こんばんは。 日蓮宗のお坊さんとお付き合いをしているあひるといいます。 外国に住んでいる両親の友人が去年亡くなり、もうすぐ一周忌なんですが、 亡くなった日本人で仏教徒である奥様のためにきちんと供養をしたいと ドイツ人の旦那様がどうすればいいのか?と両親に質問をしてきまして、 彼に色々と聞いていたら、結局戒名、お位牌、そしてお経を彼のお寺にお願いする事になりました。 費用を聞くと、ご住職のお父さまが、戒名、お位牌合わせて家族割で6万でいいよと言ってくださったのですが、ネットでみたところ、通常戒名は30万程度からと書いてあり、それはいくらなんでも安過ぎるのでは?と悩んでいます。 まだ家族になってもおらず、しかも私の両親の友人の戒名なので、そんな破格の割引を頂いていいのか?と。 恐らく金額を聞いてもそれでいいと言ってくださるのだと思いますし、母は別の友達から「それは100万ぐらい払った方がいいんじゃないの?」と言われたそうで、ますます混乱しています。 このような場合、ご住職がおっしゃる金額のお支払いでいいのでしょうか。お布施は「気持ち」というのは分かっています。 ここで、それ以上をお支払いすると逆に失礼にあたるのでしょうか。 皆さんのご意見を聞かせて頂ければ幸いです。こんな下世話な質問で申し訳ありません。 よろしくお願いします。
私は今、お坊さんと真剣にお付き合いさせて頂いています。 彼の家がお寺で、遊びに行った事もあり、その際に私の見た目が派手だと言われました。 明るめの茶髪で、よくミニスカートにタイツなど履いてお邪魔していました。 彼のご両親から髪の色や服装について、もっと落ち着いた髪色で地味な服を着なさいと言われ、私は凄く嫌な気持ちになりました。 洋服が好きで、彼の前ですしオシャレもしたいし、まだ彼女という立場から、見た目全部をお寺に合わせなくても、いいんじゃないかと思っています。 「お檀家さんの目もあるし、お檀家さんから攻撃されないように、なるべく言われることを少なくしなさい」 「将来お寺に入るときに、その住職さんにもこの2人なら任せられるとアピールしなきゃいけないから、今のうちに誰に見られてもいいようにしなさい」 ご両親の言うことも分かりますが、どうも自分の中で納得できないのです。 後でも先でも、やらなければならない事は承知しているのですが、自分らしさを抑えて、好きでもない服を着ることに抵抗があるのです… これはワガママなのでしょうか? どうしたら気持ちを落ち着かせて、前向きになれるのでしょうか?
こんにちは。初めて書き込みさせていただきます。 私は現在仏教徒としての道を歩んでいきたいと考えております。 きっかけとして仕事などが原因でどのような生き方をすべきか悩んだり、死への恐怖について不安になったりした時、いつも自分を助けてくれたのは仏教の教えでした。 先日母からうちが新興宗教の元信者だったことを知らされました。 母は所謂二世だったのですが、今は脱会しており仏教(真言宗)へと改宗しています。 私は母親の告白から真言宗について興味を持ち、調べていくうちに大日如来様や弘法大師様の御心に惹かれ、真言宗の信徒として歩んでいきたいと考えました。 しかしどのように学んでいけばいいのかいまいち分かりません。 仏教はキリスト教やイスラム教のように洗礼を受ける必要がないと聞きました。母が真言宗なので私も真言宗という考えでいいのでしょうか。(父は多分別の宗派だと思いますが) また、仏壇を購入するなどして形から入るべきなのだろうかとも考えましたが、何が正しいのか分からないので、とにかく今は仏教に関する本や記事をたくさん読んでいるところです。 何から始めればいいのか、どうすればいいのか教えていただければと存じます。ご回答のほどよろしくお願いいたします。
こんにちは。 現在高3で、大学は家を出て京都の大学の仏教の学科を受験しようと思っています。 お寺のお家では無いのですが、高校が仏教系の高校で、授業で教えを学ぶうちに仏教をもっと詳しく学びたいと思ったため、仏教の方面への進学を希望しました。 学びたいことを学ばせて貰える環境に大変感謝しています。 志望理由書に将来のことについて書かなければならないのですが、 将来の夢が今までできたことがなく、大変困っています。 仏教を大学で学んだなら仏教に関係する職業も考えているのですが、お坊さんじゃなくても仏教に関われる仕事はどのようなものがありますか? 仏教の団体?の仕組みをよく知らないため、 教えていただけるとうれしいです。
こんにちは。 私は昔から内向的な性格で、人の社会の中でやっていくことが非常に苦手だと感じています。そのため、人との交流を避ける傾向があります。 最近では、その傾向が強くなってきたように思います。世の中との関わりを絶とうとしている自分に気が付き、しかし本当にこれで良いのか迷っているのです。 最近の私は、世の中に溢れている沢山のものから故意に自分を孤立させようとしている気がします。例えば… 私は、流行のものを知ろうとしないどころか、知ることを嫌います。私は、ビデオゲームを一切しません。私は、本や漫画も読みません。私は、好きだったテレビ番組もだんだん観なくなりました。私は、好きだった音楽も全く聴かなくなりました。私は、SNSを見ません。私は、友達が何かを勧めてきても、自分の世界を壊されたくないので、その新しいものを知りたくなく、拒絶します。… 何故なのか、自分なりに考えてみました。そうしたら、こんなことが浮かんできました。 1,世の中に溢れているものは、私には刺激が強すぎる。私は多分感受性の高い人間なので、楽しい事を知ってしまったら激しく舞い上がる。しかし、その後には反動で落ち込んでしまう。→だから、何も無い状態「無」の方が心が安定する。(と思っている。)だから、自分なりに保っている心の平穏を刺激物らによって壊されたくない。よって、拒絶する。… 実は私、近年仏教に興味を持ち始め、色々調べていました。私が心の平穏・無の境地に憧れているのも、世間から離れた所にいたいのも、そういう聞きかじりの知識から来ているのかもしれません。 しかし、私の今のやり方は間違っているようにも思います。 私のように過剰に世間との関わりを絶とうとするのは、病的でしょうか? 「関わりを絶つ」という目標に執着しているのでしょうか? 仏教的には、俗世間からの刺激あれこれを過剰に避けるよりも、俗世間の中にいながら受け流せるようになる方が良いのでしょうか? また、私はまだ「人々は何か世間で楽しいことをやっているぞ、いいな。」と他人が世間に溢れる刺激の中で暮らしていることを羨む気持ちも捨てきれていないのです。 この機会に、本物のお坊さんとして生活していらっしゃる方にぜひご意見を頂きたいと思い、質問させて頂きました。拙い文章でお見苦しいところもあるかと思いますが、ご回答を頂けたら嬉しいです。
こんにちは。前回は回答ありがとうございました。あれから日にちは経ってませんが、また、相談させてください。 あれから私は、改めてこれまでの罪を懺悔し、無財の七施を心がけながら生活しています。 しかしふとした時、自分のしたたくさんの罪の罪悪感に苛まれ、涙が溢れてきます。特に傷つけてしまった犬と、幼い頃の2回の万引きに罪悪感が止まらず、懺悔してもしきれません。 ここ最近毎日泣いています。泣いてもどうにもならないのに、すぐ泣いてしまいます。 その度に自分の心が弱くて愚かだと思ってしまいます。お坊さん達はこのような心をどう思いますか? また、どうしたらこの心を変えることが出来ますか?文章力がなく、上手く伝えられなくてすみません。 お忙しい中とは思いますが、アドバイス頂けたらと思います。
私は、今、日本の歴史や季語、しきたり等を勉強してみたいなと思っております。 今は春休み中で、 今後は似顔絵師のたまごとして活動します。 何ら、絵には関係ありませんが、 日本をもっと知りたいと思ってます。 理由は、日本に興味を持っている外国人との関わりを持ってみたいという気持ちもあるからです。 日本を知らずに生きるよりも、 日本を知って行きたいという気持ちも出てきました。 お坊さんの方々は、 なにか日本について勉強してみたいことはありますか??? 勉強してよかったなぁということもお聞きしたいです!
こんにちは、仏教に興味を持って勉強をしています。まだまだの知識ですが、聞いたことやこれまでの人生で、仏教は仏様とひとつになることを目指すものだと理解しています(正しいのかな、?)その意味で、瞑想とかは分かるのですが、仏様や他の菩薩様に祈る意味、拝む意味とはなんでしょうか、お坊さん方はお経を唱えたり祈ることについてどうお考えでしょうか? また仏教でも御守りやお札があると思います。それらのものにはどういった意味があるのでしょうか? 帰依して他力を祈るということでしょうか? 初歩的な質問で申し訳ないです。 どうかお教え下さい。
お世話になっておリます。 在家の人間が出家してお坊さんになることについて相談させてください。 私は現在、32歳の会社員として働いています。 昔から人よりいろいろな面で劣っていると思うことが多く、孤独感を感じたり、生きる意味がわからないなどがあり、出家するという事に強い興味がありました。(もちろん、出家したからといってすべての辛さから開放されるとは思っていません。お寺も組織ですし、人間関係の辛さ、修行の辛さもあるだろうとは認識しています。) 日々生きていく中で、どうしても何か大きな目的を求め続けてしまうのです。これは何の意味があるんだろう?いずれ死んでしまうのに、確実で変わらないことなんて無いのに、と考えてしまい、心に大きな穴が空いていてそこから生気みたいなものが抜けている感じです。 仏教や禅を本などでは学んでいますが、やはり体験にまさるものは無いのでは、と考えています。出家して修行したい、そうすべきなのでは?と考えることが最近増えています。 皆様の出家に至った経緯や、その時の心境、出家するということについて、ご意見をいただけますと幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。 以上
こんにちは。いつも楽しく・癒されながら拝読しています。 先日、お彼岸という事で、久しぶりに祖父と祖母のお骨があるお墓にお墓参りに行ってきました。 祖父母のことは大好きで、亡くなって7年くらいたつ今でも家族団欒の席で祖父母の話が持ち上がります。 仕事が忙しくてなかなかお墓参りに行く機会は作れないのですが、お墓の前で手を合わせれば、「おじいちゃん、おばあちゃん、家ではこんなことがあったんだよ」とか、たまには「お母さんがお父さんの所為で滅茶苦茶ふてくされているのでどうにかしてください」とか願ってみたりします。なかなか無茶ぶりをしているかなと自分で思ったりもします(笑) さて、そんなお墓参りですが、このサイトや他のサイトを見ていて、ふと疑問が浮かびました。 宗派によっても異なるのかもしれませんが、亡くなってすぐ、(少なくとも祖父母の場合の7年より前には)ご先祖様は生まれ変わってしまって、もう元々の家族のことは忘れて違う人生を歩んでいるものだという考え方があるのを知りました。 それでは、お墓にいって何かを報告しても、報告しているつもりの相手はそこにいないのでは?と思うのですが、当然一方通行なのでしょうか? それに、私はお盆やお彼岸の機会でもお墓にお参りに行けない時は、せめて仏壇に手を合わせるのですが、その場合仏さまは仏壇とお墓を生きている人が手を合わせる都合に合わせて瞬間移動しなくてはならないのでは…!? 是非その仕組みがどうなっているか教えてください!
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
お世話になります お参りのカテゴリーかどうかわかりませんがm( )m 今まで、年に1~2回でしょうか 有名な大きな神社やそこの隣にある お寺に行くことは今までありました ですが、近くにある小さなお寺には 入ったことがありません それは なんかお墓が沢山あって 檀家でもない人が入っていいのだろうかと 躊躇してしまうからです 神社ならお墓がなく なんか、こう圧迫感がないというか ( 自分の今の段階で、こう思っているのですが ) 入りやすいです この前は近所の小さな「神社」に初めて 行く機会があり 手を合わせてお賽銭をして来ました 朝早い時間でしたが 自分の前にも後にも 近所の方らしきご年配の方が お見えでした 質問なのですが お寺に行って 普通に手を合わせて お賽銭がしたいのですが 近所の小さなお寺に 気軽に檀家でもない人が入っても良いのでしょうか? 「 この人何しに来たの? 」言う 住職さんの目線は大丈夫なのでしょうか?? 気にし過ぎでしょうか? 実は 今軽い鬱なので お寺巡りもいいなあと思い どこのお寺に行こうかと OO市お寺と 検索したら結構近い所の お寺が出てきたので、行きたかったのですが 小さなお寺だったので入る勇気が持てませんでした そして、その時ここのサイトを知って 今ここでとてもお世話になっていますm( )m とても良いお言葉を沢山いただいて そのお坊さんのお寺に行きたいのです!! ですが 埼玉や愛知なので 遠いのですぐには行けません、、、。 話が少しずれましたが 近所の小さなお寺に 檀家でもない人が「 お賽銭をして手を合わせたい時や 、もしくは悩みを聞いてほしい 」場合に 入って行っても 良いのでしょうか? よろしくお願い致しますm( )m
母が62歳で亡くなりました。 「通夜も告別式も不要」「自分と父(私の祖父)は永代供養にして、祖父のお墓も終わりにする」と今年に入ってから言っており、ご住職にも伝えていたそうです。 母の永代供養については淋しいからと保留にしていて、相談が進まないうちに亡くなってしまいました。 母は金額的な負担とお寺までの距離を気にしていたんだと思います。 ---- ---- 私の気持ちとしては ・母を亡くして淋しい ・お寺が遠いので、頻繁に通うことは出来ない ・永代供養にするとしても、母の遺骨の一部だけ小さな骨壺に入れて、位牌と一緒に家に置いておきたい ・孫の事が好きだったので、私が母としていたように、命日や誕生日、お盆、お彼岸の他、ふと思い立ったタイミングで好きだった物をお供えしたりして身近に感じたい ・母が祖父のお墓参りを小まめに行っているのを見ていたので少しは大好きな母に何かしてあげたい ---- と思っていて…四十九日に母と祖父を永代供養にする前に小さな今風の仏壇の購入を検討しているのですが、以下の質問にお答え頂けないでしょうか。 ※母は浄土宗西山禅林寺派で戒名も頂きました。おそらく数代前からずっと同じお寺にお世話になっています。(母方) 私は長女で兄弟は無く、母の兄はキリスト教になってしまいました。 私の主人は仏教ですが、別宗派だと思います。 (相談できる親戚がおりません) 無知過ぎて、菩提寺の住職に相談前に少しは知識を付けたく。 ---- ・永代供養をした後でも、お家に仏壇と母の位牌、ほんの少しの遺骨を置いておいて良いのでしょうか? ・小さい今風のお仏壇でも、仏壇とお位牌を置くならご本尊は必須ですか?(仏壇のお店で聞いたら無しでも良いのではと言われました。) ・仏壇を置いたらご本尊の有無に関わらず、定期的にご住職をお呼びする必要がありますか? ・ご本尊が無く、母の位牌だけの場合お呼びする必要はないのでしょうか? (むしろご本尊が無いのにお呼びするのは失礼にあたりますか?) ・ご住職をお呼びする場合、お彼岸に亡くなったので毎年の命日とお盆の年2回と思っているのですが、回数が少ないのでお仏壇を置かない方が良いですか? ---- ご住職は仮祭壇しかない状態でしたが、初七日の法要にも着て下さいました。 七日ごとの法要はやめたため、次は四十九日となっています。
お仏壇の引越しの相談です。 祖母が数年前に亡くなり、今は空き家になっています。 お仏壇だけを残してお位牌などは県外で暮らしている母が持っており母が毎日供養しております。 しかし、その祖母の家を売ることになったので残していたお仏壇を県外の母の家に入れたいと母が言っております。 お仏壇には何も入っていないのですが、母も金銭的にあまり負担ができないので、 出来れば私がお仏壇を車に乗せて運んで来てほしいと言ってます。 私が運ぶか業者さんに頼むにしても、お坊さんを呼んで(浄土真宗本願寺派です)魂ぬきもしてもらった方が良いのでしょうか? 一応、業者さんにも聞いてみたら魂ぬきをしてくださいと言ってました。 私の車は普通車なので横にして運ばなければならないし、高速で片道4時間かかります。 身内のお仏壇とはいえ、車で横にして運ぶのも気持ち的にあまり良い気がしません。 気持ちの問題かもしれませんが アドバイスをよろしくお願いします。
父と母のお墓参り(階段を何段も上がった山のような場所で、区画にはお墓が20ほどです)の帰り、ふと目に入ったお墓とその隣のお地蔵様のような(恐らく子どもをまつっている?)が雑草で隠れているような状態になっていました。造花がいけてあったのですが、それも朽ちかけており、お水を入れるところには苔が生え線香立ても倒れていました。恐らく長い間なんらかの事情でお参りされていない状態だと思い、よかれと思い、もしかしたら宗派とか違ったりあるだろうけど、私には今時間があるのでお掃除させて下さいとお墓に伝えて草をむしり、お水を替え、自宅用に買ってあったお花を造花が入っていない方の筒にお供えしました(回収も責任を持ってしようと思っています)。そして、線香を立てて帰ってきました。 その後、ネットで調べたり友人から聞いて他人のお墓を参っても掃除してもいけないものだと知り、余計なことをしてしまったのではないかと反省しています。もし、そのお墓に眠っておられる仏様が寝ている子を起こされたような気持ちになったり、憤慨されていたらどうしようかと心配になっています。もし、このことが相応しくなかったことであれば、今後一切しないでおこうと思いますが、してしまったことに対してどのようにしたらよいのでしょうか。
お寺の後継者について悩んでいます。 私の家は両親と私の3人家族です。 ・私が専門尼僧堂に行く→2年の修業が必要で、おりるときは29歳に。結婚は?出産は?そもそも修行に耐えられるのか? ・お坊さんに婿に来てもらう→御縁がない。 ・父の代で終わらせる。 些細なことでもかまいません。 御意見をお待ちしております。
お忙しいところとは思いますが、相談させて頂きたく思います。 わたしの一族は曽祖父母から80年以上仏教系新興宗教にはまっております。 先祖供養を主眼に置いて、修行をすればお寺に頼らず戒名を書けるという団体で、まぁ、継続してお金を払えば「修行」が成り立つような団体です。 そのはまり具合は様々な部分に影を落とし、わたしの直接の家系だけでも祖母の洗脳(疑問を口にした幼き叔父を殴り倒すなど)、信仰に嫌気がさした祖父(マスオさん)との離婚、母子家庭化、貧困。 更にはその流れがわたしの母の代まで来て離婚、母子家庭化、貧困を引きずってきました。 無論、彼らはわたしにも信仰を押し付けてきましたし(非常に苦痛でした)、今でも押し付けてきます。 (わたしの名前も信者として登録されており「会費」を取られてるようです) 「あの団体は我々一族に不幸しかもたらさなかったのではないか?」と以前意を決して口にしましたが、彼らはただ黙るばかり。未だに団体独自のアイテム等を買って送りつけてきます。 わたしは親戚の中では宗教的に四面楚歌です。 わたしは仏教系の大学に入学でき、日蓮宗の教義に触れる事が出来た上に、twitterなどで様々な宗派のお坊さんのお言葉を聴き、親戚一同に浸透している「教え」が如何に仏教のコンセンサスから離れているかは判ります(先祖供養をおろそかにすると罰が当たって地獄に落ちる・悪い事は全て先祖、過去世からの因縁等々)。 実家住まいなら、今頃わたしの気が触れているのではないかと思うほどです。 とはいえ、血の繋がった間柄です。母だけでも最後には「バチ」の恐怖から逃れられるようにお釈迦さまの教えはそんなチャチなものではないと精一杯説得を続けるべきなのか、母は既に70歳近いので距離をとって愛想笑いだけしておくか迷っております。 ちなみに以前、再びやんわりと件の団体を否定したところ「お釈迦さまではなく曾祖母への信仰だ」とまで言い出しました。絶句しました。 「正しいと思って」説得するなりしてわたしも母も苦しむのでは、それは思い切り煩悩による苦しみだと思います。ですので「ほっといた方がいいのかな」とも思いつつ「そんな冷たいのもどうかな」とやはり迷っています。 この件についてお言葉を頂ければと思います。よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。最近、思うことがあります。 失礼を承知で単刀直入に申し上げますと、 「お寺の客層(とくに常連)、やべえ」 まるで、「〇ちゃんねる」のようです。まともな人もいますが、 やばい人の方が多いです。 自分より弱そうな信者を探して友だちになる振りをして近づき、 支配下に置いたり利用したり、いじめの標的にするソシオパス サイコパス野郎。 他宗派をバチボコに叩き散らかし、「俺たちこそ特別、俺たち こそルールだ」と言わんばかりの薄っぺらな、説法というのも 噴飯な講釈を垂らす僧侶。 神秘主義に傾倒して、(本来、現実ととことん向き合い、 しんどい事が起きても、物事が成立する条件、環境を 炙り出して現実的に解決していくと説いているはずの)仏教を 捻じ曲げ、拝んでさえいればいいと思い込んで、現実的な 行動を起こそうとしない怠け者。 たたりや呪いのせいにして、努力しようとしない奴。 これでは、ますます仏教が誤解されるばかりです。新興宗教 と大して変わらないじゃん。 他の信者(時にお坊さん)に対してマウンティング、 時代遅れな神秘主義の信奉… 精進努力を誓うはずの道場で正反対の行動に勤しみ、 人格が破綻、結果、現場に蔓延しているのは、妄信、魔境、無明… ちゃんとしたお寺さんもあるのでしょうが、私が行ったお寺の 数々は、冷静に振り返ってみると、全てこんな感じです。親鸞 さんの気持ちが、痛いほどわかります。 たまにちゃんとした人もいるけれど、基本多いのは、人格が ぶっ壊れたやべー奴。「〇ちゃんねる」かよ。先日など、 「生活保護費が下がるそうね。いいじゃない。みんなの税金で 食べてるんだから、働けるなら働いてもらわないと」 などと平然と抜かした奴がいて、さっきまで相槌を打っていた 信者さんたちが、静まり返るという事態も発生しました。 (ちなみに、障害年金がもらえず、生保を受給して就労準備を している人もいる。こんな発言をする奴が仏教徒だなんて) 最近は、山門や鳥居を潜るのが恥ずかしいくらいです。こんな 奴らと同類かと。 先生方のご高見を拝聴したく存じます。よろしくお願いいたします。
母方のいとこなのですが、法事で一家離散しそうなのです。 以後、わかりやすいためにA君と呼ばせてください。A君の母親と私の母親が姉妹です。A君の父親(私のおじさん)は、今では痴呆ですが、昔から問題のある人で、A君の母方の実家(私のおじいさん)に迷惑をかけてきました。さらにA君の父親の兄弟(私のおじさんではない)まで、母方の実家にたかりにきたそうです。 (痴呆になってもうちは迷惑かけられたんですけどね・・・) 今様の言葉でいうと「毒親」というのかもしれません。幸い、A君は、母方の実家がしっかりしておりましたので、飢えることなく、大学まで出ることができましたが、A君は父親の言動を信じたがため、人間関係がおかしくなったり、社会に出た後もいろいろトラブルを起こしてしまったようでした。 さらに幸いが重なったのか、A君には大学の先生と会社に入った後の上司がいろいろ教えてくれ、かばってくれたということなので(彼はよく感謝していると言っています)、社会人としてはうまくやっているらしく、今では私より稼いでいます。 さて、そのA君ですが、父方の祖父母の法事をするということで、「法事をするなら親子の縁を切る」と言い出したようです。なんか、A君の母親(私のおばさん)が強行しようとしているらしいですね。 彼の母親が、A君の祖父母の法事を強行したい理由はわかりません。 A君は、神仏を大切にしている方だと思うのですが、父実家の仏と宗派(浄土真宗らしい)だけは大っ嫌いらしいです。おそらく坊さん憎けりゃ・・・・のたぐいだとは思います。 また、A君が彼の祖父母を嫌うのは、父親やその兄弟にいやな目にあわされてきたからでしょう。 彼は、すでに荷造りを始めています。 A君はこんなにされても、親の面倒を見てきました。おそらく縁を切ったならば、A君の母親は、生活にも困るでしょう。A君とは付き合いが長いのでわかりますが、縁を切るとなると本当に出て行って、一生帰ってこないと思います。下手をすると会社なども辞めて、私とも会わなくなると思います。 ただ、昔、いつも泣いていた彼を思い出すと、彼の気持ちもよくわかります。 (当時は泣き虫とおもっていたのですが、大人になってからいろいろ知りました) どうしたもんでしょうかと言いたいのですが、人の家のことだし・・・・・。 すいません。誰かに聞いてもらいたくって。
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。