私は浄土真宗の教えに触れて前よりも煩悶せず心静かに過ごせているように思います。 そんな中で気になったのですが、浄土門の各宗派において、浄土で阿弥陀様のお導きで悟りを得させていただくのはこの先の何度も何度も続く輪廻転生の先のいつか、という理解になるのでしょうか? 今生だけでも長く苦しむこともある遠い道のりとはいえそれでもいつかは悟りを得させていただく身と考えて子供の頃の悩みや恐怖、不安が大人になってからはそんなこと気にしなくてよかったと思えるようになったみたいに今のこの身に起こる煩悶も少し離れて見られるような気がします。 何度も生まれ変わるとして、その時にも仏縁に導かれたいものです。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
念仏を1度唱えるだけで死後の極楽は保証されますか? 唱えただけで悟りを開いたことになるのですか? 唱えても何も変わりませんが、これで救われたと言えるのでしょうか?
仏教で絶対の幸福というものがありますが本、セミナーでは理解することが出来ません やはり、お坊さんとの問答で何年という時間(お金)をかけ、理解するものなのでしょうか? 時間をかける事に意味もあるのでしょうか? 楽して理解する事はやはりお釈迦様が許さないのでしょうか? 人間関係で生きずらさを日々感じています アンケートなどで生き方が180°変わった、目からウロコと言うような返事が寄せられています 絶対の幸福が理解でき これからの人生に役立てればと思います よろしくお願いいたします
座禅の心構え、姿勢、やり方を教えていただけないでしょうか?宗派によってかわるのでしょうか? また、座禅の最終目的は悟りを開くことなのでしょうか?
初めまして お答えしているお坊さんの中には、苦を滅しつくされた方が多数おられることと存じます。 お釈迦様はこの世(苦界)に輪廻しないように解脱を説いてくださったと本で読んだことがあります。 悟りを開かれた後で、他の修行者でも理解してくれるかどうか迷い、梵天さまから法を説いてくださいと言われたと記憶しています。 この世での人生は、四苦八苦を体験させられ修行する場所である。人生は苦から逃れるために、楽しみを追い求めることに意味と価値を置くことは間違いなのでしょうか。 お釈迦様が悟られたときには、法を説くこと以外に、お釈迦様にとって人生には意味も価値もすでになく人生に未練もなかったのでしょうか。 真実に達した人は、人生を淡々と生きて自然に委ねている。悟り以外に人生の意味や価値を求めることは結局は苦を味わうだけなのでしょうか。
現在、彼氏もおらず実家に住み、収入も低く、生きている意味が見つかりません。 しかし死ぬのは怖いです。 生きてて楽しいこともなくこの先の生活に対する不安で眠りも浅くつらい日々です。 30歳になり女としての価値もなくなり仕事も誇れるスキルがない。 最近は人と話し、自分が劣ってることを自覚するのが怖く休日は家にこもりがちです。 生きていくための意味はどうやったら見つかるでしょうか。
次郎長親分が山岡鉄舟に悟りとは?と 問いました。 山岡鉄舟曰く「精神満腹」と返したそうです。 その精神満腹になるにはどうしたら良いでしょか?
それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね
小一の息子が最近、『隕石が怖い、どうしたら悟りを開けるの?』と真剣な顔で聞いてきました。理由をよく聞いてみると、以下のようなことでした。 宇宙に関する教材で、地球にはその昔たくさんの隕石が落ちて来たこと、そのせいで恐竜は絶滅したことを学んだ。さらに、これからも落ちて来る可能性があると聞いて、隕石に対して強い恐怖を感じている。 また、別の日にTVでたまたま見た仏教の番組で、人は何度も何度も新しい人生を繰り返し生きる輪廻の話を聞いた。そこから脱するためには悟りを開くしか方法がない、ということを知った。 だから、自分がお爺さんになって死ぬまでに隕石が落ちて来なかったとしても、次の人生がまた来てしまうから、早く悟りを開かないと、隕石の恐怖からは逃れられない!と考えて先の質問をしたようです。 毎晩思い出してしまい、眠れなくなるほどで、本人はかなり真剣に悩んでいます。色々と安心させる言葉をかけてみましたが効果なく、、専門家の皆さまのお力をお借りできますと大変有り難いです。よろしくお願いいたします。
俗世間で言われている幸せ(会社員として働き、良い家庭をつくる)に価値を感じず、悟りを開きたいと思っております。 ですが、今の仕事では結果を出すため、そして生活を送るために毎日嘘をつくことになる(不妄語戒をおかしてしまう)ため、出家すべきか転職すべきか迷っています。 2015年10月から訪問販売の仕事をしています。今の会社では、この仕事で生活できている人たちは皆、 「この辺りのお宅では皆、買ってもらってますよ」などと日常的に多くの嘘をついています。私も結果を出すために、同様の嘘をついています。 嘘をつけば不妄語戒をおかし、悟りには至れない。嘘をつかなければ、結果が出ないのでこの仕事では生活できないというジレンマがあります。 元々「自由に休みが取れるようになりたい」という欲から選んだ仕事なので転職自体はまったく問題ないのですが、そもそも嘘をつかないで俗世間の仕事をこなせるのかどうか疑問です。 もし俗世間の仕事で嘘をつかざるを得ないのであれば、いっそ出家して修行の道に入る方が良いのではないかと思っています。 また、生活のために嘘をついている面もありますが、それ以外でも自分の心の弱さゆえ、見栄を張るために嘘をつくことがあります。 まずは出家せずとも、俗世間の仕事をする中で戒律を守り、悪行をしない努力をさらに重ねるべきなのでしょうか。最後までお読みいただき、有難うございます。
自由意思はあるのでしょうか? 全ては決まっていると考えた方が、 現実を受け入れやすくなり、 苦や自我から解放され、 悟りの状態に近づけるのではと思いました。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
はじめまして。 近頃仏教に興味が湧いてきました。そこで悟りを開くために自分も何か修行しようと思い、どのように修行をすればいいのかを知りたくなりました。 今はまだ出家する気はないので、出家せずにする修行法を教えてください。 スポーツも年々新しい効率的なトレーニング法が考案されますが、仏教にも最新式の修行法などがもしあれば教えていただきたいです。
今、大学で、全然宗教とは方向性が違う学部を選考してやっていますが、この時点からどうすれば、お坊さんになれるのでしょうか? 大学は中退した方が良いですか? 正直、真面目に就職して社会と自分を無理矢理結びつけるよりもお坊さんになって大自然の中で悟りを開く修行に打ち込んだ方が自分にとって有意義だと感じた為です。
仏教に興味を持ち悟りについて考えるようになりました。 そして最近物に対する執着が薄れこだわりなどが無くなって来ました。 ですが、今まで物欲をエネルギーに仕事を行っていた部分もありそれが薄れてしまいました。お金のためではなくやりがいや人の為に仕事をしようとふうに考えたのですが、そうすると長時間の残業、休日出勤、出世競争などに矛盾を感じるようになりました。 今は自分のコントロールが難しいと感じている状態です。 どのように考えればよいのか、どうかご教示のほどお願い致します
忙しく世知辛い毎日を送っているのですが、 先日、金魚の水槽の水を取り替えました。 夜、きれいな水槽の中でスイスイ泳ぐ金魚を見ていると、 時がたつのも忘れて見入ってしまいました。 ふと、「心を空っぽにして、ただ金魚を眺めるだけって、 すごく仏教的な行為だよな」と思ってしまいました。 闇夜にカラスの鳴き声を聞いて悟った禅僧の話も 連想してしまいました。名前は忘れましたが・・・ 私にとって金魚を眺める一時は、癒しの時間でしたが、 修行を積んだお坊様は、水槽の金魚にさえ 悟りにも通じるような真理の片鱗を感じ取るものでしょうか? それとも、金魚はただの金魚ですか?
最近、仏教に興味が湧き、手始めに仏教関連で気になった言葉などを調べています。宗派などの考え方の差異にはまだ触れられてません。 仏教関連の言葉を調べている中で度々目にする「涅槃」と「浄土」、どちらも煩悩から解き放たれた悟りの先のように捉えているのですが、その2つにもそれぞれ種類があって意味が違うという話を耳にしてなんだかわからなくなってきました。涅槃と浄土が意味合い的に少し違うことは何となく理解しているのですが...。 涅槃と浄土にはどういった違いがあるのでしょうか?また、浄土に行くことと解脱するのことはイコールで結ばれないのでしょうか?
はじめまして。仏教について疑問を持っているのでお答えいただけると助かります。その過程でキリスト教の例を出すことをお許しください。 キリスト教ではイエス様を地上にお与えになったほどに地上に生きるものを神は愛しており、自分の御姿に似せて人間をおつくりになるほどに人を愛している、と習います。その神の愛こそがキリスト者の信仰のよりどころだと思います。 一方で仏教は悟りを開くことが目的であると聞きました。悟りを開くということと仏様を敬い信仰するということがいまいちつながりません。また仏様は人間をどう見ているのでしょうか?キリスト者にとっての神様と同様に、愛していくださるのですか。仏様を信仰する人にとっての心のよりどころとは何なのでしょうか? 何分仏教について全くわかっていないため、見当違いの質問を多くしてしまいごめんなさい。ほんの少しでも回答をいただけると助かります。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。