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hasunoha 問答検索結果 : 「 殺人 」
検索結果: 394件

お坊さんの人柄?

昨日、有名な某お寺で、住職の立場にあるお坊さんが暴力で人に怪我をさせ逮捕のニュースがありました。怪我をさせる暴力がお寺の中で起こったようです。 1度だけではなく、何度かあったとのことでした。 質問ですが、お坊さんや住職というのは人柄に関係なくなれるものなのでしょうか? きちんと修行をおこない、その立場になるための規律を守っていれば、人間性は関係なくその立場を与えられるのですか? それとも、きちんと見定められるシステムがあるのでしょうか。 お坊さんだって人です。逮捕されたご住職は、何か辛いことや思わず暴力をふるってしまう事情があったのか、と考えてしまいます。 仏教に従事する世界でも何か我慢のならない、よんどころない事があるのかと。 仏教の教えやこのサイトのお坊様の回答を見てると、非常に考えにくいのですが、少ないながらもやはりあるのかな。 一般的な会社や学校等である、ごく一部の心無い人のおこないが、お寺やお坊さん達の間でもおこっているとすれば、どこにでもある現実ということでしょうか。 仏教の教えを説く方々なので、なんだか悲しい現実に思えます。 私の感覚ですが、お坊さんや仏教に対して、聖職というイメージを抱いています。 でも、人間なので色々あり、色々起こるだろうと思います。 たくさん巻き起こる事柄の中で負けてほしくないです。 ものすごく多くの人の心を実際に救ってるお坊さんが現にこのサイトには沢山いるので複雑な気持ちになりました。

有り難し有り難し 79
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本当の事を話すべきか

こんにちは。 私は未婚のシングルマザーです。今年にはの彼と結婚をする予定でいます。子供は今4歳です。1歳の時に父親と別れてしまいました。 子供の父親Aと別れてしまった理由が、Aの母親がバツ2だったんですが、ある日2番目の再婚相手の父親から1通の手紙が私の家に届きました。子供が産まれてるのをなぜか知っておりAの母親が再婚相手の父親のバイクを昔売っておりそのお金を要求する内容が私の家に手紙で届きました。 私はAの母親がバツ2を知らなくてそこで初めて知りました。 住所が刑務所からで、なんで刑務所からなのか、Aに聞いた所昔殺人をしており終身刑になり刑務所に入ってるって言ってました。 終身刑だし刑務所から出てこないから大丈夫だよってAに言われたんですが、私の家族はAとの結婚を反対しており、結婚するなら2度と家に帰ってくるなと色々言われましたが、私は親と兄弟と決別する事はどうしても出来なく別れる事にしました。 Aの母親は私の家にきて私の親にも私にもその話を謝ったりする事もなく連絡もありませんでした。 A自信もその話を私の親に説明する事なく、電話でお別れをした状態になります… Aはずっと手紙が来るまで私にも内緒にしてました。肝心な事なのになんで言ってくれなかったのか聞いた所Aと2番目の義父は血が繋がってないから関係ないって言っておりました。 子供の事を考えると別れた理由を話したくありません。でもこれから結婚する彼の家族には嘘はついていきたくありません。 殺人した家族の子供って思われたくもないし 2番目の義父とは血も繋がってないのにそう思われるんじゃないか、悪い方向に考えてしまいます。 彼には付き合った時にちゃんと話しましたが気にしないって言ってくれました。 でも、彼の家族にその事を言ったら反対されてしまうんじゃないか、子供が違う目で見られるんじゃないか不安です。 正直に言わないでAみたいに嘘をついてたくないし、でも言ったらって考えると怖くてどうしていいかわかりません。 長々とごめんなさい。 言葉が上手くまとまらなくて申し訳ないです。 どうしたら子供が嫌な思いをしないで彼と2人で育てていけるんでしょうか。 本当のことを言うって大事な事なんでしょうか。 お願いします。 教えてください。

有り難し有り難し 11
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2025/04/05

心の平和を得るために無我を悟りたいです。

以下の文章の私の理解は、正しいですか? 私の理解 仏教の教えについて。自由意志、ひいては行為者の観念は、因果関係を切断する機能を持ちます。 そのことについて、仏教を信じている人は、どう思っているのですか? 因果関係とは、本当は、無数、無限のはずです。 例えば、行為者Aが、殺人をしたとしたら、行為者Aに責任が求められますが、行為者Aが、殺人行為を行うまでには、無数、無限の因果関係があります。 しかし、自由意志、ひいては行為者の観念は、因果関係を切断して、行為者Aを責任の出発点にしてしまうのです。 これは、仏教の縁起の教えと反していますよね? 縁起(自然の法則)は、「すべての現象は自存せず、他の原因によって、生じる」というものだからです。 もちろん、社会の上では、各々が個人的行為者であり、責任を求められることは、理解しています。しかし、これは、仏教の真理ではなく、虚構です。 人間は、虚構によって、生きていると、非二元論のラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)は、言っています。仏教でも、世俗の真理と究極の真理の二諦説があります。 ※ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」は、心の平和のための教えです。 補足 主体、自由意志、行為者の実在を擁護する人に、なぜ、それらが存在しないことが通じないのか、と思っていましたが、感情論で、言っているのではないでしょうか? 理性で考えれば、行為者は存在しないことは、明らかです。 もちろん、私も、理性で行為者は存在しないという答えが出ても、それが、腹に落ちているわけではないですけど。 心の問題を人間の自由意志に求めるのは、逃げでしかないのではないでしょうか? また、悟りの障害は、まじめに深刻に考えることだ、と非二元論のラメッシ・バルセカールが言っていますが、そう思いますか?

有り難し有り難し 22
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過去の自分の行いに自信がありません。

はじめて、質問させて頂きます。 宜しくお願いします。 馬鹿馬鹿しいお話なのですが.. 昔、私が小学生の時の話です。 友達と近くの団地の公園で遊んでいた時、3~4歳位の男の子が公園に来たので一緒に遊んでいました。滑り台をしている時に、男の子が滑るのが余りに遅いので..私は、下から男の子の足を引っ張って子供ながらに意地悪をしてしまった記憶があります。そして、その男の子のお兄ちゃんが後からやってきて"意地悪するな!"みたいな事を言って彼をお家に連れ帰った記憶があります。そして、その後も私たちだけで公園で遊んでいると、再び私たちの前を男の子が通り過ぎたような記憶があるのです。私は、すごくその事に罪悪感があり、意地悪をしちゃったな。とか、昔から度々 その事を思い出す事がありました。それも、私がとても幸せだな~と実感している時に限ってです。 すると、どんどん考えがエスカレートして.. その男の子、あの時に無事に帰れたのかな?→ もしかしたら、私がどっかに連れてっちゃったんじゃ..。とか。→もしかしたら、私が殺しちゃってたらどうしよう。とか。 昔の記憶なので、辿れば辿る程、訳の分からない考えが浮かび...最近では、私はその子を殺しちゃったんじゃ...と、酷く思うようにまでなってしまいました。でも、私は、そんな事絶対しない!と、頭では分かっているはずなのに心にあるモヤモヤがどうしても晴れません。 私は今、彼とも凄く良好で、とても幸せな気持ちです。なのに、殺人者だったらこんな幸せ許される訳がない。などと考えてしまうのです。 もし、仮に殺人者だったとしたら、その時の人を殺した記憶とは消えるものなのでしょうか..? その当時の事を思い出そうとしても、どれが本当でどれが妄想か分からなくなっています。今までは、簡単に吹っ切れていたのですが、今は、こんなにも幸せなのに..変な事を考えてしまうばかりで吹っ切る事が出来ないのです。 今まで、ちゃんと生きてきたつもりです。ちゃんと両親にも愛情持ってしっかりと育ててもらいました。感謝しています。なので、余計にそんな私がもし..などと考えるととても申し訳なく苦しくなります。 このモヤモヤが晴れる日は来るのでしょうか。何故、この歳になり過去の自分の行いに不安を持ち信じれないのでしょうか。どうか助言下さい。助けて下さい。お願い致します。

有り難し有り難し 9
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ターミネーターか人間のどっちかなのか

死刑制度についての質問をさせていただきます。 僕は死刑制度に賛成です。理由は一つで、犯罪への抑止力となっていることと、今までそれで社会が成り立っていたのだから急に廃止することで世の中が混乱するからです。 でも、このままでいいとは思っていません。僕が思う死刑によるデメリットは、 1.刑務官(死刑執行人)への精神的ダメージ(たぶん) 2.死ねば更生するチャンスは二度とない 3.死刑制度は国民の国家に対する甘え 4.死刑囚の国(?)への恨みは他の誰かが相続すること、 つまり殺意は死なないということ →3国家に対する甘えについては、国民が国家に殺してもらうだけでは誰も成長しないのではないかと思ったからです。結局は現状維持で、また同じ苦しみが繰り返されるから、殺人者に共感する能力が育たないまま。 そこで、死刑制度を新しくすることを考えてみました。2と4は変えられないので1と3について解決策を考察しました。 それは、「刑務官(死刑執行人)の仕事が減り、遺族または志願した者が死刑執行代理人となり国の代わりに死刑執行のボタンを押す。代理人は遺族を最優先とすること。死刑執行の一週間前までに5人を死刑執行代理人と決定し、決定してから覆せない」というものです。 つまり、『明らかな人の殺意によって死刑を執行する』という案です。 こう考えた理由は、 A.国に殺人を止める力は無いから。死刑制度は抑止力としてもう限界まで来ていると思う。 B.死刑囚は遺族の悔しさ、怒り、憎しみ、恨み、殺意を真正面から受け取るべきだと思ったからです。(理由は、なにより殺して欲しいと望んでいるのは遺族だから、その殺意が伝わればいずれ更生するための種になるかもしれないから。そもそも国に殺意は無いから。) 前回の問答の後、他の国と比べてみて考え 、死刑が無くても穏やかな国になるが一番いいのではないかと考えました。それに、今ある社会正義は必ず崩れ去るものだと思っています。 でもそんなこと出来やしないので、死刑囚の殺され方なら変えられるのではないかと思いました。僕はターミネーターか人間に殺されるなら人間を選びたいです。(笑) もう何が正しいのか分かりません。 いろいろ間違っているところもありますが、ご回答頂けたら幸いです。

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理不尽な暴力に対して

太古から人間社会にある理不尽な暴力に対してはどうすれば良いのでしょうか。 自分は平和な日本の幸せな家庭に生まれました。今まで確かに困難なこと、辛いことは多くありました。しかし それは自分が成長するためにあったりと、今思えばプラスになっていることが多いですし、ある程度乗り越える力はつきました。 そこで自分は思いました。もし自分や大切な家族友達に理不尽な暴力が降りかかったら 自分はどうするのだろうと。例えばテレビで見るようなサイコパスな犯人による連続殺人、世界各地で起きている 血で血を洗う紛争など。。 このようなことは現代だけでなく、例えばお釈迦様の生きていた時代にもあったと思います。 そして質問なのですが、こういった暴力をどう解釈し、どう立ち向かうべきなのでしょうか。 とても漠然とした質問ですし、正直その教えをいただいたとして、自分がいざ 理不尽な暴力に襲われたら自制して その教えを守ることができないかもしれません。 しかし自分の幸せな人生と そういった世界で生きる人を対比し 色々考え 色々疑問に思ったのです。 何かヒントになる言葉でも教えていただけないでしょうか。 長々と失礼しました。

有り難し有り難し 22
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