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検索結果: 486件
2022/03/14

命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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2021/06/09

人生にステージはあるのか?

ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?

有り難し有り難し 12
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大切な人を失くしました

10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?

有り難し有り難し 5
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2023/06/27

生き続ける意味

夫の不倫と離婚がきっかけで希死念慮に憑りつかれている子なし独身の女です。 不倫の発覚から何度も死にたいと思い続けてきましたが、両親や友人を悲しませたくないという一心で何とか生きながらえてきました。 しかし最近は自分のためでなく他人のために生きていることに意味があるのだろうか、と考えることが増えました。 心療内科に通ったり仕事に打ち込んだり、新たな趣味を始め体を動かしてみたり、色々試しましたが特に効果はなし。最近は具体的な死に方や、死ぬ前に必要な手続きのことばかり考えています。 もちろん私が死ねば悲しむ人が大勢いると理解しています。 自死を選ぶ業の深さも分かっているつもりです。 でもそれを上回る希死念慮が日に何度も襲ってきて、そのたびギリギリのところで踏みとどまっています。 ひとまず死ぬ前の身辺整理をしているうちに気持ちが変わるかもしれない、と思い時間稼ぎをしていますが、そろそろ整理も終わってしまいそうです。 自分が望んでいないのに生き続けなければならない理由ってなんなのでしょうか。 周囲が悲しむ・迷惑がかかるから、という理由以外に何かありますか? いつか時間が解決してくれるとしても、それまで耐え続けるのはあまりにも辛いです。

有り難し有り難し 5
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生きなければならないことに疑問を感じる

初めて希死念慮やここではないどこかに行きたいと感じたのは小学3年生です。 そこから10年以上、特に気持ちが落ち込んでいる際は死に方を調べては完璧な自殺方法を探すようになりました。完璧な方法が見つかるまでは自殺はしないかもしれませんが、突発的にベランダから飛び出したくなることも多いです。 父や親類を小学6年生から何度か亡くしたり、近しい人が自殺未遂をし、現場立ち会いをしたこともあり 死んだら誰かが悲しむ、住んでいる家の処理や警察対応など自分が死んだ後に大変なことが起きる方が多いこともよく分かっています。 それでも生きていることに意味が見出せず、希死念慮が出てきた時から一貫して 事故や病気になって自殺以外のしょうがない理由をつけて早く死ぬことが目標になってしまっています。 もしガンなど体を切らなければならないような病気になった場合は一切治療を受けるつもりもありません。 正直苦しいです。みんな死にたいと思いながら生きていると思っていたので、それは普通ではないと聞いた時は本当に驚きました。 いつか全てがどうでもよくなって、突発的に希死念慮が強くなりベランダを飛び出したりODなどをしてしまうのではないかと心配もしています。 生きたいと思えるように生きたい でも勝手に産み落とされて、自分の意思とは関係なく自分という存在が始まったのに 自分の意思で安楽死などを選択できないこの世界にも疑問しかありません 他人が悲しむからという理由でしか生きられない自分にも嫌気がさしています。 すぐには安楽死や病気や事故などが起きそうにもないため、なにか生きたいと思える理由がほしいです。

有り難し有り難し 10
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2022/07/15

自殺は止めるべきなのか

自殺はいけない。 以前はそう考えていました。 実際目の前で自分の命を絶とうとしている者がいたら全力で止めたと思います。 実際には止めてるつもりでも言葉の使い方によっては最後の一押しになるかもしれず、こういう時は中国人のように無関心で居た方が安全なのかもしれません。まぁそれでも「止めよう」とはしたと思います。全力で。 止めるのが正しいのか悩んでいる今でも実際にその場に居合わせたら止めるかもしれません。でもその理由は「目の前で死のうとしている人を放置して実際に死なれたら寝覚めが悪いから」という利己的な理由からであって。以前のように「それが正しいことだから止める」という風には考えられなくなっているのです。 先日「刑務所に入りたいから」という動機で漫喫に立てこもったバカがいました。去年も同様の事件があったと記憶しています。というかもはやそんなに珍しい事件ではないのかもしれません。 もっと悲惨な事件もあります。今年二月に起きた大坂の心療内科クリニック放火事件。動機も空かさないまま犯人は死んでしまいましたが生前「生きづらさ」を訴えていたとと聞きます。生活困窮者で将来の希望もなかったのでしょう。 自分の嫁との関係を疑って相手の家族を殺した挙げ句(相手本人は不在のため殺害を免れる)犯人が自殺、というケースもあります。遺族には恨みをぶつける相手もいません。 そして今回安倍氏を銃撃した山上某。 彼の境遇も悲惨、凄惨です。事情だけ聞けば春原も同情しています。同情せずにはいられません。 これはこれで本心なのですがその上で「こんなことするくらいなら死ねよ」と考えている自分が居ます。 そんなにタヒにたいのなら他人を巻き込まず自分だけでどうぞ、ってことです。 自殺がいけないことだということはよくわかっています。生きるための努力をすべき、ということも。 でも精神やられちゃってそういうことができない人も居るでしょう。そういう人が死のうとしている時に果たしてそれでも止めるべきなのか。 どうお考えでしょうか。

有り難し有り難し 49
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相談出来る人がいない。

過去の歴史を振り返っても世界は常に様々な事がある。 争いや災害などなくなる事など決して無い世界で、その時代時代で、人は悩んで、苦しんで、喜んで、楽しんで、悲しんで、嘆いて、様々な感情を抱えながら、それでも人は今を生きている。生かされている。生きていけない。生きるのをやめる。生かしてくれない。様々な状況がある。 生きる事が怖いです。 死ぬのはもっと怖いです。 大切なものを無くす不安、恐怖、悲しみを味わいたくないです。 自分は死にたい訳でもありません。 大切な人に悲しみを与えたくないから。 だけど、いつも、、、。わからないです。 他人を羨んだり、自分を自慢したりもしません。 何かを望んでいる訳でもなく、いつも自分の心は真ん中にあってほしい。 なぜなら様々な出来事に自分の感情が揺れるのが怖いから日々を精一杯生きてるだけです。 それでも年齢を重ねて感動が薄れていく気がします。 けどいつか必ず来る悲しみを味わうのはもう嫌です。 今の世の中は物が溢れているところもあれば、その日その日を食い凌ぐので精一杯のところもあります。 あればあるほどいいとは思いません。 無ければ無いでこした事はないけれど、全く無いのは虚しいです。 モノや感情も同じ事で、自分にとってちょうどいいを見つけて、探して、見失ってその繰り返しです。 豊かとは何か?頭で考え、心で感じ、身体で実感する。 人生はそれの繰り返しで、過去の思い出をふと振り返り愛され、悩み葛藤し、肩を寄せ合って生きてたあの頃が懐かしく愛おしく思います。 今が不幸せという事ではありません。 十分に幸せだと思っています。 救いの言葉を下さい。 自分はどうやって生きていけばいいでしょうか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
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人生の決着をつける

私は今死ぬことについて悩んでいます。というのも、ある本を読んで「人は確実に死ぬにもかかわらず、その恐怖から逃げる為に死を連想する物事を日常から遠ざけてきた。本当によりよく生きるなら、自身の納得のいく終わらせ方を考えるべき。」という旨の文章に感銘を受けて、それ以来自身のやるべきことを放ったらかして自分で自身の息の根を断つことばかり考えるようになったからです。 私がなぜここで相談しようと思ったかと言いますと、身近な人に相談しようものなら確実に反対されることが目に見えているからです。 私は、今のところ他人から見て不自由な生活はしていないと思っていますが、これまでただ死ぬのが怖いという理由だけで勉強を頑張ったり体を鍛えたりするばかりで、夢のない生活を延々と続けています。そんな中先述の文章に出会った、「死の権利を自由に行使する」という人生で初めての夢が出来て、しかも運良く自身の満足のいく死に方を見つけたことで今すごく充実した気分で生きています。 ‥ただ一つ気がかりなのが、両親や数少ない友人といった私が死んだ時に残された人たちの気持ちです。 私の満足のいく死に方というのはぶっちゃけ自殺の一種にあたるやり方で、一応人に迷惑をかけるつもりはないのですが、それでも私が事情を説明せずに突然死ぬと両親や友人に影響を及ぼしてしまいます。かといって、馬鹿正直に自分の夢について説明したら、絶対反対されるとも思っています。だからといって、他人の為に興味ない生き方をするのは生殺しにされているようで凄く嫌です。でもでも自身の夢だからって人に迷惑かけていいのかなぁ‥ こんな感じで中途半端に人の心が残っているせいか、自身の夢と他人への影響のジレンマで悩んでいます。 一応自身の見解としては、「生殺与奪の権利を握られるくらいなら、自身で決着をつけたい。たとえその為に人が死ぬとも、例え地獄で残酷に裁かれようとも。自分の意思を貫くなら今じゃあないのか。」といった自己中の極みみたいな結論に至ったのですが、一応取り返しのつかない事なので相談してみたいと思い、文章をしたためることになりました。 あまりにも生物として気の違ったような質問で申し訳ないですが、何卒ご返事の程宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 9
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人間のあり方とは

これまで自殺願望について何度もご相談させて頂いたものです。皆さんの真摯な対応のおかげで希死観念は徐々に薄れてきて、心の余裕が出来た事で過去の自分と向き合う事をしているのですが、その中で気がかりな方に気づいたので僭越ながら再びご相談させて下さい。 私は、自由意志の尊重をきっかけに自死について興味を持ちました。「他人に命のあり方を左右されるくらいなら自分で死んだ方が得心が行く」という心持ちに至った訳です。 その発端は世間にはこびる根拠の薄い方便でした。「死は悪である」「子供を産むのが人のあり方である」「生産性の無い人は生きてはいけない」…こうした社会を回す為の方便を自明の考えとして押し付けられる事は今でも受け入れられません。 特に、死を絶対悪とする発想は金輪際受け付けないと思っています。現在の自分は生の目的を少しずつ見つけたので辛うじて死を適度に恐れていますが、それでも全ての人に悪であると考えることは思い上がりも甚だしいと多々感じます。 逆も然りです。誰かの生き様に無責任な横槍を入れる発言を私はしたくありませんしまして本人の納得の外で当人の生き死にを自分が左右する事に大変忌避感を覚えます。恐らく政治や企業経営などは自分には全く向いていないのでしょう。 このように自他の意志を尊重しようとすると、どうしても傍観者の立場を取る事になり、一向に他人との繋がりを見出せなくなってしまうのです。 自己という存在は縁起で成り立っているという事を知っておきながら、いざ生活すると他人の預かり知らぬところで淡々と幸福を追求することになります。 全くもって不思議です。 つまるところ、今の自分は人間不信なのだと思っているのです。 他人が信用できないから自分の力でどうにかする術を追求し続けたということです。しかし、そのあり方を果たして続けていいのか、いやしかし「貴方の為を思って」とうそぶきながら自己の為に他人を操作するのもどうなんだろうか、そんな事をずっと思い続けているのです。 これは果たして人間の在り方としてどうなんでしょう。それとも私は人間を名乗る事を辞めた方がいいのでしょうか。

有り難し有り難し 9
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2023/05/15

人生を終わらせたい

私は、自分の理想とする人生を歩めない、そればかりかこの先悲しいことばかり起こるのだと悟り、であれば少しでも辛い思いをする前にこの人生を終わらせたいと思います。 少し前までは、せめて世界へ旅に出て感動的な体験をしてからでも遅くないと思えたのですが、最近は何かに感動する感情も薄れてきて、早く死にたいと思ってしまいます。 仕事も側から見たら普通にやっているように見られてますが、自分の能力の限界を自分は知っているので今後が怖いです。 ただ、自死を考える上で唯一の心残りが、遺された家族の気持ちです。 私の家族:両親は離婚、兄弟含めみんなあまり友達がいなかったり、孤独な面があります。また、母は10年前に家を出て行き、発達障害気味の姉と2人暮らし、とても低い収入で一生懸命姉の分まで働いています。なのに、こちらからの援助どころかプレゼントすら受け取ってくれないようになり、それも私からすると苦しいです。母には少しでも幸せでいてほしいのに、全く人を頼ることをしません。 (正直他の明るい家族だったり人生楽しんでいる人たちを見て、なぜ、うちの家系はみんな孤独なんだろう、こういう性格なんだろう(一言で言うと陰という感じです。)、と思ったりして、そういうことを考えるのも辛いです) そんな家族だからこそ余計に、私が自死などしたら一生癒えない悲しみを負わせることになると思います。 でもそれさえ振り切って人生終わらせたい、、その繰り返しです。 私自身、もう30になるのもあり家族を設けられればまた違った人生があるのかもしれませんが、好きな人と一緒になることも叶いそうにありません。 そもそも、自分のような人と深い関係を築くのが難しい性格で生まれてしまった以上、自分が理想とする人生は確実に無理です。 本来であれば身の丈に合ったフィールドで精一杯生きると言うのが正しい在り方だと思うのですが、私は「こうでありたかった」という理想への執着のようなものを消すことができません。こんな状態では、自分のスペックで言えば一般的に幸せと言えるかもしれない状況を手に入れても、幸せと思うことが出来ません。 まとめると、生きるも地獄、死ぬも地獄、でも死んでしまったら自分はそこで感情も何もなくなるので、苦しい状況から逃れられはする、という感じです。 何かアドバイスございましたらご教示いただきたいです。

有り難し有り難し 25
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罪の償い方

いまだ母の死(いなくなった事)が受け入れられず、これは母を大事にしなさすぎている私に対してのドッキリで、帰ったらまた前みたいに家に居てくれると期待しながら家に帰ったり、目を覚ましたら、また居てくれると、また戻って来てくれると信じて願っています。 でも、家に帰っても目を覚ましても、母の姿は無く、私が母の事を殺したんだからいるわけない、と思う自分もいます。 やりたいこともあって、死にたくないと思いながら、寂しさや苦しみの中死んでいった母の事を思うと、本当に申し訳なくて、毎日位牌とその横で笑う写真に泣きながら謝っています。 寝るときも布団の中で泣きながら謝っています。 「その笑顔も、オカンの人生も全部めちゃくちゃにしてごめんなさい。許してもらおうとは思ってないし、私が行くのは地獄だから、向こうでオカンには会えないけどゴメンね。こんな風に育ってごめんなさい。私が生まれてこないで、生まれてくるはずだった弟か妹が生まれてきてれば、もっと幸せで長生き出来たのに、オカンの事不幸にしてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」と謝っています。 私はアレルギー持ちで母がいたときは、促されて毎日薬を飲んでいましたが、今飲むのを止めています。私のせいで母が苦しんだのに、私が苦しまないのは平等じゃないと思ったからです。母は、私には少しでも体調悪いと思ったら病院行けと言う割に、自分では多分私に遠慮して病院に行くことをしませんでした。ここ最近、痒みと戦っていますが、母の苦しみに比べたら大したことないと自分に言い聞かせています。 私に出来る罪の償いは、謝り続けることと、薬を飲まず痒みと戦うこと、ご飯を作る事以外に何があるでしょうか? やはり、母が言っていましたが、人を殺したら自分も死ねの教えに従うべきでしょうか? 生まれてくるはずだった弟か妹も、私のせいで死んでしまったのです。(小さいとき、夏にビニールプールに母を無理強いして入れたために、流産したようです。) 私はやはり生まれてくるべきではなかったと思っています。

有り難し有り難し 61
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生きることは正しいですか?

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 52
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姑への怒りを消すには。。。

4年前に主人と結婚したのですが、結婚が決まった頃から姑への嫌悪感がどんどん膨らんで苦しんでいます。 一番最初は、私の父が亡くなった時でした。 私は10代で大好きな父を亡くしました。あまりの早い死に私は随分落ち込みました。 そんな時に、当時はまだ恋人という関係だった主人の母にされたことが忘れられません。 義母はある宗教をしているのですが、私の実家の近くに住む同じ宗教をしている知人に勝手に私の父の死と死因を話し、私の実家に寄こしたのです。 私にとってはまるで知らない他人がいきなり家にやってきて、父が死んで辛いでしょうなど、宗教の話しを絡めて不躾に慰めにきたのです。 当時父の死を受け入れられずにいた私にとって、どこの誰かも知らない他人に父の死を語られるのは、本当に苦痛以外の何ものでもありませんでした。 しかも、私はその宗教に入信しているわけでもなく、本当に悲しいやら、腹立たしいやらで、その一件で主人との別れも考えたほどです。 その後も、結婚式や披露宴でも、傷つくようなことをされました。 一生に一度の式でされたことを、どうやって自分の中で消化すればよいのかわかりません。 他にも色々と私の常識では考えられないようなことをされ、私はどんどん姑が苦手になる一方です。 ですが、私の中では、仲良くできるならしたいという気持ちはあるのです。 姑はおそらく悪気はありません。 そのことが余計に私を苦しめます。 そして何より、結婚してから毎日のように姑のことで悩む日々からどうにか脱したいのです。 死にたいと考えることさえあります。 ただ毎日を笑って暮らしたい。主人のためにも上手くやりたい。 私はどうすれば良いのでしょう。

有り難し有り難し 41
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