悟りを開いても倫理観を持てるのは何故でしょうか?
中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。
この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。
人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。
まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。
しかし中論では
「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」
とします。
要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、
自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか?
(私はそうは思いません)
自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。
何卒よろしく御願い致します。
有り難し 13
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