先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です) 阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。 阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。 しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている) この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。 すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。 私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。
仏門に入るのは、何歳ぐらいまで可能でしょうか。
おはようございます。苦の生起と消滅の観察なのですが、お暇な時に、もしよかったら教えてください。老死から無明まで(十二支縁起説)を一気に理解するのはちょっと無理で、今回渇愛のところで立ち止まりました(五支縁起説)。間違えていたら直していきたいです。 老病死の苦があるのは生まれたから(生まれたらいつか死ぬ) 有があるから生がある(有は境遇のようなもので、そういう立場に生まれた、みたいな?) 取があるから有がある(自分の境遇を受け取る) 渇愛があるから取がある(渇愛とは求める心で、名前や形のあるもの、自己を追い求めて自分のものにする) この渇愛が消滅すると老病死の苦が消滅する。自分の立場とか手に入れたもの、自分を示すものを求める心がなくなると苦しみがなくなる、ということでしょうか。
宝珠というお釈迦様が持っているタマネギみたいな玉がありますが、あの玉のデザインはとんがっている部分の下に二本ラインがあるのと三本ラインが入ってるのはどちらが正しいデザインですか?
先日、知人から鮮やかに色づいた美しいアジサイをいただいたので、花瓶に生けながら様々な事を感じていたら、自分が寂しいような哀しいような複雑な笑みを浮かべているのに気がつきました。(変なスイッチが入っていたんです。) それはまぁいいとして、近頃ずっとhasunohaを読んでいた影響なのか、昔、疑問だった拈華微笑の話を久しぶりに思い出しました。 確か、ニッコリと微笑んだのだとか。 未だに何を表しているお話なのか分かりません。改めてネットで調べてみても、やはりサッパリです。 ニッコリ(?)微笑んだのは何故でしょうか?何が伝わったのでしょうか? よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。 私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか? 死後にお浄土に生まれさせて頂くため? 今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため? まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、 どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか? 良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
いつもお世話になっております。 今日は少し疑問に感じたことを質問させて頂きたいと思います。 浄土真宗にも色々と宗派?みたいものがあると思いますが、各派によって、浄土や阿弥陀様のお働きに対する味わいは異なるものなのでしょうか?解釈は違うものなのでしょうか? 各派によって、ご法話の味わいも、違ったものになるのでしょうか? ややこしい質問ですが、よろしくお願いいたします。
こんにちは。ご縁について自分なりに理解したつもりなのですが、ここで確認させてください。お暇な時に教えてくださると嬉しいです。 ご縁とはきっかけで、どんな縁がどういう組み合わせで働いているか人間が全部把握することはできないけれど、色々な縁が影響し合って今がある。神の計画ではなく、偶然が重なって物事が起こるということでしょうか。 仏教では意味の前に事実があるのですね。過去の回答の詳しいご説明を何度も読んで段々わかってきました。私は、物事の意味を追い求めると危ない方向へ行くこともあるのではないか、と父が原因のわからない珍しい病気で亡くなって霊能者に騙された後思うようになりました。その霊能者はキリスト教徒ではなかったし、私が完全に神を信じきれていたら心が揺れなかったと思います。でも意味を探し続けて苦しむより偶然そうなったのだと考えたほうが楽かもしれない、と意味と事実の発想が逆になった時に思いました(本当は神を疑ってはいけないのだけど)。 仏教とキリスト教は逆のことが多いようです。それで勉強が嫌になることはないけれど、どこかに共通点を見つけられたら嬉しいです。
こんばんは。最近頭の中で仏さまを暴力などで傷つけるという光景を頭の中で浮かべてしまうのですが、 それによって仏さまが傷ついたり、悲しんだりしてしまうのではないか、最悪仏さまが滅びてしまうのではないかと心配しております。 仏さまを傷つけることを頭の中に思い浮かべると仏さまにどのような影響を与えるのでしょうか?
こんばんは。ハスノハに入って一か月とちょっとくらいの初心者です。初めての仏教本(いきなりはじめる仏教生活)を読み終えて、二冊目に何を読もうか考えています。もう少し詳しく知りたいのですが、お薦めの本がありましたら、よかったら教えてください。 初めての本は教科書みたいに始めから一つ一つ説明してくれるというより仏教の特徴を紹介してくれた感じでした。何回読んで考えてもわからない章はあったけれど(特に禅の章が難しかった)、仏教の特徴が前よりわかってきました。どの宗派でいこうというのはまだ決めていなくて、詳しいのがいいけど難しいのは無理かもという、好みのうるさい注文ですみません。 追伸 すべての事が繋がって影響し合って今の状態が一時的にあるという考え、最初は想像もできなかったのですが、少しわかり始めてきた気がします。すべての原因がどう影響してこうなったのかはわからないけれど、何となくそういう仕組みになっているのかなあ、ぐらいですが….。
こんにちは。先日、病気受容のことで相談にのって頂いたものです。 ご回答を頂いた日から、他の方のご相談も読み、「今、ここ」を生き、自分の頭で作り上げた妄想や煩悩を断ち切るという(私なりの現在の解釈なので、間違っていたらごめんなさい)仏教の教えがとてもしっくりくる感じで、さらに仏教を学びたくなりました。 ただ、仏教に関してまるで知識がなく、どこから学べばいいのかが分かりません。瀬戸内寂聴さんが書かれた「般若心経」を読んだことはあるのですが、正直よく分かりませんでした。 ネットで調べてみると、色々な宗派があるなか、どの宗派のことを学べばいいのかも分かりません。 私の実家の菩提寺は、浄土真宗本願寺派なのですが、私の家の近所にはなく、写経会もされている真言宗のお寺が通いやすいです。 その宗派の写経会に通うというのは、その宗派を信仰するという意味になるのでしょうか? また、近所で行きやすいからという理由で、宗派を決めるのは、自分のご都合主義なのでは、とも思ってしまいます。先祖代々の宗派があるのに、自分で選んでもいいのでしょうか? 分からない、分からないのまとまらない質問で申し訳ないですが、仏教への扉を開けるお知恵をどうぞお貸しくださいませ。
何十年も生きてきたので、色々な人がいて価値観正義感も色々だな、と思っています。 そういったなかで最近実際目にしたことから疑問に感じていることがあり、質問させていただきます。 例えばイジメや嫌がらせのような状況の時に、ボスタイプと虎の威を借る狐タイプはだいたいセットになっています。 ボスタイプは直接手(発言等)を下すので、傍から見ている人にも「ひどいわね」と、被害者以外からもわかってもらえると思うのですが、狐タイプは裏表をずる賢く使い、裏では告げ口などでボスタイプを利用し自分の手を汚さずに欲求を解消していながら、表向き良い人にみえることも多いなと思うのです。 そのためボスタイプは周りから敬遠されていながら、狐タイプは人間操作に長けているので人気者、いじめられた人間だけが真実を知っているという・・・。 仏教神仏の考えかたでは、ボスタイプも狐タイプもかわらないのでしょうか? 私としては狐のほうがひどいな と感じますが。
こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
この一年、私の病気のこと、私の労働環境について考えました。 結論は、「私が考えても改善策が見つからない」ということです。社会の1つ改善すると、別のところが負荷がかかり、そこを改善すると新たな分野に負荷がかかる。そして、スタートに戻ってくるのです。だから、解決は難しいと考えています。 では、なぜこのような苦しい状況になったのかと考えてみましたが、「楽したい」という欲や「自分で守るべきところまで人にさせ、いいところだけ自分のものにしたい」という欲が大きくなってきているのかなと思いました。 この点で欲を持ちすぎるといけないのかなと思いました。何か、世も末だなと思います。人に対してどうすることはできませんが、私自身はこれからの生活を見直していこうと思っています。 現在、精神的な問題で仕事を休んでいます。 精神的に不安定になったり、身体面で入院したりしましたが、本を読む時間はたくさんできたので本を読んでいました。 病気を薬に頼らなくても済むように、これまでの原因は根本的に解消したいと思い、症状に関する情報も集め、実践してきました。 私は、「過剰適応の適応障害」と言われました。適応できなかったのではなく、頑張りすぎちゃったようです。でも、これでも、与えられた仕事は、6割ぐらいに抑えていました。このような働き方を改善できないかと考えていました。 でも、私は、暗い気持ちにもなっていません。趣味を作ろうといろいろチャレンジしてきました。そのうちの1つにゴスペルを始めました。私は、英語が苦手なので、歌詞をあまり理解できませんでしたが、この前、レッスンで歌っていて歌詞の意味が理解できました。家に帰ってきて、歌いましたが、いい英語の歌詞だなと思いました。 それで、ふと思ったのです。修行として、日常的にお経をあげると、お経の内容も理解できるようになるのかなと思ったのです。もしかしたら、お経(歌)に向かう姿勢も大切なのかなと思いました。念仏を唱える修行をしているうちに、突然に世の中の道理が分かるようになるという仮説をたてました。これが分かるようになるのは、いつか分かりませんが。 お経をあげていると、内容が分かるようになりますか?
はじめて質問させていただきます。 ご回答頂ければ大変嬉しく思います。 私は実家が浄土真宗本願寺派の門徒でありまして、最近になりもっと浄土真宗のみ教えや、仏教のことを学んでみたく思うようになりました。 普段なかなか私自身、浄土真宗の門徒でありながら、家でお勤めをしたり、念仏を唱えたりということが出来ていないのが現状です。 そこで、浄土真宗本願寺派の通信教育で仏教や浄土真宗のみ教えを学習すれば、少しでも私自身の信心が芽生えてくるのではないか、浄土や仏さまを信じる気持ちも出てくるのではないかと思い、この度通信教育講座を受講しようかと考えてる次第でございます。 そこで今回の質問なのですが、通信教育講座で学習することによって、信仰心が芽生えたり、お念仏を唱えたいという心持ちに変わったりするものでしょうか? それとも学習はやはり色々な知識を詰め込むだけで、そこからは信仰心というものは芽生えてこないものなのでしょうか? 私自身もっと信心をもって、日々の暮らしをあまり悩み過ぎることなく歩んで行きたく思っています。 どうか皆様の良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
日々心を正し清くあろうとしてもなかなかそうはいきません。 陰口、悪口、愚痴愚痴、怠惰や慢心など… そういった事を仏様に懺悔したいのですがどうしたらいいでしょう? また皆様にもそういうことがありますか?
おはようございます。先日、慈悲について教えていただいた者です。あの時初めて聞いた仏教の慈悲の種類 - 衆生縁、法縁、無所縁の慈悲について、ずっと考えていました。これでちゃんと理解できたか(勘違いしていないか)、よかったらお暇な時に教えてください。あれこれ訊いてごめんなさい。 衆生縁の慈悲 - 自分の身の回りの人への慈悲、友達への思いやりとかでしょうか。 法縁の慈悲 - わからないです…ご説明お願いします。できれば今回3つの慈悲を一緒に理解したいんです。 無所縁(無縁?)の慈悲 - 対象がないと言われているところがわかりにくいのだけど、縁がないということは全然知らない人に対する慈悲、相手を選ばなくて無償で無限という意味でしょうか。これが仏様の慈悲かなと思います。 ハスノハで初めて仏教を知ったのは先月、仏教は神に奇跡を祈ったりするものではなくて苦しみを減らす考え方を学ぶものなのかな、と何となくわかってきました。少し前まで私は大きな大仏の神様がいて仏教徒の人達はその神様に祈っていると思っていましたが、この世に生きているうちに法則に気づいた人(お釈迦さま)が説いた教えが仏教だったのですね。それなら菩薩とか如来と呼ばれている神様達は何だろうとか、もっと知りたい欲求が出て来て煩悩が増えてしまった気もするけれど、仏教を知ることができてよかったと思います。
おはようございます。 (*^^*) 私の先生の好きな言葉は 慈眼視衆生です 観音経の一説 観音様はいつも我々を見守ってくださっています。誰も見ていなくても 悪い行いは改めて良い行いを 心掛ける 私くしの 師僧様は 度々 仏心如満月 が好きみたいで よく色々な時にお言葉として 書かれています。 私くしも 色紙に 頂いた言葉です。 皆様が 大切にしている言葉を教えてください 私くしも苦しい時が度々あります。 その際に 色々自身で 学びたいので 、、、
私の祖父が仏教のある宗派を信仰していて、私は小さい頃からたまにお寺に行っています。 しかし、私は昔から神仏や霊など目に見えないものを信じることができず(存在の否定はしませんが)、宗教も文化や芸術として素晴らしいとは思いますがそれ以上のものとしてみることができません。 お寺に通う意味が全く見出せず、正直ただ座ってお経を読むことが苦痛でしかありません。お寺通いをやめたいです。 無理して信徒を続ける必要は無いと思うのですが家族、いつも優しくしてくださる住職をはじめお寺の知り合いとどのように折り合いをつければいいのでしょうか? 仏教を信じる方々を導くお坊さん方にこのような質問は不躾かもしれませんが回答よろしくお願いします。 ちなみに大学生です