こんにちは 昔から気になっていることがあります。 おじいちゃんは仏教でどこどこの、等は分からないのですが、昔は毎日南無阿弥陀仏なお経を筆で書いて読むことをしていたので…そんな感じの仏教です。 その仏教の本?みたいなもので、小さい頃 私の生年月日等調べて、千手観音様が見てくれてる。と言われて、ピンとこなかったんです。 手がすごいあることは知っています。 私の厚い唇を神様もそんな感じの口してるから すごい神様見てくれてるって!私にぴったりだな!みたいなことを言われた気がします。 でもそれは見てくれている、のか守護神なのか、 なんなのか今になって気になってしまいました。 おじいちゃんは今少しボケつつあるので当時のことをあんまり覚えてないです。 その…生年月日で調べれる神様みたいなのは占いなんですかね…?? ご存知でしたら、無知な私に教えていただけたらと思います。
御寺の方から告知がありましたので、ご報告致します🙇 腕数珠を受けてある方に、お知らせです、 8年に一回 神座が一周いたします 3/21で腕数珠の四天王珠が少しずつ擦れに入りますので 御数珠の四天王を変えることを おすすめ致します 意味がわかりません。教えてください
悟りをひらくと輪廻転生しなくなると言われていますが、どうなるのでしょうか。私は俗世に未練があるようです。
こんにちは。いつも楽しく・癒されながら拝読しています。 先日、お彼岸という事で、久しぶりに祖父と祖母のお骨があるお墓にお墓参りに行ってきました。 祖父母のことは大好きで、亡くなって7年くらいたつ今でも家族団欒の席で祖父母の話が持ち上がります。 仕事が忙しくてなかなかお墓参りに行く機会は作れないのですが、お墓の前で手を合わせれば、「おじいちゃん、おばあちゃん、家ではこんなことがあったんだよ」とか、たまには「お母さんがお父さんの所為で滅茶苦茶ふてくされているのでどうにかしてください」とか願ってみたりします。なかなか無茶ぶりをしているかなと自分で思ったりもします(笑) さて、そんなお墓参りですが、このサイトや他のサイトを見ていて、ふと疑問が浮かびました。 宗派によっても異なるのかもしれませんが、亡くなってすぐ、(少なくとも祖父母の場合の7年より前には)ご先祖様は生まれ変わってしまって、もう元々の家族のことは忘れて違う人生を歩んでいるものだという考え方があるのを知りました。 それでは、お墓にいって何かを報告しても、報告しているつもりの相手はそこにいないのでは?と思うのですが、当然一方通行なのでしょうか? それに、私はお盆やお彼岸の機会でもお墓にお参りに行けない時は、せめて仏壇に手を合わせるのですが、その場合仏さまは仏壇とお墓を生きている人が手を合わせる都合に合わせて瞬間移動しなくてはならないのでは…!? 是非その仕組みがどうなっているか教えてください!
初めまして。 ふと疑問に思った事があり質問させていただきました。 宜しくお願いします。 "この世の中での苦行や学ぶことはもうない"とかたまに聞きますが、何をもってそう感じるのでしょうか。(他者がそう判断した場合、自分でそう感じた場合両方教えていただけると有り難いです) 苦行とは修行という事ですよね?人生で起こることは全て修行なんでしょうか。 私はこれまで波乱万丈まではいきませんが、普通ではない事も数多く経験してきました。 幼少時に性的虐待を受けた事や元夫が薬中毒でDVだった事、15才で売春を始め風俗で働くようになったこと等それも全て修行ということになるんでしょうか。 いずれこれまでの過ちや苦も何らかの役に立つのでしょうか。 大変失礼ですが、仏教に興味が湧き得度を考え始めている私は、少し疲れてしまっているんでしょうか。(転職活動がうまくいっていないのでそのせいなのかなと) 長くなりましたが、何方かお答えいただけますと幸いです。 カテゴリーがよくわからず間違えていたらすみません。
人が亡くなった後は、完全に無になるわけではなく なんらかの感覚(味覚・嗅覚等)が残ると聞いたことがあります。 肉体は失うものの、なにが残るのですか? また、人は死後に修業を重ねると聞いたことがありますが 具体的にどんな修行で、最終的に何を目指すものなんでしょうか? 教えてください、宜しくお願いいたします。
とある事情で実家に帰ることができず、檀家を探す上で宗派が分からず困っています。(実家の仏壇を見れば分かるのですが) 疑問に思っているのは、実家の檀家のお坊さんが祖母のお葬式の際のお経の中で、「開経偈・懺悔文・三帰・三竟・十善戒」「般若心経」「南無大師遍照金剛」を唱えるので、真言宗かと思ったのですが、最後に「南無阿弥陀仏」を繰り返していました。 檀家は高野山真言宗のお寺だったと思うのですが、とても田舎でそのお寺しかなかった・・・ということもあるのかもしれません。ご本尊は阿弥陀如来だったと記憶しています。 このような記憶ですが、宗派は分かりますでしょうか? また、今後「阿弥陀如来」をご本尊にして、真言宗のお寺に檀家をお願いするということもあっていいのでしょうか?
神社で肌守を購入したのですが、外では内ポケットに入れて肌身離さず持っているのですが、家ではどうすれば良いのでしょうか?デスクの上や棚の上に置いて良いのでしょうか?またお守りは神社の出張所の様なものと聞いたのですが、神社のお参りの様に、二礼二拍一礼をお守りにしても良いのでしょうか?宜しくお願いします。
新しいお守りを買おうと思っているのですが、古いお守りが沢山あるのですが、どのように処分すれば良いのでしょうか? 購入した神社やお寺に返すと良いとも聞いたのですが、購入した神社やお寺が遠方にあり難しいです。どうすれば良いのでしょうか?
悟りとは何でしょうか?
最近得心して、主人の家の宗派に入ることに決めました。 ついては以前も質問させていただいたのですが、生前戒名の件です。 お師さまは生前戒名はつけられないとのこと、ただしエンディングノ ートなどに書き残しておけば、出来るだけ希望に沿って名前をつけま しょう、とのことです。それはいいのですが、大姉を希望したら、余 程のことがないとつけられないと断られました。 実家の父方は居士に大姉、母方は院号に居士・大姉なので、ひとり信 女になるのに抵抗があります。主人は信士でもいいようですが、自分 の心をどうやって納得させればいいでしょう。よく戒名は金額の違い といいますが、お師さまはそのようなつもりではなさそうです。 総本山に問い合わせもしましたが、菩提寺に相談しなさいとしか言っ て下さいません。実家では先日も叔父が亡くなり信士を居士に替える ようお願いしていました。
明日、祖母の命日です。 祖母の家には明日は行けませんが、自分の家で手を合わせたいと思っています。(仏壇はありません) 祖母の家は浄土真宗で、私の父方の実家は曹洞宗です。(私は独身です) 亡くなった祖母の家の宗派で念仏をとなえるのか、自分の実家の宗派で念仏をとなえるのか このように考えること自体が間違っていることであるのかもと とても不安なのですが、教えていただければと思います。
わたしの家は真言宗大覚寺派の檀家ですが、私は興教大師さまを尊敬していて、朝のおつとめは、高野山真言宗のやり方です。これでもいいのでしようか。
仏陀はなぜほかに苦しんでいる者を助けるのですか? それから、仏陀はどのようにして無執着という教えからそれないで世界を救おうとしたのですか?
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
真言宗を信仰している祖母に、夫の胆嚢ポリープに悪性の可能性が出てきた。と相談したら千枚通しをもらいました。 南無大師遍照金剛と三回唱え、お願い事をいい、千枚通しを一枚お水で飲み、また南無大師遍照金剛と三回唱えなさい。と教えてもらいましたが、ネットで調べたところ手順が違うようで、どれが正しい頂き方か分かりません。 どうかお教えいただけたら嬉しいです。 よろしくお願い致します。
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?