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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 宗派 」
検索結果: 1817件

実家の継承と信教・婚姻の自由

私は福岡県の日蓮宗の寺の次女で、今は実家から企業に勤務に行っています。実家の寺は長女の姉が婿養子を貰う予定でしたが、うちの正干与の寺の住職が持ってきた見合いの話を受け、東京の寺に嫁がせることになりました。 よって私に実家の寺の継承の話が回ってきたわけですが、私は継ぐ気もなく、会社員の方と恋愛しているので、僧侶と結婚する気もなく、そろそろ実家を出ていくつもりです。しかし父は3年間したら戻ってこいと言います。そこで思ったのですが、日本国憲法では職業の自由も婚姻の自由も保障されているのに、人々の幸福のために働いている僧侶たるもの(父)が、そのように実娘の意にそぐわない婚姻をさせようとするのは、僧侶としていかがなものだと思われますか?姉も結婚などしたくなく泣いておりました。前時代的にもほどがあるし、うちの寺も檀家が減っており今後経済の保証があるかどうかもわかりません。寺の継承のための親のエゴでしかないように私は思います。実際姉の嫁入りの話も私には秘密裏に行われており話し合いもなにもなく決まりました。反発をすると感謝の意が足りないと言ってきますが、それと継承の話は話が別だと思います。 また、父母は私に「信仰しろ、拝みなさい」と言ってきますが、信仰とはそのように強制されるものではないと思っております。また生まれた家がたまたま寺であったというだけでその寺の宗派の信仰をしなければなりません。これは寺に産まれた場合、信教の自由はないのでしょうか?"改宗は良くない、バチが当たる、絶対に良いことがない"、などとよく言われてきましたが、改宗は本当に良くないことでしょうか。 現在の日本では宗教より法律が上です。私の人権、私の法の下の平等は宗教により制限されている気がします。 他のお正人方のご意見をお伺いすることができればと思います。

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亡き祖母へ出来る事

私には後悔していることがあります。 10代の頃、ある事をきっかけに家族全員とコミュニケーションを取らなくなりました。特に祖母はそれが大変ショックなようでした。 その状態がしばらく続き、数年後、祖母は病気で亡くなりました。 親には「もう長くないから、一度でも顔を見せなさい」と言われていたにもかかわらず、その時、責任の掛かった重要な仕事の最中で、正直それどころではありませんでした。他人から見ればなんて思いやりのない人間なんだと思うでしょうし、今なら自分でもそう思いますが、その時は睡眠もろくにとれておらず、食事もろくにとらず、常にイライラしながらどうすればこの仕事を成し遂げられるかで頭がいっぱいでした。案の定、過労で倒れ、鬱になりました。 その時に、家族が私の事を必死で支えてくれたのです。その姿に後悔と反省と情けなさと不甲斐なさでいっぱいになり、一人部屋で涙を流し、すこしずつ、家族と向き合うようになりました。 しかし、祖母はそういうわけにはいきません。 投薬治療でなんとか鬱は回復したものの、大事を取って仕事は休養していたのですが、日中やることもないのでなんとなく掃除をしようと思ってクローゼットの中を整理していると、アルバムが出てきました。そのアルバムをめくってみると、そこには祖母が幼い私を幸せそうに抱いてあやしている姿でした。胸が痛くなり呆然としました。口を利かなくなった時どんなに傷つけただろう、もう長くない病室のベットで私の事は考えたのだろうか、会いたいと思ってくれたのだろうか、そう思うと、自分のしてしまった罪に耐え切れず、また鬱を再発しました。あれからしばらく経ち、鬱は回復しましたが、後悔の念は消えません。そこで死者を弔い、その後も亡くなった方達と日ごろ向き合っているお坊さんに相談です。 死んでしまった人に出来る事ってなんなのでしょうか。 勿論、物理的に直接できることはないし、もういないものはいないので、そんなものはないというのがある種答えなのでしょうが(お坊さんに言うのも失礼ですが・・・) 考え方や乗り越え方などをご教示していただきたいです。 よろしくお願いします。

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学校に行きたくなくて悩んでいます

初めて質問させていただきます。 私は今全日制の高校に通っているのですが、行くのが怖くてたまらない時があります。いじめだとか、嫌なことをされたとかそういうのがあったわけではありません。でも二学期からぱったりといけなくなってしまい(一学期はちゃんといけていました)、今は授業日数がぎりぎりの状態です。一月からこれでは留年してしまうと、担任の先生と話し合ったりして頑張っていましたが、正直毎日とても辛いです。 もともと高校に入ってから不登校気味で、実は一度留年しています。それでも病院への入院などを経て、もちなおして行っていたのですが、それまで順調にいけていたと思っていたのが昨年の秋でぱったりと止まってしまいました。 今日は特に怖くて、とうとう丸一日学校を休んでしまいました。自分が普通でないと思うのと、両親へ迷惑をかけている負い目と、将来への不安が混ざって、怖い、としか言いようがありません。いっそ死ねばいいのかと思った時もあって、でもできなくて、どこまでも自分が中途半端に思えて、逃げたくてたまりません。 今朝親に休むと伝えた時、最初にここまで頑張ったんだからちゃんと行こう、みたいなことを言われました(今日は今日休んだらもう休めなくなる科目が多くありました)。それを聞いてどうしようもなく悲しくなりました。今の学校をやめるにしろ何にしろ、単位を取っておいた方がいいという考えなのだと思いますが、私はもうダメなんじゃないかと思いました。本当にいける気がしませんでした。 通信高校に行くということも考えています。でも将来どうするんだと考えた時、ものすごい絶望を感じます。これ以上時間をかけてはいけない焦りと、今が怖いのと、現実的な金銭の問題など考えて、一人でぐるぐると苦しいです。 楽になりたいです。自分の考え方を、もう少し明るいものにしたいです。今不安ばかりを見つけて、いい事を見つけられません。怖くてたまりません。いろんな人に慰められても納得できずに苦しいばかりです。どうしても普通でない私が悪いのかと考えてしまいます。 どうしたらこの不安は軽くなるのでしょうか。 周りの人に相談するのも怖いです。

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生きやすさを求めて生き続けながらもがく?

私は40代独身者です。 考え方や性格の関係もあって、人とのつながりを継続するのがなかなか難しく、社会的孤立の中でどうにか生きてます。 つながりのほとんどはネット上にしかないなか、わずかなつながりに依存しているのですが・・・・ つながっている人たちは、おおむね何十~何百人とつながりがあり日常的に連絡しあっているようで 自分よりは孤立はなさそうに見えます。人生が上手くいきだした方もいます。 年に数回、彼らと会う機会があり、その時にもそう感じます。「生きづらさ」での仲間たちです。 最近、その彼らたちと自分を比較して、非常に心が苦しくなることが増えました。 比較しても勝ち目のない人たちなのは分かっていますが、眠りから覚めると途端に比較が始まります。 自分が眠りから覚めなければよいのにと思ったりします もともと自死・安楽死や死後の世界にも興味があります。 ある著名者の方がこんなことを話しておられました。 「これまで多くの相談者が「死にたい」と口にし、助かっても「なぜ助けた」と苦しむ様子に向き合ってきた。 結論から言うと、それでも生きた方が良く、生きることを阻害する要因を減らすことに注力した方がいい。 つまり、死なない方がいい。生きやすさを求めて生き続けながらもがいた方がよい」 生きづらさの原因が自分自身にある場合、自己否定や寿命までの年月を思うと、耐えきれない思いに苛まれます。 私のような人は、案外少なくないだろうと思います。 先の著名者のような「生きやすさを求めて生き続けながらもがいた方がよい」考え方は、仏教でも同じような教えになるものなのでしょうか? ある書では、カルマというものがあり、死んで楽になることはなく死後も苦しみはついてまわるとありました。なにか関係ありそうでしょうか? 自分を変えることとは、高額な医療費や、生涯お世話にならなければいけない支援者と密接に関係があると思います。 そんなお金やコネはありませんが、訪ねてみるべき場所などあるなら行ってみたいとは思います。 よろしくお願いします

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神や仏の存在とは?

今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。

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ゲイ(同性愛)・バイセクシャルを仏教は否定しますか?

過激なゲイのイメージや運動には正直共感できないのですが、ごく「普通」のゲイの友人がいます。社会的に他人に迷惑をかけず一市民としてのルールを守り社会的責任を果たしている以上、そのひとの人格もなにも見ずにただゲイだからという理由で否定されることには疑問を感じています。日本の社会ではまだまだ偏見も強いと聞いたのですが、仏教界ではどうなのでしょうか。 宗派問わず、一般的に日本ではどうなのかという質問なのですが、一部キリスト教やイスラムで弾圧されがちな同性愛(Abominationと強い言葉で否定されることもありSinだとされたり、一部イスラムの国では迫害をうけ罪人として投獄・殺されることも)は日本における仏教界ではどのように考えられていますか? 1.教義(仏教の教えという点からは肯定否定されているのか)、 2.現状(理論などとは別に実際にはどうなのか、仏教界に受け入れられている例などあるのか)、 3.個人的には、ひとりの人間・ひとりの僧としてどう思われるか。(どうあるべきだと思われるかも教えていただければ嬉しいです) 4.もしも1-3の質問にて否定される理由がある場合は、なぜ、否定されるべきなのかを教えて下さい。本当に率直な意見をお聞きしたいだけなので、どんな意見でも参考になりますので(世界にはたくさんの意見があってしかりなので)正直な意見を聞かせていただければとても嬉しいです。 5.日本の社会でまだまだ偏見があるというのは、なにが一番の問題なのでしょうか。ゲイのひとを現実に身近に知らないからおこる偏見なのでしょうか。 NB: 性同一障害などの医学的な病気ではなく、ここでの対象は、 ゲイ=女性・男性を問わず同性のひとのみが恋愛対象、 バイ=性別関係なしにどちらもパートナーとして恋愛対象となる、 という意味で、見かけ・態度・人種・国籍・その他諸々では区別がつかず、どこにでもいる普通のひとをさしています。(いわゆるラブパレードなどでみるような過激な服装の下品なイメージのゲイではなく、ファッション的・ゲーム的なものや、AVなどで表現されるような歪んだゲイの対象は別なので除きます)

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亡くなった母親の希望を叶えたい

長文失礼します。 先月21日に一緒に住んでいた最愛の母親が浴室で亡くなりました。昨年難病になり今年3月再発し、4月に入院の件で喧嘩しながら再入院、翌5月に退院し一週間後に亡くなりました。 直前迄元気だったそうですが、前日身体が動かない、治療が悪い、こんな苦しい治療を選択させたのは貴女達(嫁に行った姉がます)のせいだ。と言われました。亡くなった当日病院に行く予定でしたので、後悔と苦しさで毎日泣いてます 49日はまだですが、葬式後姉夫婦がお経をあげてくれたお寺に行き、永代供養等話聞いてくれました。実は墓守は私限りで、今年お彼岸の際、父親が介護保険施設に入所中見舞いの帰り、母親とお墓の話をしてました。母親は『決してお墓の土地は売るな、一度は入れろ、墓守は甥や姪にさせろ』と言ってました。 私は現実的では無い、と言いそれきりになってしまいました。 購入した墓の土地近くには叔母の同じく購入した墓の土地が有り、私がお参りしなくても、叔母やその家族がお参りしてくれるだろう、との考えだったようです。 生前話してました。 母親の生まれ育った土地柄そういう習慣でした。 姉が相談したお寺の住職様曰く、墓を建てるにも墓仕舞いもお金がかかる、考えてくれ。行事がある度遠い墓より、近くのお寺に永代供養した方が手を合わせられる。と言われたそうです。 そのお寺では永代供養とはお骨を皆と一緒にして、供養塔に納骨し、他の人と一緒に毎日祈ってくれるそうです。また、 納骨も納骨堂が有るそうですが、吹き曝しのお堂らしいです。かなり古い骨壺もあったそうです。 因みにそのお寺と当家族とは縁もゆかりもなく、たまたま母親の実家と父親の実家の宗派が同じだった事から葬式会社が頼み、お経を上げて頂きました。 49日も終わらず、また、私自身母親の死を受け入れておらず苦しい毎日です。 最後の母親の希望を叶えつつ、どうしたらいいのか教えて頂ければと思ってます。

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出先での供養

いつもハスノハを拝読させてもらっています。 お坊様方のお答えが本当に有難く、今の自分が抱えている悩みや疑問を解決していただけるものもたくさんあり、 感謝の言葉は尽きません。本当に有り難うございます。 昨年、妻を亡くしたのですが、その供養だけが今の自分の生きる理由大半を占めていると思います。 それまで信心深くもなく、仏縁も薄く、死んだら骨は海にでも撒けばいいとか思ってた自分が 今では毎日お仏壇に手を合わせて、仏様にお祈りしています。 それというのも、妻が生前、般若心経の本を持っていたのも大きな理由です。 まだ自分には空なる智慧を会得できもしないのですが、 朝、昼、晩に般若心経と、家が真言宗なので光明真言を唱えさせていただいてます。 そこで質問なのですが、 妻が亡くなってから今まで外泊することがなかったので、自宅のお仏壇での供養を毎日欠かすことはなかったのですが、 もし、今後、遠出などでどこかに外泊しなければならない場合、 出先でも妻のため、同じように仏様にお祈りをしたい場合はどんな方法(所作?)があるでしょうか? 例えば旅館などの部屋で、自宅の方角に向かって手を合わすのが良いでしょうか? それとも近くのお寺様を訪ねて、しっかり仏様の前で手を合わせるべきでしょうか? 妻にとって一番良い方法を選んであげたいと思うのです。 欠かさずお仏壇にお祈りしていることが、自分にとっても心の支えになっていると気付いたもので、こんな質問が浮かんでしまいました。 出先での供養で最も良いと思われる供養の方法があれば、ぜひ御教授いただければ幸いです。

有り難し有り難し 10
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出家の是非について

長文で失礼します。 下記のような問いを持っており、その考究(あるいは超克)に残る人生を費やしたいと考えております。 現在そのための生活様式を模索中で、出家もひとつの選択肢として考えております。   早速質問ですが、 ①下記のような問いは、仏教の中で取り組むに値するのでしょうか。 ②考究にあたり、仏教はもちろんなのですが、その他の学問の助けも借りたいと思っています。出家した場合それは可能でしょうか。   ご回答いただければ幸いです。   ーーーーー   私は相互作用の世界の中に生きている。それはすなわち、常に他者に対して影響を及ぼしている、ということ。しかし、そのような在り方は自然・当然なこととして無視されてよいものではない、と私には思われる。   私の眼前には生きるか死ぬかの選択肢が平等に与えられており、自覚的にしろ無自覚的にしろ、前者を選んで生きている。裏を返せば、私には自死という、他者への影響を自発的に止められる能力が備わっている。   一般的に生きることは尊いとされ、自身の幸福の追求が当然の権利としてみなされている。しかし私が生きるということには、他者の生や意志を損ねる、負の影響が必ず伴う。   そうであれば、生とは害悪ではなかろうか? その害悪性を無視してまで、この生は礼賛されるべきものなのか? 私はただ、生きたいという自分本意な欲求に盲目的に従っているだけではないのか? 生と死を選択肢として与えられている私が、なお自分を生かし続けるのはなぜなのか? 私が生きようとすることを、私はいかにして是認できるのだろうか?

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2023/07/03

兄弟の不和、今後のお墓について

五年前に 母が亡くなり、あるお寺に永代供養して頂いています。 葬儀の際、独身の妹が母の遺言だから(実際両親は家族仲良くがモットー)と喪主をし、私の家族は葬式に欠席しろと言われ、葬儀に揉めるのはいやで話し合うこともなく、何とか私だけは行きました。父は認知症もあり欠席でした。 その後法事も妹から知らされず、お寺に頼み別の日に私の家族だけで法事を行いました。子供達は大好きだったおばあちゃんときちんとお別れも出来なかったことを今でも悔しがり、おじいちゃんの葬儀にも又妹からの申し出で、行けないのではないか、と心配しています。 私共がお墓参りをした後、妹から供えた花の色が悪い、私の子供達が灰を散らかしたなど毎回のようにあらぬクレームを一方的に言って来て、心穏やかに参りたいのに、気が進まない時があります。私の家族と関係は良好だった両親の墓参り(今後は父もそこに入ります)や今後の法事は私共家族だけで割り切って行おうと思うのですが、妹からの暴言で嫌な思いをする事が大変苦痛です。 私の嫁ぎ先は宗派は違いますが、住職さんも主人も、父の戒名板を作り仏壇の中に置いて一緒に拝んだら良い、と言ってくれています。そうする方が穏やかに供養の気持ちが持てるように思います。常に激昂する妹と冷静に話し合い一緒に法事をすることは今後不可能と思います。 これからも親の法事を同じお寺できょうだいで別の日に行う、という事は本当の供養になるのか、それなら嫁ぎ先でしっかりと供養してもらい、私の子供達も父の戒名板を置いてある仏壇に邪念なく手を合わず事が出来ます。 もしそうする場合、今永代供養してもらっているお寺にはどう説明すれば良いでしょうか。もちろんその際にはお寺に対して礼儀はつくすつもりです。 そのお寺と私は縁が切れてしまうことになりますか?今度父が亡くなった際にお寺から私に知らせてもらう、というお願いは虫が良すぎる話でしょうか? 妹はお寺には常識的に振る舞っており、親の遺言通りにしているだけ、と私達の事を曲げて伝えております。住職さんはどう捉えておられるのかわかりませんが。本当は親族皆で穏やかに法要を行うべきとは思うので、このような事が良いのかどうかもわかりません。 迷っております。 何とぞ宜しくお願い致します。

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2024/03/01

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

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僕に浄土宗檀信徒たる資格があるでしょうか

浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?

有り難し有り難し 66
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