人間以外の生き物(特に虫など)の命も大切にする考えを教えてください。 私は虫が目につくと大抵すぐ殺してしまいます。今まではそれで何とも思わなかったけど、ハスノハでちょこちょこ過去の相談を参考に勉強させてもらううちに害虫駆除にも気が咎める人もいて、自分の感覚を考え直そうと思いました。 でも、かわいそうだと思う気持ちがわからないっていうか….人間以外の虫とか小さな生き物の命も大切に思う気持ちがわからないんです。動物をいじめたりはしないし犬とかは好きだけど、それでも人間と同じには思えない感じです。 昔お坊様は肉を召し上がらなかったと聞いたことがあるので、基本的に生き物を殺さない考えがあるんだと思います。どうやったらそう考えられるのか教えてください。 精進料理について思い出したこと(こっちの質問はメインでないので気にしないでください) 私の親戚が仏教系の中学校に通っていた頃、修学旅行で自分達はまずい精進料理(失礼)を食べたのにお坊さん達はカツカレーを食べていたとぶうぶう言っていました。責める気がしなくて笑ってしまったけど、本当のとこ今は肉料理大丈夫なのかなってちょっとだけ知りたくなりました。
こんばんは。お暇な時に答えてくださると嬉しいです。私のは切迫した悩み事の相談ではなくて、自分が知りたいなと思った事の質問なんです。 仏教の基本的な考えを理解するのに、宗派が違うと考え方も大きく変わってきますか? 私は子供の頃から家に聖書物語の絵本があって親しんだり教会でお話を聴いたりして、小さな頃から仏教以外の宗教の影響を受けてきました。最近初めて仏教の考え方を少し知って、これまでの自分の考え方と根本的に異なる感じで難しいと思ったけれど、もう少し知りたいんです。でも同じ仏教でも宗派が複数あるのですね。基本の考えがそれぞれ違ってくるともっと難しくなってしまうと思って、気になったんです。お坊様からみたことを教えてください。 追伸 亡くなってお葬式とか色々やるまで知らなかったのだけど、私の父は曹洞宗でした。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
私は、神仏の存在が信じられません。 遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。 人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。 ついてないとしか考えられません。 ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。 先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。 親子の仲も良好とは言えない状況です。 本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、 どうしても受け入れることができません。 他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。 どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。 ご教授いただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 これは自分とその周囲だけでなく、世の中全体についての質問です。 私はたくさんの善い人を見てきました。暑い(寒い)中で道のゴミを拾い、掃除しながらも笑顔で挨拶を返してくれる方。突然の雨で服屋の店先で雨宿りをしていた時に傘を貸そうとしてくれた服屋の店員の方。外出先でトラブルにあったときカタコトの日本語で懸命に助けてくれて笑顔で手を振って去っていった外国人の方。彼らには思い出すたびに心から感謝できます。どのような縁かは分かりませんが彼らのような善人に度々会ってきました。 一方で、他人を平気で騙し、脅し、傷つけ、奪い、それでいて自身が傷つけば善良な被害者のようにふるまう人間が多くなっているように思えます。思い込みであるかもしれませんが、善い人よりもこのような悪人(と思える人)が金を得、地位を得ているように感じます。例えば、詐欺師は人を騙して金を得、のうのうと暮らしています。横暴な人は気の弱い人を力で脅して無理やり従わせようとします。自身の我が侭を言いたいだけ言って周囲の人のことを考えない人といます。あげく、騙されるのが弱いのが文句を言われる方が悪いとまで言われることもあります。 仏様はいつも黙して見ていらっしゃるように思えますが、私は善い人よりも悪人が得をするようなことが納得できません。これは善人の試練とでもいうのでしょうか…。仏様やお坊さまはどのように考えますか?日々どのような視点で人を見ていらっしゃるのですか?
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。 仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
いつもお世話になっております。 自分は業というものについては、何か元々持って生まれてきた運命とか前世の行いからとか漠然と考えておりました。 最近は仏教に関しまして少しずつ知識を深めている中、少し違うのかなと思い始めました。 業というものは、自分のしてきた罪深い行いが苦しみとなり、気付けば体に芯のように刺さり背負っているのかな、と思いました。 ここ数年、一年一年、毎日毎日、それが深くなっていっています。 過去には戻れない。 したことは変えることができない。 業というものはこの先も永遠に抱えていくものなのでしょうか。 業については、このような解釈でよろしいのでしょうか。 お教えいただければ幸いです、 どうぞよろしくお願いいたします。
昨年、空家になってしまった祖父母の家の仏壇を実家に移しました。 その際、父が自分で車で運び、仏壇の自分で運べないものは、新しく購入した仏壇のお店の方に引き取ってもらったと聞きました。 心配になりネットで調べてみると、仏壇を移動したり新しく買いかえる際は、閉眼供養や開眼供養をすべきと知りました。 しかし、家に来ていただいて供養していただくことはしていません。 仏壇を購入したお店で供養はおそらくしていただいているようですが、 大丈夫なのでしょうか?
こんばんは。 私はお寺めぐりが好きなのですが、調べていると縁切りのお寺がいくつかあります。 実際にお参りした縁切りのお寺があり、「いつもありがとうございます、持病との縁が切れて健康でいられますように」という感じで絵馬を書いてお参りしたこともありますが(お礼参りもするつもりです)、「特定の人との縁を切りたい」というのも書いても大丈夫なのでしょうか? そういう絵馬を非常に多く見かけ、相手の本名や県名が書いてあるものもありました。さすがに名前などを書くのは怖いので、例えば「私にとって良い影響ではない人と縁が切れますように」と言った感じなら大丈夫なのでしょうか? ご回答いただけましたら幸いです。
浄土宗○○派というのが沢山あってどう違うのかわかりません。何を基準に選ぶものなんでしょうか?
僕は将来浄土真宗本願寺派の僧侶になりたいです。今は中学生なのですが、今からできることはありますか?
子どもがSNSで頻繁に「死にたい」と呟きます。 心療内科にも受診し精神疾患で治療もしています。 一時は前向きになりましたが、また気持ちが下降気味のようです。 SNSで呟くたびに「いつか本当に死んでしまうのでは?」と思い、 私自身も眠れない夜を過ごし精神的にまいっています。 そんな時にもともと興味があった仏教と出会い お釈迦様の話や我が家は曹洞宗なので道元さんや良寛さんについての本や動画を見て、心の拠り所としています。 さて、「死にたい」と思う息子についてですが、仏教的に考えたら 息子自身が自ら気づき悟るしか手立てはないようにも思えます。 今まで息子を心配して力になって来たつもりですが… 反抗期や家庭が複雑なので反発心もあるようです(プロフィールに記載してありますが) 結局、今後 息子がどうなるかは分かりませんが、治療は怠らず、 私自身は待つしかないように思いますが、お坊さんはどう思いますが?
こんにちは、いつも楽しく拝見しております。 お釈迦様の話について一つ質問です。 お釈迦様は、お釈迦様の前で悪態をついて罵られた言葉を、一つとして受け取らなかった、というお話がありますよね。 罵りや悪口、批判の言葉は、受け取らなければ、その言葉を言った人のものになる。 この考え方はとても良いなと思っておりまして、実践したいなと常々思っています。 ところが、つい先日、親族から、要約すると「あなたのやり方では駄目よ!」と嫌な批判を言われてしまいました。 そのやり方は、その時の親族には心配させまいと言っていない事情があったことや…私がその方法をする上で、過去親族本人から了承を得ていたことを、おそらく忘れていることがあるのも気づいていながら… 心から「受け取りたくない批判だ」と思い、でもあまり口には出さず、その時はそうかーそうなのー、とだけふんわりと抑えて堪えました。 そしてさっさと忘れて過去より現在のことを考えようとしても、つい心にモヤモヤと、その言葉が刺さったままになってしまいます。 お釈迦様のように、「相手の言葉を受け取らない」とするには実際にはどうしたらよかったのでしょうか。 いざ実践としたときの、「嫌な言葉を受け取らない方法」は、私のやり方は無意識に受け取ってしまったのでは、と後程ふと思い、方法がどうもわからなくなってしまいました。 経験豊かな皆さんが具体的に実施されていることなど、ありますでしょうか。
私が仏教に興味を持ち始めたきっかけは、大人になってからお寺で仏像を拝観した際に、作りの美しさや、「仏像から何か語りかけられている気がする」と感じたからです。 そこから有名な般若心経についても知りたいと思い、初心者向けの分かりやすい解説本を読みました。そこで「観自在菩薩がお釈迦様の弟子に語りかけている」ことだと知ったのですが、以前に仏像の本を読んで「菩薩とはお釈迦様が出家する前の姿」と認識していたので、如来像も菩薩像も全てお釈迦様自身だと思っていました、恥ずかしながら…。 観自在菩薩は、お釈迦様ではなくお釈迦様の弟子、ということでしょうか?例えば釈迦如来はお釈迦様で、薬師如来は別の人、みたいなことでしょうか? 因みに先日、東京国立博物館の仏像の催しにて沢山の国宝や重要文化財を見ることが出来、感動しました。小さな仏像さんも後ろ側までじっくり見れるのは展覧会ならではですね。 前にも般若心経について質問させて頂いたことがあるのですが、やはり仏教のことこそハスノハのお坊さんに聞いてみよう!と思い質問させて頂きます。初心者すぎる質問ですみませんが、よろしくお願いいたします。
仏教に帰依するとは、いったいどーゆー意味ですか?
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
最近可愛らしい如意輪観音様の陶器の置物と出会いました。あまりに可愛らしいので、置物ですが、お水、お花、御灯明をお供えして手をあわせております。 長くお付き合いしたいと思い、開眼供養を思いたったのですが、一般的に、こういった人形のような御像でも開眼供養というものはしていただけるものでしょうか? また、近くに如意輪観音様をお祀りしているお寺様がない場合、観音様をお祀りしているお寺様にお願いすることは可能でしょうか。 よろしくお願いいたします。 (ちなみに実家のお墓のあるお寺様は浄土真宗なので、こういったご相談ができません)
実家の母(96才)が今まで一人で暮らし、朝夕お仏壇に手を合わせ、ご先祖様と父の供養をしておりました。 1月に骨折してしまい手術を受けましたが、術後高齢でもあり一人で暮らすことができなく、施設にお世話になることになり先日入所致しました。 施設にはお仏壇は持ち込めなく、家は無人になっており、長年続けてきたお参りが出来ない事をとても気にしております。 私も跡取りに嫁ぎ、宗派の違うご先祖様があり、預かる事もできません。 母は、お位牌だけ施設に持ってきてほしいと言っております。 可能でしたらこのような場合、仏壇以外の場所にご本尊様等とお位牌はどのようにしてにまつればよいのかお教えいただきたく、お願い申し上げます。できるだけ母の要望に添ってやりたく思っております。 (宗派は 臨済宗妙心寺派です)
いつも温かくありがたいご回答の数々ありがとうございます。 心がもやもやする時はこちらによくお世話なっております。 御坊様のご回答中にお釈迦さまのたとえのお話しが出てきますが、そのお話に興味を持っております。 お釈迦様のお話を素人でもわかりやすく読めるような本などございましたら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。 ちなみに手塚治虫先生の『ブッダ』は読みました。