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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2157件

お坊さまの言葉

先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。

有り難し有り難し 30
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越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)が気になります

密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか?  2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。

有り難し有り難し 34
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家族の息子に対する甘やかしで悩んでいます

息子は小学四年生です。 夫と前妻との子で、私は結婚、同居して半年ほどです。 息子の生活態度が気になって、その度に注意しますが、本人は直す気もないようです。 たとえば、食事のときに左手を出さないで食べていたり、食事中に寝転がったりします。 今までも当たり前だったのでしょう。 誰も注意しません。 食事の内容も、好きなものしか食べなかったり、1度お箸をつけたものを簡単に残します。残すこと、ご飯を捨てることに罪悪感がないんだと思います。 こういうことは、今のうちから家族が教えないと、まず本人のためにならないと思い、何度も何度もその度に注意していますが、たまに虚しくなります。 夫は私が厳しすぎると言います。 今まで母親がいなかったんだから、そのうえそんなに厳しくしたら可哀想だろと言われました。 私は、それとこれとは別の問題で、愛情をかけるのと甘やかしは違うと思っています。 自分が悪者になったとしても、人として当たり前のことは教えてあげないといけないと思います。 夫は、いまだに息子に、あーんして食べさせていることがあります。外食の時もです。 見てられず、自分のチカラで食べなさいと言っても、夫がさえぎり、この子はいいんだと言います。 私は今妊娠中で、自分の子供がそういう風になるのは、はっきり言ってイヤです。 自分のことは自分で出来る子になって欲しいし、最低限のマナーは教えてあげたいです。 この家族のなかにいると、私が厳しすぎてひとりでこだわってるように感じます。 でも投げ出したくありません。 どうしたら、どのような考え方で、この先がんばればいいのでしょうか。

有り難し有り難し 18
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2024/12/17

慈悲の実践について

ハスノハのマイページから自分の初めての質問を見たらもう6年近く経過していました。なんら社会や人さまに貢献も出来ず、相変わらず自身の根底には自己蔑視と自己肯定感が低く弱い自分を受け入れてなく、よくもまぁこんだけ執着してるなと。その背景には両親の計り知れない超過干渉環境が要因で親は有り難いと言う観念にずーっと縛られてます。平均してせいぜいあと30年生きたとしても変わらず、こんなはずじゃ無かったと死んで行くんだろうなと。 僧侶の方々を初め、人さまの為に淡々粛々日々精進されて、(端的に言えば)凄いなと。自分には出来ません、言い訳して結局やりもしませんし、せいぜいそんな薄っぺらい自分を守るんだろうと。 仏教に関する事もそれなりに学びました。 けど知識を付けたとしても智慧が全く身につかない。すぐ妄想に支配され目の前の出来事が現実だ、とビックリするくらい脳が支配されます。お陰様で両親は80代で元気です。テレビに洗脳され、目に映るものや人を値踏みして物事や学歴など比較しては、といった感じです。まあ確かに昭和50年頃はそんな世の中でしたね。 自分の本質は右脳タイプです間違いなく。中学生の頃思い起こせば芸術に目覚めてましたが全て否定され親の言う事は絶対の支配下でした。ガッツリ左脳教育で物事の裏の裏裏を自動思考が組み込まれています。人より上、が幸せの法であると教育されました。ただ、じゃあ自分がもし両親と同じ立場や時代や環境であったなら?同じ事するでしょうね。何故なら子供達にふと気づいたら同じ思想で支配してました。余談ですが、利権まみれ、人様のお金は全て自分のもの、と言う例えば財務省官僚のゴミども。また、そんな奴らを許せない!って匿名で批判したりする悲しい世の中ですが、自分が同じ立場ならまあ同じ事やるだろうなと。虚しいだけに感じます。 世の中での立ち振る舞いでは、周囲からはリーダーシップや共感力、コミュニケーション能力は非常に高いと専門家や精神科医師にも言われます。計画性も知能もあるのにすぐ飽きる、このように自己承認欲が高く、自分を分析出来てるとか良く言われますが聞き飽きました。「まだ足りない」とほざいてますよ、自分は。初めましての人からは良い印象を与えます、もうわがままになりたいし自分中心で生きたいです。 結構、俯瞰できてます、良きアドバイス下さい。現在このザマですよ。

有り難し有り難し 5
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2024/12/19

死が怖い

健康診断で不安な結果が出てしまい、その後精密検査の結果は大丈夫だったものの死への恐怖だけが残りました。 もとから死への恐怖が出ることが良くありましたが、今までは一晩寝たり何度か深呼吸すれば収まっていました。 しかし、上記の事があり「自分もいつか死ぬ」と言う事実がより具体的に見えてしまったのをきっかけに、病気への不安からは解放されるやいなや死への恐怖がついて回るようになりました。涙を流すほどつらいです。 こんな精神状態になる前はいろんなことが楽しかった→死ぬと全て無になるのが悲しい・怖い&いつか死ぬから全て無意味なのではないか→この恐怖と悲しみの中で生きたくはない→楽しいことをしたい→最初に戻る と言う思考のループに一日中陥ってしまっています。 今までの自分を演じている空っぽな自分がいて普段はそいつが前に出てるが、常に上記の事を考え泣いている自分がもう一人いて時々そっちが表に出てくる、血の気が引き現実感が無くなっていく、どちらが自分なのかわからない、そんな状態です。 今までを思い返せば親がいて友達がいて、普通に仕事をしてお金も貰っていて、好き嫌いはほとんどなくてご飯は全部美味く感じて、ストレスはあるけど後から思えば大体「何だこんな事で悩んでたのか」で過ぎてく人生だったと考えます。 そして、なんて幸せだったんだろうか、何でこれが永遠には続かないのか、永遠も辛いとは言うがこれなら永遠に続いて欲しい、何で幸せだったことに気づいてしまったのかと考えてしまいます。 そして、最近一年の体感がものすごく早く感じ、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまうと考えまた悲しくなります。 宗教を学ぼうともしましたが、ここに質問しておいてなんですがやはり死後の世界や魂は無く感情は脳の現象であり死後は無である、と言う変に唯物的な考えがついてまわります。 祖父が亡くなったとき「爺さんいまどこ行ってんだろうなぁ、畑とか家の様子とか見てんのかなぁ」とかのんきに謎の宗教観を持っていたくせに今ではそんな考えしか持てません。 そして怖いという事すら感じなくなるのが怖く悲しく、無になるならすべて無意味に感じます。 精神科に行くことにもしましたがそれとは別視点で、何か考え方を変えるヒントをもらえたらと思い、文字数いっぱいのとりとめのない文章になってしまいましたが書き込ませていただきました。

有り難し有り難し 19
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