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先日母が亡くなり、とても綺麗な戒名を母にいただきました。 私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。そこで思ったのですが、生まれそして去るその度に戒名をいただくことになると、一つの魂にいくつもの名前が仏界にある、ということになるのではないでしょうか。 ふと、これが仏界ではどうなるのかと疑問を持ちました。一人にいくつもの名前があると想像すると、沢山の分身が仏界にいることになりますが…。 どんな感じなのでしょう。どうお考えですか。それともこういうものはこうなのだ、という教え(お話)でもあるのでしょうか。 よろしくお願いします。
数珠を入れを購入しました。 しかし、 外側はピンクや金など、カラフルな色で、 内側も金色です。 法事や葬儀などの場に持っていく場合など、色は大丈夫でしょうか? もし、良くなかったら、返品を考えています。 よろしくお願いします。
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。 仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。 そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。 そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか? そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか? もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう? 私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
初めて質問させて頂きます。 私は昔から仏教に関心があり、最近になって本格的に信仰していきたいと思い立ち我が家の宗派を尋ねたところ、祖父(存命)の菩提寺が浄土真宗だと言われました。 浄土真宗について調べた結果自分に合っていると感じたので信仰させて頂こうと決意し、近隣のお寺を探したり浄土真宗のお坊様がいらっしゃる学習講座に申し込んだりしました。 しかし先日、何気無く祖母の仏壇の掛軸を見たら大日如来様が描かれていることに気付きました。 祖母は特に信仰を持っていた人ではなく(正確には他宗教に“所属だけ”していました)菩提寺も無かったので、言い方は良くありませんが親戚に任せて急拵えで葬儀を行ったそうです。 私以外の家族全員宗教に疎く、祖母が実質的に真言宗式で祀られていることを把握していませんでした。 そして祖父の菩提寺について調べたところ、浄土真宗ではなく真言宗であったと発覚しました。このことも私が調べるまで誰も把握していなかったので祖母が真言宗式で祀られたのは偶然だったようです。 一連のことは大変ショックでしたが、真言宗や大日如来様に関して決して嫌な感情は抱いておらず、私が元々曼荼羅図が好きだったこともあり不思議な御縁を感じてしまいました。 しかし私にとって阿弥陀如来様や浄土真宗の教えは大きな心の支えとなっており今更鞍替えすることは考えられませんが、真言宗との御縁を無視してしまうのも辛く悩んでいます。 浅学の上とりとめもない質問で恥ずかしく思いますが、お坊様方のお考えを宗派問わずお聞かせ頂ければ幸いです。
真面目な質問ばかりの中、くだらない内容ですいません。 もしかしたら仏教の質問ですらないのかも知れませんが。 私は茨城県在住なのですが、車で1時間少々の距離に 不動明王様をご本尊とする、真言宗系の 有名な仏教寺院があります。(千葉県成田市) しかし最近、同僚から「あそこはカップルで行くと別れる。 家族で行くと夫婦仲が悪くなる」と聞きました。 何かと思ってネットで検索したら、入口付近に弁天堂があるので、 弁財天様がカップルに嫉妬して別れさせるのだそうです。 同じようなスポットは全国各地にあり、東京の某公園も弁財天様の からみで破局スポットとして有名です。 特に2人でボートに乗ったら別れるとか・・・ 俗信や迷信の類でしょうが、よく考えたら 弁財天様(サラスバティー)って、ヒンズー神話では梵天様(ブラフマン)の お妃様ではないのでしょうか? これ以上望めないような夫君が居るはずなのに、ネット情報曰く 「弁財天はいつも七福神達と一緒なので出会いが無く、 独り身の為にやきもちを焼く」との事。そんなバナナ。 吉祥天様(ラクシュミー)にしてもヒンズー神話では那羅延天様(ビシュヌ)の 妃のはずが、仏教(日本?)では毘沙門天様の妻君になってます。 インドでは優しい夫婦神なのに、仏教では武神の妻。 なにかしっくり来ません。 夫婦揃ってるのは大自在天様(シヴァ)と 妻の烏摩妃様(ウマー)くらいです。 もっとも、彼らは降三世明王様に踏みつけられる役ですが・・・ ヒンズー教と仏教で配偶神が変わっているのは、 何か教理的な意味があるのでしょうか? それとも、ヒンズーの神様と仏教の天部神様は 別人格(別神格)と考えるべきなのでしょうか?
一般素人がお経唱えても大丈夫ですか? 前にどこかで、般若心経を一般素人が唱えると幽霊が寄ってきて危険。みたいなのを聞いたんですが、本当ですか? また、除霊効果のあるお経や、霊感上げる効果のあるお経ってあるんですか? よろしくお願いします
現在海外に住んでいます。日本を離れて15年になります。日本にいた時は無神論者だった私ですが、海外に住み始めて仏教に関心のある外人さんに出会う機会がとても多く、簡単な質問に答えている間に次第に仏教への関心が高まってきて、改めていろんなことを学びたいと考えるようになりました。でも、ただ仏教と言ってもいろんな宗派があり、ここ海外ではチベット等他国の仏教もあります。ただ私としてはやはり日本の仏教に関心があります。私が現在住んでいるアイルランド(ヨーロッパ)では禅(曹洞宗)が一番盛んで、禅の集まりに度々参加してますが、どうも外人向けに脚色されているのと、英語で説法と聞いても、何か違った意味に聞こえどうもしっくりこないのです。やはり日本語で仏教を習いたいと思っています。でもここ海外で身近に日本人のお坊さんがいない中で何から始めたらいいのか??? 先ず宗派ですが。。。座禅や写経はとても興味がありますが、実家の先祖が代々お世話になっているお寺は浄土宗なので、浄土宗にも興味があります。それもあってこの2つの要素が組み合わされている黄檗宗にも興味があります。お経も自分で唱えられるように覚えたいです。 全く仏教の右も左もまだ解らない私ですが、取りあえず何から始めたらいいでしょうか?取りあえずはYoutube で般若心経を練習して意味を勉強していますが。。。。 また初心者向けの仏教をを勉強するお勧めの本があれば教えてもらいたいのですが? やはり、最初は宗派を決めた方がお経などは勉強しやすいでしょうか? 回答よろしくお願いします。
こんばんは。 明日、ひいお婆ちゃんのお葬式があります。 どうして人は死ななければいけないのか、 おばあちゃんや親族とと一緒にいた方が幸せなのに、どうして離れなければいけないのか、全部忘れてしまうのかと 死 についてずっと考えていました。 夜、ねれなくて、死後の世界について調べていると、天国や地獄も実際にあることを、臨死体験の方の証言で知りました。 証言によると、お釈迦様やイエス様の愛が心にある人は天国へ行き、守れなかった人は(宗教が心になかった人は)永遠に地獄で苦しんでいること。誰もが死の後、この裁きを受けこと。 急に全てが怖くなりました。 ひいおばあちゃんも裁きを受けるのか、天国で安らかに過ごしてほしいです。 そして自分も、今、23才ですが、不平不満を言ったり、自己中心的であったり、自分のことが嫌いだったり、正しい行いはできていません。これから正していけば、赦していただけるでしょうか。とても怖いです。 大切な家族や、友人や恋人も、 いつも宗教が心にあるわけではないと思います。 すごく熱心に宗教に精通している家族ではないので、、申し訳ありません。 お釈迦様、イエス様の教えに背いてしまったり、してしまうこともあったのかもしれません。(わたしよりはみんなとてもいい人たちなのですが、) それでも大切な人たちにはみんな天国で過ごしてほしいです。 明日のお別れが辛いこと、 そして今後、大切な人たちや、自分も裁きを受けることが不安で、 死への恐怖が、裁きへの恐怖が怖くてどうしたらいいかわかりません。 これから行きていく上での指針や、 自分がこれからできること、 わたしがこれから家族や大切な人たちの今後のためにできること 仏教の面から助言を頂けますと嬉しいです。 何卒よろしくお願いいたします。
設備管理の仕事をしてると、つい考えてしまう事です。 ポンプ、モーター、配管、電磁弁、ボイラー・・・等 毎日接してると何となく愛着みたいなものも湧いてくるし、 「所詮は機械だから」とも思えてくるし。 20代のころ、工場の中にびっしり張り巡らされてる 配管を見て、「まるで生き物みたいだ」と感心した事もあります。 虫や植物など、生物全般には仏性や魂はある、と考えるのが仏教の 基本的な姿勢だと思うのですが、(間違ってたらごめんなさい) では完全な人工物たる機械にも仏性、あるいは魂みたいなものが あるの・・・? お坊様方はどのようにお考えでしょうか?
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
例えば、神社にお参りした後お寺にお参りするなど・・・・・
外国の仏教と日本の仏教の違いって何ですか? チベット仏教とかテーラワーダ仏教とか色々聞くんですけど日本とは何が違うんでしょうか?
無一物の意味がいまいち理解できません。 何ものにも囚われるなという意味のようですが、仕事とかあるし、囚われない自由な生き方なんて出来ないと思うのですが… そういう意味じゃないんですかね?? どこ読んでも小難しくわかりずらかったので端的にわかりやすく教えて頂ければ幸いです。
私はいつも光明真言や、不動明王などの真言を学校に行く前に大体15分くらい唱えているのですが、真言の効果って、時間と共に薄れていくのですか? また、よく真言を唱えるときに噛んだりしてしまうことがあるのですが、それによって祟りなど、不幸なことが起こるのですか?
いつも心の支えにさせてもらっております。 このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。 神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。 私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。 日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、 健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、 ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、 私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして 本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、 願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは? 大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。
父が入ってるお墓を、最近流行りのロッカー式に変えようと思ってます。なぜかと言うと、墓参りになかなか行けない事、墓周りの草抜きが私たち姉妹では手に追えないくらい増えて大変な事です。で、実家の宗教と母も含め、姉妹の嫁ぎ先の宗教が違ってるのですが、この際お墓を変えるのと同時に、父も私たちと同じ宗教に変えることにしました。一旦魂を抜き、その後仏教にする予定です。こんなことって珍しいことでしょうか?私は嫁ぎ先のお墓に入るのは嫌もあるし、今後、子孫も墓の手入れはしないと思います。それ思うと、ロッカー式の墓に、実家の親子で入るのが理想です。未だ先だと思っても、いつどうなるかわからない人生、色々考えてしまいます。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
いつもお世話になっております。 諸経典に、「法身、報身、応身」「自性輪身、正法輪身、教令輪身」などと記載がありました。 ✳︎ その中の、阿弥陀如来の三輪身、三輪応身(どう違う…?)について、一説には 「阿弥陀仏→文殊菩薩→大威徳明王」、 もう一説には 「阿弥陀仏→白衣観音(うろ覚えですが…)→馬頭明王」とありました。 ✳︎ 私の本山でも、祈願殿に馬頭観音様をお祀りしています。馬頭観音様は一説によると、 競馬場などにお祀りされて動物の供養、回向の本尊とされているそうです。 ✳︎ なぜ、阿弥陀様は分岐しておられるんでしょうか。それと、「輪身」「輪応身」も違うんでしょうか。教えていただけたら幸いです。
浄土真宗(西本願寺)です。 菩提寺から、墓檀家には月参りを義務付けると言われました。 理由は、ある檀家が行方不明となり、墓維持費も徴収出来ず、無縁墓トラブルで警察沙汰にまで発展したため、無縁墓対策としてとの事でした。 何かズレているように思えてならないのですが。 月参りをすることで、檀家との繋がりが絶対的なものになるとは思えません。 そもそも、墓を放り出して行方不明になるなんて、寺との信頼関係が出来ていなかったからでは!? 月参りの意義が分からなくなりました。 月参りが出来ないのであれば、墓仕舞いをするようにとまで言われています。 後継ぎがいませんので、墓仕舞いも考えないといけないのですが、まだまだ先の事と思っておりましたので、今回の寺からの発言に不信感がつのっております。 私は、毎日家族が仏壇に手を合わせる事が一番だと思っています。(言い換えれば月参りは必要ないと思っています。) それだけではいけないのでしょうか?