お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。 宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。 宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。 今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。 我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。 「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。 「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。 各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。
いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)
色々な宗派やお寺(センターも含)に通いましたが、それぞれ、念仏・座禅・護摩壇といったその宗派が継続されているやり方や修行法は知らしめてくださいます。 ただわたくし本人の救い(それ以前の個人の癒し)に関しては、全く触れられません。いや説法(説教)はなさいますが、個人までには掘り下げる法や仕様は皆無でした。 これは、わたくしの経路が特殊すぎたのでしょうか?それとも日本の仏教の特性なのでしょうか?
先日、最愛の母を真言宗で見送らせていただきました。 葬儀会館の方は『これからお母様は四十九日まで、家族で共に過ごされたお家や、ご自分の生まれ育った所、訪れた場所、数々の所縁のある場所を巡られます…』と、お話してくださいました。 四十九日までの、七日ごとの法要も辛さの中、こちらで皆様に教えて いただいたように個人の成仏の為にと出来る限り祈りお願いをしてまいりました。 そんな中、先日改めて四十九日までの『お裁』きにつて詳しく調べてみました。 その余りにも生々しく苦難の連続に思える道のりに、また故人への思いが溢れ出し、自責の念と共に今すぐ傍に行って助けてあげたいと思うようになりました。 そのように子供が後を追ってきたような親の魂は、更に惨い裁きを 受けてしまうのでしょうか? 稚拙かも知れませんが、このような裁きを受け苦難の四十九日の間に所縁の場所を巡るなど出来るのでしょうか? 『死』の時もあれだけ苦痛であったのに、『死後』もまたこのような 苦痛の連続だとは…あまりにも惨過ぎる気がいたします。 もうすぐ四十九日を迎えます…。 どのような気持ちで、どのような事を心掛ければ、少しでも故人の苦痛は和らぐのでしょうか?成仏させていただけるのでしょうか? 何度も同じような疑問をぶつけてしまっているかも知れませんが、どうかどなたかご教授お願いいたします。
大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。 大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。 先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?
現在、天台宗への出家を目指しております。 天台宗への出家を目指す理由としては、 半分自殺も考えてもいたのですが、 天台宗の本を読んで、価値観が変わり、自殺を思いとどまりました。 よって、せっかく仏様にお助けいただいた命であれば、 仏様のために、残された人生を使いたいと考えるようになりました。 しかしながら、私の実家は仏教等の信仰はなく、天台宗の檀家でもありません。よって、出家するにあたって、どのように師僧を探せばよいのか、お聞きしたく存じます。 何卒よろしくお願いいたします。
仏教の教えは、皆がそれを信じ、実践すれば、成り立ち素晴らしい世の中になるとは思うのですが、自分又は一部の人たちのみが実践するだけでは、上手くいかないものでしょうか。
どのカテゴリーにしたら良いのか迷いましたが、質問させてください。 「一念」は、岩をも通すとか言って、良い印象があります。 何かを強く強く深く深く一筋に、寝ても覚めてもご飯を食べていても 常に念頭に置くことが出来なければ「一念」とはならない気がします。 でもそればかりで、他はどうでも良いとか、他は全く顧みないとかでは良いことでは無いですよね・・・ 一方「執着」と言うと、良い印象は無く、 こだわりが過ぎて身動きが取れないとか、怖れや邪な感じが見え隠れするような気がします・・・ でもこだわりにも、良い意味でのこだわりってありますよね。 「一念」と「執着」は、それぞれどういうことですか? 違いは何ですか? 「一念を通す」とは、具体的にどうすることですか? そして「執念」とは? 目的や目標を深く思い、諦めるという選択肢は全く無いという状態のように思いますが。 目的を果たすまで何度でも挑み続ける、みたいな。 また、「欲」ですが、 「欲」は誰でも持っていると思いますし、わたしは煩悩の塊です。 「強欲」とは、とても良くないもの、 誰かから奪ったり搾取したり、人を傷付けてでも手に入れようとすることのように思います。 「過剰な欲求」は、どこからですか? どんなことですか? 独り占め的なことは当てはまる気がします。 それから、相手の気持ちを甚だ無視した要求や押し付けみたいなこと。 大変申し訳ございませんが、 解りやすく噛み砕いてご教示頂けましたら幸いです。 もし仏教としてのそれと、社会通念上のそれに違いがあるという場合は それぞれを知りたいです。 わたしの長年の疑問です。 ご回答頂けましたら有り難く存じます。
懺悔文を読経したいです。 できれば仏説観普賢菩薩行法経がいいです。 初心者なので、CDと経本を探していますが みつかりません。どこで売っていますか? 具体的に教えて貰えると助かります。 よろしくお願いします。
『私は「おじいちゃん」!?』で、下関の「おじいちゃん」の話をしたので、今度は「おばあちゃん」の話をしたいと思います。 只今、92歳のおばあちゃん。 『おばあちゃんたるもの』孫(私)の前では絶対人の悪口はいわない。 『おばあちゃんの自慢』まだ自分でトイレに行けること。 『おばあちゃんの口癖』①病院に行くと、いつも医療費が数百円なので、受付で「全国の皆さんのお陰です!」と言って帰ること。②「成るようにしか成らないんじゃけん、文句ば~っかり言っててもしゃぁないけん、笑っていようやぁね~」と前向きなことを言うこと。③食べることが好きで「旨いもんがくえりゃあいい」ばかり言うこと。④ほとんど眠っているので、起きてきたら「アハハ、トラスちゃんかね、まだ生きちょるよ!カツカツ生きちょる!また死なれんじゃった!」と笑い飛ばすこと。⑤夏でも「何でじゃろかぁ?冬はねぇ、足が冷えるんよぅ!」とすごく真剣に、真顔で言うこと。 『おばあちゃんの意地』娘(母)の話をするとき、普段「◯◯ちゃんは…」と呼んでいるのに、孫(私)の前で娘の話をするとき、絶対「(あんたの)お母さんは…」と言うこと。そして、自分のことを普段「お母さんは…」と言っているのに、孫(私)の前では「ばあちゃんは…」と言うこと。 おばあちゃんはスゴい!私が誕生日プレゼントを渡した時もそう。おばあちゃんの目が見難くなり、よくコップをひっくり返すからと、下へ行くほど幅が広くなるマグカップをあげたら、箱を開けた瞬間、「ぅわ~!末広がりじゃ~!」と満面の笑み!極めつけの言葉は「お骨(骨壺)に持ってはいろ~!」と言って喜んでくれたのです。 そんな素敵なおばあちゃんですが、私が物心ついた頃から、それこそず~っと言われ言い続けている言葉があります。それが、タイトルの『私の日課は謎の言葉』です。おばあちゃんの家に行くと、まず最初に言われます。意味でなく、発音が呪文みたいで、何と言ってるのか分かりません。 では、まいります…『ほれ「マンマンチャー」してきぃ!』。 「マンマンチャー」なのか「マンマンチャン」なのか「マンマンチャ」なのか。そもそも、手をあわせてご先祖様に心から感謝やお祈り等々をしておいで!というようなことを、何故「マンマンチャー」?と言うのか、本当のところ分かっていません。一体、何と言っているのでしょうか?
最近 御寺の所属団体に入講しました。 御寺の信徒の 地区担当の方が 他宗や 御寺に義理を欠き 不敬をしたという謗法の罰ばかりを説き、御供養の素晴らしさを 説いてくださいますが 正直 御供養=御布施 に 疑問が でてきました。 法施をしていただき 御布施をさせていただくのは わかるのですが 罰を御供養させていただくことで 消えるとは 思えません。 御寺は お金はかかりません とか 御供養はお気持ちです とか 御供養は 真心からしましょう とか 言われてます。 罰ばかりを 説き 人の不幸を 現象だと 説き 御供養を勧めるのが 仏教で 日蓮聖人の教えなのですか?
はじめまして。 どうぞよろしくお願い致します。 わたしの守り本尊さまは阿弥陀如来さまです。 当家のご本尊さまは釈迦如来さまです。 他にも、好きな仏様(如来・菩薩・明王・天部にそれぞれ)が沢山います。 わたしは煩悩の塊なので、祈りの数だけの数の仏様に毎日お祈りしています。 阿弥陀さまお釈迦さま含め、20の仏様に毎日ご挨拶とお祈りをしています。 先日、お友達と話をしていて、 『ひとりの仏様に決めてお祈りするべき、何人もなんて良くない』 と言われました。 わたしは良くないことをしていたのでしょうか・・・ その場合、いったいどうやって謝れば良いのでしょうか・・・ 周りに聞いても、 『観光で行った寺社では祈る・何て言う神様仏様かは気にしたことはない』とか、 『仏壇かお墓またはお葬式以外では手を合わせることがないから・・・』等の 意見が多くて、判断できません・・・ ご教示頂けましたら有り難く存じます。
在家得度と出家得度の違いを教えて下さい。
いつもお世話になっております。 先般、般若理趣経について質問し、その後 色々リサーチしました。 「欲を捨てられないのは生き物として 当たり前。ならばいっそ、その小さな 我欲を大きな一切衆生へ向けた大きな欲 へと昇華せよ」との教えについて、 少々気になった点があります。 いわゆる、「ぐ犯者」「犯罪者」。 または言っても聞く耳を持とうとしない、 「縁なき衆生」にも根気よく優しく接しろ ということですか? 実際、 「それやめた方がいいですよ?」 と優しく注意したところ逆ギレされて 公開処刑に遭ったこと、 謂れのない、かつ意味不明な悪意を 向けられたこともあります。……お寺で。 日常でも実際に騙されたり害を加えられた ことも何度もあります。 このように、 相手が「縁なき衆生は度し難し」のまさに それだった状況に何度も遭遇している 私としては、かなり危険かつ困難な事だと 思います。 ご意見賜りたく存じます。 よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 ここのサイトで仏教を知り、諸行無常、諸法無我や、執着しないことなどを知り、これは素晴らしいものだと感動しました。 実際にこの思想で生活すると、毎日が濃い1日となっているように感じられ、とても嬉しいです。 ですが、本当に苦しい時に、これらの教えが思い出せなかったり、気づかないうちに執着してしまったりするのがとても不安です。 仏教の心を忘れないために、何か私にもできることがあれば教えてください。
こんにちは。今3冊の仏教本を少しずつ読んでいて、今日は「ブッダ いのちの言葉(永岡書店)」の和顔愛語についてお訊きしたいと思います。災害のため今は特に深刻な相談が増えていると思うので、その後でお暇な時にお手すきの先生が教えてくださるとありがたいです。 愛語は慈悲を種子とする愛の心から起こるということですが、その逆 - 最初に慈悲の種子がなくても笑顔(和顔)と優しい言葉(愛語)で人に接していればいつかは愛の心が生まれる - はあるでしょうか。 和顔愛語の実践で心が行動に近づいていくかもしれないと思って、実践しています。優しい言葉を使うので表向きは環境が和やかになるのですが、実際に愛の心があるかというと、だめです....いまだに何も感じられません。 それでも優しくふるまって周りとうまくいってそれでよしならいいのだけど、実は、最近適性検査というテストを受けてある部分に極端に悪い結果が出てしまいました。内面がちゃんとわかってしまう場ではごまかしは効かなくて、愛の心(思いやり?)は学んで身に着けるものではないのかもしれません。私はないものを生まれさせようとしているのかな、と限界を感じます。
世の中には、たくさんの素晴らしい宗教と、たくさんの素晴らしい神様・仏様がいらっしゃるのに、何故、(宗教対立も含め)戦争はなくならないでしょうか?繰り返されるのでしょうか?これは私の、幼い頃からの疑問であり、永遠のテーマの1つです。是非とも、いろんなお考えをお聞かせ下さい。
『弟が突然死してしまい、未だに信じられない。 弟を思うととめどなく涙があふれてしまう。 悲しみは日を追うごとに深くなってるような気がする』 先日、このような質問をさせていただきました。 その後、とあるお坊さんから回答をいただきました。 お坊さんは『悲しみがこみ上げてきた時には仏様や弟さんにその思いをお伝えなさって下さい』と仰ってました。 仏様? 仏様ってどなた? 仏様に手を合わせたいのですが、仏様はどこにいらっしゃるのでしょうか? 仏様の意味がよくわかりません。 お忙しいところ申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。
因果応報、という言葉についてお教え下さい。 この言葉は罪を犯した人に対して使われる事が一般的かと思いますし、実際罪を犯した人に報いが来る(バチが当たる)ものだと思っているのですが、報いを受ける人、又は受けない人がいるのは何故なのでしょうか? 例え罪を犯した人でも、その罪を深く悔い改めるなど自分自身に正直に向き合えばバチは当たらなくなる(因果応報という言葉から外れる)のでしょうか? まとまりない文章で申し訳ありません。 よろしくお願い致します。