おはようございます。仏教について 考えていました。 お釈迦様の教えが根本であり 原点でございますね 教え通り 生きたら人じゃなくなる気がします。 人間で生まれた以上 人として人らしく生きることが 素晴らしいとも思うのは よく 言われるのは タオルはタオルとして使われるのが幸せである とも言いますよね 仏教の教えは 人でなくなり 仏様のようにいきる 事ですよね 仏教の教えを 根本として 自分達が 幸せに 生きる知恵となればいいとは思うんですが 煩悩を断ち 執着を無くしとは 人じゃないよな、、、と思ってしまいます。 お坊様方は お釈迦様や空海様と同じ土俵におられますが お坊様として生きるいじょう 仏様を 目指されるのでしょうか?
【質問】 自分の中に芯と呼べるものを形成するには、何をすべきでしょうか? 【質問背景】 現在、4社目となる居場所の退職手続きを進めています。 前向きな理由からの退職ではなく、 1.他人と長期的な関係を築く事が出来ない。 2.会社に帰属意識を持てない、歯車に成り切れない。 3.お金以外で働く理由が見つからない。 上記の様な思いを常に持っている状態で、どうしようもなくイライラして 逃げ出す以外になかったのが正直な所です。 逃げ出した所で自分に何か出来る訳でもなく、お金に困ったらまたどこかで働いて、似たような理由で辞めてを繰り返す事が予想出来ます。 逃げ出してばかりの情けない人間ですが、良い方向に変化したいと願っています。退職する事によって自由に使える時間が生まれるので、今こそ自分を変える時だと信じて行動したいです。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。 何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。 死にたくなったらどうしたらいいですか?
こんばんは。お久しぶりでごめんなさい。 今までも何回も一人で耐えて時には死にたくもなり、辛い時期はありました。 最近は旦那は職場が変わり、その関係はあるの分からないですが、基本仕事帰ってきたら家事、育児はまずしてくれない。 するとしたら犬の散歩か子供をたまにお風呂へ入れるだけで、それ以外私任せ。 「協力してくれへんの!」て言うと「置いといて」の口だけなのでじゃあ「私がやる」と言わず行動します。 子供が寝るまで母親は忙しいし、休憩すら出来ない。むしろ旦那が帰ってきたらご飯が出来てなかったりすると無愛想にかわり、顔は怒ってるのが分かります。 優しい時はあるけど家事も育児も最近いつからか私任せに。それで機嫌?が悪い日なんて帰ってきても会話もなく、自分は寝るだけ、仕事行くだけなんです。 あとは今最近、お互いの年も の事もあり2人目妊活中ではありますが、1個も協力を、してくれない。なので仲良し♡すら肝心な時には協力してくれないから、その度に私はショックで。旦那は車や犬や亀、トカゲ等にはお金を沢山かけてきて、今現在もなのに、子供や私やもちろん食費?にはお金を出さなくて。そんなんなのに2人目はお金がないとか言ってきます。 毎月私は日にちと睨めっこしたり病院かよたりしていて、こんな時は自分勝手に仲良ししたりするのに!1番肝心な日には協力をしてくれないのです。
お恥ずかしい話ですが、タイトルどうりです。違う所に通って居たのですがイマイチで色々調べて今の本指名の方になってからその人一択になりました。もしかしたら好きになっているのか、推しなのか分からなくなってしまいました。お仕事なのは分かって居るのですが彼からでる褒め言葉もとても嬉しく気持ちが良い気分になれ自己肯定が上がります。それと同時に彼に会った後たまに涙が出たり、自己嫌悪になったりもします。辞めた方が良いのは分かってますが彼がいつ辞めるか分からない世界なので会える内にあっておきたい気持ちもあります。出来る事ならプライベートであってセフレや彼女になったり結婚したいなと言う気持ちも何処かであるのかもしれません。アドバイス宜しくお願い致します。
現在、うつ病で通院しています。かれこれ発病から10年以上経つでしょうか。 現在はかなり症状も落ち着き、パートという立場ですが、仕事に就くこともできています。上司も病気のことは理解してくれていて、それとなく気を遣ってくれたりもします。恵まれた環境で、今は幸せです。 ですが、ここまで来るのは本当に大変でした。病気の症状ももちろん苦しかったのですが、それ以上に世間のこころの病気に対する差別と偏見の目に苦しみました。たとえば、アルバイトの面接などでも、病気のことは絶対に話せません。 「うつ病の人を採用するわけにはいかない」 病気のことを正直に話すと、そんな言葉が返ってくることもありました。そのせいで激しい人間不信に陥り、よけいに病気が悪くなる。・・・そんな時期もありました。 その時期のトラウマなのでしょうか。今でもふと人間について、生きることについて考えることがあります。いくら法の下の平等を叫んでも、差別はある。人生、どこでつまづいてしまうかわからない。・・・そういったことを思うと、何だか人間や人生というものが、とてつもなく怖いものに思えるのです。 正直、人間として今ここにいることを後悔する時もあります。なぜ、僕は生まれて来なければならなかったか。死にたい、とまではさすがに思いませんが、生きることが怖い、というのが正直な気持ちなのです。 なぜ、こんな恐怖を感じながら生きなければならないのでしょう? 生きることが苦しいのは、やはり当たり前のことなのでしょうか? よろしければ、ご回答の程よろしくお願いいたします。
質問させて頂きます。宜しくお願いします。 私の母は、よくヒステリーを起こす性格で、子供の頃よく暴言をはかれたり殴られたりしていました。 社会人になり、家を出てからは全くそういった事はなくなり、お互いにいい距離で表面上仲良く過ごせていたと思います。 その後 私が妊娠をし、病院のエコーで心臓がピコピコ動いている赤ちゃんを見た時、とても可愛く思い、それと同時に母親の事が許せなくなってしまいました。 なぜあんなに殴る事ができたのか。 死ね あんたなんか産まなきゃ良かった 等なぜあんな事が言えたのか。 小学校の頃私は学校でイジメにあっていて、帰って母に言うと、みっともない、恥ずかしい 私の前で2度とそんな話するな と怒られてしまいました。 あんたなんか殺してやると首を絞められた事もありました。 母のヒステリーはきっかけも分からず突然怒鳴られる事も多く、とにかく恐怖でした。 日々家に帰るのが毎日苦痛で学校帰り公園で胃液を吐く事もありました。 一度母に、あんたとは家族だから仕方なく関わっているけどもしも他人だったらあんたみたいな人とは関わりたくない と言われました。 おそらく母は私のような性格私のような人間が嫌いなんだと思います。 今母は孫をとても可愛がってくれています。 私に対してもとても色々な事をしてくれています。 それは感謝しているのですが、どうしても許せないのです。 今までは聞き流せた母の些細な一言も聞き流す事ができず、昔あんな事いったくせによくそんな事が言えるなぁと、腹が立ち寝られなくなってしまう事もあります。 昔の事は何事もなかったのような発言にも腹が立ちます。 どうしたら、この怒りを抑える事が出来るのでしょうか どうしたら母と上手く付き合っていけるのでしょうか。
シンプルに文字通りに質問させてください 楽しいが分からなくなったらどうすればいいですか? また探せばって思うかもしれませんが、そうじゃなくて 心が楽しくないというか(ここ数年) 私も生きてる以上笑います(愛想笑い) たぶん楽しくないです 楽しいが分からないので楽しいことをしても気づけないかもしれません 楽しいを感じられません まぁいろいろあり書くと長くなるので あと自分が人生に疲れてる自覚あります
よろしければご教示ください。 いつも何かが足りないという欠乏感を抱えています。 例えば、欲しかった洋服を手に入れるとすぐ次が欲しくなる。自分にないものを持っている人ばかり目について、嫉妬し、持っていない人を探して安心したりする。といったことです。 親しい人が元気で、自身も健康で仕事もあり満たされているはずなのにいつも足りないものを数えてしまいます。 どうすれば、今持っているもので満足する、幸せを感じることができるのでしょうか。
はじめまして。 つい最近、私がずっと応援していたアイドルの方が自殺をしました。 私はそのアイドルの方の死を受け入れられません。自殺の理由や、遺書がネットに出ていてそれを読む度に涙が出てしまいます。一番やってはいけない後追い自殺なんて事も考えてしまいます。 今まで尊敬していたし、応援していたからこそ、しっかりと受け入れるべきなのだと自分で分かっているのですが、まだどうしても受け入れられません。 この事を友人に相談しても気を遣わせてしまうと思うと気が引けるし、家族に悩んでいる事を言うと「どうでもいい」と言われてしまいました。本当にショックでした。 やはりアイドルの死が受け入れられなくて悩む事は馬鹿馬鹿しいのでしょうか?アイドルの死で悩むなんておかしいのでしょうか? もう誰にも相談できず、一人で悩んでいました。 そこでお坊さんに相談したいと思い質問させていただきました。よろしくお願いします。
お世話になります。 こちらで沢山の質問、相談を自分におきかえて、自分と似たような思いをされてる方など、読ませていただいてます。 よく見るのが、亡くなったら、仏教は、みな同じ、自死になろうが、悪いことをしてた人生であろうが、皆同じ、お釈迦様がお浄土へと導いてくださる。 しかし、別の見方では、自死はずっと同じ事をしてあの世で苦しむ… 自死の行為を何度も繰り返して苦しむとか… 地獄行きなど、針の山などある、などなど…あると聞きます… また、ご先祖様は、修行を積み重ねられ、上の方に行かれているとか… 主人がどういう場所で、どんな修行をしているのか… また上の方に行かれたご先祖さまと同じ場所におれてるのか。 考える日々です…
私は最近、漫画家という夢に挫折しました。少しだけ仕事にすることが出来ていたのですが、自分の中に、創作活動をする上で必要な「心から楽しむ」という気持ちが足りないと感じました。このまま創作活動を続けるより、堅実な仕事をすべきだと、直感しました。 しかし、20年以上、自分なりに頑張ってきたことをやめたことで、酷い喪失感に襲われました。 死んでしまいたくなりました。 そこで私は、「死ぬまで、今の私にできることを頑張ったら、来世で創作活動を心から楽しめる私になれないだろうか」と考えました。 創作活動で大きな成功を収めるかどうかは置いておいて、来世で創作活動を楽しみたいです。 現世で挫折してしまったけれど、強く心に秘めていることを、来世でまたチャレンジする、ということはできるのでしょうか?
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
初めまして。 気持ちが整理できずご相談させていただきます。 先月に最愛の母が逝去しました。 私が結婚を機に実家を出てから母は1人暮らしになり半年が経ってのことでした。 精神的に不安定な部分があり、身体も弱かったので定期的に実家に帰る、電話をかけることで常に気にかけていました。 ある日連絡が取れなくなり数日が経ち実家に向かうと腐敗し変わり果てた母の姿が発見されました。 吐血し血の海の中に倒れていて数日間発見されなかった母を想うと辛さ、悲しさ、悔しさが入り混じり自分を責めてしまいました。 気持ちが錯乱していた私を妻が支えてくれ、 「自分を責めてもお義母さんは悲しむだけ。 ごめんねじゃなくてありがとうって伝えてあげよう」と諭されずっとこの言葉を大切にしてきました。 妻や妻の両親、親族達に支えられながら喪主として無事母を見送りできたことは安堵しています。 今は遺品の整理を行ない当然ですが毎日母のことを考えながら日々抜け殻のように生活しています。 私の父は15年前に自死しました。 以来母は周囲の目を気にして心無い言葉で噂を立てる人たちに疲弊しながら生きていました。そんな母を励まし、時には責めながら2人でなんとか生きてきました。 一人息子の私の願いは母が安らかに静かに最期を迎えてくれることだけでした。 しかし現実はあまりにも無常で突然に母を苦しめながら奪い去りました。 検死結果を聞いても発見時には臓器が溶けておりこれ以上は調べられないとお医者さんからは伝えられました。正確な死亡理由も不明です。 死亡日時すらも推定でした。父が発見されたときも死亡日時は推定でした。 なぜ2人は苦しみながら亡くならなければいけなかったのでしょうか。 先に書きましたが父が亡くなってからの母と2人の人生は壮絶でした。数えきれないぐらい涙しぶつかり時間だけがほんの少し傷を癒やしてくれました。どれだけ他人に話を聞いてもらっても私たちにしかわからない痛みがありました。 その苦しんだ母も最期は苦しみながら孤独に亡くなりました。 運命だったんだよ、仕方なかったんだよと周囲からは言われますが頭では理解しようとしてもどうしても飲み込むことができません。 それでも父も母も苦しみながら亡くなることは運命だったのでしょうか。 脈絡のない文章で申し訳ないですがご教示のほどよろしくお願いいたします。
最近、仏教を勉強しているのですが、四念住における身念住がよく分かりません。 「体が不浄である事を観察する」という解説をよく見るのですが、そのままの意味で「体が汚い」と理解すればよろしいのでしょうか?もし、そうであるならば、何故その様に観察しなければならないのでしょうか? ご教授いただければ幸いです。
先日ある方の講演会で、人生には縦軸に充足感と孤独感不満で横軸に病気貧困と成功名声。 いくら成功名声を手に入れても、本人には孤独感や不満感が顔の表情に出て、何故か満たされない雰囲気がある人になるくらいなら、たとえ貧しくても病気を抱えていても人生に充足感が出ている人になりたいとおっしゃいました。 おっしゃった意味はよくわかります。 私には勿論、地位や名誉も有りませんし、今迄生きて来て人に話せる事も何も無く、人生に充足感が全くありません。 そして今は仕事も辞め、親の介護を担っています。 人様には介護をしてると言いながらも、私の心の中は心配を掛けた親だから介護をしなくてはいけないと言う気持ちと、もういい加減にして欲しい、今すぐに親から距離を置きたいと言う気持ちがいつも交錯しています。 知り合いからご両親が介護する事無く亡くなられたと聞くと、「羨ましい」「どうして私ばっかり」などと思ってしまいます。 何事にも一生懸命やれば充足感は得られるものでしょうか? それはその人間性によって違うものでは無いでしょうか。 すみません文章がまとまっていませんが、よろしくお願いします。
つい先日、父が心不全で突然亡くなりました。 最後に会ったのは5年前で、あるきっかけで父のことを遠ざけてしまい、会うことも、電話で会話することもなく、LINEがきても無視したり、こちらの用件のみ連絡するだけでした。 父のことを許せなかった気持ちと、本当は大好きだった気持ちが入り混じりとても辛いです。 葬儀に関してですが、父の経済状況が良くなかったので、母が最低限の事で良いと決めてしまい、親戚も呼ばず家族だけで火葬のみで、お坊さんにお経を読んでもらう事もなく骨になりました。 49日後は地元大阪にある一心寺に納骨をするようです。永代供養はしないとのことです。色々と調べてはいますが何が正しいかわかりません。 小さい頃はお父さんが死ぬ事が1番こわかったので父に伝えると、人は死んだら天女様と蓮に乗ったお釈迦様が迎えにきてくれるという話や輪廻転生の話を何度も聞きました。(うろ覚えなので間違っていたらすみません。) 母に確認すると父に宗派は無いと言っているので、どのように供養して良いかわかりません。家族はしなくても私は私なりに父の為に何かしてあげたいのですが、宗派がわからない為、どのようなお経を読んであげればいいのか分からないし、いくつ線香を立てるのかも分からないし、私の心の整理のためにもお坊さんの説法を聞きたいのですが、どこに行けばいいかもわかりません。 骨になってから一度も線香もあげずロウソクも炊いていないし、父が可哀想でずっと泣けてきます。 仏教のことや供養の仕方が分からず、どのように過ごせばいいのかわかりません。 取り乱した文章ですみません。何か教えていただけたらうれしいです。
どうか、この病気を乗り越えられる 素敵なお言葉をいただけないでしょうか? 治る気がしなくて、将来が不安で仕方ありません。 生き抜くために、お力を貸していただけないでしょうか…
私はスマホゲームをしており、知り合って2年になる男性フレンドと、先日両想いになりました。 私は19歳、その方は32歳で、まだ若くて未熟な私を温かく支え、励ましてくれ、私の不安やわがままも全部受け止めてくれる、本当に本当に優しくて良い人でした。 しかし、私の家ではスマホゲームやSNSを禁止されており、その方とお付き合いすることは難しくまして結婚は不可能です。 そして、一昨日、お互いの将来の為、私自ら、その方との関係を断ち切りました。その方は、さよならする最後の瞬間まで、私のことを想ってくれ、良い人でした。 その時だけは良かったのだと思いました。しかし、後からどんどん後悔の気持ちが湧いてきて、ただただ辛くて、もうすぐ模試があるから勉強しないといけないのに何も手につかずずっと布団に横になっています。もう既にブロックされており、相手の方と連絡を取ることはできません。死んでしまってもいいとさえ思います。失恋でこんなに苦しんだのは初めてなので、どうしたらよいか分かりません。あんなに良い人に、二度と出会える気もしません。