とても懐こくて家族で可愛がっていたハムスターの福ちゃん(1歳4ヶ月女の子)が一昨日旅立ちました。 年末に脇の下に小さなしこりを見つけ、呼吸も少し早くなり動物病院へ行こうとした日に家族全員がコロナ感染。療養中も気にしてうつさない様に気を付けながらお世話をし、療養期間が空けて直ぐ動物病院へ駆け込みました。 超音波とレントゲン検査をした所、皮下腫瘍の他に内臓腫瘍が幾つも見つかり、呼吸は胸水によるもので手術は逆に危険なので不可。残された日を一緒に大切に過ごして下さいとの事でした。 出来る事ならば痛みや苦しみを最小限にしてあげたい訴え、病院から内服薬を貰って毎日お世話をする中、眼球突出して両目を失明…福にとっては壮絶な闘病生活だったと思います。 安楽死も頭に浮かびましたが、それは全て自分の都合だと思い、福が命を全うするまで寄り添う覚悟を決めました。 それでも自分が決めた選択は正しいのか?どうしてこんな事に?コロナに罹らないでもっと早くに病院へ行っていれば助かったのでは?と自問自答して気持ちが揺らぐ毎日でした。 満足に動けない中、撫でて欲しいと近寄って来ては「いい子ね」と抱き上げ、お腹が空いていないか?喉は乾いていないか?と常に気にかけていましたが、どうしても出掛けなければならない用事があり、ほんの少し娘に託している最中に「福が逝ってしまった」と電話が掛かって来て、急いで帰宅すると眠ったままの体勢で息を引き取っていました。 安らかに逝けたかな?と想像する事しか出来ませんが、その瞬間を看取ってあげられなかった悲しみや後悔の他に「これで痛みや不自由さから解放されたね、楽になれたね、頑張ったね。」といった安堵の様な気持ちもあります。 昨日家族皆で立ち会い火葬をして貰い、骨も拾い上げました。全ての骨が崩れる事なくしっかり残っていました。まだ気持ちの整理がつかずに片付ける事が出来ないゲージの中に骨壷を置き、お花とご飯、おやつをたっぷり供え、福は静かに眠っています。 (暖かくなったら遺骨を樹木葬にしてあげたいと思っています。) あの子と一緒に過ごせた日々はとても愛おしくて幸せな時間でしたが、福も同じ様に幸せだったのでしょうか?無事に向こうへ辿り着けたでしょうか?腫瘍による多臓器不全や浮腫で満足に動けず、視力も失って逝ってしまった福はあちらの世界でも不自由なままなのでしょうか?
よろしくお願い致します。 自宅の小屋で野良猫が死んでいました。 保健所に引き取ってもらいましたが、子猫もいました。 実は2週間ほど前、小屋に猫が入り段ボール箱に子どもを産んでいたので、箱ごと外に出し、親猫も外に出るよう促しましたがなかなか出てこず、しばらく小屋の戸を開け放したままにして外に出たところ戸を閉めました。 我が家では動物を飼うことはできないので、親猫が子猫を連れていくのを遠くから見て待っていたのですが、連れていく様子はなく、そのうちカラスが子猫1匹を連れ去ったので、親猫が入れる程度の隙間を作って、保健所の方が来るまで囲いをしていました。 保健所の方がきて保護したときには子猫は1匹しかおらず、他の子猫は親猫が連れて行ったのだと思っていましたが、今日、小屋に親猫と子猫の死骸を見つけました。 小屋の戸を閉めたときに見た猫は、親猫ではなかったということになります。 それなのに私は戸を閉めて親子の間を割いたばかりでなく、親猫も子猫も死なせてしまいました。 仕事から家に帰り、猫がいた小屋で線香をつけて南無阿弥陀仏と唱えましたが、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私は猫たちに恨まれますか? どのように供養してあげたらいいのでしょうか?
以前に「近所の地蔵尊」について質問した者ですが、いつも寺社仏閣や道端の仏様(地蔵尊)にお参りした時に、「見守ってくれてありがとうございます。一日一日元気に過ごせる事に感謝します」と小声で般若心経と舎利礼文・普回向・回向文を読んでるのですが、仏様や神様失礼は無いでしょうか?
様々な宗教や仏教にも興味があり、著者に殆ど改変されていないブッダの教えに興味があります。 仏教の初心者ですが、スッタニパータの他におススメがありましたら教えて頂けると嬉しいです。
先日は両親の遺骨の分骨について教えて頂き、ありがとうございました。 両親が亡くなって、寂しい、悲しいなどいろんな気持ちが溢れては消え、消えては溢れる…そんな毎日の中で、最近 ふっと両親が生きてた時に話してくれた事を思い出します。父親は、私が怪我をしたりすると「痛い痒いは生きてる証拠。」とか、またある時に私が新しい生活に慣れなくて悩んでいた時などは「いつか良くなるって思うから苦しくなる。まっ、こんなもんか、って力を抜けば何か知恵も浮かぶってもんだ」など、今になって思えば、その通りだなぁっと思う事をいろいろ教えて貰った事に感謝してます。母親からは、嫁いだ時に「いくら義父母や旦那に腹が立っても、自分の言いたい事はよく考えて言いなさい。一度、言葉に出してしまったら、その言葉は拾えないからね。」と、言われた事は今でも私の人間関係を築く上で、大切にしています。そんな両親が残してくれた言葉を思い出した時、何にも変えられない両親が生きた証…今度は私が子供に残してあげようと思いました。 生きていると嫌な事や辛い事の方が、楽しい事や嬉しい事よりも多いと思いますが、両親のように幸せ探しをこれからもして行こうと思います。お坊様方は、生きてく上で辛い時に思い出す言葉はありますか? 子供の頃からお坊様にいろんな話しをして頂いた事もあり、是非ハスノハのお坊様方にも聞いてみたいと思いました。 宜しくお願い致します。
私は京都の仁和寺に写本が所蔵されている黄帝内経(中医学の祖)にも記させている、陰陽五行説を大切にしています。 陰陽五行説は心身一如や医食同源の下、相生(生み出す)、相剋(抑制)関係により、調和を大切にします。 日本では科学の発達により味蕾に辛味が反応しないからと、味覚から辛味を削除し、うま味を足した陰陽五行説を謳う栄養学者が後を絶ちません。 日本は海に囲まれている為に、主に陸より海産物のうま味に頼っています。それの多くは鹹味(塩味)です。 鹹味は水や腎に分類し、増幅されると相剋関係によりで火に属する心を瀉します。 調和を保つ為には、苦味により心を補うか、相生関係の木に属する肝を育てる為に酸味を摂る必要があります。 焼き魚に柑橘類を搾るのがその例です。 しかし、家庭・外食を問わず、和食の全てがうま味調味料(科学調味料)に頼り切っています。 陰陽五行説を活用すれば様々な組み合わせでうま味が生み出せるのに、安易に頼るのは嘆かわしいです。 近年、精神疾患の増加、世知辛い社会を生んでいるのは上記により、過剰に鹹味のうま味調味料に頼り切る事により調和が乱れ、心を瀉しているのも一理あると考えています。 元来、和食は中国により伝わったのが、南蛮貿易や文明開化により西洋と交わり発展しました。 然るに陰陽五行説を歪曲すれば、調和は崩れます。“木の長きを求むる者は必ず根本を固くす”であるのに、和食は元来を無視するのならば、”自己中心”や”傍若無人”な食文化だと云われても仕方がありません。 また姿勢としても、『料理芝居(著:北大路魯山)』より、料理屋は下手でも風格が必要だとわかりますが、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”であるのに、料理人は腕を組んでいる人ばかりです。心理学で謂うと、威厳や不機嫌、自己保身等、他人と距離を取りたい対応です。 その点で、“鯛も一人はうまからず”の通り、美味しさに雰囲気があり、雰囲気で美味しかった経験は誰しもあるはずです。 食は食べるのと、食べて頂くのも感謝だと私は考えます。 以上よりの元来の歪曲や雰囲気を大切にしない和食に感謝が足りないと感じ、苛立ちを覚えたのです。 然るに和食は家庭から廃れ、食育の促進や世界遺産に登録してまで守らないといけなくなった“砂上の楼閣”だと私は考えます。 ご見解を、何卒宜しくお願い申し上げます。
アルツハイマー型認知症を永年患った母を在宅介護の末、今年の3月に亡くしました。 77歳の誕生日の3日後でした。 その母の供養にと、父と愛犬とわたしの男3人で地元のお寺巡りを始めました。 お大師様や観音様にすがりたく遍路、巡礼路に沿ってもう150寺近くを巡りました。 お寺を巡っている間は気も晴れ、癒されるのですが、帰宅と同時に果たして母は喜んでくれただろうかと、自責の念にとらわれます。 時に強い虚脱感や絶望感にも襲われます。 周りの皆さんはあなたはお母様によく尽くして差し上げた、お母様はお幸せだったと言って下さいますが、認知症を患い始めたばかりの頃の母をとても煩わしく思い、本人が一番心細かったであろう10年程前に、母の気持ちに寄り添ってあげられなかったことを今でも強く悔やんでおります。 晩年のつきっきりの介護はその罪ほろぼしのようなものです。 自身が独身のため、ゆくゆくは、お墓も作らず、納骨もせず、母の故郷である島の海岸に散骨をと考えています。 父も自分もそれでよいと言ってくれています。 自分自身も甥や姪はいるものの、彼らに負担をかけさせたくなく、また、お墓の石の下や、暗い納骨堂の中よりは、海のほうがのびのびできていいかなあ、お金もかからないし、などと考えております。 母の供養のため、一日三回、新しく購入した仏壇の前で父と般若心境を唱える毎日です。 写経も日に二度ほど書き、お寺巡りの折に納めさせて頂いております。 しかし、母の人生を思うと、特に病魔に蝕まれたのちの辛かったであろう最後の十年を思うと、お経を唱えていても涙がとめどなく溢れます。 不甲斐ない息子でごめんねと心で詫びてばかりです。 また写経の途中で筆を止め、やはりこんなことで母が果たしてよろこんでくれているだろうか、母の病気の進行をもっと緩やかにしてあげられる手立てがあったのではないか、果ては晩年お世話になりながらもその冷たい対応に腹立たしく思えたこともあったデーサービスや病院に今更ながらに腹を立てたりと、全くもって邪念だらけです。 百枚近く写経を致しましたが、ほんの一枚も最後まで穏やかな気持ちで書けたことは今だかつてありません。 このようなわたしが、果たして、これからもお寺を巡らせて頂く資格があるでしょうか。 亡き母は喜んでいてくれるでしょうか。 何卒よろしくご回答の程、お願い申し上げます。
迎えた生みの母の月命日、年に一度の大会議があり、私のチームの発表の結びは『お母さんは、喜んでくれるだろうか?』でした。寺の本堂で、夕食のあとに銘々が話す機会をいただき、皆さまにありのままを伝えました。 ・母のとき、導師を務めさせていただいたこと ・様々な障壁、思い通りにいかない苦しみを経て生きてきた両親が、それでも私たち姉妹を育て上げてくれたことへの感謝 ・責任を持って、お墓をたのみまいる意 ・日々のこと 「皆の生活がかかっているから」と懸命な、母のように慕うその人は私の話の途中で、両手で顔を覆い涙を… 家族のような絆で結ばれた、父のように慕うお坊さんは、会の後に廊下ですれ違うとき「茗荷さんのお父さんになろう」と、誓ってくださいました。 その日の朝勤行は、地元の子どもたちも参列、開始早々ぐずってしまった幼子に、辛抱強くお経を読むお母様、幼子が自分で作ったお念珠を手にした時、私は通路を開けるために元の席に戻りました。程なく椅子を乗り越えて、幼子はこちらに来ました。 お母さまは勤行の間、怒りませんでした。若坊守は、実のお子さん達によれば「厳しいお母さん」で心底、親子のかかわりを目の前に、苛立ちがあるのではと余計な心配をしましたが、幼子がふと若坊守を見た時、最高の笑顔でずっと包み込んでいました。 自分の和讃の声は、涙とともに震えつまりました。後ほど若坊守は「わかりますよ。」と、笑顔で燦々と頷いてくれました。 今思えば一部始終、襖一枚の向こうで、黙って大坊守は、お聞きになっていたのかもしれません。 数か月前、営繕の同僚は、若坊守に「大坊守が非常に厳しい御方だった、だから、厳しいことを言うけれども…」と営繕の同僚をきつく叱った折に強く念を押したそうです。 初めてお会いした大坊守は、司会から紹介をうけ「初めてお目にかかる人も多いのですが…前坊守の…」と深々と、ゆっくりとお辞儀をされました。 住職の涙も、悔しさも、海外へ逃げようと迷った苦労も皆一心に聞きました。前坊守が話す間「お母さん、ちょっと話していいですか」と住職が話始め「いま、この子は、焦っています」と皆に微笑み「人の話は最後まで、聞きなさい。あなたの選ぶ道が、どれだけ厳しいか…本当に」と諭されました。 これからも、法を聞きてよく忘れず、精進させていただきます。 どうか私の母と、母に…何卒ご法話をお願いします。
我が家は浄土真宗の檀家なのですが、お寺さんやお墓が遠方にあり、お参りには一年に一度行けるかいけないかです。 私は訳あって車を運転することができず、親が将来、車を運転できなくなれば行くことさえ困難になりかねません。 今住んでいる地域は日蓮宗さんが多く、浄土真宗のお寺がありません。聞法することもできず、家で一人で読経が、できる最大の修行です。 こういったことは家族と相談するのが良いのでしょうが、家族は新興宗教を信じており、こういった問題をなんとも考えておりません。ですので孤独に読経だけしているのが限界に感じております。また、ご先祖様に挨拶に行けないのも申し訳ないなと思ってしまいます。 こういうこともあり、私の代になったら、お墓を自分の住んでいる地域に移して日蓮宗さんのお寺にお世話になろうかなと思っているのですが、どうするのが得策なのでしょうか?なにかお知恵を拝借できませんでしょうか?
先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。 さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。 宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。 般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。
最近死んだらどうなるのか、地獄ってあるのかと悩むことが多くなりました。 そして、地獄なんてなければいいのにって思うんです。みんな天国で家族みーんなで暮らせればいいのにって。そんなこと出来ないんですか、? どんなに血の繋がりもない人も私の知らないどこかで家族と幸せに暮らして欲しいです。
初めてご相談させて頂きます。 昨年、母が亡くなり戸籍を調べてみたところ、父方の祖母が2004年7月に、見知らぬ土地の病院に入院したまま誰にも看取られず、亡くなっていた事がわかりました。 その当時、母と別居してから数年後に父は癌で亡くなっており、父の死後2年後に祖母も亡くなっていました。 当時気になっていたものの、祖母のお見舞いには一度行ったきり、、(病院とは入院費の件で揉めていた経緯もあり…)気が付いた時には病院が廃業、介護施設となっていて、その施設に訪ねても祖母のいた病院に関する情報は得ることが出来ませんでした。当時まだ幼児の子育てでバタバタしていた事を理由に、私は祖母の行方を調べる事を後回しにしてしまいました。 何かあれば、母の方へ何かしら連絡が来るのではないか…などど都合良く考えていたのです。 現在、親族は私と子供、独身の兄の4人ですが、兄は父と諍いがあり、供養の相談が出来そうもありません。 お骨は既に無縁仏として市が処理したそうで、今となっては何も出来ないとの市役所からの回答があり、祖母が建てたお墓ですがお墓に埋葬してあげる事も出来ません。 今月下旬には17回忌(おそらくですが…)もあるので、何とかして何かしら祖母の御供養をしてあげたいのですが、この様な状況でどの様な御供養が出来るのかわかりません。どうかご回答頂けます様、何卒よろしくお願い致します。
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
今、母に対する自分の気持ちが分からず悩んでいます。昔から母のことが大好きで愛していました。今も愛していますし、感謝しています。しかし、最近関わるのが怖い、嫌い、離れたいと思ってしまいます。楽しいことがあると、母に伝えて共有したいなと思う気持ちもあるのですが、嫌だ、話したくない、と心にブレーキがかかります。この矛盾した気持ちにどうすればいいか分からず悩んでいます🥲 この気持ちになり始めたのにはきっかけがあります。それは母と義母、母と父の関係が悪化したことです。確かに義母、父の方が悪いのですが、母の言動も少し行きすぎているのではないかと思ってしまいました。そのことで母に対する不満が少しずつ溜まり、心の奥底で嫌いという感情が生まれてしまったのではないかと考えています。 この感情はずっと続くのしょうか。一度、潜在意識で嫌い、怖い、嫌だという感情が生まれてしまったら、もう前のように心にブレーキをかけることなく関わることができないのでしょうか。今は、この気持ちを受け流して、いつかなるようになると信じて今に集中して生きるよう努めています。 相手を拒絶してしまう気持ちはどのように対処していけばいいのでしょうか。アドバイスいただけると嬉しいです💦
死後人間の意識はどこいあるんでしょうか
お寺様に行くと 必ずお掃除をお手伝いさせて頂くのですが その際にとても 困るのが どちらのお寺様も多分 同じでしょうが 時計が無いので 時間がわからなくて とても困ります。お掃除の際は荷物を預けてお掃除してるので スマホ持ち歩いてないので 時間がさっぱりわからなくて きちんとやる時は やりたいのに 時間が気になって きちんとお掃除が出来ません。 お寺には 時計置かない理由があるのですか?
お坊さんになったあと、大学進学は可能でしょうか。教えてください。
タブレットなどで電子書籍を利用しています。小説、漫画、雑誌などを読むのですが、仏教の本、週刊誌、裏情報誌、エロ本、セックスの本なども読みます。それらの画面のスクリーンショットを撮って保存する時もあります。 最近のコンピュータは複数の機器の間で連携したり、クラウドでファイルを共有出来たりするので、紙の本・雑誌、書類・写真などの様に「これはここにしまって、これはどこかよそに隠して…」という事が出来にくくなっています。 質問1 タブレットだけではないですが、一台の機械の中に、仏教関係のファイルと、エロ関係のファイルが同居していて、これで良いのかと思います。 質問2 普段は仏壇のある部屋で過ごしています。タブレット、スマホ、パソコンはその部屋に置いています。これも悩みます。 その他 独身です。自慰ですが、 https://hasunoha.jp/questions/23310 を参考にしたいと思います。 * 仏教や真面目な事への興味と、性的な事への興味と両方あります。 不謹慎な質問だと思いますが、よろしくお願い致します。
バガヴァッド・ギーターを読んで以来、ヴィシュヌ神を信仰したいと思いました。 とはいえ、日本に住んでてそうヒンディー教の僧侶に出会うことはございません。 聖典を解釈して、 牛肉は食べないことや食べ物をお供えする、マントラを唱える等 我流の信仰に努めてます。 我流の信仰は良くないことでしょうか。 定められた戒律、手法を守ることは欲を抑制しますし、 正しい努力こそ実を結ぶというようにも感じられます。 一方で、神仏がそんなに狭量でもないとも思えません。 程度の問題でもあるのでしょうか。 好きに経文を唱えたりするのは良かったり 戒律を破る人を許せずテロリストになることは良くなかったりといった具合に。 また、自分が信仰したいと思う神に信仰すべきか 自分が信仰したいと思っても、機会に恵まれないのも縁がないと考えた方がいいのでしょうか。 ヒンディー教と仏教では勝手も異なると思いますが 仏教での考えをお答えくださると幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。
みんな守護霊さまに守られているのですか?