現在、就活をしています。 小さい頃思い描いていた理想と今のギャップが大きすぎて自分にへこみます。 小さい頃の自分にごめんねという気持ちです。小さい頃は、国際的な仕事に就きたい!という思いがありました。 何をしたいのかわからない、自分の専門分野持ちたい、特別なものを持ちたい、 一方でどこの企業にも受からない、ちっぽけな存在ですごく消えたくなります。 ネガティブな自分に嫌気がさします。 なりたい仕事を見つける、自分を好きになるにはどうしたらよろしいでしょうか。
お坊さん 生命力の弱いひと、強いひと、世の中にはさまざまなひとがいますが、自然界では生命力の弱い生物はすぐに淘汰されてしまいます。どうして神様は人間だけ、こんな複雑な状況に置くのでしょうか。神様に納得できません( - _- ;) 自分も生命力が弱い人間の一人だと感じています。自然界だったら早々生きていけなくなっていると思います。外因的であれ内因的であれ生命力の強さは同じだと捉えているのですが、「自分から生きていくことをやめた」というのは、まだまだ周囲から偏見や勝手な解釈をされる気がしています。 お坊さんは「縁」という言葉を印象的に使っていらっしゃるように思います。それが自分の疑問に関係しているようで気になりました。縁とはなんでしょうか。仏教的に考えると、なぜ人間だけ生死が単純でないのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。
今31歳になりました。会社員です。 20代は仕事を駆け抜け、30代になり、仕事を通しての自分のあり方を深く考えるようになりました。自分は生涯何を残したいのか?最近常にこの軸に自問自答しながら、仕事をしています。 35歳までには自分のビジョンを達成する為に、起業を考えてます。 いろいろなタイミングや経験から 生涯何を残すのか?自分の使命とは?がより明確になってくると信じています。 明確なものが、私に見えてくるのでしょうか? どうせ一度の人生なら、仕事を通して使命をまっとうしたいです。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
お坊さんは読経しただけでお経の意味が分かりますか? ある部分の意味を悟るとかの意味ではなく、読んだだけで漢文が読解出来るかという意味です。 ちょっと気にして読めば分かりますか? 読経の時以外に意味を取ろうとして読めば全て分かりますか? それとも日本語訳や解説本、師僧からの指導などがなければ分かりませんか? 般若心経のような短いお経ではなく、観音経全文以上の長さのもの対象です。 そんな事気にするのはどうたらという回答は不要ですのでそのように回答したい方は回答しないで下さい。 臨済宗や曹洞宗系の派ではないので、ご自身の宗派の思想内でこじつける回答はしないでください。 上から目線で回答すれば良い場所でもないと思いますので「喝!」などというアホなことは書かないでください。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
現在の職場に来て5年になります。 私は何事も効率よく、てきぱきとやってしまいたい性格です。 1つの仕事を終えても、あれもこれもと、手が空くとすぐに色々な仕事を任されてしまい、個人的な仕事が思うように進みません。 上司から任された全体の仕事もやらねばならず、なおかつ時間がない中で、個人の仕事も終わらせねばならず、それがうまく並行してできない毎日がもどかしいです。 また、後輩に仕事を振ることも苦手なのか、「これくらいの仕事だったら、自分でしてしまおう」と思ってしまい、結果として、仕事量が増えてしまいます。 自分で自分の首を絞めてしまっている時もある反面、「他の人は明らかに仕事量が少ないのに、なんで自分だけ」という見方をしてしまう自分もいます。 このように、時間的にも精神的にも余裕のもてない毎日で、とても落ちこんでいます。 仕事に対して、今後どのように向き合っていけばよいのでしょうか。 また、どのように気持ちの折り合いをつけていけばよいのでしょうか。
毎朝、ご先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしたくお経を唱えています。 実家では祖父が毎朝般若心経をお唱えしているので、私も馴染みのある般若心経を唱えています。 そのときの心待ちについてお尋ねします。 YouTubeでお坊さんがお唱えする動画にあわせて行っているのですが、正直文字を追って口を動かしているだけでいっぱいいっぱいになってしまい、感謝の気持ちをこめることができません。こんな状態でも感謝のお気持ちはご先祖様に伝わるのでしょうか。 般若心経の内容について勉強したりしていますが、まだまだ暗記することができなくて。気持ちを込めたくてもお唱えでいっぱいいっぱいになってしまって、できない自分にちょっと悲しくなります。
仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。 ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。 門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
9月に主人を亡くしました。 寂しくて悲しくてたまりません。 でも泣いても怒っても何をしても主人は帰ってきません。わかっているのに、心がついていけずほとんど毎日泣いてしまいます。 だけど、主人の成仏を願って毎日手を合わせ 南無阿弥陀仏と朝夕唱えています。 主人はそばにいる。見守っていると言われますが、感じることが出来ません。 どうしたら、主人がそばにいてくれていると感じられるようになりますか? 主人の気配を感じて生きていきたいです。
相談です。今、15歳なんですが最近 よく死後について不安になるんです。 他の人の相談も見たりしているんですが、 もし無になったら怖くて、夜に一人で 泣いてしまいます。 自分が忘れたくない人を、忘れてしまったり、思い出がなくなったり、会えなくなったりなるのかと思うと、おかしくなりそうです 化学的に証明されてないので、 信じていてもやっぱりこわいです。 死後の世界はあるのでしょうか? 死んだら、意識と記憶はどうなるんでしょうか? もし死後の世界があったら、そこでは、地球が滅んでも永遠にみんなと暮らせるんでしょうか。 長いですが、よろしくお願いします🤲
隣人に、悪口や噂を言い触らされていて、やめてほしいと話ても、事実しか言っていないと言われてしまいました。仕事上でのよそでの失敗などをどこからか聞いてきて、他人からはこう言われていると話してきたりして、精神的に疲れます。 他人の評価を気にして生活するのは自分がよけいに疲れてしまうので、そういうことは気にせずにいこうと思うのですが、私としては、自分を棚にあげて、他人のことばかりを言う隣人に、言い触らされる行動への怒りをどうすれば、心が軽くなるのか、教えてください。話し合うつもりはありません。もう、自分がどう変わればいいのか、自分の中でできることがあればと思います。
私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。
子供の習い事で一緒のお母さん達とたまたま出ていた不満を、あるお母さんが指導者へ「こんなやり取りをしている」と打ち明け、事件に発展しました。 指導者は激怒で私達を叱責。 メールでのやり取り等を見せていたようで…。 関係の無い保護者の前でそのメールの内容を明らかにし出しました。 勿論、不平不満を抱き、話した私達がいけなかったかもしれませんが、関係の無い外へはそれは漏らしたわけでない為、それくらいはと思っていたのですが、その行為をよく思わなかったのでしょう、一人が指導者と言う強い立場の人間へ話しました。 誰がどんな事をするのかもう分からなくなり、信用が出来ません。 不平不満は絶対に人間は言ってはいけないのでしょうか。不満に思ったことはどうしたら良いのでしょう。教えて下さい。
日蓮宗のお寺の住職である父親が急死して、まだ高校生である長男がお寺を継ぐ為に修行する事になりましたが、周りの方にいいお坊さんにならなければだめだと言われました。いいお坊さん?どんなお坊さんがいいお坊さんなんだろう?檀家さんなどとうまくコミュニケーションがとれるお坊さん?お経、作法などが完璧でなんでもこなせるお坊さん?人間的に器の大きい優しくどんな時でも冷静な判断ができるお坊さん?色々考えてもわかりません。私は母親ですが、私も的確なアドバイスができませんでした。どんな風に言ってあげたら良いでしょうか? また、もしおわかりになったら教えていただきたいのですが、日蓮宗 清澄寺での度蝶交付式は来年の1月の何日に行われますか?来年の事でなくても今年の1月は何日に行われたかでも結構ですのでお願いします。
先日 母が亡くなりました。お葬式は諸事情により火葬式で、お坊さんを呼んで火葬前にお経をあげて頂きました。戒名もつけて頂きました。お墓ですが、母は生前 「父と同じ墓には入りたくない。愛犬の骨と一緒に故郷の海に撒いてくれ」と強く言っていたので、そうしてあげる予定です。父は仏壇やお位牌を用意したので四十九日の時に開眼法要をするつもりです。それから母の遺骨を少しずつ貰って、残された家族で遺骨アクセサリーを作ります。 ここまでが今の現状です。これを踏まえた上で質問なのですが、そもそもお墓に入らない場合 お仏壇やお位牌は意味があるのでしょうか?通常はお位牌に魂を入れるんですよね?海に散骨してしまう場合も同じなのでしょうか?そして子供である私は 仏壇やお位牌などを用意しなくては供養出来ないのでしょうか?写真と仏具だけでは供養になりませんか? 色々と分からない事だらけで困っています。 宜しくお願いします。
はじめまして。 私は長い間、それこそ中学生の頃から、生きる事について自分なりに考えて参りました。 幼い頃は、生きるとは正しく(簡単にいうと道徳で習うような基本的なこと)在るよう努め、幸せになる事と思っておりました。 しかし、今までを振り返ると、正しさは私の人生において、幸せになる事とは異なる存在でした。 なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口をいうのか、なぜ優しくしないのか、なぜ相手の立場に立って話をしないのか、なぜ傷付け傷つけられるのか… これらのある種意味のない疑問を持ち考え続けたことで、大切な人達にも息苦しい思いや悲しい思いをさせてきことがあると思います。実際に、そこまで正しく生きれない、お前を見てると辛いと言われてしまったことがあります… また、私自身も、正しさに執着し過ぎている為か、怒り悲しみを抑え込み、何よりも叶えたい強い望みも、他者の悲しみの上でしか成立しないと思うと何もできず、消化出来ない感情や気持ちとの矛盾で頭と心が度々悲鳴をあげます。 (勿論、抑えきれないない時もあります。その時は自己嫌悪で悲鳴をあげております…) そんな時にであったのが「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」という一文でした。 おかしな話ですが、とても救われたきがしました。幸せにならなくて良い、正しさを求め苦しむことは、間違いではない、と言われた気が致しました。 ただ(だいぶ長い前説となってしまいましたが…)本当に根本的な事なのですが、正直、ここまで考えて生きる必要があるのか、疑問に思う自身もおります。 身近な人たちにこの様な話をすると、そこ迄考えなくて良いと言われてしまいます。 私は…考えすぎなのでしょうか? もう少し気楽に、幸せを求める方が健全なのでしょうか… (ただ、私は現在も決して不幸ではなく、むしろ感謝がつきない日々を送っておりますので、幸せと言う言葉には少し語弊があるかもしれませんが…) 長文の割りにあまり意図が伝わりにくい内容となってしまい申し訳ありません。なるべく素直に頭の中の言葉を書き出させて頂きました。 ご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。
質問んが多い中、既出の質問でしたら申し訳ございません。 さて、人は死後あの世というところに行くそうで、そこにはすでに亡くなった方々がいると聞きます。 しかし、一方人は死後49日で再度生まれ変わる輪廻を繰り返すとも聞きます。 いったいこれはどう受け取ればいいのでしょうか? 私はおそらくだいぶ先とは思いますが死んだあと、尊敬し心の支えとしている亡父にあの世で再開し、“良く頑張ったな”と褒めてもらうこと、その他既に亡き人々に再開できることを本心から楽しみに(それ頃心の支えとし)、苦しい時を乗り切っているので、上の疑問を持った次第です。 亡くなった方々はあの世で待っていてくださるのでしょうか、ご回答をどうぞよろしくお願いいたします。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。