初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
宗教のあり方について 私は祖母の代から仏教を信仰しており、 団体にも所属し、毎日お経をあげたり、 イベントなどに参加してきました。 友達や周りの人には進めたりしておらず (所属していることも誰も知りません) 誰にも迷惑をかけずにやってきており、 小さい頃からの習慣でしたので 今迄宗教に対して嫌悪感はありませんでした。 最近その宗教のイベントがありました。 イベントの開始が早い時間だったので、早起きが 必須なのですが前日仕事だったこともあり 正直もっと寝ていたいと思いました。 でもそれと同時に、 参加しないと悪いことが起きるんじゃないか という気持ちが湧いてきました。 今迄には感じたことのない気持ちで、 すごく驚き、嫌悪感を感じました。 結果その日は参加するのをやめました。 その日の夜に自分自身のことで悪いことが起きました。 すると、今日参加しなかったから悪いことが起きたんだと勝手に心が感じたのです。 思い返すと、お経とあげたりイベントに参加すると いいことがある。と大人たちに言われてきていたので 逆に参加しないと悪いことが起こると自分の中で 心の仕組みができていたんだと思います。 それからというものの、宗教に対する強迫観念がすごく、いいこと悪いことどちらがおきても結びつけてしまいます。 生まれてから当たり前にやってきた宗教活動が すごく怖く感じています。 自分はこの先宗教とどう向き合っていけば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。
心の眼で見るとは、どういうことなのでしょう。どうすれば見ることが出来るのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
自死で子供に先立たれた親です。 いのちの集いに参加したい気持ちがありますが、仏教でも宗派には拘らずに出向いていいものでしょうか? 私自身それほど仏教に詳しいわけでもないのですが。 気になりましたので、一応質問させていただきました。 ご回答いただけると助かります。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
知り合いのご住職から、法華経の読み違いがあっても、その欠落した分を補ってくれる法華滅罪真言(補欠分真言)なるものを教えて戴きましたが、 出典はご存じないとのことでした。 ①以下のように聞き取ったのですが、間違っておりませんでしょうか。 なも あらたんな たらやーやー おん きゃらきゃら くじゅうくじゅう からから(たらたら?) おん たどたんだら じびたー そわかー ②出典をご存知の方がありましたら、お教えください。
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。 私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。 こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。 私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。 社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。 とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。 風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。 しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。 しかしながら、どうも難しいのです。 祈る=決まった文句を唱えることの安心感 などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。 どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。 それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。 というより、本当に信じているのですか? 教義に共感しているだけですか? 今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか? 共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。 信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。 既に反抗的なことを書いてしまいましたが、 本当に信じたいのです。 どうしたらいいのでしょうか。
先日、母が交通事故に遭い、京都の薬師如来様をお祀りしているお寺で祈祷していただきました。以前から疑問に思っていたのですが、神社は二礼二柏手一礼と知っていますが、お寺は同じではないのでは?と思いました。そもそも神道と仏教という事点で違いますよね?お寺の正しい参り方をお教えいただけませんでしょうか、また母の見舞いに行ったとき、すがる思いで薬師如来様の真言唱えているのですが、厳しい修行を積んだお坊さんでもないのに口にしていいものでしょうか。いろいろと無知で申し訳ありません。
度々、申し訳ありません。 私は以前、禅宗のお坊様から教えて頂いた「十句観音経」という短いお経を、例えば恐怖を感じた時や落ち込むような事があった時に、心の中でとなえています。お守りのようにしています。 では、ものすごい怒りで心がいっぱいになってしまった時に、平常心に戻る為に心の中でお唱えできる短いお経やご真言がありましたら教えて頂けないでしょうか。 できましたらそのお経やご真言の意味も教えて頂けると、大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
真言宗の僧侶以外の人が真言を唱えてもいいんですか?
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。 挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。 私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか? また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか? また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。