は私が手術の麻酔管理についた小鳥で、術後は元気そうだったのに飼い主さんのお迎えを待たずいつの間にか亡くなっていました。なぜもっときちんと見てあげなかったのかと後悔しました。 もう一匹はウズラで、来院する前に電話をかけてきて私が電話応対したのですが情報の引き継ぎがうまくできていなかったようでした。後で先輩に私が必要な事を先生に伝えておかなかったからこうなったんだと言われました。 もう一匹は犬で、点滴チューブが首に絡まって亡くなってしまいました。昼休みから最初に上がった人が入院の子の世話と掃除などの雑務をすることになっていましたが、私は全員をきちんと診ていたら雑務も時間内に終わらない、先輩に怒られると思い軽く様子を見ただけで流してしまいました。きっと私が様子をみた頃にはすでに点滴チューブは首に絡まっていたと思います。私の保身と怠慢のためにこの子は死にました。 私は非情で自分勝手な人間です。動物を助けたいと思ったのに、最終的に彼らを憎みそして死なせてしまいました。これだけは弁解しますが殺意も悪意も全くなく、故意でもありませんでした。それでも彼らの死に関わったという事実は変わりません。 これからずっと似たような過ちを犯し続けるでしょう。これ以上誰かを不幸にする前に今死んでしまいたいのです。最期に我儘を言うなら、罪を清めて極楽に往生したいと思います。仏様は救ってくださるでしょうか。
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
20年以上前に父が死にました。私は8歳でした。父親っ子でした。 父がいないことで嫌なことを言われたとはありません。進学もさせてもらいました。母は一生懸命育ててくれましたし、その他の周りの人からも良くしてもらって、愛情不足だったなどということもありません。 でも、時々猛烈に父に会いたくなります。父に生きててほしかった。父に反抗してみたかった、彼氏を紹介してみたかった、晩酌したかった…など、どうしようもない夢がどうしようもなくよぎるのです。「父が生きていたら私はもっと…」は思わないので、ただただ「父親」への憧れだけが増長しているようにも思います。 父が死んでもう20年以上も経ちます。それなのに私はここから抜けられません。 大切な人を亡くした人は星の数ほどいて、みんな、その人への追慕と付き合いながら過ごしているのに、私はいつまでここで立ち止まってるのだろうと思います。 この気持ちとどのように付き合ったらよいか教えてください。
昔、私をいじめに加担した人や、傍観者だった人たちが結婚したなど、実家で聞かされます。 私はいまでも、人にいじめられる体質で人と関わること自体不安を感じます。 なのに、昔いじめてきた人達は幸せになっている。その事が納得いかないのです。 いま、気がつくと過去をフラッシュバックして 死ね、ムカつくと言葉を吐いて我にかえている。 人がいる時ではないですが、この状況もいいとはおもいません。 どうしていいかわかりません。 助けてください。こんな自分が嫌です。
最近、受験生なので勉強に没頭していました。 すると突然、自分の確実にある死を意識させられました。 学校がないことや歴史の勉強で歴史に圧倒させ られてしまったことが理由にある気がします。 今までも考えたことはありましたが、 自分なりに楽しく過ごそうくらいしか思っていませんでした。 しかし、最近になり自分や両親が死んだら と想像して勉強も手につきません。 今を楽しく生きたいし、夢もあって叶えたくて 勉強しているはずなのに消えてなくなってしまうんだ、と考えてしまい苦しいです。 そんな中、知っている方が亡くなってしまい さらに抜けられなくなりました。 死後の世界はあるのか 生まれ変わったりするのか なんてずっと考えてしまいます 考えることは悪くないかなあと思うんですが もう少し楽に生きたいし、 その頃に戻りたいです。変な質問ですみません
無理してお金を稼いでまで 欲しいものなんてありません。 無理やり生きてまで やるべきことなんてありません。 死んだ先が地獄でも この世に比べりゃ天国で あの世の鬼や悪魔でも 人間よりは優しいでしょう。 なんで、こんなこと… いつまで、こんなこと。 明るいトンネルは 終わりのない悪夢のようです。
大学受験を控えている高校三年生です。 精神的にとても辛く、それを相談出来る人もいないのでここに書き込みます。 自分で言うのもなんですが、今までは明るく、ポジティブな性格でした。 しかし受験勉強が本格化してからは何事も楽しめず、ただ勉強するだけの日々、生きる意味を見失い、死にたいと思うようになりました。 親に死にたいと言うことは出来ないし、友人も受験勉強で忙しいため相談出来ません。 生きる意味とはなんでしょうか。 楽しいことが1つもない毎日ですが、死にたいと思いたくないです。 アドバイスいただけたら幸いです。
こんばんは。いつもありがとうございます。 死にたい衝動が強くなってきました。 沸き上がって来るこの気持ちをふっと気がついて押さえ込むのが大変です。 薬の副作用もあるかもしれません。 調べてみるとそういう副作用のある抗うつ剤をのんでいます。 でも私は同じ想いをさせてしまっている子供たちには、早くこの想いから解き放たれてほしいし死んでほしくない、生きていてよかったと思える日が来てほしい。 そう思って必死にこらえています。 しかし、子供たちも同じ想いを抱えているんだと思うと辛くて仕方がありません。 ゲームをして気をまぎらわせています。 でも気が晴れません。 他になにかをしようという気にもなりません。 それでも頑張って死にたい気持ちと戦っています。 子供たちを残して今死ぬのは負担をかけてしまうとおもい必死です。 私の盲点になっているような、いい気晴らしはあるでしょうか。 思いつかず、ここで気持ちを吐き出させて頂きました。 いろんな人がいると思います。 ここや他の質問サイトを見ても死にたい気持ちで辛い人がたくさんいるのがわかります。 特に四月は辛い時期です。 私が子供たちに辛くても生きていてと願うようにきっと誰かがそう思うと思います。 そう思ってくれる人が身近にいなくてもきっとどこかに。 もしくはすでにこの世にいない人がまだこっちに来るんじゃないと言っているかもしれませんよね。 だから私も一生懸命生きる目標を見つけたいと思います。 死にたい気持ちがとれなくても。 ここまで読んでいただきありがとうございました。
死とは何ですか?人は、何のために死ななければならないのでしょうか。 生きることに目的や使命があるのはわかります。例えば、魂の修行のため、使命を果たすため、人生を謳歌するため、願望実現のため、など、いくらでも思い付くのですが、 死ぬことにも同じように、目的があるのでしょうか。 先日母を亡くしました。母自身、最後の瞬間でさえも諦めず、頑張ってくれましたが、力尽きてしまいました。 死は誰にでも平等に訪れるものですが、母はまだ50代と若く、母にはまだまだ叶えたい夢がたくさんありました。私も母と共に叶えたい夢や目標がありました。 「まだこの世にたくさん未練がある」と、亡くなる前言っておりました。まだ若い母には、生きる目的や理由が残されておりました。 それなのにどうして、この世を去らなければならなくなってしまったのでしょうか? また、母の場合は癌で苦しみ死に至りましたが、例えば事故死や殺人の場合も、なぜそのような形で死ななければならなかったのかも大変疑問に思います。 どうして、老衰のような、安らかな死に至ることができないのでしょうか…。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
普段、何不自由なく暮らしているのですが、寝る間際にふと自殺したい気持ちに駆られます。 私は正直これまで家庭環境も含め何不自由なく暮らしてきました。学校でも友人は多い方でした。ただ、本当の自分ではなく、親や周りに気に入られる存在を演じているだけなのかも知れないという思いにかられます。 演じている自分、そして演じられなくて失望させられてしまうのではないかという思いに板挟みになっています。 そして、将来の目標や夢などもなく、今生きているのもただ死んでいないというだけに感じます。 一度ネクタイを自分の首に巻きつけて死のうとした時は親の悲しむ顔が浮かび、思いとどまりました。しかし、それも今考えると死なない理由があるだけで、この先生きていく理由ではないように感じます。 今は、寝床でふと自殺願望に駆られるだけですので実行にはうつしていません。 ただ、これがふと断崖絶壁にいる時、電車のホームにいる時だったら何かの魔がさして死への一歩を踏み出してしまいそうです。 全ての人の人生の終着点は死であり、その時間が早いか遅いかの違いではないでしょうか?また、命とは私に属しているのにその処遇についての決定を自分で下すというのはそれほど不自然なことなのでしょうか? 最近分からなくなってしまっています。
私には、高齢の父親がおります。 お恥ずかしながら暴力暴言は当たり前な父で、現在私に対してひどい暴力をふるい私自身が怪我を負ったため、疎遠になるべく接触を避けている状態です。 その父が口癖のように私が幼い頃から言っていたことがあります。 「親を大事にしないと仏様から必ず罰がくだるぞ」 「この世に生まれさせたのは親なんだから仏様と同じなんだぞ」 「親を怒らせるお前が悪いから殴られるのは当たり前だ」 また、今後の暴力から逃れるため接触を絶つ際には 「親に失礼な態度を取るお前は必ず不幸になるぞ」 「お前の旦那の子供も必ず不幸になる」 「仏様は見ているんだからな」 「必ず仏様がバチを当てるだろう」 とも言っておりました。 仏様は随分、父にとって都合が良いなと割と幼い頃から思っていましたし、暴力を是とする仏様はいくらなんでもないだろうとは思うものの怖いのです。 父の言葉がまるで呪いのように纏わりついて精神的に参っています。繰り返し聞かされ続けた後遺症でもあるのだと思います。 恐怖と戦うのも試練と言われたらそうかも知れませんが、 何か、乗り越えるためのアドバイスを頂けるとありがたいです。
私は今年で20歳になります。 昔から、物心がついた頃から死にたいとゆう気持ちが出てきます 私はこれから、どう生きていけばいいのかがわからず なんでこんな自分が生きてるのか、今ここにいるのかわかりません 昔に何度か死のうとしたことがありました 小学生の頃です、薬をいっぱい飲んだり 自分で首を締めたり どこまでだったら私は死なないのか、それがダメならそれよりもっと多く薬を飲もうとか、色々試してきました なのに今生きています。 何故なんでしょうか、私に暴力を振るって笑っていた家族はみんな死にたいなんて思ってもないような顔で生きて 毎日が楽しいと言ってきます お父さんは生まれた頃から居なくてお母さんは毎日いろんな人と私の寝てる横で色んなことをしてました お母さんに捨てられ里親に引き取られ、お父さんには殴られ虫がいっぱい沸いている汚い部屋に置かれて身体中が痒くなったり それが七年間続きました。 中学の頃には先輩にレイプをされて男性恐怖症になりました。 でもどうしても負けたくなくて、そこから今までがむしゃらに生きてきた気がします。 引き取ってくれたお母さんは亡くなり、私のお母さん名義の借金を残しました 施設に入りたくなくて、高校に行かず仕事を探してきて毎月お金を入れるのと借金返済を約束をしてお母さんに引き取ってもらい 卒業してからすぐキャバクラで働き始めました 毎月お金を渡しながらすぐ一人暮らしが出来るようになり 16からずっと一人で暮らしています 2年かかりましたが300万あった借金も返し終わりました。 男性恐怖症もキャバクラで1年もすれば話せるようにはなりました。 ですが最近になって、急にまた男の人と話すときに動悸や吐き気が襲ってくるようになり 我慢して吐きながらどうにか働いています、でももうそれも辛いです 家に帰ったら毎日お風呂で泣いてしまいます、包丁や刃物を見ると自分を刺して苦しむ姿を思い浮かべてしまいます。 毎日親からお金をくれと連絡がきます 何度も弁護士に聞きに行って縁を切ろうとしました でも結局だめでした 私が今生きていてここにいる価値も意味もないんです。 こんなダメで価値も意味もない私ですが、死にたいと同じように生きてたい気持ちも無くなりません でもやはり思ってしまいます。死んで全てを捨てて楽になりたい 助けてください
度々すみません、気持ちをかかせてください。 自分が何したいのかわからない、 どうしていきたいのかもわからない、 彼にはもう会えないという事実 虚無感だけが私の中にあります。 彼が亡くなる前の私は、 何をしていても彼のことを いつもいつも考えていましたし、 頑張ったら褒めてくれる、 辛いときはそばに居てくれる、 楽しいこと、嬉しいことがあれば ああ彼に早く言いたい、伝えたい、 何があっても1番に頭に浮かぶのは彼なのです。 彼が亡くなった今だって それは変わらないのです。 でももう、話せない 話しかけても返ってこない、 事実を受け入れても、 悲しみが無くなることって ないです、ずっと寂しい。 例えばこのままずっと彼をすきでも 周りにはきっと、 結婚するのがあたりまえみたいな世の中で そろそろ結婚しないの?とか、 彼だって幸せを願ってるんだよとか きっとそんなことを言われる日が くると思うんです。 私の幸せは彼なのに、です。 彼のいないこれからに、 どうしても楽しみや希望を 感じる事ができません。 私が元気で笑顔で幸せに生きていることを 彼が願っていることもわかっています。 彼が見守ってくれていると信じています。 だけどわからないんです、 これから自分がどうやって いきていくのか、わからないんです。 時間が経てばどうにかなる、 そういう問題だとは思えません。 彼が亡くなってからの、 まわりの人達の立ち直りというか 心の切り替えが、はやいんです、 みんなは、もう、いつも通りなんです。 私だけが、学校も行けてなくて、 なにしてるんだろう自分、って思います。 今のわたしが、これからも 生きる意味ってなんでしょう。 しらないですよねそんなの、 変な質問ばっかりしてすみません。
お久しぶりです。二度目の質問失礼します。 私は2019年に双子を15週で死産、翌年男の子を22週で緊急帝王切開・超早産で出産しましたが生後4日に亡くなってしまいました。 最近職場で2人の方が妊娠報告されました。お腹がふっくらしてきて、その方たちと顔を合わせることが辛いです。 自分は1人も無事に産んであげられず、お腹に大きな傷が残っただけです。 お腹の傷を見るたび身を裂かれるほど悲しくなります。 今でも我が子の火葬に立ち会ったことを鮮明に思い出し、苦しくなります。 かかりつけの婦人科の医師からは妊娠可能だと言われますが、自分の中で妊娠=我が子の死と直結してしまっていて妊娠について前向きに捉えることができません。 子どもが欲しいと思うこともありますが、私を選んでしまったがために子どもが悲しい結末を辿ってしまうかと思うと子どもを持たない人生を生きようと考えることもあります。 我が子すら守れない自分に生きる価値すらないと感じます。 私の様な人間は子どもを諦めた方がいいでしょうか。 また、今後生きていても大丈夫でしょうか。こんな私に生きる価値はありますでしょうか。
僕は男性しか愛することができません。 幼稚園の頃から好きな人は男の人でした。 恋愛ができないということも辛いですが、本当の自分を話せない、話したところで理解をされない、だから人との関係を築けない、それが一番辛いです。 これだけ辛い思いをしてまで生きる意味があるのかとずっと思っていました。 中学生ぐらいの頃、母に死にたいと言ったことがあります。 そしたら、今はそう思っても10年後、20年後はわからないでしょう?楽しい未来が待っているかもしれないよと言われました。 その時から10数年間頑張って生きてはみたけれど、年々辛いと感じるばかりで、幸せが待っているとはどうしても思えません。 あの時に死んでおけばこれだけ長いこと苦しむこともなかったのになと思います。 この世界に生まれて良かったと思えたことは一度もないけれど、それでも母だけは好きだったので、悲しませたくないといままで自殺ができないでいました。 自分が死んだら悲しむ人がいるというのは、素敵なことかもしれないですが、だから死んではいけないとずっと神様に人質を取られているような気分でした。 でも、最近はもうそれさえもどうでも良いかと思います。 母を悲しませることになっても楽になりたい。もう何も考えたくない。 自分の幸せになれるかもしれない道は全て試せたように思います。 もう全てを諦める覚悟ができました。 それでも最期に聞いてみたいのは、人が生まれて死ぬということには意味なんてあったのだろうかということです。 魂の修行みたいな話を聞いたりしますが、この世の中汚いものばかりな気がします。こんな世界にいなければもっと清らかに人にも優しくできたように思えます。心を汚して、心を殺して、自分に嘘をつかなければ生きてなんていけませんでした。 人が生きる意味ってなんだったんでしょうか? 人が死ぬことや生まれることに何か1つでも意味があったのでしょうか? 最期にご意見を伺ってみたいです。 よろしくお願いします。