なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
こんにちは。私の実家は江戸時代より続く寺です。小さい頃より家を継ぐのが楽しみで、僧侶になることに今は迷いはありません。現在は大学生活を楽しんでいますが、卒業後は家を継ぐ予定です。僧侶になったからには人の為に生き、悩み苦しむ人の為に身を削る覚悟でいます。その為には辛苦をいとわないつもりです。 ただ、その様な僧侶となるためには今何をすべきか、勉強をしておくべきか、最近の寺に求められていることは何なのかといったことが自分の中で不明確になりつつあります。 現役の僧侶の皆様、人の為に生きる僧侶となるために今何をし、勉強しておくべきか。そして、今の寺(僧侶)に求められていることは何かご教示頂けないでしょうか。よろしくお願い致します。
2年前から精神病を患う彼について、ご相談いたします。 会社で上司と折が合わず、2年前に会社を退職し、 その後、突然倒れ意識不明でICUに入院していましたが、回復し今は病院に通いながら療養しています。本人からは、検査をしても倒れた原因ははっきりわからず、体調が良い時は外に出かけられますが、悪い時には一切の連絡がなくなります。 そのような繰り返しで、私も見守り続けて3年目になります。 毎日顔を合わせるのであれば、彼の様子がわかるので私も安心できるのですが、ずっと遠距離恋愛のため、見えないなかで、待ち続ける日々です。 現在も、11月の季節の変わり目で体調が良くないと連絡がありそれから、一切の返事がありません。 私も、会社までの通勤が片道2時間かかるため、日々の生活にクタクタで精神的にもキツイなと感じてきました。 願望成就の本に書かれてるような、未来の生活を楽しくイメージなんてする余裕もなく毎日いっぱいいっぱい1日を過ごし、休日は体を休めるだけで終わるような日々です。 どうか、私のこの心をお救いいただけませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
私は40代既婚子供が3人います。 相手の女性も既婚で子供が2人。 人に見られないように 二人はホテルで会うことしか出来ません。 お互いの肌が触れあってるときだけ すべてを忘れることができるのです。 妻を愛していますので 家庭は壊したくないのです。 このままだと 身体だけを求める関係になりそうで 心が苦しいのです。 でも彼女との行為は 若い頃の情熱がよみがえり 活力が湧いてくる実感があります。 自分の愚かしさと後ろめたさでいっぱいです。 分かれるべきでしょうか? こんな私が救われて行く道はあるのでしょうか?
お坊様へ 私は今、転職活動の最中にあります。 年齢的にも苦戦しております。 その中、たまたま講演会で 講師で食肉処理センターの社長の話を聞くことがありました。 興味があれば見学に来ませんか? というお話もございましたが諸事情でまだ連絡をしておりません。 パンフレットから企業研究をしておりますが「と畜」を行っているようです。 書いてある作業工程をインターネットで調べますと、一般的技術として行われる工程が殺生ですから私にとってはショックに感ずる可能性があります。 消費者として普段肉は食べております。 食卓に届くまでに欠かせない業種であると思います。 この会社に応募するかまだ分かりませんが、 お坊様から見て職務上避けられない殺生という事についてどのように考えたらよいかいくつか伺いたいと思います。 ・地元のお寺の行事ではお坊様が 「私の後に続いて唱えてください、では『不殺生』…」という形でお唱えしますが、これが守れないようになりますがどうしたらよいですか? ・この業種では100kg位の動物のと畜を専門にしており、 最初の工程では生きている状態の動物にかなり接近して処理を行うようですが、その動物にどのような態度で臨めばよいですか? (「感謝」はするべきだと思いますが、動物にとっては自分の生き死にですので、どこまで許してくれるかわかりません。 また、一日の処理頭数はかなりあるのが一般的なようなので、 「特別なお祈り動作」をしていると作業上事故の元になる恐れが考えられます。) ・ある程度頻繁にお祓いに行く、或いは毎日・毎週・毎月の単位で慰霊碑や近隣寺院にお参りに行くなどという事をするべきですか? (何らかのたたりなどへの心配) ・工場の衛生基準で持ち込めるか不明ですが、何かお守りを所持した方がよろしいですか? ・この仕事に従事することで、 将来例えば「お坊さんになることができなくなる」とか 「一定のお寺に参拝できなくなる」とか 何か仏教上のペナルティのような何かが発生することはありますか? とんでもない事を質問しているかもしれません。 ただ「TPPで日本の畜産がどうなるか」は他で調べられても、 こういうことはお坊様でないとお伺いできそうにありません。 大変恐れ入りますが、お坊様どうか何卒ご教示お願い申し上げます。
2度目の質問を書きます。 お盆には彼の実家の手伝いをし、彼の四七日がありました。檀家さんへの挨拶では私との付き合いを再び話されました。葬儀でもそうでしたがすでに有名人です。家族のように存在するが家族ではない、彼の実家は孫が生まれて明るい光が差し込んでいるのを感じますが、それがまた私だけ とりのこされたようです。昨日から自宅に戻りましたが以前よりも孤独の苦しみを感じます。気持ちが落ち着いたと思っていたのに、冷たい顔、痛々しい跡。留守電に残った「電話に出てください、誤解なんだお願いします」と言う言葉を何度も聞いて、自ら死を選ぶ道しかみえません。ただ、急にいってしまう事はまわりに後悔する人を増やしてしまう、迷惑をかけたくないと思いますので、仕事を休みまわりにも楽になるために自分で選んだ道、誰に何を言われようと生きてはいけない。と言うことを伝えて死にたい。悲しませることは分かりますが早く楽になりたい気持ちしかありません。10月には百か日が終わりますので、それまでに片付けなどを済ませていきたいと思います。これからは辛い、苦しい悩みは他人には言わないようします。こういう道もあるのだと思いますが、仏教の教えでもよしとはされないのでしようか? 何か一言でも言葉がいただければ今日1日のちからとなれる気がします。 よろしくお願いします
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません
死後の世界ってあるんでしょうか?
こんにちは 初めて質問させていただきます この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました 言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか? 悟りの自覚は明確なものなのでしょうか? この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
おはようございます。 数年前に独立し個人事業主になりました。 がしかし、ここ最近顧客が減り売り上げが芳しくありません。 好きな仕事ですしこの先も続けていきたい、スキルアップしたいとの思いで日々頑っておりますが正直心が折れそうです。 自信をもって100%の力で挑んでいるのですが、結果がついてこないということは私の力不足・人間性の問題かと落ち込みます。 今の仕事に関するセミナーに出てみたり、設備投資してみたり、神仏に頼ってみたりがむしゃらに掃除をしてみたり、怪しいブログも読んだりしました。笑 でも自分の理想とする結果にほど遠く。。 上記の行動もはっきり言って今の不安から逃げているだけなんですけれどね・・ さぁ次は何をしようか。。 こんな私にアドバイスを頂けたらと思います。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
お坊さんは、どんなふうに休憩しますか。休みをとりますか。 私は、どうも休憩の仕方が下手です。 精神的な疲れが休日があっても全くとれません。 精神的疲労がたまるばかりで辛いです。 仏教と少し関係のない質問で申し訳ないのですが お坊さんのアドバイスをいただきたいと思い質問させていただきました。 よろしくお願いします。
前も相談させていただき、ろくなお礼も言わず失礼なことをしながらまた相談してしまいます。 息子が事故で他界し、周りに言われるがままに生活し、2か月たちますがやっぱり息子の所へ行きたいです。その思いが前より強くなりました。 息子の父親とは離婚していて、彼氏がいたのですが、今私が死んで後悔するのは彼氏くらいなので、別れようと思います。 少なからず悲しんでくれる人もいると思いますが、前、会社の人が亡くなった時に1年も経てば思い出に変わることもわかりました。 四十九日も終わり、香典いただいた方にお礼言わないといけないけど、深い付き合いでもない人には知られたくもないのに話した人がいて、香典をいただき、お礼は自分で言ってと言われ、お礼を伝えるのはいいのですが、軽い同情が1番キツイからお礼の返事も聞きたくなく… 自死はだめなのかなと思いはしますが、この苦しみから逃れるには他に方法が見つかりません。
はじめまして。 1年以上前の、春の話ですが、飼い犬を死なせてしまいました。 赤ちゃんの時からずっと一緒で、どこへでも連れて行っていました。 あの日、犬と一緒に一泊旅行で山へ出かけました。 すごく寒い日で、車中泊だったのですが、暖房をつけても寒く、なかなか寝られず、、 翌朝、明朝から私だけ軽い登山へ出かけました。 犬は車内でお留守番してもらっていました。 登山に予想以上に時間がかかり、すごく日が昇ってきました。 犬が心配になり、急いで下山しましたが、熱中症で亡くなっていました。 寒い日だったので熱中症のことは全く頭にありませんでした。 私の知識不足です。 犬は、リードを咥えて亡くなっていました。 車内が熱くなっていて、出して欲しかったんでしょう。犬は汗がかけないので、舌を出してはぁはぁして体温調節をします。その息が水滴になって、身体はびっしょりになっていました。 どれだけ苦しんだか分かる亡骸でした。 その光景がいまでも頭から離れません。 私の知識不足で死なせてしまったこと。 まだ6歳でした。 生きていればあと15年は生きられたと思います。 その日から、罪の意識で苦しんでいます。 仕事は辞め、いまもまだちゃんとは働けていません。 あの子の笑顔を思い出すと涙が出てくる。 あの子の苦しんだ亡骸を思い出すと、死にたくなります。 いまは同じ犬種の保護犬をもらい、一緒に暮らしています。いまの子を愛することで、贖罪になればと思っていますが、いまの子に愛情をかけても、なぜ前の子にはそこまでしてやれなかったのか、と後悔ばかりです。 また会いたい。会って、抱きしめて、私の過ちを謝りたい。 亡くなった日、まだそのときは何も知らない遠くに住む家族の夢に、犬が出てきたそうです。 ですが、私の夢には一度も出てきません。なぜでしょうか? いまだに骨壷を部屋に置いています。その子が、離れたくないと言ってるような気がして、、 どうしたら、前向きに生きていけるでしょうか。
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
出産は命懸けですよね。 その事は男女共に知っているはずです。 愛する人が死ぬのは悲しいことですよね。 当たり前です。 ならばなぜ男は愛する女の命を危険に晒してまで子供を生ませるのでしょうか? 本当に愛しているなら女が死ぬかもしれない行為をわざわざするでしょうか。 子孫を残す為と言う人がいますが、つまり女の命を尊重するより子孫を残すことを選択したということですよね。 私には男が愛を言い訳にして自分の子孫を残す為に女の身体を利用してるようにしか見えません。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。