いつもお世話になっております。 きょうは病院の帰り時間があったので、 祈願寺に行く中途にお寺を発見し、 ご挨拶しました。 そこのお堂に、大きな「閻魔大王」様が お祀りされていて、私は思わず目が合うと 小さく悲鳴を上げ後退りしてしまいました。 実は高校のフィットネスの授業で 立ち寄ったお寺の別の閻魔様に中指を 立ててしまったことがあるので、 それを丁重にお詫びし、それだけでなく なぜか心の中で謝罪を連呼。 それと同時に、ものすごく泣きたく なり、さらに今まで自分が抱いていた 「あの人が、この人が」という思いが 吹き飛ばされる様な気がしたのです。 まるで頭をぶん殴られたかのようです。 しっかりしろ、もっと何か信念をもて、 お前はまだ勉強すべきだと。 死んだ祖父が再三言っていたことです。 そこで質問です、閻魔様とは一体、 どのような仏様なのでしょうか? ご意見お待ちしております。
最近、生きとし生けるもののはかなさや、努力しても業ばかりを積んでしまうおのれの無力さを噛みしめる毎日です…。自力救済の困難さを痛感する日々です…。 そんなこんなで、浄土真宗の教えを学ぼうと色々と調べたのですが、詳細かつ信憑性のあるできる情報があまり得られず…。寺院やご住職さんが書かれた記事などがほとんどなかったのです。 そこで、浄土真宗のご住職様方にお伺いしたいと思ったのです。来世で極楽往生するための方法を、詳細に教えていただきたいです。 ①念仏と②信心が必要だとは伺ったのですが、本当でしょうか? 信心を得るというのが抽象的な気がするのですが、具体的にはどのようにすればよろしいでしょうか? また、どのような人間も、極楽浄土に行くことができるのでしょうか?どうかご教示くださいm(__)m
いつもお世話になっております。 最近の私の怖い人に会ってしまった時の対処法。 きょうは以前質問した、私を悪口に乗せようとしてきた お婆さんと目が合ってそらぞらしく会釈され、気付かぬふりして 私は完全無視を決め、席を移動しました。 ふだんお嬢様と鉢合わせしてしまった時も回れ右で逃げたり 柱に隠れます。ホラーゲームみたいですね。 お嬢様のこともお婆さんのこともお坊さんに報告済み、 「由々しき事態、次発生したらその場で教えてほしい」 とのお言葉をいただきました。 ちなみに万が一の事態の際の職員さんたちの即応力、 機動連携、アフターフォローは脱帽ものです。 最近は行者さんが笑わせてくれたり、お坊さんが気にかけて くれたりもします。機会が訪れたので事情を話すと 「心配してたんだよ。わかった、ありがとう!」 と言ってくれました。私は他人なのに!泣きそうに嬉しいです。 * ですが私の心の中は、視界に入った彼女たちに対し、 「何しにくるの?もう2度と来ないで!」 という願望で満たされています。 目の前ではお不動様がこちらを睨んでいます。恥ずかしくて 泣きたくなります。 人には隠せても仏さんはお見通しです。 それとももう慣れっこで、 「あぁ、またか。これだから衆生界の連中はなぁ。オイ娘、 こんなのよくあること、父さんは気にしてないよ」 くらいなんでしょうか。 ご意見お待ちしております。
いつもお世話になっております。 私の母方の祖父、伯父は菩提寺の総代を務めさせて頂いておりました。 私が小学校中学年の時に、祖父が亡くなりました。祖父が親しくおつきあいさせて頂いていた先代のご住職様は既に亡くなっていらっしゃいました。次の代のご住職はご本山からやって来た地域にまだそんなに根差しておられない方でした。 祖父の葬儀の時に、その新しいご住職は手を合わせてはいるのですが、カセットテープのボタンを押し、お経のテープを流したのです。 その場にいた大人達は驚き、小声で「テープだ。」と囁いていました。親族は怒っていました。私も子どもながらに「お坊さんなのに何でお経を読まないの?」と不思議でした。 法話もありませんでした。 祖父は生前、先代のご住職とは親しくてご住職を交えて祖父の家で一緒に食卓を囲んだりしておりました。古い木造のお寺なのでもし何かあった時にと山から木を切り出してきてすぐに使える状態にしておいたり、祖父は総代という事もあり、何かと菩提寺の為に肉体労働で尽くしておりました。祖母もご飯を作る時には「典座しなくちゃ」等とお坊様の言葉を真似ているほどでした。 祖父はご本山から感謝状を頂きました。 そして祖父が亡くなった時にはテープのお経でした。私は今までずっと喉につかえた小骨のように、その事が気になっておりました。 先代のお坊様と家族で食べた楽しい食卓の思いでがテープのお経のせいで黒く塗りつぶされてしまった様な気がしていたのです。 でも最近、諸行無常なのかな。と思うようになりました。 私の諸行無常の理解は間違っていますか? 教えてくださいませ。
先日まで、この世は地獄のようだと感じておりました。 しかし、最近お寺に行ったところ、縁あって、仏教の雑誌を 貸していただき、その中で天台宗の記事がありました。 その記事には、忘己利他について記載され、 また、自分の顔は他人のためにあると書かれておりました。 この言葉に強く感銘を受け、これまで地獄と感じていた理由が、 自分のためだけに生きていたからと気づきました。 何かを求め続け、満たされず常に飢えて不満を感じた生活でした。 それが、他人のために行動することを意識すると、 満たされず地獄に感じていた世界が変わってみえ、 私自身非常に救われました。 しかしながら、今の社会では、自分の利益を最大化することが 肯定され、また社会で生きる上では、必要な事だと思います。 しかし、利益追求が本当に自分の幸せになるのか、疑問を感じ 周囲の人のために、仏道へ進むことこそが、自分にとっても 幸せにつながるのではないかと考えております。 そこで、社会の中で様々なことに折り合いをつけながら 生きていくか、出家して生涯を懸けて、人のために仏道を進むのか 迷っております。 そこで、この迷いについて、ご助言をいただればと存じます。
こんばんは!毘沙門天さんは神様なのか仏様なのかいまいち分かりません。どちらなのでしょうか?と、言うのも神社では生理の時は参拝を控えています。神社の神様は血は死を連想させて死にかんすることは苦手らしいのです。 でも仏様はそう言うのは関係ないので生理のときでもお参りして居ます。でも毘沙門天さんは神様なのか仏様なのか分からずずっとモヤモヤしてました。どうぞ教えて頂けないでしょうか?
お守りやお扱いの扱いについてお伺いしたいです。 できれば処分したいのですが、そのこと自体も迷っています。 ここ数年、体調を崩すことや不運が立て続いて精神的に参っていた時期がありました。母親が非常に心配性で、初めの頃は病院などの医療機関に相談に行ったりしていたようなのですが、ちょっとエスカレートして良いと評判のお寺や神社、霊媒師の元を訪れ、私のことを相談しに行ったりしていたようです。 そこで頂いたお札(母曰く怪しい宗教などではない)を部屋に飾り、お守りは常に肌身離さず身に付けるよう言われています。 ですが、正直私は神様が守ってくれているとか言われてもいまいちピンと来ず、どちらかと言うとスピリチュアルなものに対して否定的なイメージを抱いています。 実際に神社に赴いて頂いたお札やお守りでもないし、否定的なイメージを持っている私が部屋にそれらを祀り、携帯しているのは逆に罰当たりなのではないかと思います。そもそも、恩恵を受けているとも感じないので処分しようか悩んでいます。ですが、いくら信仰の思いが無くても処分すると更に罰当たりなような気がしてなかなか処分に踏み出せないままです。 因みに今は体調はそこそこ回復しており、普通に働いて普通の生活を送っています。そして母とは長年離れて暮らしています。
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
日蓮聖人は 法華経は 五逆謗法も成仏できると 説かれている と 法然上人は 法華経は 難解だから 自分は 三学の器ではない と 善導大師の念仏に救いを 見出だされた その法然上人のお気持ちは いろんな育ちや 生まれ、環境、心情、人間関係、時代、経済、 複雑に絡み合っている中での 私達が 罪をおかさないことを また 罪を犯しても 内省し更生できることを 教えとしてくれたのだと思います。 日蓮聖人も また 同じようなことを色読されご自分の南無妙法蓮華経を確立されたのだと思います。 念仏か 題目か で 悩みます。 日蓮聖人は どうして あんなに念仏を破伏したのか と 残念です。 法華経の 一乗のお心で見れば 全てが 一乗のお釈迦様の教えにみえるんじゃないか とも思います。 日蓮聖人の曼荼羅を破って捨ててしまったことから、五逆謗法になるのではないか 罪障消滅したい と 思い 日蓮聖人の題目と 法然上人の念仏で 悩みました。 相反するようですが どうしても ひとつにしぼりきれずに ふたつを考えてしまいます。 どうしたらいいでしょうか 悩んだまま 頑張らなくてはいけないのでしょうか
順観と逆観について調べていると、逆観について二種類の解釈の仕方が有って非常に混乱します。 一つは、「無明が滅すれば、行が滅する...生が滅すれば、老死が滅する」という上から下へ降る否定の形式です。 もう一つが「老死が滅すれば、生が滅する...行が滅すれば、無明が滅する」といった逆に下から上に昇る否定の形式です。 これらの解釈は宗派によって分かれているものなのでしょうか? また、二つの言い回しの違いは、それぞれどのような意味が有るのでしょうか? 何卒お坊さま方の智慧をお借りしたく存じ上げます。
我が家は真言宗で、お釈迦さまをお祀りしておりますが、最近特に急にゾウを含め、 ガネーシャさんとなぜか非常に縁、というのか親近感のようなものを感じるようになりました。 友人に相談したところ、聖天さんとご縁があるのではと言われ調べましたが、 聖天さんは怖いとか厳しい等が多くて不安が生まれました。 しかし、友人は普通にお祀りしてますし、自身も怖いというより親しみを感じます。 私はどうしたら良いのでしょうか? 朝夕仏前で手を合わせたり、お水を変えたり線香をあげる程度で、お経をそこまであげません。。。 聖天さんをそんな状態でお迎えするのも失礼な気がします。 しかし日に日に聖天さんに興味といいますか、惹かれるものを感じ続けています。 どうしたら良いのでしょうか? 私はおかしくなったのでしょうか? 今とても幸せで、特に現世利益?のようなものもありません。。。 どうしたら良いのか、お教えください、お願い致します。
私の母は子供の頃に説法をよく聞かされたため、生きること自体が修行で、嫌なことも沢山あるが正しい行いをしていれば、神様・仏様は見ていてくれている。 きっと悪い人間にはバチが当たるから、日頃から清い人間であるよう、心がけなさい。 辛いことは神様・仏様が与えた試練だから我慢しない。 と、よく言われます。 このような場で言うのも大変申し訳ありませんが、私は無宗教で神様・仏様も全く信じていないため、そうは思わず、私が職場などで嫌な事があったときに少しでも愚痴を言うと、必ずその話が出るため、最近はそういう相談はしないようにしています。 よく神様・仏様は見ていると言いますが、結局は要領の良い人が得をし、要領の悪い人間が損をする世の中だと思っています。 実際に職場でも働かず大半を悪口ばかり言って過ごしている人間の方が、待遇や周りの評価なども良い状態(立ち回りが上手い)ですし、真面目にやっている人間は評価されず…いじめだってただ他人と少し違うだけでターゲットにされ、結局罪のない方が自ら命を絶ち、いじめていた人間達がのこのこと生きている。そんな世の中です。 理不尽な事ばかりなので、仮に神様・仏様は居たとして、絶対に見てないでしょって思ってしまっているのが現状です。 大変失礼な質問かも知れませんが、お坊さんから見て神様・仏様とは一体何でしょうか?
ご質問させていただきます。 仏説阿弥陀経の中盤に「東方亦有〜」、「南方世界〜」、「西方世界〜」、「北方世界〜」とありました。 順番として「東南西北」となり日本の「東西南北」とは異なります。 なぜこの「東南西北」順番になるのでしょうか?お釈迦様のお話で「四門出遊」でも東の門、南の門、西の門、北の門と順番に出家される前のお釈迦様がお出かけされています。 この「東南西北」の順番に仏教的な意味はあるのでしょうか? ご教授頂ければ幸いです。 自分なりに考えてみたのですが、中国が「東南西北」の順番で数えていて、そこに仏教が伝わったのでこの順番になった(麻雀でも東南西北の順番でローテーションするので、中国はこの数え方が主流なのかと)。 「東西南北」の数え方は日本的なもので、神道と関係がある。お彼岸はもともと神道の行事であったとききます。おそらく稲作をする上で太陽の動きは大切なものであったので、太陽がのぼる東を一番に数え、太陽が沈む西を二番に数えるという対角線上に数えたのかと思いました。 もしご存知の方、何かお考えがおありの方がいらっしゃいましたら、ご教授くださいませ。よろしくお願いします。
先日 お寺で法話を書かせて頂いた時に(お寺は浄土真宗本願寺派です) 阿弥陀経のお話で、極楽浄土はどこにあるという内容でした。 阿弥陀経のなかに「從是西方 過十万億佛土」とあるように、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて」と略されます。 しかし、親鸞様は「西方を安心出来る場所、帰る所」「過十万億仏土を他の十万億仏土より優れている」と略されたと聞かせて頂ました。(「過」は「超勝」という意味で、現代語だと越え優れている) この極楽浄土を「他の十万億の仏土より超え優れた安心出来る場所」というのは、親鸞様のどの書物に書かれているのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂ければ幸いです。 すいません、その御法話の時に講師の方に質問すればよかったのですが、家に帰ってお話を思い出していたら気になってきました。 私の記憶違いで間違いがあるかも知れません。申し訳ありませんが、宜しくお願いいたします。
仏門に入るのは、何歳ぐらいまで可能でしょうか。
おはようございます。苦の生起と消滅の観察なのですが、お暇な時に、もしよかったら教えてください。老死から無明まで(十二支縁起説)を一気に理解するのはちょっと無理で、今回渇愛のところで立ち止まりました(五支縁起説)。間違えていたら直していきたいです。 老病死の苦があるのは生まれたから(生まれたらいつか死ぬ) 有があるから生がある(有は境遇のようなもので、そういう立場に生まれた、みたいな?) 取があるから有がある(自分の境遇を受け取る) 渇愛があるから取がある(渇愛とは求める心で、名前や形のあるもの、自己を追い求めて自分のものにする) この渇愛が消滅すると老病死の苦が消滅する。自分の立場とか手に入れたもの、自分を示すものを求める心がなくなると苦しみがなくなる、ということでしょうか。
宝珠というお釈迦様が持っているタマネギみたいな玉がありますが、あの玉のデザインはとんがっている部分の下に二本ラインがあるのと三本ラインが入ってるのはどちらが正しいデザインですか?
先日、知人から鮮やかに色づいた美しいアジサイをいただいたので、花瓶に生けながら様々な事を感じていたら、自分が寂しいような哀しいような複雑な笑みを浮かべているのに気がつきました。(変なスイッチが入っていたんです。) それはまぁいいとして、近頃ずっとhasunohaを読んでいた影響なのか、昔、疑問だった拈華微笑の話を久しぶりに思い出しました。 確か、ニッコリと微笑んだのだとか。 未だに何を表しているお話なのか分かりません。改めてネットで調べてみても、やはりサッパリです。 ニッコリ(?)微笑んだのは何故でしょうか?何が伝わったのでしょうか? よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。 私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか? 死後にお浄土に生まれさせて頂くため? 今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため? まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、 どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか? 良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。