はじめまして この度、早産で子供を亡くしたのを期に、義父と夫とでお墓を建立する事になりました。 義父母は遠方に住んでおりまして墓は私達世帯の近く(都内)に建立したく探しています。 義父の実家(本家)のお墓は曹洞宗のお寺にありますが、今回候補に挙がっているお寺は天台宗です。 私の実母は、霊園でなく寺墓地なら同じ曹洞宗にしたほうがいいと言い、私もそれはそう思うのですが、義父母は全く信心がないので、私と母の意見に耳を傾けてくれません。もし、改宗するのであれば、何か儀礼的な事をすれば良いのでしょうか? 紆余曲折してようやく話が纏まりかけているので、早く納骨をしてやりたいと思います。 お忙しいところ恐縮ですが、アドバイスいただければ幸いです。
今年の初めに子供が生まれました。 私はとある会社の代表を務めており、小さい会社ながら仲間たちとともに利益を上げてきました。 妻もその仲間たちのうちの一人でした。 一生懸命に働き笑顔を絶やさないその姿を好きになり結婚、一年後に妻の妊娠が発覚しました。 私も妻もとても幸せでした。 妻は会社の事をとても心配していましたが、俺が2人分頑張るからと言い安心させました。 数日前会社の仲間たちと一緒に私たちの家で食事会をしていたときのことでした。 暫くは楽しそうだった妻の表情がどんどん曇り、気分がよくないからと寝室に籠り結局お開きになるまで戻ってきませんでした。 大丈夫かと尋ねると妻は子どもを抱いたまま泣いていました。 具合が悪いようではなさそうなので理由を聞いてみると、「もう私は仲間じゃないんだね」と言われました。 私も仲間たちも含めそのような扱いはしていません。 しかし妻は「誰も私を名前(社員時代のあだ名)で呼ばなくなった。『お母さんは大変だね』とか『お母さんは子供生まれて幸せでしょ、そのまま2人目とかいいよね』って言う。私は仕事に復帰してまた皆と一緒に働きたかったのに、もう会社に私の居場所はないんだなと実感した。」と言いました。 確かに思い返せば社員時代のあだ名で誰も呼ばなくなったし、私も仲間たちもいつのまにか妻は家庭に入ったんだからもういないんだと勝手に考えていました。 そういえば妻は復帰したいと何度か言っていた気がします。 でも私は3人目まで欲しいし仲間たちにもそう伝えているし、正直家庭に入ったほうが女性は幸せなんじゃないでしょうか? 男は外で稼ぎ女は家庭で子供を育てて簡単な家事をこなす。 これでいいじゃないですか。 私は妻の出産に付き添い、大変感動しました。 これが女性の仕事なんだと実感したんです。 肉体的にも精神的にも男が外で働くほうが理にかなっています。 妻は優秀な社員でしたが、女なんだしいつかは家庭に入るだろうと考え役職はつけていませんでしたし。 妻はあれ以来ずっと泣いていて、もう家庭内別居状態なんです。 なんで妻がそこまで社会復帰にこだわるのか理解できません。 仕事なんて男に任せておけばいいのに。 妻と仲直りし、完全に家庭に入ってもらうにはどうすればいいですか?
今、絶対に許せない人がいます。 もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。 仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?
好きな言葉(名言)はなんですか?
私は釣りが趣味で、友人や家族で行くのですが、これって悪い行為でしょうか。 釣れたものはなるべく持ち帰って食べるのですが、中には食べれない魚が釣れて、放してもそのまま死んでしまう事もあります。 釣りによって生活に楽しみがあるのも事実です。 そして、生活のために釣りをしているのではなく、趣味として釣りをしています。子供たちも釣りに誘うとそれを楽しみにして生活し、釣りに行けば楽しんでいます。良い面だけをとらえるなら部屋にこもってゲームばかりよりも良いのかとも思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
結婚も出来ず子供もいません。 好きな人には好きになってもらえない運命だったんです。 死にたいくらいの嘘つかれました。私には存在価値はないとわかりました。 死んだ後も苦しみが続くとか聞きますが生きてても苦しみは続きますから自殺する事に決めました。自殺した罪を死んでから償えば極楽浄土にいけますか?
殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。 罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか? とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
お盆が近づいて今度法事にいくのですが、焼香の仕方はルールがありますか? ほかの人のを見ていると、指でつまんで顔に近づけて元に戻すというのを2,3回繰り返しているのでそのまねをしているだけですが。 意味とか由来とかなるほどね~みたいなわかりやすいお話もあれば一緒に教えてください
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。