お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
初めて質問させていただきます‼︎ 私はもともと、お坊さんがお経を唱える?読み上げる?時の声が好きで、お坊さんに興味がありました。 3年前くらいに、親戚の家で法事があり、いつものように60〜70歳くらいの住職さんが来られるのかなと思っていたら、若いお坊さん(20代後半〜30代前半)の方も来られて、その方の読経が素晴らしくタイプでした‼︎ 一度、お話してみたいな〜って思ったのですが、檀家でもなければ宗派も違うので、お寺に行ってもいいのだろうか…?と思いながら三年も経ってしまい…でもやっぱり一度だけでもいいからお話とかご挨拶したいなーって思う気持ちがあり…これは行かねば後悔するかも!と思ってます! ○檀家でもない、宗派も違う人間がど田舎のお寺に顔を出すと不審に思われますか…?!(一応アポはとるつもりです)(ど田舎なんです~汗) ○お坊さん的に、読経の声が好きとか言われたら引きますか…?! ○この方に限らず、お坊さんとお喋りしてみたい、お友達になってほしい!と思うのですが、こういう気持ちで行くのは失礼ですか…?! 他の方の質問とかぶってたらすみません!ご回答お待ちしております…!(>_<)
お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。 だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか? そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは? 又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…
しょっーも無い質問ですが宜しくお願いします(>_<)ヽ お坊さんで検索し、美坊主図鑑 というのがヒットしましたΣ(・ω・ノ)ノ ぶっちゃけお坊さんてモテますか? ハンサムなお坊さんのいる寺は 参拝者多いでしょうか(・・;)
私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。 しかし他の観音経の経本を見ると読み方が 『ねんぴかんのんりき』となっています。 『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか? 『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか? 私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。
おはようございます。 いつも、質問に答えていただきありがとうございます。 私は趣味でお経を現代語訳していて、般若心経と正信偈から取りかかっています。 最初は親鸞様が人なのか、仏像なのかもわからない所からだったので、初めて知ることばかりで楽しく、ノリノリで現代語訳にしていたのですが、最近スランプというか、行き詰まり気味です。 まず、私の知識が皆無なので一節を読みくだくのにかなり時間がかかるのと、お釈迦様や阿弥陀様を信じていることが前提での言葉が多くて、まだ信じるという境地にはほど遠い私のような者がお経を読みくだいていくというのは申し訳ないというか、身分不相応ではないかとモヤモヤします。 モヤモヤしたまま、取り組んではいるのですが最初のスラスラ出来た時とは違い、毎回「難しい〜💧」と頭を抱えてしまうことが多く、手が遠のきそうになっています。 お経を現代語訳にするにあたって、これは手話で伝えることが出来ないだろうか?という野望もあって、とりあえず今、取り組んでいることは草稿みたいなもので最後まで出来たら、もう一度手話と照らし合わせて読み砕いていこうとは考えているのですが、なにぶん独学であることと、知識のなさで「これで合っているのか?」と日々、悩むことが増えてきました。 こんなにモヤモヤした気持ちでお経と向き合ってもいいのでしょうか? 私の気持ちとしては、続けたいのが本音です。でも、この状態で続けるのは仏教を愚弄しているんじゃないかとも思います。 私の中で答えを出せばいいことなのに、相談してしまってごめんなさい。 よろしくお願いします。
人生相談ではなくて申し訳ありません。 お許し頂ければ、ぜひお伺いしたいのですが、お勤め以外の時間はどのように過ごされていますか? 何か趣味があったりするのでしょうか。 それとも、やはり仏教を研究していたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、してるのでしょうか。 ちなみに、私は写真が好きなので、時間が出来るとあちこちのお寺へ行き、写真を撮らせてもらっています(´∀`*)
僧侶の方とご縁があり交際しております。 彼の人柄に惹かれ先のことではありますが将来は結婚もしたいと考えています。 しかし結婚を考える上で私には決定的に信仰心というものが足りないと思います。 実家にはお墓や仏壇はありましたが両親共にほぼ無宗教で何かを信じる、お祈りするということがわかりません。 彼とお付きあいしてから手を合わせたりお経を読むといったことを表面上はできますが彼とは違い、心の底から信じていますと自信をもって言えないのが辛いです。 お坊さんの奥さまは同じ信仰をもっていないとやはり問題でしょうか。 お寺に入れば自然と身に付くものなのでしょうか。
お坊さんが故の苦しみ お坊さんになって良かったことを教えてください。
お坊さんになったあと、大学進学は可能でしょうか。教えてください。
大日経を読んだことがあり、理解できた方なら宗派は問いません。夜分遅くすみません。時間が時間なので回答は急ぎません。タイトルの通り、大日経にある修法について教えてください。「密教」と云われる所以は存じ上げていますが、しかし、大日経の和訳が出版されているので大日経にある修法を教えていただいても問題はないかと。 どんな咒法であろうと悪用は致しませんし、真宗高田派の者なので使用できません。ただ、知りたいだけです。お願いします。
新盆にあたり準備をしていたのですが、お坊さんへの手配が間に合わず、お願いできませんでした。 この様な場合、お坊さん無しでも良いのでしょうか? お坊さんが来ない場合、家族で何をしたらいいです か? お飾りや提灯、お供え物は用意しています。
義母の三回忌を5月末あたりに行いたいのですがお坊さんと中々連絡つけれません。(折り返し連絡がない) 昨年は1回忌でしたので早目に!と、二月あたりに予約を取らせてもらったのですが、当時もお留守番の女性の方が出て 折り返しさせていただくと言ったきり10日経っても連絡がなく 忙しいからお忘れかなぁ?と気をもみながら再度連絡。 で、ようやく日時が決まりました。 その時もお留守番の方に、この日とこの日とこの日とこの日と…といくつかあげて希望日時を伝えたのですが。 この日は○○の日で忙しく、この日は○○の行事で、この日は…と全てダメだったのを覚えています。 では逆にいつでしたら大丈夫ですか?とお伺いすると、わからない。とのこと。お坊さんからの連絡を取り合えず待っていてください。←の10日間放置の1回忌でした。 初盆の時も車を路駐され、いきなり二階に現れたのには驚きでした。インターホンなし、挨拶なしのいきなり私たちの目の前をサササッと素通りお経でした。 今回の三回忌もどうしたことかと。。折り返し連絡がないのです。 その今回の三回忌のおつとめをしてくださることで頭がいっぱいで(親戚の方がとても口を出されるため) 私の実母の1月の三回忌を忘れてしまうという悲しい事態を引き起こしてしまいました。(義母の三回忌が終わり次第、心から謝罪し三回忌を落ち着いて行う予定です) 宗派は違いますが実母のお坊さんはとても親切なおじいちゃまです。 宗派は違うが義母さんのん、わしが拝んでやろうか←とも言ってくれました。 だめですよね?やはり宗派が違うお坊さんに依頼するということは。 同宗派でお坊さんを別のかたにお願いするほうが良いのでしょうか。出来れば現在のお坊さんに失礼のないような形が理想です。 宜しくお願いいたします。
いつも丁寧な回答ありがとうございます。 最近、何もかもうまくいかないし… 悲しいし、悔しいし、マイナスな事ばかり考えてしまいます。 イライラしっぱなしで、良くないことはわかっていますがイライラしてしまいます。 ハスノハで私たちの悩みを聞いてくださり、たくさんのアドバイスをくださるお坊さんもイライラすることはありますか? お坊さんたちは、皆やさしくて…心がきれいで…いつも心安らかなイメージです。 もし、イライラした時は、どのように心を落ち着けていますか? アドバイスをいただきたいです。
先日、親戚のお葬式に行きました。 確か浄土真宗だったと思うのですが、「ツナマンダ〜ツナマンダ〜」という聞き慣れないお経を聞きました。あれは何と言っているのでしょうか?よく聞く「南無阿弥陀仏」とは違うのでしょうか?
日本の主要な宗派は大乗仏教ですが、 上座部仏教のお経つまり阿含経を読誦することもあるのでしょうか? 例えば、阿含経の法句経の七仏通誡偈は天台宗や禅宗などで 読誦されたりすることはあるようですけど。 誕生偈も読誦したりする宗派・寺があると聞いたことあったりしたので。 もし、七仏通誡偈の他の上座部仏教の阿含経を読誦することもあるのでしたら、そのお経は何でしょうか? ご教示お願い致します。
お坊さんは、職業柄お葬式などに伺う回数が多い方もおられると思います。 とても親しい檀家や門徒の方が亡くなったときは、やはりお坊さんも涙を流すことがあるのですか? 友人の知り合いのお坊さんに以前伺ったときは、「一応僧侶として伺う場合のお通夜や葬儀の場では、立場上泣かないように心がけているし、実際に泣いたことも今のところはない。」と言うようなことをおっしゃっていました。 もし、泣かないと言う方がおられたら、どのように悲しみを乗り越えておられるのかも合わせて教えていただけると幸いです。
いつもお世話になっております。プロフィール通りのことを しでかして、デーケアは1ヶ月間の休養を余儀なくされました。 病院に行って、 「怖くて道もまともに歩けない。医者や支援者、坊さん、 警察官や保健師といったお役人しか信じられない。 これ以外の人たちはみんな、パソコンやスマホのウイルスや ランサムウェアーと同じで、一見いい顔をして『その機会』 を狙ってる、泥棒や痴漢やテロ犯だ!」と溢したら、 「さすがにその状態は危険です。直ちに修正をする必要が あります。カウンセリングや入院治療も視野に入れるとして、 せっかくお経が読めるなら、その手の状態を解決するヒント的な 経典はないのかしら?」 「実践プログラム的な修行や法語みたいなの、あるんじゃない?」 と言われました。 しかし、経典は数がありすぎて探し方すらわかりません。 浄土宗の教義については理解しているつもりですが… 密教と顕教の違いすら理解していません。 どこからどうやって、何を目安にしてお経を学べば いいんでしょうか?
あるお葬式でのお経(あるいはお経の前後に読まれるもの)について、気になることがあったので教えて下さい。 正確には覚えていないのですが、お経(あるいはお経の前後に読まれるもの)の中で、鴨長明の方丈記の一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。〜〜」に似た言葉があったように思います。 とても印象的だったのですが、あれは本当に方丈記の一節だったのでしょうか? だとしたら、どうしてその言葉が取り入れられるようになったのでしょうか? とっても気になって気になって仕方がないので、是非教えていただきたいです!! よろしくお願いいたします!!
事情があり地元のお坊さんにお願い出来ません、葬儀は他県で行う予定です、 枕念仏を自分でしたいのですがよろしいでしょうか? 般若心経しか出来ません 修行してないとダメでしょうか?