初めまして、くろたと申します。 知りたい事を検索していた最中、此方の場所を知ったのも何かの御縁だと思い質問をさせて頂きます。 質問タイトルの「子」というのはわたしが当てはまるのですが、母が真言宗、父が臨済宗、という様にそれぞれが違う宗派に身を置いています。 しかし、その子どもであるわたしと姉はどこにも属しておりません。 両親に直接「この場合わたしたちはどちらの宗派になるのか。父方の方になるのか」と質問をしましたが、どちらも「好きにしなさい」との返答でした。 ですがこの事で余計に迷ってしまい、姉とも話し合いましたが宗派の違いについて良く分からないことが多く、未だ答えは出ていません。 「両親の宗派が違う場合、子はどちらを継ぐべきか」 「実際に宗派を決める時の注意点やアドバイス」 「どうすれば宗派に属する事ができるのか」 以上三点について、回答頂けたらと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。お陰様で無事に仏壇の発遣、開眼も済みました!ありがとうございます!! * 本題です。修験道、修験者さんって何ですか? 仏教、密教、お坊さんとは違うんですか? 半聖半俗の身ともどこかで聞きましたが、そうだとしたら法名はどうしているんでしょうか。本山も、真言天台各派ではないんですか? 教えて頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 護摩は祈祷でも呪力でもなく、仏への供養であるとのご回答、大変勉強になりました。 私は生意気ながら、昨今の「信仰」について、地味に疑問を感じています。 ✳︎ お寺の願い札や絵馬を見ると、 「あいつに天罰を!」「高収入!」「背後霊消して!」など、なんだかちょっと違うんじゃ?と言いたくなるような内容の物を多々目にします。 自分の願い事を叶えたいが為に他のご信徒様のお気持ちを蹂躙するような行動を取る方、ご迷惑を考えない方も見かけることがあります。 ✳︎ 私の考えとしては… 願い事、成就したい物事は神仏ではなく、自分の力量や努力、その他外的要因に左右される。 また仏とは、素直に甘えさせてくださる存在、 遠く、堅苦しいように見えて実はとても身近で優しい、信じる人たちみんなの親のような存在… 荼枳尼天さんも、歓喜天さんも、供養法や何かを間違っても祟ったりなんかしない…… なんじゃないかというのが正直な意見です。 ✳︎ なんだか、ああいう自分自分!した願い事、神頼み的な物を見ると悲しくなります…。 この人たちは、本当に信心があるのかと。 先生方は、どう思われますか? お答えをいただけたら嬉しいです。
小さい頃から浄土真宗教を読んでいました。 その癖なのか、頭に覚えており、フッとしたときには、頭で流れております。 今では、嫁いた先が般若心経の仏教でこれもこれで、覚えた部分だけ頭に流れております。 これは、どういう意味ですか? 今では、般若心経の家で浄土真宗のお経を読みたくても読めれないのですが、どうしたら良いですか?
この度、結婚が決まりました。 結婚前は日蓮正宗でしたが、嫁ぎ先は天理教です。 その場合、何か必要な手続き?のようなものはあるのでしょうか。 と言うのも、実母は信仰を強く重んじており、私が天理教の宗派のもとに嫁ぐことを良く思っていません。 反対を押し切って結婚を決意しておりますが、少しでも母の気持ちを楽にさせてあげられるような儀式のようなものがあれば、行いたいと思います。 私自身は宗派が変わることに抵抗はありません。 ぜひ、ご返答いただけましたら幸いです。
身の回りで怪奇現象が起こり、お寺にお祓いにいったところ、亡くなった祖母が心配して、神鬼として降りてきてくれた、と住職先生がおっしゃっていました。お祓いの最後のほうで、五色のはたを目を閉じてひきました。 五色のうち、 青黄白の三色の組み合わせは何を表すのでしょうか。
いつもお世話になっております。まずはご奉告です。 昨日早速に仏具屋さんに行ってまいりました。お位牌、仏壇、三尊像、仏具等のご荘厳を、お店で夜7時ごろまで考えました。 素敵なお仏壇になりそうです!ありがとうございます!! * さて、本題です。「呪力」って何ですか? 我が宗の本山での祈祷や、天台真言の護摩、火加持、虫封じは呪力には含まれないんでしょうか。 そもそも、護摩などの祈祷は本来どういった意味があるのでしょうか?私個人的には、「ご本尊、不動明王様に祈りをささげる儀式。 願い事などなくともよい」という気持ちで臨んでおります。 現に自分のための願い事は最近になって本当にしなくなりました。 * 仏法的には間違った解釈なのでしょうか? ご教授頂きたく存じます。よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 先ほど位牌を壊してしまったと質問した者です。 * 私たち浄土宗檀信徒は、 「念仏信徒のところには阿弥陀如来が25菩薩を従えて臨終の夕べに迎えに来てくださり、次の瞬間には極楽の蓮の上に『不退転の菩薩』として生まれ変わらせてくださる。」と教わっています。 * これはつまり、 「生前どんなにひねくれていても、意地悪だった人も、極楽に往生すれば慈悲深い性格になる」 「鏡でもって生前の行いを全て見せられた後、意地悪や虐待を心から深く反省、懺悔、後悔し、優しい菩薩さま、仏さまになる」 ということで間違いありませんでしょうか? * ですが、どうしても私は法的かつ生物学的な親たちを好きになることができません。毎年お盆が来るたびに同じことを考えてしまうことが想定されます。何度位牌を作り直しても意味はないでしょう… どうかご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 単刀直入に申し上げます。毒親の位牌焼きましたっ!スミマセン!! 迎え火に投げ込んだら、ジジイの方は融けて真っ二つ、ババァの方は表面塗装が剥げました。 ✳︎ もう一つ、バブルの夢にどっぷり浸って威張り散らしていたジジババへの仕返しとして、 今日は現場のトイレをいつもの倍本気だして掃除してやりました。おまけに電車の中でお子さんのお守りもしてやりました! 仏様を信仰していたと思いきや実際は祟り信仰、根本教義である慈悲利他に真っ向から刃向かって、近所の皆さん、店子さんや道端の人に平気で迷惑かけたりdisったり、その上八方美人な両親への、今までできなかった最高の反抗です!! ✳︎ 私の心もスッキリ!晴れ晴れしました。 と、ここまではいいんですが、これって立派な悪心出仏血罪ですよね? 過去にも苦しんでた時期に阿弥陀様のお像の手足を折ってしまっています…。反省してますが。 ✳︎ 大丈夫ですよね?地獄落ちませんよね? くだらない質問とバカなことして本当にごめんなさい…でもこうでもしないと収まらないんです。 ここでも以前にこの手の質問をしましたが…やっぱり私に先祖供養は難しいというか、無理です! ✳︎ こんな私でも、阿弥陀様は極楽へ連れて行ってくれますか?教えて下さい、お願いします…
いつもお世話になっております。 ネットで地獄絵図を見ていたら 地獄の中に白い観音様が立ってるものを見つけたのですが、これは、観音様が地獄に来て亡者を助けるという意味があるのでしょうか?
托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
お坊さん自身がご自身が好きな仏様がおられたら教えて下さい。また理由があれば教えて下さい。 題が自分にぴったりの仏様という題ですが ぴったりというのは受験や仕事など目的に向かってというのもあります。 何か分からないけどご縁? かも知れないものがあるような感じがします。
坐禅をなさる宗派のお坊さんは1日にどの位、坐るのでしょうか? また、接心の間は辛くはないでしょうか? 素朴な質問ですみません。 よろしくお願いします。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
お遍路巡礼してますが、本堂と大師堂がありますが、両方とも般若心経唱えるものなのですか?大師堂には弘法大師のお姿が見えるお寺もあって、私は弘法大師の優しいお顔をじっと見て、心の中にある邪気とかお願い事をつぶやいてますが、これではダメなのでしょうか?巡礼してる人それぞれ違ってて、私はこれでいいのかな?と、思うところがあります。もちろん、ロウソクとお線香は立ててますが…。
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
宗教のあり方について 私は祖母の代から仏教を信仰しており、 団体にも所属し、毎日お経をあげたり、 イベントなどに参加してきました。 友達や周りの人には進めたりしておらず (所属していることも誰も知りません) 誰にも迷惑をかけずにやってきており、 小さい頃からの習慣でしたので 今迄宗教に対して嫌悪感はありませんでした。 最近その宗教のイベントがありました。 イベントの開始が早い時間だったので、早起きが 必須なのですが前日仕事だったこともあり 正直もっと寝ていたいと思いました。 でもそれと同時に、 参加しないと悪いことが起きるんじゃないか という気持ちが湧いてきました。 今迄には感じたことのない気持ちで、 すごく驚き、嫌悪感を感じました。 結果その日は参加するのをやめました。 その日の夜に自分自身のことで悪いことが起きました。 すると、今日参加しなかったから悪いことが起きたんだと勝手に心が感じたのです。 思い返すと、お経とあげたりイベントに参加すると いいことがある。と大人たちに言われてきていたので 逆に参加しないと悪いことが起こると自分の中で 心の仕組みができていたんだと思います。 それからというものの、宗教に対する強迫観念がすごく、いいこと悪いことどちらがおきても結びつけてしまいます。 生まれてから当たり前にやってきた宗教活動が すごく怖く感じています。 自分はこの先宗教とどう向き合っていけば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。