こんにちは。 仏教を勉強するうちに今まで誤解していた色々なことが明らかになって、例えば、今は無我もちょっとだけ納得できるようになりました。だいぶ落ち着いてきたのですが、実は因果応報について気になっていることがあるんです。よかったら、お暇な時に教えてください。 因果応報とは、良い事も悪い事も自分がやった事の結果が出て来るということなのですね。親や祖父祖母、そのまた上のご先祖様の代の因縁を自分が背負うなどということはあるのでしょうか。 借金など明らかなものではなくて、例えば何代も前の先祖の行いが悪くて人を泣かせていたから今度は子孫が泣かされるめぐり合わせになるとかそういうことです。そういうのは何代も前になれば事実関係を確かめられなくなっていきますし、気にしないで自分がしっかりしていれば大丈夫だ!と思うようにしてはいるけれど....でも、いかにも血のつながりで受け継がれていきそうな気がしないでもないんですよね。お坊さんのような人で先祖の因縁の話をする人がいたので、今でも時々ちょっと気になります。 因縁が受け継がれて子孫に因果応報が出て来るということはあるのでしょうか。 追伸 因縁を断ち切るお祓い数十万円とかいきなり言われたらさすがに怪しいと思うのですが、仏教の話もちょこちょこ入ってくるともっともらしく見えたりもするから....人の心って、もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。自分で自分のあやふやさに笑ってしまいました。
長文になってしまい失礼いたします。 私は現在、親とは別の地方で暮らしています。実家には盆暮れのお休みに帰省しています。わたしは母子家庭で、母方の祖父母に衣食住の面倒を見ていただいて、大人になりました。独りよがりかもしれないですが、母方の祖父母にはお世話になったので、できるだけの恩返しと供養をしたいです。 先日祖父が亡くなり、今後菩提寺をどうするか母と伯父で話をしたようです。伯父は遠方に住んでおり「墓はいらない、葬式はしなくてよい」と言っています。 母も私も父方の姓を名乗っております。 今は、かなり高齢なのですが祖母が生きているので菩提寺があります。祖母無き後は長男である伯父が菩提寺を引き継ぐことになると思っていたのですが、伯父の代になると菩提寺は無くなってしまいそうです。実際伯母の実家が、お墓がなく葬式もしない無宗教なので、それで良いと思ったようです。伯母も葬式や墓は関心が無いようです。従兄弟も法事以外で先祖に手を合わせたことがないので興味がないかもしれません。 母は自分の両親を供養したいようなのですが、他所の家の話で、費用もかかることなので、強く言えないようです。私は供養したいので、祖父母の菩提寺を引き受けても良いと思っています。しかし、皆それぞれ遠方に住んでおり、家族が集まるのは法事の時だけなので、まだ生きている祖母の前で話すこともできず・・(祖母は信心深いので、死後お参りしてほしいと思ってるようですが、息子も可愛いので、菩提寺を無くす話を聞くと許してしまいそうです。) 1 子孫が生きていて家系が続いているのに、縁者が一時的に菩提寺を引き継ぐのは非常識でしょうか? 2 別の地方に住んでいる場合、棚経など仏壇に来ていただくのは難しいと思いますが、どうなるのでしょうか? 3 伯父、伯母など母方の家の者がなくなった場合も菩提寺を預かっている期間は、従兄弟を差置いて、葬式や法事など私が喪主?になって引き受ける必要があるんですよね?従兄弟に怒られるのかな??どうでしょう?? このまま、母方の菩提寺がなくなるのを見ているしかないのでしょうか?何か良い方法があれば、教えていただけないでしょうか? (菩提寺には、檀家を解消するような話は何もしていないと思われます。母方の先祖の法事やお盆の棚経などもこれまで通り継続しています。)
今、日本霊異記と発心集をとても面白く読んでいます。その中で繰り返し法華経の功徳が説かれているのですが、どうも僕には法華経の凄さがわからないのです。 僕は浄土宗ではありますが、自分の宗派探しをして浄土宗に辿り着くまでに各宗派のだいたいの教えは勉強したので、例えば般若経の空の思想や密教の壮大さは素晴らしいと思えます。 法華経だけは角川ソフィア文庫の現代語訳を全部読んでも何が凄いのかよくわからない。法華経無内容説というのがあるそうですが僕もそれに加担しそうです。日本霊異記や発心集の時代の人々は法華経のどこにそこまでの尊さを見出したのでしょうか。 法華経を大事にしている方にとっては失礼に感じる質問かもしれませんが、法華経をこき下ろしたいのではなく先人たちの感じた素晴らしさを理解したいと思っての質問ですのでご容赦ください。
はじめてのご相談をさせて頂きます。長文でちゃんと文章になっているか心配ですがよろしくお願いします。 私は今、医療系私立大学の2年生です。現在家でオンライン授業を受けている身です。 私は1年生の時、学校でちゃんと勉強をしていた身でして、先生へ質問もたくさん行っていました。そのおかげで、1年の時はフル単位で終えることができました。 しかしオンライン授業になってから、先生への質問もままならず、オンラインの内容は薄く、このままじゃ試験に落ちるかもしれないです。 もちろんわからないところは友達に聞いたり、調べたりしています。レポートなども期限内に必ず提出しています。 昼夜逆転はしていない、ご飯はしっかり食べている、…ちゃんと生活しているはずなのに、夜は寝付きが悪く、集中力が皆無です。理解力がオンライン授業になってからひどくなりました。 何でちゃんと理解できないんだろう、問題が解けないんだろう、友達はちゃんと勉強してるんだとずっと考えてしまいます。 15分間ちゃんと集中する方法で勉強していますが、これも効果がいまいち…。 家に居続けると辛いので、外で散歩したりもしますが、全然気分転換にもなりません。試験が近づいているのにこの様です。 試験に落ちたらどうしよう、留年したらどうしよう、親に迷惑をかけたらどうしようとずっと毎日考えています。 みんな同じく大変な状況なことぐらいは十分分かっています。これは甘えなのかもしれません。でも辛いんです。夜とか少し泣いてしまいます。 私はこの辛さをどうすればいいのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いします。
つい先日の連休のことなのですが、私はバイト終わりに夕飯にしようと軽食を買って帰りました。母親はそのことに対して「(母も食べるかどうか)聞いてくれてもよかったでしょ⁉︎おかしくない⁉︎」と怒っています。 軽食と言っても値の張るもので、両親の分を買って帰るような手持ちはなく、また私はバイトを頑張った自分へのご褒美にと買ったもので、両親にも買って帰るのは少し違う気がしています。 確かに心に余裕があれば、両親にも食べる?と聞くことができたかもしれませんが、連休中はサークルで雑用を押し付けられたことや、友人との金銭感覚の違いによる苛立ち、バイト先でのクレーム対応、さらに大学の課題に追われ、ストレスを感じており心に余裕がなかったのは事実です。 勿論サークルの活動に参加することやバイトを連休中に入れたのも私が決めたことです。そのことにストレスを感じるのは違うと言われますが、それでも疲れは溜まってしまいます。 私はなんでもない日にケーキを買って帰ったりすることがあります。 たった一度、自分だけのために自分の分しか用意しなかったことはそこまで怒られなければいけないことなのでしょうか? おかしいと責められるようなことなのでしょうか? 私はケーキ買って帰ったりするけど、母はしないじゃないか。いつも私ばっかりじゃないか。連休中買い物行ったり、ライブ行ったり、母は自分の好きなことをしているのに、私は自分へのご褒美もダメなのか。と、イライラしてしまいます。これは傲慢なことなのでしょうか。 その後、口をきいておらず謝れというオーラを出してきています。しかも、父とも喧嘩したらしく母だけが悪いのか⁉︎と泣く始末。喧嘩するといつもそうです。父も私もそんなことは言っていないのに。そしていつも自分の非は認めません。 今回のことは、母が夕飯を用意してくれていたことへの配慮や気遣いがある行為ではなかったと思います。ですがおかしいと責められることではない気もしてしまいます。それに気を使うことに少しばかり疲れています。(母に対してだけでなく) 私はどうするべきだったのでしょうか、またこれからどうするべきなのでしょうか? 長文で申し訳ありません。
16年精神疾患で苦しんでいる息子がいます。あまりの苦しみを癒すために、お経を詠み、墓参りも欠かさず、とにかく普通の暮らしができるようになればと祈り続けていますが、一向に良くならず外に出れば体調が優れなくなり、絶望的な日々を送っております。 こんなに祈っても、参拝しても良くならないのは見離されているからでしょうか。 神仏とは本当に存在しているのですか?親として答えるすべもなく、疲れ果ててしまいました。現在は私が扶養していますが定年も近くなり、あとは心中する覚悟でおります。寺も神社も信用できません。
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
相手ではなく自分が変わらなくてはならないのは強く感じています。現世の感情はなかなかそれを許しません。夫の親を嫌い、似ている夫に嫌悪感を抱き、子どもの夢を叶えると言いつつも経済的な負担、それに伴う摩擦や自分の葛藤に押し潰され、火宅からでることができません。 自分の感情とどのように向き合えばいいのでしょうか、いただい試練に大切な私の人生の課題があると言うことなのでしょうか。できることをコツコツしていくしかないのでしょうか。 心が平穏でない現実では毎日お経を読んでいても、たくさんの想念が浮かんでいつの間にか囚われています。 自分の心をどのようにしていけばコントロールできますか? それが修行ということなのでしょうか。
『七観音経典集』という本を読んでいたところ、気になる部分がありましたので、ご質問させて頂きます。 『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』には、「若しもろもろの女人、女の身を厭賤して男子の身と成らんを欲し、大悲心陀羅尼章句を誦持するに、若し女の身を転じて男子の身と成らざれば、われ誓いて正覚を成せず。」とありました。 『十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経』には、「若し女人ありて、女身を捨てんと願い、この呪を誦持すれば、女を転じて男と成り、所生の処は、常に佛前に在りて、蓮華に化生せん。」とありました。 これらの陀羅尼を誦持することで、トランスジェンダーにご利益があるでしょうか。 また、どちらもFtM(女性→男性)のことが書かれていますが、MtF(男性→女性)にも同じことが言えるでしょうか。 ご回答いただけますと幸いです。 よろしくお願い致します。
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
お経やお題目 勤行など 繰り返す事で 得られるものが 有りますが それは言霊という事でしょうか? 素晴らしい言葉は繰り返す事に意味があると 受け止めたらよろしいのでしょうか 私くしは、仏様はとてもありがたいのでしょうが 聞こえてまいります 仏様らしき言葉で 苦しみ普通に 生きていけていません。言葉とうりに生きたら 私は 子供を置いて出家し お坊様になる道だけを一心不乱に歩み 自分の人生全てを仏様に尽くして参らないといけません。 でも、私は自分に甘く 子供や親も心配ですし 無責任に 子供を置いて 仏様に尽くしていくわけにいきません。 仏様の心を無視し生きてもいいのか 苦しくてしかたございません。 師は私のせいじゃないから 今自分の人生を歩みなさいとおっしゃってくださいましたが どの言葉を私は 受け取ればいいのかわかりません。 悩みというか どう表現していいかわかりかねますが 自分達の幸せをとるか 皆様の幸せを自分が背負っていくか その様に選択を迫られている様に感じ 答えをだせません。 仏様は本当に仏様なのか 私には怖い存在でございます。
先日ある方の講演会で、人生には縦軸に充足感と孤独感不満で横軸に病気貧困と成功名声。 いくら成功名声を手に入れても、本人には孤独感や不満感が顔の表情に出て、何故か満たされない雰囲気がある人になるくらいなら、たとえ貧しくても病気を抱えていても人生に充足感が出ている人になりたいとおっしゃいました。 おっしゃった意味はよくわかります。 私には勿論、地位や名誉も有りませんし、今迄生きて来て人に話せる事も何も無く、人生に充足感が全くありません。 そして今は仕事も辞め、親の介護を担っています。 人様には介護をしてると言いながらも、私の心の中は心配を掛けた親だから介護をしなくてはいけないと言う気持ちと、もういい加減にして欲しい、今すぐに親から距離を置きたいと言う気持ちがいつも交錯しています。 知り合いからご両親が介護する事無く亡くなられたと聞くと、「羨ましい」「どうして私ばっかり」などと思ってしまいます。 何事にも一生懸命やれば充足感は得られるものでしょうか? それはその人間性によって違うものでは無いでしょうか。 すみません文章がまとまっていませんが、よろしくお願いします。
自分は長い間1人っ子の1人親で2人暮らしをしていました。 そしてその親の葬儀での事です。 葬儀の日が近くなった時、元々来る予定でなかった、遠縁の家族が参列するとの連絡が入りました。 そして当日になって、その家族が時間に遅れるという連絡が入りました。それ自体は仕方のない事だったので、お坊さんに伝えたところ時間を調整してくださる事になりました。 そしてその家族が到着し、葬儀が始まりました。するとその家族の子供が騒ぎながらあちこちを歩き回り始めました。 子供が来る事は分かっていたし、そちらの親族は大人がかなり多いので自分はそこで面倒をみてくれると勝手に考えていました。実際は子供が騒ぐままにさせて歩き回らせていました。 自分はただでさえ悲しみでいっぱいなのを堪えてきていて、しかも喪主でしたから、ただ子供が大人しくしてくれる事と誰かが面倒をみてくれる事を祈りながら黙って座っていました。子供が仏具にぶつかって倒しかけた時は気が遠くなりました。 自分は人の居ないところで訳も分からず泣く事しかできませんでした。 葬儀がひと段落したところで、そちらの家族に近い親族に、「子供が騒いだけど 〇〇さんの葬儀も語り出してお経止めた人が居たよね」と言われました。ただの世間話だったかもですが、その時の自分はまるで「よくある事だから許してね」と言われたように感じました。自分が悲しんだところでもう味方は居ないような気になりました。 「子供のした事だから」「今後も親戚付き合いがあるから」と感情を抑えながらなんとかその家族達を笑顔で送り出そうとしました。コロナでマスクをしていて本当に良かったと思いました。 この事について謝罪を送ってきたのはその子供の祖母に当たる人だけです。 後で聞いたところ、この家族は遊びに行った帰りに葬儀に参列した過程で遅れて来たそうです。それを聞いたせいでしょうか、親の葬儀をアトラクションの延長にされたような気持ちになりました。 自分はどうするのが正解だったのか分かりません。自分が上手くやっていたらこんな事にはならなかったと自分を責めたくなります。 そしてその家族と、その周囲への怒りも湧いてきます。どうしたら良かったのでしょうか。そしてどうやってこの怒りを消化したら良いですか。 知見をお貸しくださると幸いです。
4年前に母が78才で急死しました。 借金がある事が発覚して、発覚した時は財産放棄出来る時期も過ぎており法的にそれを免れる事が出来ませんでした。 今、その債務の処理に苦しめられており、母を恨んでおります。 もう、金輪際、二度と墓参りに行くまい、と心に誓い、毎日、あの世で更に死ねと恨み言を呟いて毎日を過ごしております。 本当に許せません! この辛い気持ちはどうすれば癒されるのでしょうか?
悩みは簡潔に申しますと、気の合わない母親が 私に甘えてこれば、衝動的に不快な気分になります。 理由は色々ありますが箇条書きにしていきます。 1、小さい頃から侮辱されてきた(現在も) 2、20代の若い頃に、精神的な助けを求めても無視された 若い頃はお金がなく、中学生の時に母親は再婚しましたし 辛い青春時代でした。母親に精神的に相談したい事も沢山ありましたが 再婚相手とイチャイチャしたり、自立してからも辛い時、すぐに電話を切られたりと 母親を何度も何度も、死んでしまえくらい恨み、よく友人にも相談しました。 4、中三の時に両親が離婚。母親は職場の人と再婚。 私の父親は、酒乱で暴力をしていましたし、離婚は当然だと思います。 私は父親とは気が合い大好きでした。(父親は私が23の時に亡くなりました。) 母親は侮辱や罵倒するので、父親が暴力・・を奮っていた気持ちも少しは理解できます。父親が生前、言っていた母親の言葉の暴力も、よくわかります。 5、人に頼る癖がある。 母親は自立した事がなく、一人で生きた事がないので、話していて何だか色々な意味で薄っぺらい人のように見えます。 終始、『だって私は女だから。あんた男でしょ』という感じです。 ・・・ここまで母親の悪口を書きましたが、 母親は、母親で、育ちが悪く、とても苦労をしてきた人だとは思います。 父親の暴力に耐え、再婚したとはいえ、ちゃんと面倒は見てくれましたし、 思い返せば精神的には罵倒され苦労しましたが、引越しのマンションの頭金を払ってくれたり 陰ながら助けてくれた事もありました。 感謝しているところは、感謝しているのです。 (多分、単に人に優しい言葉をかける事の出来ない人なのだと思います。) ただ・・・どうしても若い時の恨みが大きすぎたせいか、侮辱するような言い方(本心ではしていない思いますが)をするせいか、少しでも母親が私に甘えてこれば、 条件反射的に私は、 『何を今更。』 『そんなに姉を褒めるなら姉に面倒みてもらえ。』 ・・・と、『優しくしてね。』のような態度をとられると条件反射で怒り覚えてしまいます。多分、若い時の辛い記憶が蘇ってくるのだと思います。 しかし反面、母親を慈しむ、大切にしたい、普通の息子としての感情も入り乱れています。 何か良いアドバイスなどありましたら何卒よろしくお願い致します。
今まで両親とは比較的良好な関係を保っていましたが、結婚して義両親のあたたかさや子供の人格を尊重するような姿勢に触れ、今までのわたしの両親への不満や不信感が噴き出てきて実の両親と付き合うのが耐えられなくなり、数ヶ月前に連絡を断ちました。顔も合わせていません。 先日、私の誕生日だったのですが、その際にプレゼントと手紙を渡しに来ました。 そのこと自体はありがたく、愛を感じましたが、それでもこれまでの経験や彼らの態度を思うと今すぐに関係修復は無理だなと思います。実際、この数ヶ月悩みに悩みましたが、夫との交流で私が求めていた形の愛を知ることができ、連絡を絶って良かっと思ってしまっています。 祖父母の命日が来月あるので、その時に嫌でも顔を合わせることになるのですが気が重いです。両親とは会いたくないけど祖父母のことは大好きなのでお参りしたいです。 別日に、とも考えましたがお寺さんが来てお経をあげてくださるのでその日に私も同席したいです。でも親と顔は合わせたくありません。 どうすればいいですか?
こんにちは。ご閲覧ありがとうございます。 私は自分に呆れてしまって、自分に価値が見出せなくて、自殺を考えています。 理由を書くと千字を優に超えそうなので控えさせていただきます。 しかし、親は愛情いっぱい育ててくれたし、私を愛してくれる恋人もいます。だから今まで思いとどまっていましたが、 今はもう自分勝手と言われようが誰が悲しもうが消えてしまいたいと思ってしまいます。最低だとは分かっています。 でも、親や恋人のことを考えるとやはり死ぬことは良くないとは思います。しかしそれ以上に今存在しているのが本当に本当に辛いです。ずっと葛藤しています。 どうか、自殺願望を打ち消せるような考え方をご享受して頂きたいです。 拙い文章ですみません。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
不登校息子と暮らすシングルマザーの母です。 かれこれ、2年近く。 毎日部屋でゲーム。 昼夜逆転。 ひきこもり。 起きていれば、ほとんどご飯は一緒に食べます。 受験を控えてる息子ですが… 本人は、全く勉強もせず、最近は登校も全くせず… でも、全日制に行くという意思が強く。 最低限のやるべき事は伝えてありますが、全然行動に移さない。 ひとつ屋根の下で毎日時間だけが過ぎてく。 このまま本人を信じ見守った方がよいのでしょうか?