お恥ずかしながら、宗教のことに関してほぼ無知の状態でして、お力添えいただきますでしょうか。 先日、祖父のお葬式を終えたばかりで、その際、曹洞宗のお坊さんにお経を唱えていただきました。 けれども祖母は、京都の西本願寺の永代供養に納骨してほしいと希望しております。調べると西本願寺は曹洞宗ではありません。このような場合、西本願寺に納骨していただくことはできないのでしょうか。 宗教について知識のある方に伺うと、けしからないことと言われました。前もってきちんと調べておくことなのでしょうが、日々精一杯で至らずでした。 もし西本願寺で納骨できないのであれば、曹洞宗のお寺を探してお願いすれば納骨していただけるのでしょうか。 祖母は、ゆくゆくお墓の管理をする身内がいなくなることを考え、お寺での永代供養を希望しております。 よろしくお願いします。
兄がお墓を継いでいます。 父の年忌法要が近づいているのですが、私にも親戚にも何の連絡もありません。電話をしてみましたが着信拒否されていて話すこともできません。 私も親戚もこのまま法要に参列することはあきらめるしかないのでしょうか? 法事法要は祭祀継承者から案内のない者は参列できないものなのでしょうか? (兄の了解を得ず)お寺に直接日時を確認するのは不躾ですか?知り得た日時で突然参列するのは失礼でしょうか? 参列が叶わないとして、法要当日に遠方より想うことが参列できない者としての供養でしょうか?もしくは個人的にお寺を訪問しお経をいただくのが供養でしょうか?先祖代々の仏様には毎日手を合わせ普段より想いを寄せています。 なにとぞご指南をよろしくお願いいたします。
昨晩遅くに母方の祖母が亡くなったそうです。87歳でした。 ここ数年は認知症も発症して寝たきりで、もう私はおろか母のこともわからない状態でした。 実家から近かったので子供の頃はよく遊びに行っていたからか、元気だった頃の顔も声も鮮明に思い出せるのにもう会えないという事実に涙が止まりません。 母のほうが辛いというのに… 今私はかなりの遠方のため、お通夜にもお葬式にも出られないのでこの地から祈るしかできません。 浄土真宗を熱心に信仰し、元気な頃は毎晩お仏壇に向かってお経をあげていた祖母ですから、必ずやお浄土で救われていると信じています。 相談というわけではないのですが、夫も長期出張で1人のため、誰かに聞いていただきかったのです…すみません…
過去に人に言えない過ちをしてしまって、今、同じ事は繰り返さないと誓い、良い行いをして生きています!過去に人に言えない過ちをしてしまった人は、彼女を作る資格はないでしょうか?ずっと独身のままで生涯終わりを迎えるまで、いたほうがよろしいのでしょうか!僕は、来月で、40歳になります!正直、好きな人がいます!この人と付き合いたいと思っています!けど、過去の悪いことがあるので、打ち明ける事などできません、仕事も、恋も、みんな駄目になってしまうと思うので、怖いです!どのように生きれば、神様は救って下さいますか、教えて下さい、お願いいたします!懺悔もんのお経をたまに、口ずさみながら、仕事しています、同じ過ちは二度としてませんので、良いアドバイスありましたら、教えて下さい、お願いいたします!
義父が昨年老衰で死亡しました。 跡継ぎもなく(夫は私の家の婿養子)、故人もこだわりなく、位牌は作らず先祖のお墓は魂抜きをし墓じまいしました。先祖の遺骨は義父の遺骨と共に永代供養塔に移しました。 義父の遺骨の一部を最後まで面倒をみた義姉が持っていき手元供養するそうです。 私共も義父の写真にご飯やお水を供えていますが、供養の仕方としてはこれでいいのでしょうか? 法事などは永代供養塔にお参りしお坊さんに拝んでお経をあげてもらいます。 老人施設で働いている友人から利用者が持参した位牌や仏壇の処分に困ると聞いたこともあります。 少子化の昨今、どのように供養したらいいのでしょうか?
夫が帰らぬ人となりました。 遺書もなく、原因は想像しか出来ません。 残された私に何ができますか? 毎日供養のお経をあげています。 仕事は責任のある職のため、休めないので働いてます。みんな優しいので、心無いことを言う人こそいませんが、私の心境関係なく言いたいことを言う人もいます。 多忙な時期なんで、毎日残業してます。 休みの日は、手続きやら、法事がありつつも、仕事も仕事中に片付かないから出勤することが多々あります。 頑張りすぎたらだめだよ 無理しちゃダメだよ 周りはそう言いますが、なにが無理をしてるのか?なにが頑張りすぎてるのか? わかりません。 頑張らないと仕事は終わりませんし、無理しないとずっと泣いてることになります。 私はどうあれば良いんでしょうか。
(編集部より。投稿の一部を変更削除しています。) ハスノハの先生に感謝しています。母が新興宗教の会員ってほどではないですが、関係しています。 最近、母が亡くなり部屋を整理していたら会の お経が書かれた掛け軸が見つかりました。 そして、最近、会の女性2人が私の家に訪問してきました。 1、掛け軸を処分(一応、仏様に失礼な言い方でしょうが…)したいです。 仏様が宿る掛け軸ですので、どう処分したらいいか教えてください。 2、会員の女性たちが再度訪問してくるのが怖いです。 私はこの宗教に全く関わりたくありません。我が家は浄土真宗にお世話になっています。 角のたたないお断りのしかたがわかりません。 教えてください…。困っています。
先月から無職になり貯金もなく、ただただ焦りばかりで心が乱れてしまってます。 両親が元気に生きてた時は相談も出来たのですが、自分が39歳?の時に母が亡くなり、45歳?の時に父が亡くなりました。 現在、自分は47歳です。 両親二人亡くなってから心の浮き沈みが激しくなりました… 仕事をしたい気持ちはありますが、病気や腰痛、膝の関節痛等あり自分には何が出来るのか迷ってます… 心も落ち着かず、本当に焦りばかりです… 今は心も体もバラバラになってる気がします… 生きるための生命力や心を落ち着かせるお祈りやお経等ありましたら教えて下さい。 お忙しいとは思いますが何卒宜しくお願いします。
お念仏、お不動さまの真言念誦を毎日108回づつ、 読経(阿弥陀経と般若心経)も行っています。 最初の頃、まだ暗記する前はむしろ教本に集中できたのですが、暗記してしまうと、自動的(?)に言葉が出てくるためか、かえって雑念が増えてしまいました。 「あまり気にせず、念誦や読経のことを考えていれば、いずれ雑念は消える」とも聞いたのですが、ぜんぜん消えません。 仏様や仏教のことだけを考え、雑念を払おうとすればするほど、次々にくだらない想像が沸いてきます・・・ 日常の些細なことなら良いのですが、腹が立ったこと、しまいには映画やマンガのHなシーンや残酷シーンまでも浮かんできて、これは冒涜じゃないか? と心配になることもあります・・・・ こうした雑念についてどう考えるべきか? ご教示いただけたら幸いです。
よろしくお願いします。 お坊さんのあたたかい言葉で少しずつ回復してきましたが、今日はまた朝から考え事が止まらず落ち着きません。すごい勢いで次から次へといろんな事が出てきます。 睡眠も2時間ぐらいで目が覚めて眠れなくなりました。 そのせいか体もあんまり動きません。 この前、自分の思いをhasunoha で吐き出してから、どんどん聞いて欲しいことも溢れてきました。 何でもかんでも人に聞いてアドバイスをもらえばいいってものではなく、自分で解決しなければいけないのは分かっているのですが、押さえられなくなってきています。 明日は絶対に行かなくてはいけない所があって、その後も今週は少し忙しいので、ちゃんと回復したいです。 坊さんがお経を読んだり座禅をしている時のように、頭の中を静めて心を穏やかにしたいです。 そしてしっかり自分の頭で考えられるようになりたいです。 力をかしてください。お願いします。
よく水子がたたると言いますが、そんなことはないですよね? 私自身も半年前に死産していますが、お寺にて供養をして頂いています。 まだ遺骨は手元にありますが、供養して頂いたお寺に永代供養をお願いしましたので毎日お経をあげて頂いていると思います。 私はそれで少し安心していたのですが、とあるお寺(水子供養を中心としているお寺)のサイトを見ると、数々の体調不良や家の不幸は水子供養をきちんとしていないがために起こる と書いてありました。 私はきちんと供養をして頂いていますが、そんな内容を読んでしまったが為に少し不安になってしまいました。 供養の仕方が足りないのではないかとか色々考えてしまいました。 様々な不幸と水子は関係ないですよね?
夫が亡くなって2ヶ月が過ぎました。 仏壇は置かずリビングに、オープンステージに位牌と阿弥陀様を置いて毎日ご飯をお供えして、短いけど拙いお経も読んでいます。 そんな中ですが、私自身実家に帰省するため10日間程家を留守にすることになりました。 その場合、位牌はそのまま家に置いていても大丈夫なのでしょうか? 遺骨もまだ納骨せず自宅にあります。 10日間、お水を変えることも何もできないけど大丈夫なのかが気になります。 夫の実家が近くにあるので、預けた方がいいのか?それともそのまま家に置いていても大丈夫なのか?相談したくて質問させていただきました。 宗派は浄土宗です。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 「信仰とは、その仏様を信じ、教えを実践すること。ただお寺へ 参じたりお経上げることだけではない」 これは、我が本山の布教師さんのお言葉です。 浄土宗の教えの実践、それからいわゆる行とは、 念仏を称えること。これだけ!とのこと。 そこで疑問になってくるのが、不動尊信徒の教えの実践、行とは なにか?ということです。 私には、真冬に滝や冷水ひっ被ったり、真夏に火の上裸足で 突っ走ったり、1週間も2週間も断食したり、断崖から身を 乗り出したり…なんてことは無理です。 「奴僕の行」「羂索のさとし」にならい、率先して人助けなど するようにしていますが… お知恵をお貸しいただければさいわいです。 よろしくお願いいたします。
亡くなった夫は次男で、夫の実家は浄土真宗です。 夫の実家は飛行機で行く程の遠距離です。 夫の生前中、一緒に高野山へ行き 感動して、私達は真言宗になりましょうと2人で決めておりました。 なので、夫が亡くなった際の戒名もお経も真言宗です。 その事を友人に話したら、次男であろうと夫の実家の宗派と同じにするんだよと言われました。 最近、仏壇を購入しました。 仏壇内には真言宗の掛け軸も揃えたので、後は魂入れをしてもらうだけです。 当然、真言宗のお坊さんに魂入れをお願いしようと思っています。 夫の実家の宗派とは違う宗派って駄目なんでしょうか? ちなみに、私の実家の宗派は真言宗です。
お坊さま方には彼岸後のご多忙の中、失礼いたします。 我が家は日蓮宗ですが、この質問は宗派関係ないかと思います。 母が先月、救急車で運ばれ肺癌ステージ4と診断されました。 数ヶ月前に、同じ病院でレントゲンを撮ったにも関わらずです。 母はその時分かってくれてたらと話しました、私も同じ気持ちです。 主治医や家族は、時間がないと諦めモードです。 そんな病院の入院生活の中、母は『もっと生きたい、治療をやってみる』と言いました。 一時意識がなくなってもです。 【写経について質問】 母の本当の願い『もっと生きたい』を叶えて頂けるよう行動の一つとして、写経を始めました。 日蓮宗はあまり写経がなかったのですが、観音経をみつけました。 知っているお寺さんが写経を納めて頂けることも分かりました。 初めて写経を納めて頂くので、分からないことがございます。 ①写経をやっている最中に、誤って手で擦たり筆が触れて汚してしまったものも納めて頂けるのでしょうか? やはり汚れなどないもの、所謂きれいに仕上がったものだけでないと、仏さまやお寺さんに失礼に当たるのでしょうか? 私は20年近く精神病(鬱病)を患っており、なかなか集中力が継続しないながらも時折休みながら(日を跨ぎながらも)、書き始めました。 ②万が一、汚れた写経を納めるのは失礼な場合、それは破棄してよいものでしょうか? 【お参り・お礼参りについて】 母の病で、私はずっと神社やお寺を回りました。 縁の深いお寺には、ご祈祷をお願いしました(遠方で行かれないお寺には郵送で)。 自分の病気のせいか、記憶が定かではないのですが、途中母が意識を失った際に、お願いごとに『母の意識が戻りますように』とも加えました。 当病平癒の場合、病気の症状によってお願いが、少し変化しやすいのです。 ③お礼参りは、母の治療の途中、良くなったらその都度行くべきでしょうか? 私の最終的な願いは『母の本当の願いであるもっと生きたいが叶うように』です。 『もっと生きたい』がどのくらいかは分かりません。 例え5年生存率が数パーセントでも、私の本心は『長く生きてほしい』ですし『治ってほしい』です。 拙い文章で申し訳ございません。どうか3つの質問よろしくお願いいたします。
以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
自分は仕事でもプライベートいつも選ばれない人間だと感じていて、今までそれを周りのせいにしてきました。周りを恨んできました。でも最近「それは違う、それは自分のせいだ」と思うようになり、それもまた苦しく数年間悩み続けてきました。その結果、仏教を学びたいと思いある寺院を訪問しました。 そこの寺院は家からはかなり遠いのですが、住職の日々のブログの文章に感銘を受けて訪れました。仏教の制度についての勉強をあまりしておらず、未だよく分かっていない部分もありますが、一度目の訪問のときに在家得度をして修行をすることになりました。得度式までに2回訪問し、お経や念珠について教えていただき、衣の購入と着用の仕方などを教えていただきました。 しかし、実際に師僧にお会いしてみると文章の印象とはかなり違っていて戸惑いを感じました。他の修行僧の悪口ばかり言い、〇〇さんという人がいるけどあの人は声が小さいんだよね覇気もないしありゃダメだとか、××さんという人がいるけどあの人は覚えが悪いんだよねいつまで経っても覚えないとか、事あるごとにこぼします。 更に、他の修行僧や私の個人的なこと(懺悔でお話するような超個人的な内容)を「この人はこういうことで悩んで僧を目指してる」などと大声でみんなの前で言われたのにも驚きました。一緒に修行をするので、そういいったことは公にして共有するものなのでしょうか。 そしていつも尼僧たちにばかり声を掛け師僧の両脇に座らせ、頂きものの菓子を尼僧たちにだけ分け与えていて、これも驚きました。お坊さんだから清廉だとは思いませんが、イメージしていた姿と全く違い戸惑いを感じています。 自分のような考え方は偏っていて堅苦しいですか?会社でも部下のことを重箱の隅をつつくように悪い部分ばかり見て、一方で女性ばかり可愛がる上司もいますが、その上司がどんなに仕事ができても仕事のやり方は参考にしますが、尊敬はできません。 でも師僧には尊敬を求めたい。尊敬できる師の下で修業したい。こんな考え方は青臭いでしょうか。会社と同じように、修行も仕事も同じで、師僧から技術を教わればよしとするものでしょうか。もう得度式も終わってしまい、実際の修行に入っていますが、もやもやとした迷いが生じてしまい悩んでいます。
こんにちは。 私は、家の宗派は真言宗なんですが、実は法華経も好きです。 先日、鴨川に出掛ける機会があり、縁あって日蓮宗の 誕生寺にお参りさせて頂きました。 参拝時は流儀に従い「南無妙法蓮華経」とお唱えし、 法華経について色々と考えさせられるきっかけとなりました。 「観音経」として知られる二十五品や有名な「自我偈」を含む十六品など、 どれも素晴らしいのですが、私が特に好きなのは 仏の命が永遠と知って全世界(全宇宙?)の菩薩が歓喜し、 曼荼羅華が降り注ぎ、天には妙なる音色が響くと言う、 壮麗な仏国土が現前する十七品(分別功徳品)です。 「如是等衆生・聞仏寿長遠・得無量無漏・清浄之果報」 の所が特に好きで、正直この部分を紙に書いて お守りとして身につけたいくらいです。 この世の誰をも救ってあげよう!って大らかさとパワフルさが 法華経の魅力だと思うし、そんな法華経の魅力が結実している 一文だと考えてます。 で、ふと思ったんですが法華経の十六品や十七品で言及されてる 久遠実成は、永遠性や普遍性といった性格が大日如来と共通している のではないでしょうか? 上述の十七品は「仏国土は遠い彼方にあるものではなく、仏の永遠性を 信じれば、この現世こそが仏国土と知れる。」 と主張してるように思えますが、これは大日如来を中心とする 密教の思想にも通じていると感じるのですが如何でしょうか? 私にとって仏様と言えば、実家の仏壇に鎮座する、 きらびやかな衣装をまとった大日如来様です。 子供の時から手を合わせている大日如来様が、 法華経の久遠実成と相通じているなら 何と素晴らしい事か、と考えてしまいます。 厳密な意味での同体ではないにしても、 根底で通じているのではないでしょうか? 少なくとも相反するものではないと思うのですが如何でしょうか? ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
先日は、道を示して頂きまして有難うございました。 さて、今回は、この時期になるとフツフツと湧き上がるモヤモヤについてご教示願いたいと思い相談させて頂きます。 5年前に叔父(父の弟)が亡くなり父実家の宗派である浄土真宗本願寺派のお葬式をしたのですが、 叔父は此方の地元を離れ関東に住んでおりましたので、其方の浄土真宗本願寺派の導師様にお願いをしたのですが、お焼香の方が、まだ数十人単位 いらっしゃったのに『後は、ご自由に…。』と言って帰ってしまわれたのです。 お経も中途半端で、和讃を省いていました。 此方では正信偈の後に和讃が続くので、何だか いい加減な感じがしたのは否めません。 やはり、何より一番、モヤモヤするのは、お焼香の方が、いらっしゃるのに帰ってしまわれた事 その時は、恥ずかしいやら、情け無いやら、腹立たしいやらで、叔父を悼む気持ちも吹っ飛んでしまいました。 ですが、冷静になって考えてみると同じ宗派だからと言って地域が違えば作法も習慣も違う事もあるのでは?と思い相談させて頂きました。 関東の浄土真宗本願寺派の方、実際は、どうなんでしょうか? やはり、この導師様のように、お焼香の方がいらしても途中で帰るのが一般的なんでしょうか? それとも、この導師様が間違っていたのでしょうか? 叔父の命日が近付く、この頃になると毎年思い出して、モヤモヤします。 どうか、其方での正しい作法を教えて下さい。
はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。