仏教のことを知ってみたいとは思いますが、インターネットとかで少し調べてみても、なんだかすごく難しくてお手上げになってしまいます。 たまたまテレビでみたり、直接お坊さんから話を聞いたりしたら、噛み砕いてくれてるので、分かりやすく興味を持ちますが…。 結局、たぶんざっくりいうと仏様が一番偉い人(人ではないけれど)だろうなぁ。じゃあ、阿弥陀様って誰?2番目くらいに偉い人?ってレベルでよく分かりません。 こんな私の場合、お馬鹿すぎて知識を深めるのは無理ですか?
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
先日は、罪悪感についての質問に回答頂き、本当にありがとうございました。 これからは周囲に対して尊重の心を忘れず、謙虚に優しい気持ちを持って接しようと心がけています。 悔い改め、幸せを広げることが出来る人間になれるように努力したいとおもっています。 しかしながら、今までの自分の行動や考え方自体が全て間違っていたと気がついた今、自分のことを信用できません。 今、自分で罪悪感を感じている悪行は最近になるまでは、気付くことが出来ませんでした。 ですので、テレビ等で悲しくなるニュースや不祥事、こんな酷いことをした人がいる、などの会話を聞くと 私自身もそんなことをしていた可能性があるかも知れないと過去の自分に思い、 未来の自分もそんなことをしてしまう可能性があるのではないかと、とても不安になります。 どのようにしたら、まっとうな人間となることができるのでしょうか。 そして自分のことを怖がらず信じていけるようになるのでしょうか。 ご助言ください。よろしくおねがいいたします。
こちらで質問していい内容ではないかもしれませんが、相談できる人が周囲におらずこちらに書かせて頂きました。 神道式で葬儀をあげた母の50日祭が迫っていまいす。 母が亡くなり、良く考えもせず母の親が神道式で葬儀をあげていたため同じように神道式で葬儀を行いました。 しかし生前の母のことを思い出すと、特に信仰していたわけではありませんが、仏教の教えやお寺の雰囲気に母は惹かれているところがありました。 このことは生前母と一番会話をしていた私だから知っていたことですが、母が亡くなった直後は呆然としてしまい葬儀のことを他の家族に任せっきりにしてしまいました。 今となっては母はお釈迦様のもとに行きたかったのではないかと思い、これで本当に良かったのかと思い悩んでいます。 また、神道では故人は家神になると言われていることを知り、それも母を家に縛り付けてしまうようで抵抗を感じています。 神道を悪く思っているわけでは決してありません。 ただ、母は本当は成仏したかったのではないかと思うと心が苦しいです。 母はお釈迦様のもとには行けないのでしょうか?
先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
どういう状態(たとえばこころの状態など)で生きていれば仏道を歩んでいることになりますか? また、結婚したほうが仏道を歩める場合ってありますか?それとも、仏道を歩みたいなら、結婚は望まない、しないほうがやっぱりいいですか?
こんにちは。 初めてメールします。 人付き合いは良い方で、友達が昔はいっぱいいたり、結婚式を誰かが挙げたら、必ず歌ってくれ、友人代表のスピーチしてくれ、等々どれだけやったかわかりません。 でも、プロフィールの通り、周りの皆が結婚し 子供ができ、忙しくなると、簡単に、本当に簡単に、人を切る。 ヤクザみたいな人にからまれて、助けを乞うために必死で向かった場所も友達の勤め先で、その時友達が電話の受話器上げて、営業妨害だからと、警察に連絡しようとしたので、帰りました。 僕にはもう友達は一人しか居ません。 一生続けていきたいですが、20年、30年付き合っても簡単に消えちゃう人も居るので、いつか、消えてしまうと怖い所もある。 私は未年で、別れた両親の父親方の方に遊びに行った時、大日如来のカード?みたいな金色のカード状のモノをずっと10年近く財布に入れてます。 で、やっと質問なんですが、自傷行為をずっと続けて来たので、そんなのは知れてる。 守り神?の大日如来を背中に入れました。 痛かったです、ものすごく。 今後、何があっても耐えれる気がします。 でも、誰にもこの事は言えません。 人は必ずいつか死ぬ。 それは、今日ではダメでしょうか?
ある新興宗教の方に 南無妙法蓮華経の題目 と 般若心経なんて一緒に唱えては絶対ダメと言われました。 もちろん、南無阿弥陀仏なんてもってのほかと言われました。 その方は 南無妙法蓮華経の題目以外唱えるなと強く言われました。 私の家は曹洞宗で 私は南無釈迦牟尼仏と唱え お経も本で勉強して少し唱えてます。 母は、昔ぶつしょごねんに入っていて 南無妙法蓮華経だけ唱えています。 どの新興宗教の方に言われたのかお分かりでしょうが 一緒に唱えててはいけないお経などあるのですか? 曹洞宗の道元の悪口まで言ってました。 とにかく批判されまくりました。
先日、知人から鮮やかに色づいた美しいアジサイをいただいたので、花瓶に生けながら様々な事を感じていたら、自分が寂しいような哀しいような複雑な笑みを浮かべているのに気がつきました。(変なスイッチが入っていたんです。) それはまぁいいとして、近頃ずっとhasunohaを読んでいた影響なのか、昔、疑問だった拈華微笑の話を久しぶりに思い出しました。 確か、ニッコリと微笑んだのだとか。 未だに何を表しているお話なのか分かりません。改めてネットで調べてみても、やはりサッパリです。 ニッコリ(?)微笑んだのは何故でしょうか?何が伝わったのでしょうか? よろしくお願いします。
はじめまして。 わたしは、ある本を読んで、勝鬘夫人が書かれた『勝鬘経』に、すごく興味をもちました。 『勝鬘経』とは、どういう内容のお経なのですか? すごく、知りたいです。 よろしくお願いします。
私は普段お寺で坐禅をしておりますが、時々出家の言葉が頭に浮かびます。 それで、一度だけ母に出家したいと言ったことがありますが、 何でそんなことを言うの?と嫌がられました。 私には姉が二人おりますが、(三姉妹です) 一人は自分の思い通りにいかないと少々イライラする人で、 もう一人はシングルマザーで精神疾患があり、自立できておりません。 子供も不登校で、両親の援助で生活をしております。 そういうこともあり、自分達の老後の世話を私に看て欲しい願望があるようです。 あとは、出家するとほぼ会えなくなるのだろうと、それが嫌なようです。 私も同様に、会うことはそうそうできないのではないかと想像しております。 私も今まで自分で苦しみを作り、はまっていたことがありましたが、 今は少しずつ解けていっております。 思い込みの苦しみに囚われている人達の手助けになりたいと思うのですが、 そのためにも、もっと本格的に仏道に打ち込みたいと願っております。 両親に納得してもらうにはどうしたら良いものでしょうか? 在家出身の方もいらっしゃいましたら、是非経験談をお聞かせ願えませんでしょうか? どうぞ宜しくお願いいたします。
僕は、ある怖い話をきいたのですが、 その中に、「あんた長生きできないよ」と言われる内容があるのですが、それはある呪物をみてしまったからもう長生きできないという事です。 実際の画像があったので見たくなくてもみてしまい、僕は、「見ちゃった」って不安になり怖くなりました。これで自分の寿命もそうなったのかと。 なるべく気にしないように「こんなの嘘だ、ありえない、信じない」と言い聞かせて努力はしているのですがやはり不安はこみあげてくるときもありました。見えない事ほど怖いです 結構洒落にならないのですが本当に嘘ですよね。嘘であってほしいです。
寒くなって食べ物がなくなってきたせいか、近頃市街に動物が頻繁に出現します。そして不運にも交通事故に合い命を落とす動物が増えています。 先日、家の前に無残にも車で轢かれたであろう犬二匹がいました。親子であろうかと思います。死んでも尚、親犬が子犬に寄り添っている姿をみて強い衝撃を受けました。 死骸は清掃の方が来られて回収されましたが、私には複雑な感情が混じり合っていました。動物であろうと子を大切に思う親の愛への感動。命を奪われた悲しみ。人間の勝手で命を奪ったという行き場のない怒り。 来世があるのであれば、この親子に次は幸せな家庭で暮らしてほしいと強く願います。 動物の供養の正しい方法をご教授願えないでしょうか? 未熟な自分に出来ることは何かないでしょうか? よろしくお願いいたします。
消滅するにはどうすればよいのでしょうか? 色々調べたところ、死んでも消滅はしないようなのですが? なにをすれば魂だか意識だかが消滅しますか?
2年5カ月前、近くの草むらに迷い込んだのか捨てられたのか分かりませんが、迷いうさぎがいて、1週間通い保護しました。 その子が闘病後亡くなり1カ月が経ちました。 体調が悪くなり病院に何度も通い様子を伝えましたが、数名の獣医師が詳しく診察することもなく、別の獣医師が検査をして病気がわかりました。 その時には重症となっており、4カ月の闘病生活をし、最期は呼吸困難となり苦しみ亡くなりました。 あの時、別の病院に行っていたら結果は違っていたのか、私の介護が間違っていたのか、など考えてしまいます。 2年5カ月と一緒に過ごした月日もあっという間で、もっと生きていたかったのではないかという思いや、病気を早く見つけてあげられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私が保護せず、他の方が保護していたらもっと元気に過ごせていたのではないかなどと考えてしまいます。 亡くなると、生きていた時の苦しみや痛みはなくなりと聞きますが、旅立った子は今は苦しみから解放されているのでしょうか。 亡くなったあとも近くにいる気配を感じる方がいると話を聞いたこともありますが、私には感じません。苦しんで旅立ったので、もう近くにいたくないのかとも考えてしまいます。 短い年月ではありましたが、とても大切な存在で、保護した時よりも日増しに表情も穏やかになってとってもかわいい子でしたが、今は最期の様子しか思い起こすことができません。今は苦しみから解放され過ごしていてほしいと願うばかりですが、どのように供養すればあの子はこれから穏やかにいられるのでしょうか。 アドバイスを頂けたらと思い質問させていただきました。