現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
仏様が叱っても悪いとこが直らないやつはどうしようもないってことでしょか
いつもお世話になっております。 もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。 * 仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。 皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。 * ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、 慕い縋って生活している次第でございます。 * 私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが… 大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。 * でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。 * 私のやり方は間違っていますか。 どうかお教えいただきたく存じます。
去年のくれ、あるお坊様に 「途方もなく難しいからこそ願いを立てる、そして願いを成すために誓いを立てるのです。願いのないところに達成するための努力や自覚は生まれません。 」 と言ってもらい、 『衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 生きとし生けるものをすべて救うことを誓って願う- 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 無量の煩悩をすべて断つことを誓って願う- 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 無尽の法門をすべて学び智慧とするち誓って願う- 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) -無上の仏道を成すことを誓って願う-』 というお経を教えていただき、あれからたまにそのとき願った、自分の力で生きれるようになること、娘たちの幸せを願って写経してきました。 今の私、まだまだで先が永いですがあの頃よりは願いに近づいているだろうと思っています。 こちらのサイトのお陰です。ありがとうございます。 あれからなんと100円均一のお店で般若心境の写経セットを見つけて書いてみました。 どういう意味なんだろうと考えながらあまり理解できなかったけど、なんとか仕上げました。 長いので気力が要りますね。 疲れました。修行不足ですね(;_;)
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
5月末に、坐禅会に行くのですが、情けないのですが、何を尋ねようか考えあぐねています。 そのお方の坐禅会は、3ヶ月待ったもので、 決して少しでも無駄にしたくなく、有意義なものにしたいのです。それならば、大分前から考えられただろう!と思われると思いますが、 ある程度は、質問を纏めたのですが、いまいちパッとせず、煌めかないのです。 なぜ坐禅会に行こうと思ったかというと、随聞記に自分で正しいと思うところがあっても、 もっと正しいところがあるかも、しれぬ。広く師僧たちにも尋ね、先人の言葉なども調べてみるべきである。と書いてある事と、僕の師事している方も、色んな方に会って、尋ねるのがいいよ!と言った事です。 もう一つあって、今、思うところ、僕は、すぐに自惚れて得意になり一つの見解に落ちて、それで人や物を見て、聖や凡に振り分けていたけれども、そもそも何に気付いたかといえば、 鳴かぬカラスはなんとでも鳴く、鳴らぬ屁はなんとでも鳴る。 人に、カラスの鳴き声は、どんなもの?と、尋ねれば、人の数だけのカー!!が、あるでしょう。一人一人が鳴き声を思い浮かべ、それは異なります。カラスの鳴き声は、このようなものだ!と、持ち込んでも実際の鳴き声はその瞬間だけのものです。 過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という実際、僕らの有りように気付いたのに、後から頭で分別し、悟った立派な人と、悟らぬ凡夫という具合に分けていたのです。 今、私には凡人も別格の人もおらず、ただその人が見えます。誰にも鎖など、ついていません。既に救われております。 大海という土壌の上に波が立ち、風という縁で波という僕らが生まれて、やがて波の一つ一つも大海という仏に還る、といった具合に考えていたけれども、それは大間違いで、 僕らは初めから、波などではなく、大海どころではなく、どこまでも際限のない無限の広がりそのものであり、陽光が照らす花そのものだった。 宇宙に比べて人間は、ちっぽけである。と人は言うが、あなたが宇宙そのものだとしたら、どうか?今から目指して成るのではなくすでにそうなってあるのだと、今、世界中で起こっている争いに限らず、僕らの苦しみが、世界中のいわゆる悲劇は、ほんの些細な勘違いによるものだとしたら、なんと悲しく哀れに思う。自惚れているかもしれませんが、僕は、仏法以外に人の世が、救われる方法は、ないと思います
いつもお世話になります。 般若心経について質問させていただきます。 先日、いつもお世話になってるお寺で般若心経の経典をいただき般若心経を唱えているのですが、一つ引っかかる点が出てきました。霊能者やその類の人が言うには、般若心経には、悪霊や無縁仏の霊を寄せ付ける力があるので、僧侶でないものが唱えるのは危ないと言ってる人がいます。正直こんなことを言う人がいるとやりづらいです。どうしたらいいでしょうか?
実家の菩提寺が先祖代々浄土宗です。教義を理解していないのですが、父や伯父の葬儀のときに、心のこもった美しいお経を、長時間にわたり、読んでいただいたことがとってもありがたく、気持ちが救われました。 最近『うちのお寺は浄土宗』という本を読んでいて、次は、浄土三部経か選択本願念仏集について書かれたものを読んでみたいと思っています。どちらを先に読んだら良いでしょうか?この著者のものがいい、その前にこれを読んだ方がいいといったおすすめはありますか? 「浄土宗」や「浄土宗 本」でhasunoha の問答の検索をしてみたのですが、同じような問答は見当たらなかったので、質問させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?
いつもお世話になっております。私は 去年から千手観音さまのお札を拝ませていただいております。そこで、質問なのですが、数珠を手にして拝むと言うのは、間違いでしょうか? 一応お寺のお札なので、 あと お札の両脇に榊をお供えしてます。やはり 榊ではなく、お花がいいでしょうか?
連日の投稿を失礼いたします。 「写経」という言葉がありますね。 平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。 これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。 ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、 当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか? それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。 何故なら、お経は唱えるものです。 サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、 それが日本に来たからです。 純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。 なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。 # あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。 # 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。 # 軽んじているわけでは、決してありません。 仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。 なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
何処に行けば仏教を教えていただけますか? お金は無いです。
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
いつも ご相談に真剣に答えてもらえて ありがとうございます✨ 体調も、良くなりつつあり 悲観的、批判的にならないように静養中なんですが 先ほど 僕の母が信仰している宗教(僕も一応いますが)で 僕のやっているFacebookに会社の批判や色々書いてるのと、問い詰められ 僕は、批判的な事も書いてないし ただ僕の病気の経過や仕事に迷惑かけるから転職しようかな とか、ネガティブなブログを書いてましたが 病状も良くなり、少しずつ好きな事の話を書いたり 友人に逢った話をブログにしてたのに、 以前 ご相談させて頂いた 僕の宗教の僧侶さんが、また僕がブログに会社の悪口や上司の批判的な事を書いていると母に言ったらしく 母は、勘違いしてるのか知らないですが、僧侶の◯◯さんが心配しているとか 僕のFacebookを批判してきて 僕は、寂しく悲しい気持ちになりました 確かに、なんでもかんでも書いたりしたら色々な方々見るからに、いけないのかも知れませんが、Facebookで知り合った人に勇気や元気 励ましを受けたり 小中学校の久々に、逢えたり懐かしの人達とも交流が持てたり Facebookも、使い方次第で良いコミュニケーションツールにでもなると思うのですが 僕の考え方間違えてますか? 仕事も出来ない まともに遊びに行けない 情緒不安定な今の僕には、ハスノハと同じ位 居心地良い場所に今では、なっています 会社の上司や一部同僚も僕がFacebookやっているの知っています。 長文 乱文で失礼しました
心を落ち着かせるためにも、最近周りでも話題の座禅を組んでみたいと思います。 ですが、私は足に障害があり、畳の上などに座ることが出来ません。正座も胡座もかくことは不可能です。その場合に同様な行為をするにはどうしたら良いでしょうか?体験で座禅、というお寺も何件かはあるのですが…。写経もやはり正座して行うのでしょうか?
いつもお世話になります。 昨年 真言宗のお寺で護摩焚きをした際 祈祷札を授かりました。このお札の裏側には焦げ目のような汚れが、ありました。これは、お札を護摩焚きの火で炙ってるのでしょうか?
自分自身の考えに限界を感じています。 人生的な考えであって、哲学書などを読みふけっています。 ただ、仏陀の教えに関して詳しく書いている書物を読もうとしても どうしてもその介錯が何か仏陀の教えと言えるものは違うことのように解釈をしている翻訳家が多いように感じます。 仏門を修めている方にその辺りを詳しく書いている本や、自分は仏教や仏陀の教えをこうして学びました、というものがあれば教えていただけるでしょうか。 よろしくお願いします。
特別信仰心が強い訳ではありませんが、お墓は天台宗のお寺にあります。 人が亡くなったら1周忌迄はどのような道のりを歩んでいくのでしょうか? 49日迄は家に居るときいたことがあるのですが、実際天台宗だと亡くなり通夜、葬儀その後をどうゆう経過を辿るとされているのか教えてください。
たびたび神経質で奇妙な質問、申し訳ありません。 仏様と身近になりたくて、「懐中仏」をいただきました。 (また旅行先等での勤行を行なうため) お不動様と三面大黒天様です。 こちらにも開眼をしたいと思っております。 自宅の祭壇にお祀りしているお不動様は同じ町にあるお寺で開眼していただいたので、同じお寺にお願いしようと思っております。 ところが祭壇の大黒様は、(開眼済みの仏像を通販でいただいたため)非常に遠方のお寺で開眼をしていただきました。 お不動様をお願いしたお寺様では「うちでも大黒様の開眼はできます」と言っていただいているのですが、お願いしてしまっても良いのでしょうか? (ややこしいことに宗派も違います) それともやはり、祭壇にお祀りしている本命の大黒様を開眼していただいた遠方のお寺に、多少無理をしてでも行って、こちらで開眼すべきなのでしょうか? とある人の忠告では、「お寺とのご縁があるので、同じ仏様でも何から何まで同じに考えてはいけない。またお寺との義理もあるでしょう」とのことでした。 こうした場合、どうすべきでしょうか。 アドバイスいただけましたら幸いです。