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問答一覧
検索結果: 253件

『なぜ私だけが苦しむのか』

これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?

有り難し有り難し 34
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幸せになれない

勉強しようとすると抑えられない破壊衝動と怒りが込み上げて、家の中にあるものを片っ端から壊したくなります。これだけ勉強が嫌なくせに、大学は良いところに行きたい、幸せになりたいから尊敬できる人が多い場へ身を置きたいと、夢(もはや妄想)が膨らんでいきます。 勉強ができない自分、他人に必要とされることは無いのに自分は他人を求めて依存しないと心が潰れてしまう自分、自分が好きだった事も嫌になった自分、恋人に依存して見放されそうになった途端自殺をほのめかして困らせてしまう自分、他人のために生きられない自分、どうせ自分には出来ないと全て諦めた自分、自分の内面が全て嫌いで、今生きるのが本当に辛くて苦しくてたまらないです。今の現状、自分の事も自分の周りの事も、全てが嫌です。 今後生涯、幸せに生きている自分が思い描けません。近い将来、ふと思い立って自殺する自分が鮮明に思い描けます。 自分がどうなりたくてどうしたいのかがわかりません。 こんな苦しくて辛い人生を送り続けるなんて耐えられません。だったら死んだ方がマシです。 この辛い気持ちをどうすれば変えることができますか。全てを諦めて希望のない心をどうすれば回復させることができるのでしょうか。

有り難し有り難し 9
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無常観と向き合いたい

昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。 研究が上手く行った時、恋人と互いを大切にできた時、音楽で満たされた時、古典を読んで古人と共感した時、夕焼けや木漏れ日など身の回りの自然に感動した時、幸せを感じることは多いし、上手く行っているときは自分が本当に幸せで、信じられないくらい恵まれていると思えて、自分を取り巻く全ての人や、私に恵みを与えてくれた運命か何か、すべてに感謝しています。 しかしそのようなポジティブな気持ちは長くても一月も続きません。何か上手く行っていないことをきっかけに私はまた、無常観に捉われるのです。 結局人は皆死ぬし、文明も人類も滅びるのに、自分はなぜ何かを残そうとしてもがいているのだろうか。究極的には人は孤独で、全てをわかり合うことはできないのに、なぜ時に寂しくなりまた傷つくのだろうか。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。 私の虚しさは、もし、一神教の神を信じることができたら、私の悩みは救われるような気がします。善悪を教えてくれ、自らの行いを見て報いを与えてくれる神の存在を信じられれば(そんな単純ではないかもしれませんが)。しかし、そのような価値基準と人格を持った神を、私は信じることができないと思います。 私は人智を超えたものを否定しているわけではありません。たとえば、個人の力ではどうしようもない巡り合わせは存在して、それを運命と呼びうると思います。 しかし、私が科学者であることと関係があるかもしれませんが、それらは価値判断とは無関係なニュートラルなもので、人間に喩えられるような心を持っているとは思いません。ですから、自らを神に任せることで苦しみから解放される、という類の救いは私には訪れない気がします。また、そもそも、人智を超えたものも、全ての価値も、結局人間の心が生み出した共同幻想である、という考えから自由になることはできません。するとやはり虚しくて辛くなります。 なんでも構いません、このような私が、無常観から逃れる、もしくは無常観と向き合うヒントをいただければと思い質問させていただきました。 悟りを得る具体的な行動や、東京都文京区に住んでいるので、具体的な法話や修行のご案内もぜひお願いします。この質問をきっかけに、長年の悩みに前向きに取り組めたら嬉しいです。

有り難し有り難し 20
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凡夫成仏している人、2人目を見つけました。

(編集部より。規約により一部を変更しています) いつもお世話になっております。 感謝申し上げます。 もう一人凡夫成仏している人をみつけました。 凡夫成仏していると思われるコメントは以下の通りです。 神さまという宇宙的な意識と人とをつないでいる媒介者から「メッセージ」が発せられていのだと私は思います。 心の中に直接メッセージが伝わってくるという感覚です。 Q1.神さまと向き合うにあたって,どのような心的構えが重要なのでしょうか。 無理に礼拝を行う必要はない。 Q2.神さまはどこにいらっしゃるのでしょうか。  万物が神。この世界が神。この世の中にあるものすべてが神の顕れである。自然(宇宙)が神である。お前は神の中に生きている。お前の心の中にも神はいる。霊界も,神界も,仏界もすべては自分の心の内側にある。 Q3.偶像や神話は本当のことなのでしょうか。  神仏の偶像や神話は人間が勝手に作り上げたものである。 後世の歪曲や改竄が甚だしく,事実関係を反映しているとは限らない。人の意識が神のイメージを作り上げ,人間の行いを正当化するように神話は作り上げられた。 Q4.神社やお寺に神様や仏様はいらっしゃるのでしょうか。  神社,寺院に神仏がいるのではなく,自分の意識が映し出され神仏の働きを感じ取りやすい場所が神社や仏閣だ。本来は自分がどこにいても神仏との交信は可能である。また,神具や仏具がないと神仏を拝む気になれないのは,信仰としてはまだまだ未熟である。 Q5.神仏との交信はどうすればできるようになるのでしょうか。  意識状態を変えることで誰でも神仏意識を感じることができる。 お前たちが勝手に作り上げた偶像や逸話が神仏と一体化できない障壁である。天界,地界,人界。神仏と人,これらは本来1つである。 神が色々なものに姿を変えて現れるというのもも同じである。 Q7.罪と罰についてどう考えれば? 罰とは人間の恐怖心罪の意識が罰となって生じる。神は罰を当てない。自分で自分に罰を当てているだけ。人間の社会で悪行を積み人々から怒りや憎しみを買っているのになぜ罰が当たらないのか。善良な者の身に不幸事が襲うのはなぜだろうか。 神は全てのものへ平等に光を放つ。どんな悪人にも光は降り注ぐ。その光を遮るのは本人の意志である。

有り難し有り難し 17
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「赦す」ということについての質問

宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?

有り難し有り難し 56
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恨みが消えない、でも良い出会いもあった

かつての上司にやられたことの恨みが消えません。えこひいきされ面白い仕事を回されず、挙げ句トラブルの責任を押しつけられ、最後には希望ではない部署に異動させられてしまいました。 その上司は外面だけよくて、上からの評価はまあまあ悪くはないのです。それが許せず、その上司の職場や、実家、その妻の職場などに嫌がらせ行為をはたらいてしまいました。しかし因果応報なのか、最終的に、その上司は別の不祥事を起こし、閑職に飛ばされました。その点に関してはすっきりしています。 でも、恐らく私が嫌がらせ行為を行ったことは、社内のどこかで噂として広まっているだろうし、また、彼が閑職に追いやられてすっきりした今でも、まだマグマのように怒りがたまっています。 思えば、こうやって過去の恨みにとらわれているのは10代の頃からずっと同じなのです。他人が自分を大切にしてくれなかったとき、その出来事がふとよぎって、仕事に手がつかなくなったり、夜中に眠られなくなったりして、相手への復讐心でいっぱいになり、自分自身が損するにも関わらず攻撃を繰り返してしまうのです。 これからも生きていたら、誰かにぞんざいに扱われたり、ないがしろにされたりすることはしばしばあると思います。そのことに、いちいち恨み、攻撃していては、自分自身が前に進めないことは自分でも分かっています。でも、恨みから抜けられないのです。いつか自分は、人を殺してしまうんじゃないか、という恐怖すら感じます。というか10代の頃、自分はいつ人を殺してもおかしくない、と思っていました。 ちなみに今の上司にはとても恵まれています。自分のことを育てる気もあるし、能力も高く、仕事に対する価値観も近く、思いっきり成長できる千載一遇のチャンスだと思っています。ここで飛躍して、大きくなりたいたいのです。だからこそ、過去にとらわれたくないのです。どうしたらいいでしょうか。 どなたか、私を恨みの地獄から抜け出させてください。

有り難し有り難し 14
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