hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 7473件

無常に気付き忘れないためには出家しかないのでしょうか

回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?

有り難し有り難し 41
回答数回答 3

寺院の跡継ぎについて

私は寺院の長女として生まれ、育てられてきました。今は社会人として実家から離れたところで一人暮らしをしております。 少し離れた弟と妹がおり、弟が生まれてからは弟が寺院の跡取りとして育てられています。しかし、その弟が反抗期で、寺院を継ぎたくないと言っています。 私自身、寺院で育ったからと言って特別いい思いをしたこともなく、むしろマイナスにしか感じてこなかったので弟の気持ちはよく分かります。 そのことについて住職である父は、「弟が継がないのであればこの家を出ていかなければならない」「もう俺の代で終わりか」と悲観的な事も言えば、弟に対して強く当たったりもしているようです。 そして、この前父と二人で話し合った際、「兄弟三人、平等に継ぐ可能性がある」「お前だけが先に結婚して跡継ぎ問題から一抜けするのはずるい」というような事を言われました。 しかし、男兄弟がいるにも関わらずどう言う形であれ女が寺院を継ぐというのはあまり受け入れられない気がします。 また、生まれた頃から跡取りだからと父に優遇されてきた弟を見て、苦しい思いをしてきたこの何年間は何だったのかという気持ちにもなります。 何より、歳の離れた兄弟が進路を決めるまで待っていたら、自分の人生がめちゃくちゃになってしまうと思います。 父の代まで続いてきた寺院を、弟に継いで欲しい気持ちは分かります。私と妹にも継ぐ可能性はあると言いつつも、弟に継いで欲しい気持ちが一番だと思います。 ただ、父の弟に対する当たりが強く、それでは嫌われても当然だと思う事も多々あります。弟の気持ちも痛い位に分かります。 このまま穏便に、誰も嫌な思いをする事なく解決できる方法はないのでしょうか。

有り難し有り難し 56
回答数回答 4

生きる意味は正しく死ぬ為

私は今23歳です 生まれてから今日に至るまで、生きていて楽しいと思った事はありません 楽しくない人生をこの先何十年も過ごすなら、今死んだ方が楽だ この結論に至るまでに時間はかかりませんでした しかし、自分が思っている程、事は上手く進まず 何だかんだで今も生きています 親に恵まれなかった為に、幼少から耐えがたい苦痛を味わっても尚、私は必死で生きようとしてきました 人がふわふわと何も考えず生きていられる期間は、私の人生に一時も有りませんでした そんな時、ふと「生きる」という執着、固執、の概念が無くなり その瞬間、所謂「ガス欠」になったのだと思います 大人になっても「親」という存在が残した爪痕は残り続け 私の選択肢は限定され、人生の分岐は無に等しいです スタートラインが人より後ろでも、人と同じ位置でスタートする為に、ラインを引き直す努力をする方は沢山居ます しかし、今の私はその気力が無駄に思えてなりません 困難を乗り越えた先に待っているのは その労力に見合った未来である と、誰かが断言したとしても その保証はどこにも有りません 皆、なんとなくで生きているこの世で、そんな保証を求めるのは間違いでしょうか? フィクションの世界なら、悪役ですら大義名分を貫いて「意味のある死」を迎えます そんな信念が有れば、私の人生にも「生きる意味」を見出せるのでしょう しかし、「生きる」為にはその大義名分も曲げなければならないのが現実です そんな現実を生きるくらいなら、私は今死にたいです 自死を止める理由が無い、止めた後の責任を取れない にも関わらず、他人の人生に干渉して、世論で武装した無敵状態の赤の他人が、世の中には溢れています そういう方は何も「生きる意味」を答えられません こういう無責任を良しとする民意が大嫌いです ここにこんな事を書き綴った所で、恐らく 私の自死を止めるだけの回答は得られないのは明白です 自死を止めて欲しい訳じゃない どこかで、こうして口にする事で、生きるだけの目的を、だれかの言葉で偶然見つけられるかもしれない そういう、淡い期待をしているのだと思います 私の人生には生きる意味も、生の実感もありません 今生きている人達は、何故、何の為に生きているのでしょうか?

有り難し有り難し 54
回答数回答 4
2021/08/03

「モノ対象」の、思い通りにいかない怒り

お世話になっております。 普段からhasunohaで様々な問答を拝読しておりますが、私がその問答検索でよく用いるワードは「怒り・いらだち・イライラ」です。 人間関係で苦労されている方がほとんどですが、今回は「モノ」相手のお話ということで、お知恵を拝借できれば幸いです。 何かが引っかかる、倒れる、落ちるといった、不本意かつ都合の悪い、想定外の現象が昔から大嫌いです。 器に水を注ぎ入れる →きちんと器が受け止めてくれることを期待する →ところが気がつけば卓は水浸し →どうやら器のどこかにひびが入っているようだ ここまでが事実であり、これ以上自分で余計な感情の修飾をしない、「妄想」しないことが最善だと学びました。 そう頭では理解したつもりでも、怒りに火が付いてしまいます。 その火の付き方は、 「○たばれよ」「ぶっ○すぞ」「お願いだから○んでくれ」 これらの言葉を、心の内で自動的に吐き捨てます。 こういった毒を含んだ言葉で脳を瞬間的に麻痺させないといけないくらい、毎度毎度日常のことでショックを受ける臆病な心です(せめて口には出さないよう留意しています)。 先述の言葉を意訳すると、 なんで俺の邪魔をする! 余計な仕事増やしやがって、この役立たず! 水すら保てないなんて、ただのゴミだ! 無生物の分際でイライラさせやがって! 何事も思い通りにならないのが常。 思い通りにさせようというのが、人の、私の煩悩です。 それでも、他人が思い通りにならない現実と折り合いをつけるのに日々精一杯で、「モノ」相手にまで余裕が持てていません。 こういった時は呼吸を数えるなど、身体感覚に意識をすり替えるのがいいのですよね。 ただ日々の仕事の流れであったり、台所で何かやりながらだとなかなか手を止めることが難しく、実践できていません。 これでも昔に比すれば八つ当たりしなくなっただけ、成長した方なのです。 それでもまだ、無駄に反応するばかりの心を持て余しています。 いい年齢の大人のはずが、心はいつもささくれだち、不安定に波打ち、せめてもとそれを周囲に悟られぬよう努める日々の中、他ならぬ自分自身が苦しい思いを抱えています。 誰も幸せにならない悪癖は卒業し、ゆったりリラックスして生きていきたいです。

有り難し有り難し 32
回答数回答 3

骨壷に水がたまる件について

父が亡くなり、一周忌を迎えるにあたって納骨することになりました。 いろいろと調べているうちに、「お墓に納骨すると骨壷の中に結露が生じて水が口いっぱいまで溜まる」、「骨壷を開けてみたら水がいっぱい溜まってました」という内容のものを多く見つけました。 現在、父の骨壷は陶磁器の切立で底に穴は開いてなく、ふたの周囲はテープでぐるりと留めてある状態です。購入した骨壷メーカーさんに問い合わせたら20~30年で水がたまるでしょう、とのことでした。ほかの骨壷屋さんにも問い合わせてみたら水がたまるのは普通のこと、と教えていただきました。 でも水がたまるのを知った以上、何か対策をしたいです。 『水がたまらない骨壷(素焼きや乾燥性の高い石を使ったものなど)』が販売されているので、入れ替えを行いたいと考えています。 お墓の場所は神奈川県横浜市で、湿度は平均的だと思います。 洋墓のスタイルで排水溝はありますが、通気口はありません(構造上作ることができないのと、雨が入るので一時期流行ったけど最近は作ってない、と墓石屋さんの説明でした)。 カロート内は四方が御影石、その左右外側は土で表面には芝生が植わり、骨壷を安置するところはサラサラな砂です。ちなみに横一列で他の方のお墓と連なっています。 午後2時ぐらいまではだいたい正面から陽が当たり、背面が高い壁になっているのでだんだんと陰ってきます。 知りたいのは 1、 陶磁器の骨壷の場合、そのほとんどは水がたまっていると考えてよいか。 2、 父の現在の骨壷で納骨すれば、やはり水がたまる可能性が高いかどうか。 3、 「水がたまらない骨壷」に入れ替えをするなら自宅で行ってよいか。 その時に注意することなど。 4、 そもそもお骨の入れ替えをするなんてもってのほか、なのか。 質問が多くて申し訳ありません。 インターネットで調べたり、業者さんに電話で問い合わせて確認したことを改めて質問してはいますが、お坊様のお話を聞かせていただきたいと思っています。 このたび初めてお墓を作り、納骨後の状態を知る術がありません。 他になにか気をつけたほうが良い点などがありましたら、 何卒ご教示よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 47
回答数回答 4

殺生についてどう思われますか?

仏教では動物の殺生は禁止されていますよね。 私も殺生するのは心が痛みますし、好みません。実際、つい最近までヴィーガンでした。 ですが、 「私達が殺して食べる動物も他の動物を殺して食べている。自然界じゃ楽にとか優しく殺したりなんかしない。私が殺生を拒否するという事は、生を尊んでいるようで、実は生を拒否しているんじゃないか。生死から目を背けて、向き合っていないんじゃないのか。」 と、ふと思いました。 いくらヴィーガンであろうとも、歩くとアリは殺しますし、洗濯するとダニは死にます。 もっと言うなら、植物だって生きているのに、それは良い事だと言って食べます。 革製品を使わないにしても、ポリエステルや綿や麻だって、科学薬品やゴミ処理によって環境を汚しています。それが巡り巡って、多くの生き物を殺しています。 詰まるところ、ヴィーガンもミートイーターも、何かを殺して生きている事には変わりないと思います。 ヴィーガンを経験して考え至った事は、 「自分の為に殺された命に対して感謝と尊敬を忘れず、謝罪は絶対にしてはいけない。自分の為に死ぬ生き物に対して、自分が殺す覚悟を持てないなら、自分が殺されても文句も言えない。」 と痛感しました。 凄く詰まるところ言うと、人も動物も植物も命の重さは一緒であり、人を殺して食べても、動物を殺して食べても、同じ事だと思います。 法律で赦される事でも、何かの命を奪った事実は同じだと思うんです。 だからといってむやみやたらに命を奪いたくはありません。自分の手で助けられる命は救いたいし、環境だって少しでも良くなるように努力したいです。 ちょっと話が逸れますが、アメリカのスキープレーヤーのガスケンウォーシーという方は、平昌五輪の時、韓国の食用犬の牧場を買い取り、ワンちゃん達をアメリカで里親に出したそうです。 エゴだと言う方もいますが、彼は勇気ある人だと思います。 これらは全て私の考えであり、いち意見です。 誰かに強制する気もないし、否定もしません。 ついさっき、少し思う事があったので、自分以外の方のご意見を聞いてみたいと思い、ご相談しました。 殺生について、皆様のご意見ご回答お待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 30
回答数回答 3

滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 49
回答数回答 4

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ