最近、なんとなくヘレンケラーに興味を持ち伝記を読みました。 ヘレンケラーを具体的に知る前の私もまだまだ認識が足りないせいで雑な扱いをされてるもののために生きやすい世の中にしたい、私が死ぬ前にどうにかして少しでも幸せな生を送れるような世界したい、具体的にいうのは恥ずかしいので言いませんが、そんな野望に人生を捧げたいと思っていました。 対象は違えど、彼女と私は志が同じだと思います。 調べていくうちに彼女の年表を見ました。彼女はほぼ生涯、時代も相まって人に尽くす事ばかりをしていました。 そこで感じたのです。 自分を主体としてではなく、他人の為に一度きりしか無い生涯を尽くす事の漠然とした恐ろしさを。 しかし、こうも思うのです。 自分のために使った自由な時間は、必ずしも幸福なのか?と。他人に時間を使うのは搾取されてるイメージがあるせいで、自分の時間を持つ事が幸せだと思っていましたが、実際1人になって楽しかったかというとそうでもない。1人で勉強したりゲームしたりと自分の欲を満たすとふと、死んだあとを考えて虚しくなります。まるで、死ぬまでの暇つぶしみたいに感じて。 だからわからなくなりました。 自分の理想を目指して30,40,50代、末までをそのために生きるのかと思うと、なんだか怖いのです。 かといって自分の思う理想の人生がなんなのかわからない。 この助けたいという気持ちは、ただの自己顕示欲や使命感から出てきただけで、自分は本気ではなかったのかもしれない…。 しかしそうなると、私はこれから何をして生きればいいのかわからないです。ただ自然と、この目標を目指すようになっていたのもあり、もしこの先目指す事を諦めても、きっと気がかりでかすかな憂いと、後悔を感じながら死ぬのだと思います。 死んだあとを想像すると、自分に時間を割くのも虚しく、かといった何かのために生涯を費やすのも悪くは無いけどなんかせっかく私として生まれたのだから自分の幸福を追求したいという欲がで、かといってただ働いて趣味にも仕事にもそれなりに充実した人生を送るのは違う気がする。 人生が大切すぎて、何に時間を割こうかわからないまま迷っている感じです。直感を頼りにすると堕落の一方で、自分を律するよう意識すると完璧主義になりがちなため息苦しいです。
ここ一月、死に対して敏感に反応してしまうのが悩みです。 半年ほど前に心身のバランスを崩して退職しました。その後いろいろあって進学することになり、試験にも合格しました。 ただ大急ぎで詰め込みすぎたせいか、「あ、この勉強しんどい。これで身を立てていく自信がなくなった」と思うようになり、ボーッとする時間が増えました。 その際、本を読む時間が増えたのですが、その際死について寿命について書かれている文章を読むことが増えたせいなのか、自分の死に対して恐怖を感じてしまったり両親や家族がいつか死ぬと思うと無性にかなしくなったり、有名人の方が亡くなると「ああ、どんな人でもやっぱり死んでしまうんだなぁ」と虚しくなってしまったりすることが増えました。 今まで不幸ではありませんでしたが(学生の頃は当時の家庭環境を憎んだり、いじめにもあったりしていてツラい思いをしたこともありましたが)、幸福でもなかった人生だったので、幸福を掴みたいと努力してきたのですが、「どうせ死ぬ。自分の意識がなくなれば終わり」と思ってしまうと、もうしんどい思いをしてまで努力する必要はないんじゃないかなぁと考えてしまったりします。 こんな状態を見かねた友人が遊びに誘ってくれたりもしたんですが、全然楽しくなくてその友人には申し訳ないことをしたなぁと思ってしまったり、自分でも死に対して考えないようにしてはいるんですが、どうしても考えてしまって食欲が落ちたり胸が痛かったりしてコントロールできずに悩んでいます。 死を受け入れればいい話かもしれませんが、どうしても「死=自意識の消滅」と思ってしまうと受け入れられません。 毎日あの世はあるのかないのか、幽霊はいるのかいないのか、そんなことを考えて一日が過ぎていってしまい、どうせ死ぬのにもったいないなぁ、でも外に出て働いていたときのようなツラい目にもあいたくないから動きたくないなぁと思ってしまいグルグルグルしています。 一体どうしたらこの気持ちに決着をつけられるのか、よろしければご回答お願い致します。
こういう悩みの質問をすると、道はあるとか、足元を見てないだけとか、もっと考えれば良いとか。そういう事を言われる方が腐るほどいますがその程度のことで解決できるような悩みやトラブルしか抱えてないだけだと思いました。 私がいくら仏教を知り、色んな物事を調べて、どうにかしようと毎日365日、私の運命にあがなおうとしましたが人生変わりません。 私の過去の選択ミスが影響して今私がいくら頑張ろうがどうにもなりません。 1番大事なことは、選択だと思います。 どれだけ身体を気を使っても、交通事故に遭い半身不随になれば一生後悔します。 そして後から気を使っても、後から考えを取り入れて勉強しても半身不随前の生活の方が苦しみは少ないです。 全ては選択です。 私も半身不随のように選択ミスから死ぬほど苦しんでいます。 そして現在進行系で苦しみ、これからずーっと苦しむ事が容易に想像できます。 どんなに考えて、どんなに悟ろうと選択ミスをする前の人生、半身不随になる前の人生のほうが幸福だろうと思う。 だからもはや術はないのではないか、もう今苦悩を抱えている人は一生苦しむしかないのではないか。 半身不随になった後に仏教をいくらしても何も変わりません半身不随になるような事故に合わず仏教を勉強しない人生のほうがいいと思います。 どうすればいいの? 死ぬしかないんじゃねえか。 突発的に勢いで死ぬしかないんじゃないか。 だっていくら何をしても解決方法ないもん。 ただただ運が悪かった、どうしようもない。 半身不随になった人に生きてれば幸福とか言える? ※半身不随は比喩。
人生失う物がなくなって、希望がなく絶望して、裏切られて、追い詰められたらもはや自殺するか犯罪を犯すかしか選択肢は無くなりますよね。 生きるという選択肢は非常に辛すぎるからです。 どんなにこれから良いことがあっても(無いけどね)、このトラウマや嫌な気持ちは一生残るし怨みの感情だけは残ります。 自殺者は最後の最後まで生きようと悩むそうです、歯医者の予約した後に自殺したりね。 生きようとした気持ちが端折れて死ぬ前にその恨みや怒りを残したまま死ぬのが大半だと思います。でも最近はそれでいいのかな?と思います。 恨みを怒りを晴らさずに死んで良いのかな?って。 他人に危害を加えたら仏教的に地獄に落ちるという人がいると思いますが完全に嘘です。 イングランド銀行を壊滅させたジョージソロスは金持ちですし、大量の人を殺した豊臣秀吉は栄光を手に入れて、ブラックで有名な和○の社長は今や権力者です。 自殺した人は人に優しくして奪われて何も得れず誰からも悲しまれずに死んだ人ばかりです。 死んだらもはや脳細胞のニューロンの構成要素は無くなり脱分極もしませんし神経伝達物質もグリシンもGABAも消えその人の思考は永久に消えます、つまり死後の世界はないし今世で恵まれた人は死ぬまで恵まれている。 他人に優しくしない人が大半なのに大半が幸せであり、サイコパスな人や他人を平気で裏切ったり、SNSでマウンティングをとる美人や、モラハラするような社長の方が幸福ですもん。 他人に危害を加えない自分でしたが、危害を加えた方が良いのではないかと思ってしまう。 その方がうまく生きれてる人が多い。 道徳なんて矛盾だらけです。 みんな可愛い動物を守りながら何の気もなしに細菌を殺し微生物を殺しています。 純粋な心が崩れてしまい、もはや良心や優しさというコーティングが剥がれてしまい悪い人になりそうです。 自殺はいけないというけど、それを止めるような幸福は誰もくれない。 苦しんでる人に"我慢"だけさせてちっとも優しさをくれない。 そんな社会で痛めつけられて、社会とか他人の事を考えるほど優しくはなくなります。 死んでもいいと思った人を止める術はあるのか?と思います。 私はないと思います。 簡単な話なのです、苦しむのは原因があるのです。 それをみんな見ないフリをして逃げます。
世界的な食料危機が叫ばれる昨今にあって、幸いにも日本は食に恵まれた国だと言われます。そんな日本で半生を生きる中、「一番うまかった物はなにか?」と大勢に質問してきたのですが、最多回答が「他人の金で食う寿司(ないし焼肉)」でした。個人的に納得するものがあり、そう回答しなかった人にもこれを伝えると「確かにそれだ」と共感されることがほとんどです。 ということは、もしも二人の人間がおり、お互いが月に一度程度寿司を食べられる財産の余裕を持つ場合、この二人がよりうまい飯を食う方法は、毎月交互に寿司を奢り合うことになり、それは少なくとも、毎月自分で寿司を食べるよりも食事からの幸福度が高まることは数学的に間違いないはずです。他人に奢ってもらった寿司がうまいのはそうですが、他人に寿司を奢った時に相手が喜んで腹いっぱい食べる姿も幸福を誘発するため、これは誰もが気付いて当然のライフハックなはずです。事実、様々な仕事で成功するなどの優秀な成果を収めた人達は皆気付いており、進んで飯を奢る権利を奪いあうような関係にありました。 しかし、多くの人達はこの事実が理解できないようで、他人に飯を奢ったことなどないという人がほとんどでした。もちろん、金銭や心の余裕がなければ難しいのは事実ですが、余裕がない時でも少し無理をして他人に飯を奢ることが、最終的に大きなプラスに繋がってきたことを経験の中で実感しています。 この事実を伝え、広めることで、自分も、自分の周りも幸せになることは間違いないはずなのですが、帰来他人に飯を奢らない人にはこれがなかなか理解してもらえず、むしろ「奢ってくれという厚かましいやつだ」とネガティブな印象を受けることがほとんどでした。 世俗的な話でしたが、ある意味仏教の根本にも繋がるような気がする考え方であり、ここで回答してくださるお坊様方は、この話に深く共感してくださるのではないかと思います。また同時に、その教えが理解されない体験も多くなされているかもしれません。 そこで質問です。お坊様方は、この考えが理解できない人達に、どう教えを伝えてきましたか? もしくは、教えが理解されない相手に、どう接してきましたか? できれば、多くのお坊様方の回答を期待します。
仏教徒の人も嫌なことがあったらもう解脱とか仏道がどうだとかどうでもよくなりますよね?この世界から早くいなくなりたいと思うはずです。 例えばわけわからない人からいきなり家族全員、生皮を剥ぐなどをされて足や手を少しずつ切られて殺害されて自分も下半身不随になって犯人は捕まらずの時にこれも仏になるための道とか言えますか?縁起だとか言えますか?。 輪廻転成を信じていて死が怖くないのなら、そういった悪い事をした人への恨みなんかもなくなるのではないか?と思いましたがどうなのでしょうか。 結局人生捉え方の問題ではなく辛いもんは辛くて運が悪い人は悪く世の中理由もなく不平等で世界はクソだと認めれば楽になりませんか? 仏陀でもいきなり知らない人から下半身不随にされたらキレますよ。 例えば今は仏教を利用して何故か儲けてると思いますが仏教で赤字になったりとかしたら今のような有難い言葉は言えませんよね?結局は利益があるからそういうことをいってるだけなのではないかと思ってしまいます。 どこかで人生は時間だけが平等だと聞きました。 私はそう思いません、使う時間が違うし、搾取される人はその時間を使えないし、植物人間の人や解離性人格障害の人はそもそも時間が消費されない。 結局平等なものなんてないのではないか? 有難いとか今に感謝するとかって結局当たり前に貰えてる人からしたらくだらない事ですよね。ビルゲイツが毎日パンの一欠片に感謝するとも思いません。 圧倒的に恵まれてる人からしたら当たり前に得ているものなので改めて感謝する意味もなく感謝したからと幸福があがるわけでもないです。 なのに苦しんでる人や貧困な人は何故か感謝してないから苦しんでいると言われます。 いや違うでしょ、アフリカの人は感謝してるけど苦しいもんは苦しいでしょ。結局は世の中ただただ恵まれた人が得するようにできていて感謝しなくても幸福です。 また仏教徒の方に人間に生まれた事を後悔するというと、動物に生まれるよりマシとかいってきます。いやいや動物に生まれた方がマシでしょう。 こういう質問をみて意味不明なモノが羅列して頭がこんがらがると思います 世の中はそれ程までに意味不明に複雑な苦しみが沢山あります それを仏教は人それぞれの回答があるといいますがそんなアバウトなモノでしかないなら仏教である必要はあるのかと思います
支離滅裂な文章と思いますが、モヤモヤした気持を吐き出させてください。 生きるのがしんどいです。でも死ぬのが怖いので生きています。 私は薬剤師ですが仕事にやる気が出ないです。薬剤師という職業自体は人の役に立てる素晴らしい仕事だと思っています。実際に、患者様や他の医療従事者に「ありがとう」と言われて嬉しい気持ちになる時もあります。 しかし、仕事に対して向上心もやりがいもありません。 薬剤師として数年働いてきたためか…職場の規模が小さくて他に振る人がいないためか…そんな私の思いとは裏腹に、最近は日常業務以外の様々な業務を任されるようになってきました(職場の中でも重要なところ)。 志の高い方であればそこにやりがいを感じることもあると思いますが、私にとっては煩わしいだけです。もちろんそんな気持ちで取り組んでいるので、その振られた仕事のどれもが中途半端な状況です。こんな気持ちで医療に関わることはあってはならないことです。 でも仕事は辞められないです。生きるためにお金が必要だから。あと、好きなことを仕事にしたいとも思いません。仕事にした途端、好きなことではなくしんどいことになるから。 それに今の職場の人間関係、給料、休日(土日祝)、労働時間(残業ほぼ0)も恵まれています。 自分が恵まれた環境にいるという自覚はあってもしんどいと感じます。何も考えたくないです。 父を早くに亡くしましたが、 五体満足で特に不自由なく育ててくれた母をはじめ…、金銭的な問題のほとんどを援助してくれた今は亡き祖母、その他面倒を見てくれた方々には感謝の気持ちでいっぱいです。 それに嬉しいこと、楽しいこと、満たされること…色々なポジティブな経験もしてきました。 自分は平均よりも恵まれた環境にあると自信を持って言えますが、それでも産んでくれたことに対しては感謝の気持ちはありません。 だって、生きることによって与えられる幸福よりも、生きることで感じる苦しみの方が大きいから。 おそらく世界一恵まれた環境でも私は同じことを思うでしょう。 要するに生きるのに向いていないゴミクズ性格です。 初めから自分なぞ存在しなければいいのにと心底思います。 存在しなければ幸福を感じることはできませんが、それを悲しいと思うこともありません。それにその他の苦しみも感じることはありません。 この世から魂ごと消え失せたい。でも死ぬの怖い。
初めて相談します。 現在、50代半ばの中年独身で老母と同居してます。 今まで恋愛は異性とのみでしたが、つい最近になって同性の男性と付き合い始めて互いに惹かれるようになりました。 性的嗜好は、バイセクシャルだと自認していて、同性を好む素地があるのは自覚してましたが、初めて素敵な出会いがあり恋愛感情を持つようになりました。 相手は20以上の年下、住まいも遠距離で会うのも頻繁に会うのが難しいですが、実際に会って時間を一緒に過ごすと心の安息感や幸福感に満たされている自分に気づきます。 先日、相手と初めて肉体関係になりました。私にとって初めての同性との肉体関係でしたが、性的快感とは別に幸せな感覚に満たされてました。 この先、真面目に相手と付き合いたい、また幸せな関係が続くなら、将来は結婚に近い形になりたいと思い始めてます さて、こうなるとやはり、家族への説明や理解などが大切になるかと思います。 私は以前に異性と婚約までしましたが、家族関係の問題で婚約破棄に至った経験があります。 今回、同性相手なので理解は並大抵では無い困難だと思ってます。 現実的には80代の老母と同居してますので、新しい相手と同居は難しいと思います。 また、相手自身も家族には同性愛者で有ることは内緒にしてます。 私と相手とは年の差も大きく、もし将来に同居など相手が望む場合には、仕事などを移る必要などもあって、相手の家族の心配も大きいと思います このまま悩んで時間を空費するのも虚しいです。 また、時間を空費する事自体が、私の同性愛に理解困難な老母が他界するのをひたすら待ち望んでいるようにも感じて心が苦しくなります。 こんな現状ですが、相手には誠実に向き合って付き合いを深め合いたいと思います この先、自分と相手の家族に向き合う時に、どのような心構えになるべきか、また取り除くべき煩悩などアドバイスを頂けましたら幸いです
夫の経営する会社がが立ち行かなくなった上、一緒に仕事をしていた人に裏切られ 事務所を畳んで廃業手続きに入るそうです。 まだ残務処理もあって すぐには働けない状態で収入も 見込めません その上 負債が600万以上残っているようです なんとか家のお金 寄せ集めればなんとか借金は返せそうですが 何も残りません。 昨年、娘が孫連れて帰ってきたので働いたお金は家に 入れてくれてますし、私自身もフルで働いているので 最低限の生活は出来ていますが蓄えもほとんどなくなり 私52、主人56であと何年働けるかわかりません 豊かな老後なんて欲深な事は思ってもいませんが わずかな年金と蓄えでリタイヤした後は夫婦で好きな 寺社仏閣をお参りしたり いつかお四国にも行きたいねーなんて話もしてたのに その夢もぱぁになってしまいました。悲しいやら悔しいやら情けないやら これからの事考えたら不安で不安で。。。 こんな時間にかきこんでしまってます 諸行無常と言うけれど 特に悪い事もせず ただただ真面目に生きてきただけなのに。 どうして。。。 こんな状況 仏様は哀れんでくださっているでしょうか どんな言葉を掛けてくださるでしょうか
何度か相談しています。優しい回答も頂き、少しずつ苦しみの真相に近づいてる感じがしています。 ヒルティと言う偉人さんの幸福論という本に、書物や人との出会いは導き、と書いてありました。良い事も沢山書いてある本でしたので、それらも合わせて信じてしまいました。当時出会った女性が導きの人だと信じて結婚しましたが、内心ではタイプの方では無く、苦しくなって直ぐに離婚しました。彼女を傷付けた事に私も大変苦しみました。神の導きに従った筈なのに、何故こんな事に?と神も信じられなくなりました。最近は、その偉人さんが間違っている事を書いていたんだな、と少しずつ理解しています。キリスト教も間違いを含んでいるな、とも思っています。必死に生きています、、辛いです。 ブッダの言葉で、修行者の行も誤って行うと地獄に引きずり落とす、とあるのはこの事だと思います。宗教の本でも誤った事を平気で書いてある事に気付いて来ました。
僕は閉塞感感じます。日本に住んでいますが生きていて閉塞感感じます。僕にとっては住みづらいです。明光義塾北巽教室は賑やかで盛り上がっている感じがしたのにそれが辛いです。心が貧しいです。 今行ってる井上クリニックも閉塞感感じ心があまりスッとしません。 自民党のせいで日本の経済悪いのでかなり閉塞感があるなと思います。 自立訓練生活訓練に通ってますがなかなか同じような人の感じばかりで閉塞感感じます。僕の寂しさの原因は日本の閉塞感が原因かもしれません。お金貯めて早くアメリカ移住したいです。 なぜか日本は地味にいいところもありますがやっぱり日本人の幸福度なぜこんなに低いのかも知りたいです。僕も生きてて日本の閉塞感よく感じるので辛いです。 日本24年間住んでますが日本では同調圧力すごすぎて辛いです。 どうすれば日本の閉塞感から抜け出せますか?
ほぼ無職になり数ヶ月。金銭の余裕もなく働くしかないのですが、動けません。 失敗だらけの人生で、特技もなく、何の職に就けばよいのかすらもわからず、何度も堂々巡りです。 身内からの人格否定、変な人からの執拗な誘いなどで、仕事も人も怖いです。 普通の人が出来て当たり前のことが、自分はなにもできません。 ひとりはつらい。 自分はなにも持っていないのに、何度も幸福がおとずれる人もいる。ずるいと思い、また自己嫌悪。 自分には悪縁しかありませんでした。お金も時間も、たくさん奪われました。 今まで生きてきて良かったと思ったことは一度もありません。最近は好きだったことも楽しいと思えません。 この先もひとりで、地獄です。 まっとうに生きることもできず、死ぬこともできず、ただ食べて寝るだけのゴミ屑。 とにかく、まず仕事をするしかない、解決するしかない、と頭ではわかっているのですが、ひとりがつらくて苦しくて虚しいです。 心の有り様、保ち方、といったものはあるのでしょうか。 こんな自分に光が差すことはあるのでしょうか。
仏教について学んでいてふと疑問を感じてしまいました。 仏教そのものは正しいのですが、仏教の最終目的とされる輪廻からの解脱は本当にいいものでしょうか? 私は地位も名誉もお金も何もありませんが幸せです。 理論的には不幸な人がいるというのはわかります。 しかしながら、幸せが一切ない人というのはまれだと思います。 持っていない不幸を嘆くのではなく、持っている幸福を喜ぶべきです。 また、皆で助ければよいと思うのです。 そういった考えから輪廻は苦しみの元であり解脱するべきだという部分に疑問を感じました。 この世界は幸せに満ちているのだから、逆に輪廻は人に与えられた最高の幸せともいえるのではないでしょうか? 永遠に輪廻転生するのであれば、輪廻するこの世界をもっと幸せに満ちたものにすれば天国を永遠に繰り返すことになります。 その行為を無限に続ければ、それは苦しみではなく楽しか生みません。 その天国から解脱する必要はあるのでしょうか? どうしてもわかりません。 無知なる私を導いて下さい。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
私の父方の宗派が浄土真宗です。私は浄土真宗の教えをよく、「これは心改めた死刑囚に対して最も有効な教えかもしれない」と思うことがあります。他の宗派では、仏性には思考・言葉・行動の全てが揃っていなくてはならないなら、せいぜい世界の幸福を祈るという「思考」しかできない檻の中の死刑囚に救いは無い…というような見捨てにも解釈できる説法をされたことがあります。私は身内に死刑囚が居るわけじゃないのですが、「心改めた檻の中の死刑囚でも罪を償う方法があるかどうか?」が、それが本物の宗教かどうかをジャッジできると本能的に予想したのだと思います。 さて、阿弥陀様はよく他の宗派では悪者扱いされています。「あのお方はあの世の管轄者だからこの世のことは救ってくれない、功徳も利益もない、阿弥陀様にすがることはただの来世に託した人生の諦めでしかない」などと言われます。 阿弥陀様は、この世でも大衆を救ってくださる方なのでしょうか? 無量寿経などの聖典にはなんと書いてあるのでしょう? 回答よろしくお願い申し上げます
仏教を学んでいくなかで、これだけ素晴らしい教えを2600年も前にお釈迦様が伝えてくれているのに、どうして今の人類はその教え通りに生きることを選ばず、そして多くの人が苦しい方向に行っているのに国家がこのお釈迦様の教えを元にそういう生き方は良くないですよと止めないのか、むしろお釈迦様の教えを無視することを推奨するようなことをするのか不思議でなりません。 そして因果の道理でいうならば上記のようなこの世界で生きている僕は過去世にこのような結果が現れるような原因の種まきをしていたのだろうと言うことを感じていて行き場のない自己嫌悪を持っています。 ここで自殺してしまったらまた同じことの繰り返しになるのかもしれませんが、この業を清算することができる気もしません。 生きている以上他の生命をいただき続けるのは確定ですし、大したこともできませんから世直しは不可能です。無財の七施すらいつでもできるほど人間ができていませんし、結局は絶対の幸福に至れないで苦しむ気がします。 お坊さん方はどのように感じて今のこの世の中を生きておられるのですか? そして僕の問題はどうすれば解決出来ますか?
私はとても我が強く、自分の考えにこだわってしまう性格です。 なので、つい他人に対して批判的になってしまいます。 そういう時、いつも頭にあるのが、 ・どうして他人の迷惑を顧みないのか ・自分だけ良ければ良いのか ・なぜそうなるのか理解できない ということです。 受け入れてしまえば人間関係のストレスが減るし、自分も楽だと思うのです。 しかし受け入れてしまうと、 ・それを認めた ・相手に同意した ・自分も同じ ということになるのではないかと思い、とても抵抗があるのです。 それに正直なところ、責任を放棄したり、面倒なことは人に押し付けて楽をして(それでまあまあな給料を受け取っている)人に、寛容になる必要なんてないかな、とも思っています。 ですが、それで自分は幸福だろうか?と最近つくづく思います。 結局自分が一番損をしているような気がするのです。 それに、私が寛容さを学ばなければ、この先ずっと同じような縁が付いて回るような気がしてなりません。 何かお知恵を頂けると幸いです。 よろしくお願いします。
お世話になっております。 昔から貴女は幸せだと言われても幸せだと思えませんでした。どうしたら幸せだと感じられますか。この悩み、悩めることも幸せなんですか。なにが幸せなんですか。幸福感の追求も煩悩ですか 例えば小学生の時、UNICEFの募金活動を見ても、「自分が死ねばアフリカの子供は長生きできる」と母に言って叱られた思い出があります。幸せだから、自分は不幸だ、死んでいい人間だと思ってはいけないのですか…? よく思い出せば4歳くらいから人に気遣いをして生きてきました。が、それが原因とは考えられません。いつも何かしらの理由をつけて自己完結で悩まないようにしてますが、いつも考えてしまいます。単純に経験不足で、年数を積めば自ずと理由をつけて消える悩みかもしれません…。はたから見て嫌な質問してごめんなさい。大分お世話になっているので、この質問で最後にします。しかし20うん年生きてきて一番の悩みなんです。ご回答のほどよろしくお願い申し上げます。
今お付き合いをして半年の彼女がいるんですが、すごくいい子で付き合っていて嫌なことが何もなく、すごく楽しいのですが、そんな子だからこそ?なのか、自己嫌悪に陥ってしまいます。例えば、相手が友達などと遊んでいてSNSなどですごく楽しそうな姿を見せていると、なぜかムッとしたり、同じスポーツをやっているのですが、相手が試合でいい成績を残しても、素直に一緒に喜んであげられないんです。おそらく自分とだけの時間を楽しんでもらいたい。他との差をつけたい。といった支配欲?が強いのかなと。相手の幸福や良いことを素直に喜んであげたり共感してあげたりできないちっぽけな自分が、相手がいい子だからこそなおさら嫌になります。今はまだ、そのようなことは心の中だけで表には一切出さず我慢出来ているのですが、いつか出てしまいそうで怖いです。それに我慢しているのもあまりいい気分にはなれないです。それだけでなく、この子は自分のようなちっぽけな人間じゃなくもっと心の広い大人な人と付き合った方がいいのでは、と思うことすらあります。どういう心持ちでいたり、どう対応したりすればいいですかね。よろしくお願いします。
自分でもしなければならないとわかってるのに就活ができません。仕事が合わないと退職してから、自分のすることに自信がなくなってしまい、元々あったわけでもない目標がさらになくなってしまいました。生きていかなければならないのに人生に楽しさが見出せなくて、生きるという苦労に釣り合っていない仕事を始めることがとても苦痛です。わずかにしたいことがあってもどうせ何も形にならないと諦めてしまいます。他の人のように普通になれないことがすごくコンプレックスで、じゃあ行動すれば良いのにという思いと何をしても無理という思いの繰り返しで実家で甘えてみっともなく生きています。 昔から努力が苦手でそれでも子供なので何とかなってきました。しかし大人になった今自分の責任は自分でとらなければなりません。リタイアしてしまいたいけどそれは怖くてできません。甘ちゃんなのは分かっています。他に苦労してる人がたくさんいるのも知っています。 生きていたらいいこともあるかもしれないけどそんなわずかな幸福のためにこれからも生きなければいけないのでしょうか? どうしたら未来に希望をもって、生きていけるのでしょうか?