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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 」
検索結果: 5455件

祖母が亡くなったのに泣けない

初めまして。 タイトルの通り、先月祖母が亡くなったのに、未だに泣けないでおります。 祖母には私が幼い頃から本当に可愛がってもらいました。 朗らかで穏やかで優しい人で、一度も怒ったところを見た事がありません。そんな性格だったので周囲の人にとても好かれ、葬儀の時は皆涙に暮れる、といった様子でした。 祖父が十年前に亡くなってからは病気がちになり、実家に戻り出来る限り祖母を介護しました。 介護を一度も苦痛とは思いませんでしたが、祖母はいつも「申し訳ない」と謝っていました。 この一年ほどは病院と施設を行ったり来たりでした。私は医師なので数えきれないほどの死を見ており、祖母もいつどうなってもおかしくない状態という事は理解しておりましたし、覚悟もしているつもりでした。 ただ、祖母が亡くなったら自分は生きていけないのではないか、と不安に思っていました。 ところが、先月祖母が亡くなった時から今まで少しも涙が出ず、それどころか悲しいという感情すらありません。 時折「寂しいな」と思う事はあります。しかし持続しないというか、考えないようにしてしまうのです。 葬儀の際、周囲の方から口々に「おばあちゃんはいつもあなたの事を話していた、本当に感謝していた」と言われました。 涙も出ない冷酷な私が、祖母に感謝してもらう権利はあるのかと思います。 泣けない、悲しいと思わない事は異常だと分かっていますが、自分でも自分の心理が全く分かりません。 こんな薄情な孫を祖母は悲しんでいないか、とても気がかりです。

有り難し有り難し 45
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2022/09/30

父が憎いです

私の父は決して悪い人ではないのですが、昔から自己中心的で、人のことを馬鹿にしたり非難したり、感情のままにすぐに怒鳴りつけたりします。 家族だけではなく、色んな人や物事に感謝をすることを知らない人です。 それなのに、自分のしたことは人一倍感謝されたい。そんな人です。 現役時代は自営業で生活のリズムがバラバラだったこともあり、引退した今も昼夜逆転の生活をし、一緒に住んでいる母が眠れないことなどおかまいなしの生活を続けています。 とにかく自分の気に入らないことがあると大声で恫喝し、「ここは自分の家だから、言うことが聞けないなら出て行け」と兄や私を出入り禁止にもしました。 母と兄、私はずっとお互いのために我慢し、支え合ってきました。 どれほど不条理で納得のいかないときも、お互いのためを思って耐えてきたのです。 しかし、今年の初めに兄がくも膜下出血で倒れました。 その後、実家での療養を経て職場復帰も果たしたのですが、先日一人暮らし(実家とは離れた地域)の部屋で自死しました。 実家での療養中に、記憶障害が残った兄に対し「仕方ないやんか、頭がおかしくなったんやから」と何度も言ったり、手術痕をまじまじと見ては「ここもハゲてるな」と言ったり、頭を執拗に撫でたりしていました。 療養中は金銭的な不安があるだろうから、兄には払わせないようにしてあげて欲しいと母が頼んだにも関わらず、「あいつは奢るのが好きなんや」と言い、兄が亡くなった後も「もっと奢らせるつもりやったのに」と言ったり…葬儀やお仏壇の購入の時も、終始お金の話ばかりでした。 もちろん兄の自死は父のことだけが原因ではないと思いますが、兄の死をきっかけに、今まで我慢して耐えてきた父の理不尽な言動が許せないという気持ちが抑えられなくなり、憎しみが増す日々です。 父を許せず憎む私は親不孝でしょうか… これから父との関係をどうしていくべきなのか悩んでおります。

有り難し有り難し 34
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人間のあり方とは

これまで自殺願望について何度もご相談させて頂いたものです。皆さんの真摯な対応のおかげで希死観念は徐々に薄れてきて、心の余裕が出来た事で過去の自分と向き合う事をしているのですが、その中で気がかりな方に気づいたので僭越ながら再びご相談させて下さい。 私は、自由意志の尊重をきっかけに自死について興味を持ちました。「他人に命のあり方を左右されるくらいなら自分で死んだ方が得心が行く」という心持ちに至った訳です。 その発端は世間にはこびる根拠の薄い方便でした。「死は悪である」「子供を産むのが人のあり方である」「生産性の無い人は生きてはいけない」…こうした社会を回す為の方便を自明の考えとして押し付けられる事は今でも受け入れられません。 特に、死を絶対悪とする発想は金輪際受け付けないと思っています。現在の自分は生の目的を少しずつ見つけたので辛うじて死を適度に恐れていますが、それでも全ての人に悪であると考えることは思い上がりも甚だしいと多々感じます。 逆も然りです。誰かの生き様に無責任な横槍を入れる発言を私はしたくありませんしまして本人の納得の外で当人の生き死にを自分が左右する事に大変忌避感を覚えます。恐らく政治や企業経営などは自分には全く向いていないのでしょう。 このように自他の意志を尊重しようとすると、どうしても傍観者の立場を取る事になり、一向に他人との繋がりを見出せなくなってしまうのです。 自己という存在は縁起で成り立っているという事を知っておきながら、いざ生活すると他人の預かり知らぬところで淡々と幸福を追求することになります。 全くもって不思議です。 つまるところ、今の自分は人間不信なのだと思っているのです。 他人が信用できないから自分の力でどうにかする術を追求し続けたということです。しかし、そのあり方を果たして続けていいのか、いやしかし「貴方の為を思って」とうそぶきながら自己の為に他人を操作するのもどうなんだろうか、そんな事をずっと思い続けているのです。 これは果たして人間の在り方としてどうなんでしょう。それとも私は人間を名乗る事を辞めた方がいいのでしょうか。

有り難し有り難し 9
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2022/10/25

心から供養できません

主人が自殺しました。まだまだ手がかかる子供達を残して。これからの成長が楽しみな子供達を残して。 あれから、生活が180度変わりました。残酷な生活へ。 主人の家族からは私の両親含め子供達までも殺人犯扱いを受けております。 他の投稿で仏様に導かれて極楽浄土へ行くとありましたが、その投稿を見ても自分だけ楽になってスッキリしてという思いが強くなりどうしても許す事ができません。 死に追いやったのは私のせいですが、ここまで生活してきて我慢ならない事がたくさんありました。なんなら私の方が全て投げ出して楽になりたかった…とさえ思ってしまいます。 しかし私はそんな事は絶対にしません。周りの人を苦しめるだけだから。 自分で死しか選べず逝ってしまった事はほんとに苦しかったね…ごめんなさいとは思って安らかにと思う反面、人生最大の裏切り方をされたという思いが交互にやってきてパニックになりそうです。 私は第一発見者でした。なので笑っていた顔も怒っていた顔も泣いていた顔も声も全て思い出せず、思い出そうとすると最期のあの姿しか思い出せません。 そして夜になると、暗いところに行くと思い出してしまいとてつもない恐怖が襲ってきてお風呂も寝るのも1人でできません。 なのに何故あなたは1人だけ楽になり、みんなから可哀想、可哀想と言われ、何故残された私たちは形見の狭い思いをしなくてはならないのですか? 夢から覚めて朝が来たら、あなたがいると希望を持ちながら、起きると現実に戻り絶望感からの目覚めになります。 このような事から、あの世では苦しまないで欲しいと思いながらも、心から供養する事ができません。これからの人生明るくなるとは到底思えません。 時が解決してくれると皆は言いますが、ごめんなさい、そうは今の所思えないのです。 自分でも、このような感情でいるのがほんとに白状な事だと思っていますが、やはり心から供養できないままです。

有り難し有り難し 30
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後を追いをしないように

どうしたらいいでしょうか。 もちろん、頭で自殺はいけないことというのは分かっています。 主人に自死で先立たれました。正直追いかけたい衝動が奥にあります。 なんで?って聞きたいです。何をみてもどこに行っても、主人が居ないことを思い知らされます。 私がその状況を作り、防げなかったことの後悔が尽きません。また会いたいし、話したい。 今は49日まで、彼を弔うことに専念しようと過ごしています。 毎日私を心配して、親から電話があります。 日にあまりにも何度もあるので、態度は邪険にもなりますが、こんなツラい想いを、年老いてきた両親にさせるは忍びないです。 身体が辛くて、半年前に仕事も辞めました。何もしないのも良くないし、まして、 生きていくには、働かなくてはいけないことも頭では理解しているのですが、心がついていきません。 何のために生きてるんだろう。 それに、今、仕事しても、責任負って何かする自信もありません。 それでも動かなきゃと動けるときは動くようにしています。 自死の家族の会にも参加してみました。何年も苦しんでる方々が多くいました。 泣きながら話しててもお互いに様な環境は有り難かったですが、時間の経過で、癒されるものでもないこともわかりました。 元々の頚椎の問題もあるのか、睡眠不足と大泣きすると、目眩が酷くなり、動くのも嫌になります。 引きこもらないように、通ってた整骨院や、香典返しや、月命日に納骨前ですが、準備にと思ってお墓参りしてきました。 彼のために、と思うとまだ動けていますが、ふとした瞬間、ここで事故にあったら、とか、この睡眠薬全部飲んだら、とよぎることがあります。心が壊れるなら、壊れちゃえ、と。 親に私と同じ想いはさせたくない、迷惑かけたくない、とは思いますが、私の場合理由が分かるし、両親まだいるし、弟に孫もいるからまだマシだよね、とも思っている自分もいます。 動けるときは動けますが、ダメなときはずっとボーっとしています。 ずっと泣いてることはなくなりましたが、その分一気に堰をきったように泣いたり、胸が締めつけられます。 どこかで、糸が切れそうな自分が怖いです。 変なことがよぎったときに、思い留まる術、アドバイスあれば教えてください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 20
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自分のあり方について

いつも拝見させて頂いてます。よろしくお願いいたします。 私は一年程前に鬱と診断され鬱と共に生きています。 職業柄他の人には言えず、彼女だけに伝えています。 今、仕事を移るために職場を辞め、新しい職場を探しています。 しかし、なかなか新しい職場が見つからず自分の気持ちが黒く塗り潰されるように感じて、全てに自信が持てず、一人部屋に居ると自ら命を絶つことしか浮かびません。 今はまだ死への恐怖が上回り、行動には移せませんが、いつか自分がふと行動に起こさないか心配です。 彼女一人に負担がかかっていて、このままではいけないと自分でもわかっているのですがどうすることも出来ません。 今は全てに依存していると感じます 私自身鬱は無くならない、誰にでも有り、一生付き合う物と思い生きるつもりです。 このまま鬱と共に私は自立し生きて行けるでしょうか? 私に今信仰してるものもありません。 宗教とは心にある基盤に寄り添う物だと感じています。 神や仏に縋り生きて行く事は自立になるのでしょうか? このような質問をするのは初めてで文も纏まらずすみません。 私自身命を軽んじる気持ちはありません。 ですが、今自分の命の価値は感じられません。 希望が欲しいです。 無理な事を押し付けて申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 23
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生の強制を信奉できない

以前自殺願望について何度も相談させて頂いたものです。何度もお手数をお掛けして申し訳ありませんが、またご相談の程宜しくお願いいたします。 私は、皆さんとの対話の末に何とか生きる目的を導き、少しずつ自らの存在と自身が存在する世界を祝福できるようになりました。ですが、自身の中で解決していない問題があります。 生の強制と自殺についてです。 私が知る限りでは、仏教は生と死という対立概念について中立の立場を取っています。生きようが死のうが問題ないような心構えを説かれているように思えるのです。私はこの考え方に大いに賛同しているのですが、その立場故に生存を無条件に強制する人たちに対して今でも強い忌避感を覚えてしまうことに悩んでいます。 私は、ハスノハ以外でも両親や友人、教授に自殺願望の悩みを打ち明けたのですが、その誰もに私に対して「死ぬな」という事を前提に説得されました。 私が、生活に不満はないがやることがなくなり、これ以上生命に執着したくないという事を打ち明けたとしても、その発想自体を幻想と一蹴され頑なに生を強制されました。 説得者の言葉からは、現実の私ではなく、説得者のイメージとしての私や、先程述べた死生観を見ているような見当違いを感じ、それ以来人を信頼できなくなっています。 断っておきますが、この方々が悪い人間とは思っていません。むしろ、自己の想像の範疇で私を助けようとしてくれる善人だと思います。しかし、それ故に彼らが生きるという事を無自覚に狂信している事実に深い断絶を感じます。この世のどんな渓谷よりも深い絶望的な断絶の向こう側に、ひとりぼっちで取り残されたような感じです。 私は、彼らのように生を肯定すること自体は問題ないと思っているのですが、生に取り憑かれ、挙句他者にそれを強制する傲慢さを拒絶せずにはいられません。 生きたいと決心した人が快く生き、死にたいと決心した人が悔いなく死ねる。そんな世のあり方を私は望んでいますが、この考え方に取り憑かれた私もまた傲慢なのでしょうか。 そもそも、仏教の教えを信じる時点で私は傲慢だったのでしょうか。

有り難し有り難し 22
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自分の中の相反する感情に振り回されて辛い

実生活で困っていることはないのに、最近気持ちが追い詰められて、頻繁に死を考えるようになってきました。 趣味もあるし、仕事もある。家もあるし、周りから虐められるような事は今はないのですが、過去の辛い経験が、未だに心の中で私を苦しめているようで、ここ数年落ち着いてきていた死への思いが再び強くなってきてしまいました。 過去、異性から虐められたり、心許した相手からセクハラメールを送られたりして、異性に対してはもう恋愛感情も持てないし、結婚もする気はないのですが、先日結婚相談所から電話が来て、普通に断ればいいものを、良縁を結ぶという言葉を聞いた途端パニックになり、強い口調で返して電話を切ってしまいました。相手は仕事で電話をかけてきただけだというのに、そんな態度をとってしまった自分が心底嫌になり、泣きながら跡が残るほど自分で自分の首をいろんなもので締めてしまいました。 死ななければいけないという思いは二十代の頃から強く常にありました。 最近は落ち着いてきたのに、またそれが強くなって、思うだけでなく自分の首を絞めてしまう状態になってしまいました。 人に迷惑掛けずに生きる事も、自分から命を経つこともいけないことなのは分かっているのです。生きてても案外なんとかなってることも分かってはいるのですが、同時に人に迷惑をかけてはいけない。でも、頻繁にパニックになって倒れる自分は人に迷惑をかけている。そんな自分は早く消えるべきだという気持ちも同時に沸き起こって、そのうち取り返しのつかない事をしてしまうのではないかと恐ろしく感じます。 おそらく、後者は過去に酷い言葉をぶつけられ、散々傷ついた過去の自分が思っている事なのだと思います。それが、未だに心の中に存在して、消えずにいるのだと。 もう、誰も私を傷付けないし、酷い言葉を投げ掛けない。傷つく必要はないのだと、心の中に居座ってる過去の自分に言い聞かせたいのですが、逆に辛い思い出が蘇って、今の自分が参っていってしまっています。 私はこの苦しさを抱えたまま生きていかねばならないのでしょうか。この苦しさを抱えながらも前に進むにはどうすればいいのでしょうか。将来の事を考えても見えるのは死ぬ未来ばかりで、何も見えないのです、昔から。 少しでもいいです。何かアドバイスをいただけたら有難いです。

有り難し有り難し 4
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生きているのがこわい

死が怖いです。大切な人や自分がこの世からいなくなる、どうなるか分からないことへの不安と恐怖で毎日ぐるぐる考えては1日を無為に過ごしてしまいます。 こんなに怖いなら生まれなきゃよかったと思うし、自我が芽生える前にしんでればよかったと考えてしまいます。 二十数年間生きてきて、大切なものも増えてしまいました。それらを失うことも怖いです。 朝目が覚めるだろうか、この車は私の元に突っ込んでこないだろうか、大きな事件や災害が数秒後に起きるかもしれない、目を離したとき愛犬が倒れたらなど不安が多くて、家から出られません。 事件事故のニュースを見ることも出来ませんが、何も知らずに生きることも怖いのでネットニュースを読むことはできるように頑張っています。 街中で妊婦さんやお子さんをお見かけすると、この人たちはとても幸せそうに見えるけど次の瞬間には…と恐ろしい事態を想像してしまい、素直に祝福できなくて自己嫌悪します。 50を過ぎた母が、「私はもう死んでもいい」「あと5年で逝くからあんたそろそろ自立しなさい」などと口にすることも私の不安を駆り立てます。(母は現時点で健康体です) 不安や恐怖を解消するまでにいかなくても、上手に向き合う?付き合っていく?方法はないのでしょうか

有り難し有り難し 10
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