カテゴリがわからなかったのでカテゴリ違いでしたらすみません。 人は必ず老いて死ぬというのが仏教の基本にあると思うのですが、そしたら、子供を産むということは、子供を殺すということですか? 人は生まれた瞬間から死を背負うことになると思います。死を背負わせるということは、殺すというのと同じことですか? 純粋な疑問です。誰かを不快にさせてしまったらすみません。
私には心から死んで欲しいと思ってる人がいます。 その人は私の家族の元夫です。数年前に私の家族が亡くなった後、好き放題に生きています。遺品やお金を全部持っていったくせに、子どもは放りっぱなし。自分は違う女と再婚(なんなら亡くなる前から浮気してた疑惑あり)。 本当に死んで欲しいです。 ネットで「死んで欲しい人いる」と検索すれば「人の死を願えば自分に返ってくる」「嫌いな人ほど幸せを願うべき」など綺麗事ばかり。実際、殺害計画を本当にしてる訳でもなく、死を願ってるだけなのに、これは悪いことなんですか。 悪いことばっかりしてるクソ人間ばかり幸せそうに生きてる。不公平だと思いませんか。本当にクソ人間は将来罰が自身に帰ってくるのでしょうか。 教えていただきたいです。 気持ちのまま書いているので読みにくい内容ですがよろしくお願いします。
高校生です 私は中学生の頃からずっと死ぬのが怖いです 私はこれまでの短い人生の中でも色々と悪いことをしてきました。嘘もつきましたし、人を傷つけたこともあります また、幼い頃(幼稚園生頃)にお店で量り売りとして売っていたチョコレートを一粒こっそり食べてしまったことがあります。あの事をずっと後悔しています 沢山悪いことをしてきたと思います 私はきっと、死んだら地獄に落ちてしまうことでしょう。祖母は「絶対天国に行けるからね」と言ってくれますが、それでも確証がありません いえ、地獄に落ちるかもしれない、それ以上に怖いことがあります それは、死んだら“私”が無くなってしまうのではないかということです 私は、私がこれまで積み上げてきた物を失うことが、自我が無くなってしまうことが怖いです 今、こうして悩み、悲しみ、笑い、怒り。そんな感情を抱いている私が消滅するかもしれないということが、本当に怖くてたまりません この恐怖は一年に五回程度湧き上がってきては私を悩ませます。怖くて怖くて、死後のことを思うと私は涙が止まらなくなります ですが、周りの大人は私のこの悩みを「くだらない」「大人になればそんな悩み薄れる」と言ってまともに取り合ってくれません。私は“今”の対策が知りたいのです。大人になってから、なんて待てません 死ぬのが怖いと言いながら、不老不死になりたいかと聞かれると困ります。永遠の命なんて寂しいですから この悩みの解決策がわからないままです 今も苦しみを堪えながらこの文をうっています 誰か、私を助けてください カテゴリー等、間違えていたら申し訳ありません
以前よりお世話になっております。 私は常に死が怖く、近頃は恐怖感と絶望感が以前より一層強いです。恐怖に襲われると自分を殴ったり、突発的に大声をだすなど、パニックになります。 そこで、どうにか恐怖を減らしたいと思い、仏教を中心に勉強しているのですが、勉強中は強く死を意識してしまって恐怖でおかしくなります。 私は死=自分や(今私が五感で感じている自分自身の感覚)世界の消滅と強く感じており(この認識を変えようと勉強していると、パニックが起こり‥.の繰り返しです)、いつか消滅するのに今は存在するという状況が、本当に全く理解できないことが引き金になりパニックになります。 存在とは空であり、縁起によって仮に成り立っている、と以前ご教示頂きました。理屈はわかるのです。他にもたくさん仏教について、今までご教示頂いています。 それでも、世界がある、そして自分がいる、自分も世界もいつか消えるという恐怖感には、私の今まで蓄えた知識では到底太刀打ちできないんです。 死の恐怖は、生物の本能として当然だと理解しています。でも、本当につらいんです。恐怖を消してしまいたい。毎日動悸と自分のうめき声で目が覚めて、「生きている!じゃあいつか死ぬんだ!死にたくない!」と絶望するのが、本当につらいです。 生まれなきゃこんなに辛い思いはしなかったはずだと、思わずにはいられません。最後は絶対死ぬのに、生まれるなんて残酷です。 私、どうしたらいいですか。 毎日、自分が世界に存在していることを認識するたびつらいんです。恐怖を減らす為に勉強してるのに、恐怖感は増幅するばかり。 起きていても、眠るのも、目が見えるのも、全部怖いです。それらは全部消滅するものだから。消滅ではなく変化だとしても、「何に変化するのか」わからないことも怖いです。来世があって、虫になったら、今日見た蝉のように踏み潰されるのが怖いです。私はいつか消滅する存在だなんて、理解しようとすればするほど、残酷すぎて怖くて、つらいです。 この、「絶対にわからないことへの恐怖」へ、どうやって立ち向かったらいいですか。もう、本当に、本当に、怖くてたまらないんです。 乱文で感情的で、本当にすみません。以前からご回答にお時間を割いていただいているのに、成長できていなくてすみません。 お時間ある時で構いません。どうか、助けてください。本当にすみません。
大動脈破裂にて、70歳で父が急死しました ほんの10分程、母が父の側を離れた時に倒れ、帰らぬ人に… でも、顔は穏やかで、納棺師の方からは「体が硬化せずに滑らかです!苦しまなかったと言う証拠ですよ〜」といって頂いたのが何よりの救いです ですが、母には後悔がひどく自分ばかり責めて、どうにかなりそうです。 周りから呆れられるほど、一日中どこに行くのも一緒だったので、ショックも計り知れません。 しかもお店の1つもない田舎で、父にあちこち連れて行ってもらえていて暮らしていたため一人では厳しい…のに、私(娘)や孫と小さい家でも借りて、一緒に住もう!と提案しても、田舎にいるの一点張り!お骨もずっと手元に置きたいというし 現実、墓を買わないと行けませんが、すぐに買える余裕がなく49日には間に合いませんが、どのくらいまで手元に置いても良いものなのでしょうか? そもそも父は、死んだ事に気付いているのでしょうか?(私は若い頃、心肺停止で臨死体験をした際に、暗闇の中から祖父が現れ、付いて行こうとしたら子供が居るんだから!と言われ、ハッ、として戻されました、あの世には、その続きの世界があるのかな?) 日々の生活の中で仏様とは、どう接したら良いのでしょうか? とにかく、私が父と母に出来る事、言ってあげられる事がありましたら、ご指導よろしくお願い致しますm(__)m 初めての仏壇で、日々のルールさえ、あまりわかっていません。父に何をしてあげたら? 仏様が、喜ぶ事、悲しむ事などなんでも教えて頂ければさいわいです お忙しい中恐れいりますが、よろしくお願い致しますm(__)m
10年ほど前に高校生だった娘を自死で亡くしました。 よく“出会えた事にありがとう” “私の子供でいてくれてありがとう” という言葉を耳にします。 私もそう言いたい! でも娘は生きているのが辛く自ら死を選んだ… 死の数ヶ月前「なぜわたしを産んだの?」「わたしは生まれて来たくなかった」「いつ人生を終わらせるか考えてる」と娘に言われました。 娘が生まれた時の様子、みんなが喜んだ事を伝えましたが…娘の心には響かなかったのですね… “生まれたくなかった”子を勝手に産んだ私が “ありがとう”なんて言うのは 自己満足?自分勝手?娘を苦しめて死なせた私は感謝もできない…。 亡くなった娘とどうやって向き合えばいいのか もうずっとわからない。 もうこの世で充分苦しみ 怖く 痛い思いをして亡くなったのだから 今は暖かく 優しく 明るく 穏やかな場所で娘の魂が癒されている事のみを祈る日々です。 “ありがとう”はやはり言うべきではありませんか? 自死した魂は成仏できないのでしょうか? …もうすぐ命日です。
先日会社を解雇同然でやめさせられました。 自らにも反省すべき点は多々あるのですが、熱と時間をかなりかけていたのもあり未だに心の置き所が落ち着いていません。 希死念慮も当然のようにあれば、その会社を呪ってしまうような気持ちさえ起こることがあります。そんなことしていても時間の無駄だとわかっているのですが、この感情はどのように消化していけるのでしょうか?
最近、死後の世界について考えるようになりました。 小学生の頃、戦争に興味があり(※好きなわけではない)色々と調べていました。 そして、死について知りたくなりました。 相談その1自分は死後の世界があって欲しいです。でも、確かかどうかは誰にもわからないので怖いです。気持ちを和らげる一言をください。 相談その2自分は死について深く考えていますが、他の周りの人はあまり考えないのですか?また、お坊さんでも死は怖いですか?
遠方の家族が危篤状態です。会いにいった方がいいのかもしれませんが、死が目前の人と会うのが怖く、また帰省して沈んでいる他の家族と過ごすのも辛いと思ってしまいます。 自分の心を守るためには遠くから安らかに過ごせることを祈っていた方がいいと思います。こんなことを考える自分が最低だと思いながら、かなり気持ちが滅入っています。どうしたらいいのかわかりません。
私はうつ病を患っています。 今まで私は物事に対して終わりがあるから頑張るのかなと思っていました。結果があるから、目標というゴールのようなものがあるからこそ、人は生きていくんだと思っていました。 しかし、死について考えるとどんどん苦しくなります。人には色んな考え方があって死後の世界がないという人もいれば、あるという人もいます。私はどちらでもないというか、どちらを思っても自由だと思っています。 ただ、わからないものに対してすごく恐怖心を抱いてしまいます。もしかするとこうなるかもしれないと考えると苦しいです。死んだ後ももしずっと続くなら、おわりがないのかと考えるとすごく怖いです。みなさんはどのようにお考えですか?答えがあるものだとは思っていませんが、考えをお聞きしたいです。
初めまして、質問させていたただきます。 つい先日、祖母が急逝しました。浴槽で孤独死していた所をデイサービスの方が通報して発見してくださったようです。 祖母は身体は強い方ではなく、生活習慣病等もありましたが、死の当日の数時間前の電話の様子では元気そうだったらしく、午前中には運動に行ったりしていたそうです。 実は、祖母の死の前日に、私は自転車で「ポケモンGO」をやっている最中、原木山妙行寺という日蓮宗の寺の山門の前まで立ち寄り、特に参拝や敬う等もせず、そそくさと帰ってしまったのですが、祖母は浄土宗なので、こちらの寺からお怒りを受け代わりに祖母が巻き込まれて亡くなってしまったのではないかと考えてしまいます。ご意見お願いします。 それともう1つ、実は私の家系は代々、死ぬ間際の行動に特徴があり、亡くなっている祖父も、死の一週間ほど前に久しぶりに故郷に帰り、普段は合わない親戚一同に挨拶をしてから帰り、その後突然死しており、祖母も死亡した日の前日に、久しぶりに祖母の弟と電話で話をした、ということを話していたり、死の数日前から遺産の整理をしようとしていたりといった行動をしていたそうです。 これらの行動は死期を悟っていたという解釈をして良いのでしょうか。また、突然の死でまだ心の整理が付かないのですが、どのような心持ちで葬儀に出れば良いのでしょうか。 質問が多くなってしまい申し訳ございません。よろしくお願いします。
お互い社会人になり遠距離に。 彼は私をとても好きでいてくれてそれは大事に大切に、それは尽くしてもらった。周りからも最高の彼だと褒められた そして私はその愛情にあぐらをかき我儘放題 それでも彼は愛してくれた。私も彼を愛してた。 そしてプロポーズ。勿論Yes心から嬉しかった でも本当はお互い社会人になりたて。余裕も貯金もなく、親も反対で結婚する状況じゃなかった。覚悟もなかった。ただ急に遠距離になった寂しさにはやく一緒になりたかった。何より私の心が限界だった。だから彼はプロポーズしてくれた。でもやはりすぐに結婚という事にはならず、彼の仕事的にもそういう状況ではなくそのまま1年。 そして突然別れを告げらた。 私からしたら突然だったが彼は悩んでたんですね 仕事を頑張りたいと言われたが、本当は好きな人(もう付き合ってたのかも)ができたみたい。私の我儘に嫌気がさしてたんですね。 でも私にとっては突然で理解できなくて苦しくて泣いて泣いて縋ったがNo どんなに私が訴えてももう何も響かないようでした。 私は少しも彼の心の変化に気付いていなくて、彼の心変わり、彼と誓った未来がなくなる事が理解できなくて、泣くことしかできなかった。 どんな自分も無条件に愛されてると信じきってた自分が情けなくて恥ずかしくて。そんなわけないのに。 彼がどんなに素敵な人か、優しい人か、大切かわかっていた筈なのに。 なんでもっと大切に素直に愛せなかったのか。自分が許せなくて なのに裏切られたと感じてしまう自分もいて。彼が憎くて死んで欲しいと思った。死にたいと思った。そして死のうとしてた時に友人が自殺。物凄い衝撃だった。人の自殺に直面し私は生きなくちゃと思った それから1年。 戻ってきてという想いと深い憎悪が交互にくる。 あんなに大好きで大切で、心から一生一緒にいたいと思った彼をなぜ傷つけることばかり、何故どんな私も愛し続けてもらえると思っていたのか。馬鹿すぎて後悔と涙が止まらない。 何よりあんなに怖いくらい盲目的に私を好きだった気持ちがなくなるほど傷つけたのかと思うと本当に申し訳なくて。 それでも彼と一緒に生きていきたくて 私は彼を忘れたくない諦めたくない けど彼はもう帰ってこないから… やはり死ぬことばかり考えてしまいます
祖母の死から二年経ちます。 それまで親が相続の関係で揉めていたので怒りしかありませんでした。 遺言状を真ん中の叔母が書かせて全財産を真ん中の叔母に託すという趣旨を書いてたのが見つかって、叔母が牛耳ってたので目茶苦茶でした。 弁護士に父が相談して何とか取り分は取れたようです。 それが解決し半年たった今頃急に涙が出てきて、寂しい気持ちが拭えなくなり、何故か心が荒み自暴自棄になりそうです。 子供の頃はお世話になってた祖母なので、その優しい祖母の姿と、叔母に言いくるめられた祖母の寂しさのようなものと、叔母への怒りと恐怖と人間不信とぐるぐるしてしまって、ヤケクソになりそうです。 後、疎遠になった好きな人も難病の母の介護をずっとしていて、その人に対しても何だか嫌になってきました。というか、この祖母の死すら乗り越えられない私がその人とも今後関わる機会かあったとしても向き合える気がしません。このまま疎遠のまま逃げ出したい気持ちと、別にその人は悪くないのになという気持ちと半々です。 本当は母や上の叔母が一番ショックだろうに自分のことばかりで、そんな自分も嫌になります。 いとことも叔母の関係でギクシャクして、昔はとても仲良しだったので虚しいです。 ただ、今までその問題を仕事でがむしゃらに消してたのがプツッと糸が切れたように放心というか、悲しさ虚しさしんどさがどっと押し寄せてきます。一気に仕事どころじゃなくなってしまいました。 明日戦争で私が死ぬとか、明日私が病気で死ぬわけでもないのに何悶々としてるんだろう、という想いも消えないです。 他にも去年別の祖母を介護したあと入居して、それも今頃寂しさや虚しさに繋がっているかもしれません。 習慣のように仏壇でお礼をしてましたが、今思うと最近は理由がわからないまま強迫観念のような感じでやらないと気がすまない感じでした。 広い意味で老病死への向き合い方、乗り越え方を教えてください。 (両親は余りにも淡々とお金の手続きを済ませた、それ以上は話ししたくないという感じだったのでお坊さんに相談しました)。
今年で80歳になる母のことなのですが。 鬱で ずっと精神科の病院に 入院していたのですが 認知症になってしまい介護施設に入りました。 施設に入るにあたって いろいろ説明をしてくださってた時に もし万が一の時の延命治療は どうするかを聞かれました。 人間誰しも死は訪れるものですが 母の死について考えたくなかったので すっと考えないようにしていたのですが 考えないといけない時が来てしまったのだなと 思いました。 とはいえ余命宣告をされたわけでもないし 今は命が危ない状況ではないので どういう心持ちでいたらいいのか 自分でもわからずにいます。 母には元気でいてもらいたいし でも いつかは死を覚悟しなきゃいけない時が 来るのかと思うと母を失うのが怖いです。 どんな心持ちでいたらいいのでしょうか。
この間も相談させていただきました。 恩師の末期ガンについてです。 どんどん悪くなり見るからに弱っています。 痛みに耐える日々、私にも痛みに耐えるくらいなら死にたいと訴えることもあります。 以前相談させていただいたときに、私の気持ちを 伝えるのがいいとお答えいただいたので、 プレゼントに手紙を添えて渡しました。 出会えたことは人生の宝物であり、 感謝しかなくて、大切な存在ですと。 大好きですと。後日、メールが届いて、 プレゼントありがとう、1番嬉しかったのは 手紙ですと返事がきました。 そして、その手紙をもし私が死んだときに棺の 中に入れるように息子に頼みたいのですが、 いいですか?と。私は胸がいっぱいになり 涙が止まりませんでした。私の大切な、 大好きな人が、余命宣告をされてから 弱っていく姿、苦しむ姿、自分の死を受け入れて遺言などを作成している姿を見ていると、 なぜかこの人がと思ってしまいます。 あの人と変ればいいのにとか、嫌いな人が ますます嫌いになってしまうというか。 間違っていますし、誰にでも死は訪れます。 こんな風に思う自分がいやです。 でも思ってしまうんです。 そしてやっぱり私にはまだ受け止める覚悟ができません。怖いんです。 来週、改めて残された時間や今の状態を 先生と話すそうです。結果は私にも教えてくれます。とにかく怖いです。 恩師がいなくなった世界がこわいです。 失うなんて考えられません。 でも私だっていつ死ぬかわかりません。 そんなこともわかっています。 ここで相談して回答をいただいてから 何度も何度も読み返し、気持ちを落ち着かせて きましたが、本当に死が迫っているんだなと 実感させられるとまた怖くなってしまいました。 アドバイスください。お願いします。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
お腹が痛い。胃が痛い。吐いた。 同居している男性が、このような症状を私に訴えます。1年以上前からで、状態には波があり痛まない時期もあるようですが、私から見てもかなり辛そうです。痛みが酷いときは食事もとれず、体重もだいぶ落ちたように思います。 私としては、病院に行くのが一番いいと思いそのように伝えるのですが、頑として行こうとしません。 病院に行っても治らない、医者は何もしてくれない、行くのは時間とお金の無駄。それに俺は長生きなんかしたくない、早く死にたいんだ、と言います。 いい大人なので本当に耐えがたい苦痛であれば、自分から病院に行くとは思います。 しかし、お腹が痛いと体を折るようにして寝ていたり、何を食べたら元気が出るんだろうと、ションボリした顔でつぶやかれると何とかしてあげたいと思ってしまいます。 もう、市販の薬で痛みは治まらず、痛みを訴えられても困るばかり。だから病院に行こうと促してもケンカになり、なすすべがありません。 どうしたら彼は病院に行く気になるでしょうか。
私が死ぬのが怖くなったきっかけは 太陽が数億年後には爆発してなくなり 地球も滅ぶと書いてある記事を読んだことです。 その記事には太陽が爆発する時には 自分達は生きていないのであまり関係ないと 書いてあったのですが それを見て、全ての命はやがて死ぬのだと はたと気づいてしまい それまであまり気にしていなかった 自分の死というものに対して 強烈な恐怖を感じてしまうようになりました。 それ以来何をしていてもどこかで 死の恐怖というものがチラついてしまって 心の底から楽しいと感じることがなくなりました。 また自分や今、関わっている人達が 将来死んでいくと考えると、とてもやりきれなくなり 今を頑張っていることの 意義を見いだせなくなってしまいました。 この状態はとてもつらいのでどうか助けてください
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。