初めまして。 私は、幼少期にウサギを蹴って殺しました。 可愛くて可愛くてそれなのに真逆の行動をして殺しました。 どんな気持ちでやったのかまで覚えてないのですが、死ぬとは思ってなかったような気はします。でも悪いことしてるという認識はあった気がします。親には言えなかったから。 それで後悔したはずなのに、学んだはずなのに、 私は小学生に上がって、友達と一緒に亡くなったウサギの皮膚をハサミで切ってしまったことがあります。もう何でそんなことしたのか全く分かりません。 ずっと悔やんできました。 動物虐待のニュースを見るたびに犯人に憤慨する。その度に私は同じなんだと地獄に落ちる人間なんだと思っています。 それでも動物が好きで好きで、今までも沢山迎えてきました。今も犬3頭と生活していて職業まで動物に携わっています。 我が家にいた子を看取る度に、私は地獄へ行く人間だからこの子達にはもう死後の世界では会えないんだと、夜寝れない日もあります。 閻魔様の前で今まで一緒に居てきた愛犬たちから引き離される夢を見ることもあります。 子供が産まれて、私の血がこの子に流れていると思うと申し訳なくて心配になります。 私がした行いは絶対許されることではないです。 でも欲を言ったら許されたい。 私はどうしたらいいですか? 子供には同じ過ちをさせないようにどうやって教えたらいいですか? 助けてください。
何年か前、タイトルの通り、従兄弟が自殺しました。 原因は学校でのいじめです。 すごく優しい子でしたが 心が弱い子だというのは知っていましたし、 いじめの内容も内容で、ひどいものでした。 正直とてもかわいそうな人生を送った子でした。 本当に弔っても、弔っても弔いきれません。 私は死後の世界を信じていますから、せめてあの世では楽に過ごしていてほしいと、切に願っています。 ですが自殺をした人は地獄に行く、という話を聞いた事があります。 それは本当なのでしょうか。 現実から逃げたくて自死したのに、 あちらの世でも苦しんでいるのかと思うと 本当に本当に思いいたたまれないのです。 あの子は今頃何をしているのでしょうか。 どこにいるのでしょうか。 心にぽっかりと空いた穴が、まだ戻りません。 もしよろしければご回答下さい。
私は、現在中学生ですが、これまでに沢山の罪を犯してしまいました。(特に小学生時代が酷いです💦) 例えば、意味無く蟻を踏み殺したり、親のお金や、図工の時間に自分が無くした部品を友達の袋からとってしまったりしました。また、いらいらしていてものを投げてしまった時に仏壇に当たってしまった事もあります。 最近、自分が今までやってしまったことを思い出し、身近にいる人には謝っていますが、まだ謝れていない方も沢山います。 自分のことばかり考えて他の人のことや、後先を考えずに行動してしまった自分が悪いです。 でも、私は死後に地獄に行きたくないです。 今はとても幸せな生活ができているので、死後に大変な思いをしそうで怖いです。 私は死後、極楽浄土に行けるのでしょうか…? また、謝れていない人へは、どうすれば良いのでしょうか…? 文章がまとまっていなくてごめんなさい。宜しければ回答お願いします🙏
私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?
こんにちわ、またまたご相談です。 現在、私は引きこもりのような生活をしています。理由としては人間関係で色々とあって、精神的にも疲れきってしまい人と関わるのが怖くなったからです。 親に「外に出ろ」と言われますが、私は何かを強制されるのが嫌いな部分があるので反発してよく喧嘩を起こしてしまいます。 今は落ち着いてきており、私もいけなかった部分があるんだろうなと思うようになってきました。だけど、そのせいなのか、前にご相談した通り自分の嫌な所ばかり思うかんで自己嫌悪に落ち込んだり、マイナス思考に落ち込んだりしています。 今度は地獄の次には輪廻転生について恐ろしく感じる様になりました。 もし来世があるとしたら正直に言ってもうこの世には生まれたくないという気分になっております。 昔にもそんな事を考えた事があって、死を怖がったり生まれ変わりがあるのなら動物になるのも虫になるのも嫌だなと思った事があり、人の事は言えませんが人間に酷い目にあわされている動物を見て気分が悪くなって、こんな目に合うのは嫌!怖い!と思ったりしました。 生まれ変わるのなら人間が一番いいと言われてますが、人間だって必ずしも平穏な環境で生まれるとは限らないし、人間同士だって諍いがあるし、人を人だと思わないような人間だっていますし。 転生してしまえば記憶がなくなって別人になると言われてますが、それも正直に言って怖い。今いる自分自身が消えてしまうと考えるととても怖くて仕方ない。 地獄も怖いけれど、転生も怖い。 今まで他人事のように感じていた物が急に恐ろしくなり、だからもし、死後の世界があるとしたら、転生などせずただ穏やかでありつづけたいと思い、本当に自分勝手だと思いますが、もし本当にお釈迦様がいるのなら、もう、この世に輪廻させないでください。苦しいのも怖いのも痛いの嫌です。自分が消えてしまうのが怖いですと言いたい気分になりました。 自分の人生の中には楽しい事もありましたし、生きていれば考え方など変わると思いますが、今はこういう考えをしてしまい気力が削れ恐怖心でいっぱいになったりします。 前に進まないといけないのに、前に進むのが怖くて仕方のない状態で自分の身勝手さになんだかなと思い、こう考えるのに何の意味があるのでしょうか。 私はなんで生まれて来たのかと悩みばっか思い浮かんでしまいます。
お忙しいところ、申し訳ありません。 ずーと悩んできたことがあったので、ご相談いたします。 大変お恥ずかしいのですが、私は幼い頃から「お尻フェチ」です。 自分のを布団の中で露出させて触ったり、ネットで見たいがためにアダルトサイトやR−18物を閲覧してしまう始末です。好きな男キャラクターが、緊縛されて臀部を痴漢されているようなイラストまで描き、しつこく見てしまいます。 しかし、これらは煩悩であり、まったくもって良くないということもわかっています。なのに止められない自分が居ます。 このままでは、自分がそのような目に遭ってしまい兼ねませんし、仏教を重んじているため、死後地獄に落ちそうで怖いです。 そこでお聞きしたいことが2つあります。 1→自分の臀部を触るのは、色欲にあたりますか? 2→どうすれば、そのような物を嫌いになれますか?(フェチを克服したい) 長文担ってしまい、申し訳ございません。回答、よろしくお願いいたします。
私は小学6年生の元日、初めてアームカットをしました。 頭の中に砂嵐が流れ視界が黒ずんでいるような感覚で、まともに考えられず傷つけてしまいました。 傷つける寸前、初めに「死にたい」と思い、次に「死にたいわけじゃない」「傷付ければ今までの償いになる」と言い訳をしました。1度目は滑らせただけでしたが、その時点で「こんなことをしても償いになるはずがない、むしろ罪を重ねているのではないか」と思い始めました。しかし、「中途半端は嫌、どうせなら血が出るまで」「切れば報われる」「今までの辛さはこんなものだったのか」と自分に言い聞かせ何度も切りつけました。途中「傷が残れば皆に私が今まで耐えていたことを認めてもらえる」と考えが浮かび少し嬉しくなり、そんな自分が怖くなりました。血を見て焦りました。もう後戻りはできないと感じました。 耐えきれず、すぐに母に私の行いを告白しました。懺悔のつもりでした。母は母自身を責めていました。そして私を叱ってくれました。その日私はもう二度としないと母と約束しました。 しかし、中学1年生になり、また傷つけてしまいました。1度目の傷が薄くなっていくことに不安を覚え「自分は今まで耐え、頑張ったのに認められない。それに姉にばかり注目がいく、切ればまた私を見てもらえる」と思ったからです。姉は何も悪くありません。私が勝手に姉を僻んでしまったのです。皆口を開けば一言目は姉で、私のことは話にすら出ないこともあり寂しかったのです。 その日から恐らく百何十回と切り、ほとんどが消えない傷として残りました。 ある日、ネット検索をしている時に"仏様の体に傷をつける"ことが大罪になると記載されているのを見ました。 私は「人は死後仏様になると聞いたことがある。なら生きている今、自分の体を傷つけることも大罪なのではないか」と考え、焦り、不安、恐怖、後悔が押し寄せました。 そして、自傷に対する仏教的なお話を伺いたくここへ書き込むことにしました。 初めて切った日が元日なことにも罪悪感を覚えています。元日を選んだ理由はなく、偶然その日に我慢が切れてしまったのです。 今年の元日からアムカはしていません。しかし、心療内科の薬を過剰摂取してしまいました。 心配されずとも、私の辛さを家族や先生に理解して欲しかった。 こんな私は死後、地獄に落ちるのでしょうか。許されないことをしてしまったのでしょうか。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
私は今不安障害になり仕事を辞め病院に通いながら自宅療養中です。 病気のせいもあり急にいろんな事で不安になります。悩んでる時がないくらいに辛いです。その中でよく死ぬ事がとてつもなく怖く感じてしまいます。 死んだらどうなってしまうのだろうと考えてしまい、なかなか眠れなかったりします。 私は内気な性格で昔からいじめられる事が多くそのストレスで家で爆発してしまい両親や兄弟に当たったり傷つけたりたくさん迷惑をかけてしまい今思い返せば異常だったと思います。学生時代は悪口も言ってしまったり自分がされて嫌なこともしてしまっていました。 今は人にされて嫌なことはしないよう心がけていますが、過去は変えられないしもう手遅れかなと思ってしまいます。 こんな私はきっともし死後に地獄があるのならば地獄にいってしまうのかなと考えたら涙が止まりません。 死んだらその先ずっと苦しむのかと思ったら死ぬのがとても怖くなってしまいました。 何か死への恐怖を和らげる考え方はありますでしょうか。 もしよろしければご回答よろしくお願い致します。
盗み、嘘、自慰、騙し、我が儘、人の話を聞かない、殺生、過去に食べ物を粗末を粗末にしていた。ガチャガチャで当てた仏様を壊してしまった。 このような場合死後に当てられる罰は何処の地獄なのでしょうか。 善行なのか分かりませんが昨日目の見えない猫に食べ物を与えましたがこれも善行なのか。。 上記の行いを反省していて善行を積みたいのですが人と関わるのが苦手でどの様に善行を積むのか、近所のお地蔵様に手を合わせるのも良いのかを教えて頂きたいです。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
お坊さんの仕事にはどんな責任がついてくるのでしょうか? 私は現在、お坊さんになりたいと考えている20代の男性です。 お坊さんになりたいと思う動機については、昔から死後の世界のことや、生きる意味、将来のことなどについて不安に思い悩んでしまうことがあったため、「その悩みに対して自分なりに答えを見つけたい」というものや、「同じような悩みを持つ人の助けになりたい」というものがあります。 ただ、お坊さんになることに対して不安に思うこともありまして… それがお坊さんの仕事に有る責任です。例えば、「人から何か重大な相談事をされて、それに対して的確な助言を必ずしなければならない」とか、「何か、お葬式などの儀式の最中にミスをしたら、亡くなった人が地獄に行ってしまうかもしれない。」などといった事を考えてしまいます。 こういった責任に対してお坊さんはどのように考えていらっしゃるのでしょうか? またお坊さんにミスが許されない仕事はあるのでしょうか? 私は現在、強迫性障害という病気を患っており、自分のミスで人に対して危害を加えてしまうかもしれないという不安に毎日駆られています。 こんな私でもお坊さんになることはできるのでしょうか?
コロナで仕事が無くなり、何もしないまま6月も中旬。 3ヶ月半無駄に過ごしました。 転職サイトを見ても、経験も資格も無いため、選べる立場ではないですが、本当に仕事が無く、今後の生きる道に絶望を感じています。 この鬱々とした感情が良くないのかと 自己啓発本 鬱克服本 投資本 不動産経営本 成功者のYouTube見たり 簿記検定3級の受講テキストなど 見たり読んだりしましたが、 勉強は全然出来ないし 本はポジティブでないと人は離れていくとあり、あぁだめだポジティブにならないと...とさらに自己嫌悪になり 自己肯定感をあげるのも大変難しく 今までの自分の性格の糞さを目の当たりにし 今すぐ死にたいです。 生きていられないなんで生きてるんだろう今すぐ死にたいんです本当に。 4月5月、何もしておらず死にたかったので 今月から短期のバイトを初めたり カフェのバイトも初めましたが 死にたい気持ちが一向に収まりません。 散歩しても 運動しても ポジティブになれません。 周りが働いてたり、子育てしたり本当に生きててすごいと思う。 生きるって凄いです。私にはもう無理です。 毎日 毎日、自殺募集や死にたい人を検索しては共感しています。 本当に死にたいです。 死にたいんです。 皆どうやっていきてるの本当にすごい。 最近、左下腹部を押すとしこりがあるのが分かりました。 これがガンか何かで、余命1ヶ月であってくれと心から願っています。 現時点ではお金に困っていません。 生活にも困っていません。 自分の無知無能無力さ、夢や目標もなく、ゴールが無いから船を何処に進めたらいいのか分からず、ループに陥り、死ぬしかない、と考えます。 近所に祖母と母が住んでおり、私のこの思いは伝えております。私のせいで、最近二人ともあまり元気が無いように思います。 周りに迷惑をかけ、生産性もなく生きている私は本当に死ぬべきだし、死にたいです。 簡単に死ねず、生きるも地獄、死ぬも地獄。 八方塞がりです。しんどい。楽になりたい。 皆様、この気持ちはどうやって乗り越えるのですか。周りに助けを求めても、気を遣わせてしまい申し訳ない気持ちになり、一時的なやりとりで気が紛れますがすぐ死にたい気持ちで溢れます。 苦しいし辛いです。 他力本願でごめんなさい。 どうかどうか楽になりたい。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
大切な方が亡くなりました。 これは宗派によって考え方も違うと思いますが、禅宗の和尚さんにお参りをしてもらいました。 四十九日を終えて、六道に生まれ変わったと言ってみえました。 六道に生まれ変わった、六道の中には人間界もあって、どこかに生まれ変わっているのでしょうか? 空から見守ってもらっている?と思っていたら違うのでしょうか? お盆や何回忌に追善供養をするというのは、地獄にいる前提なのでしょうか?人間界に生まれ変わっていたら、人間界に生まれ変わった誰かに追善のお経がとどいている。ということでしょうか?
私は自分の事を好きになれません。 どうでも良いと思って生きてきました。 左腕は自傷で傷だらけです。 でも後悔はしていません。 いつ死んでも良いと思っています。 寧ろ早く死にたいです。 自殺は死後苦しむ事になると言いますが 生きてる今の方が苦しく辛く地獄です。 無気力で何も出来ない そんな自分が情けなくて腹が立つ。 でも動けない。 そんな矛盾に苦しんでいます。 プラス思考な助言は疲れるだけで 心に響いた事がありません。 とことん歪んでいます。 自分を好きになれる要素がない 産まれたくなかった 自分を愛する事が出来ていれば 少しは違った人生になってたのでしょうか? そんな私の価値は 誰が決めるのですか?
前の家に引っ越したのをきっかけに どんどんと人が離れました。 身体も突然悪くなり、仕事先は無くなり、家族と仲違いしました。 軽度の知的障がいと発達障害あり、ただ軽度なので作業所に入ること叶わず 幾度も自殺に失敗して、結果ホームレス状態 毎晩男性に身体を売って今も続いてます そして、知人の霊感のある方に 27体、いる。生霊が3人。危ないよ。 といわれ対処はしていましたが もう疲れました 身体も重く食事もお金がなく取れず 体調が悪化する一方 ここで聞きたいのですが、自殺をすると何処へ行きますか?死後の世界は本当にあるのか 死んだ、うさぎにあえるのかな 身辺整理をしています 病院に罹りたくても、仕事の最中に犯罪に巻き込まれました。そのせいで身分証を移せず、病院は自費なので無理です お別れをするのに希望しか持たないけど少し怖いです もしご回答くださる方がいたらば、私は少し頭が弱いので、分かり易くお願いします。 死んだら煉獄?地獄?それでも、今よりマシなのではないかなっておもいます。 今週末の都合のいい日、死ぬ予定です、好きなこともできず飢えたままって虚しいですね なぜお金が必要で、必要な人に支援が回らないのか。考えることも出来ません。 せめて、誰かに許され肯定されたかった 悪霊のせいならば、悪霊を呪いたいくらいの気持ちです。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
死後の世界については生まれ変わるとか、天国に行くとか地獄に落ちるとか、さまざまな考え方がありますが、私は死んだ後の世界は死ぬまで分からないので、その時に考えようと思っていました。 ですが、今年に入って長年共に過ごしてきた愛猫を亡くし、その子に天国から見守っていてほしい、自分が逝った時は天国で待っていて欲しい、迎えに来て欲しいと思うようになりました。とても自分勝手な理由ではありますが、天国(亡くなった生き物が行く世界)が存在していて欲しいと今は思っています。 数日前に縁あってこちらのサイトに辿り着き、死後についてのさまざまな質問・回答を興味深く読ませていただきました。 私なりの解釈ですが、仏教で言う天国とは極楽浄土のことだと認識しております。 極楽浄土へ行きたいと願い、念仏を唱える事で、阿弥陀様が極楽浄土へ往生させてくださる。そこで成仏するための修行を行う。 成仏するとは、「煩悩を手放して真理を悟り、仏になる事」という認識でよいでしょうか。 それでは、仏になった後は?という疑問が生まれました。 極楽浄土から、娑婆世界を生きる自分の家族や親しい者を見守るのでしょうか。それとも先に成仏した親しい者たちと、共に極楽浄土で穏やかに過ごすのでしょうか。自分より後に極楽浄土へ来た者たちが成仏するお手伝いをするのでしょうか。 極楽浄土で永遠に過ごすのではなく、娑婆世界を生きる者を救うため、気付きを与えるために、姿を変えてまた娑婆世界に生まれるのでしょうか。 私は極楽浄土で穏やかに愛猫と過ごしたいと願いますが、それも執着、煩悩になりますよね。この煩悩は生きている間は手放せそうにないのですが、極楽浄土で修業し成仏できたら、また愛猫との関係も変わってくるのかもしれません。 成仏したその後の事までは考えず、阿弥陀様におまかせすれば良いようにしてくださるのかもしれませんが、ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 過去の質問から、「お釈迦様は死後の世界については、説かれなかった」という回答もありましたので、確かな答えはないと思いますが、どのような解釈をされているか、教えていただけると幸いです。
私は、死後の世界(地獄)に行く事が怖くなり、仏教に巡り合いました。 しかし、私は、昔から疑心暗鬼に なってしまう性格なので、仏教の教えにも疑いを示すことが、度々ありました。 そこからなのか、私は、神仏の皆様に、大変心無い言葉を思い浮かべたり、素晴らしい「南無阿弥陀仏」を罵倒するような事をおもったり、神社などに行くと、爆発が起こるような不謹慎極まりない、 残酷な妄想をしてしまいます。 もちろん、失礼な事をしてしまった自覚はあるので、思い浮かべたら、仏壇や、神棚に向かって懺悔をして、前を向こうとするのですが、その懺悔をした後でも、思い浮かべてしまったりして抑え込めないようになりました。 もちろん辞めたくて、自分にこれ以上したら地獄に落ちるぞと、言い聞かせているのですが、ふとした時に思い浮かべてしまいます。 毎日毎日同じような罪を犯してしまう自分は、愚かで、自分に甘すぎるといつも思います。 もうこうなってしまったので、 確実に地獄に落ちてしまうことを 考えると、日常生活どころでは、 なくなりました。 いつもこんな自分の心に落胆し、 絶望しています。 こんな私は、助かるのでしょうか? どうすれば、こんな心を制御できるのでしょうか? 大変烏滸がましいですが、こんな私に助言を頂けないでしょうか?