先日、母が交通事故に遭い、京都の薬師如来様をお祀りしているお寺で祈祷していただきました。以前から疑問に思っていたのですが、神社は二礼二柏手一礼と知っていますが、お寺は同じではないのでは?と思いました。そもそも神道と仏教という事点で違いますよね?お寺の正しい参り方をお教えいただけませんでしょうか、また母の見舞いに行ったとき、すがる思いで薬師如来様の真言唱えているのですが、厳しい修行を積んだお坊さんでもないのに口にしていいものでしょうか。いろいろと無知で申し訳ありません。
度々、申し訳ありません。 私は以前、禅宗のお坊様から教えて頂いた「十句観音経」という短いお経を、例えば恐怖を感じた時や落ち込むような事があった時に、心の中でとなえています。お守りのようにしています。 では、ものすごい怒りで心がいっぱいになってしまった時に、平常心に戻る為に心の中でお唱えできる短いお経やご真言がありましたら教えて頂けないでしょうか。 できましたらそのお経やご真言の意味も教えて頂けると、大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
真言宗の僧侶以外の人が真言を唱えてもいいんですか?
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。 挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。 私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか? また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか? また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。
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私は家族全員と親戚の叔父、叔母からも虐待を受けて育ちました。ネグレクトや暴力をうけました。 虐待加害者も虐待被害者も亡くなったら、同じ場所に行くのでしょうか? 御釈迦様や観音様は虐待被害者にも優しくなさるのでしょうか? 申し訳ありませんが教えてくださいませ。
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 今まで日和を気にしたことはあまりなかったのですが、子どもが生まれてから少し気になるようになりました。 というのも、長女が生まれた日は仏滅、次女が生まれた日は赤口でした。二人とも日が悪く、気の持ちようかもしれませんが、少し気になっているので、お坊さんからのアドバイスをいただけるとありがたいです。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
仏様が叱っても悪いとこが直らないやつはどうしようもないってことでしょか
いつもお世話になっております。 もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。 * 仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。 皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。 * ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、 慕い縋って生活している次第でございます。 * 私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが… 大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。 * でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。 * 私のやり方は間違っていますか。 どうかお教えいただきたく存じます。
去年のくれ、あるお坊様に 「途方もなく難しいからこそ願いを立てる、そして願いを成すために誓いを立てるのです。願いのないところに達成するための努力や自覚は生まれません。 」 と言ってもらい、 『衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 生きとし生けるものをすべて救うことを誓って願う- 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 無量の煩悩をすべて断つことを誓って願う- 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 無尽の法門をすべて学び智慧とするち誓って願う- 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) -無上の仏道を成すことを誓って願う-』 というお経を教えていただき、あれからたまにそのとき願った、自分の力で生きれるようになること、娘たちの幸せを願って写経してきました。 今の私、まだまだで先が永いですがあの頃よりは願いに近づいているだろうと思っています。 こちらのサイトのお陰です。ありがとうございます。 あれからなんと100円均一のお店で般若心境の写経セットを見つけて書いてみました。 どういう意味なんだろうと考えながらあまり理解できなかったけど、なんとか仕上げました。 長いので気力が要りますね。 疲れました。修行不足ですね(;_;)
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
5月末に、坐禅会に行くのですが、情けないのですが、何を尋ねようか考えあぐねています。 そのお方の坐禅会は、3ヶ月待ったもので、 決して少しでも無駄にしたくなく、有意義なものにしたいのです。それならば、大分前から考えられただろう!と思われると思いますが、 ある程度は、質問を纏めたのですが、いまいちパッとせず、煌めかないのです。 なぜ坐禅会に行こうと思ったかというと、随聞記に自分で正しいと思うところがあっても、 もっと正しいところがあるかも、しれぬ。広く師僧たちにも尋ね、先人の言葉なども調べてみるべきである。と書いてある事と、僕の師事している方も、色んな方に会って、尋ねるのがいいよ!と言った事です。 もう一つあって、今、思うところ、僕は、すぐに自惚れて得意になり一つの見解に落ちて、それで人や物を見て、聖や凡に振り分けていたけれども、そもそも何に気付いたかといえば、 鳴かぬカラスはなんとでも鳴く、鳴らぬ屁はなんとでも鳴る。 人に、カラスの鳴き声は、どんなもの?と、尋ねれば、人の数だけのカー!!が、あるでしょう。一人一人が鳴き声を思い浮かべ、それは異なります。カラスの鳴き声は、このようなものだ!と、持ち込んでも実際の鳴き声はその瞬間だけのものです。 過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という実際、僕らの有りように気付いたのに、後から頭で分別し、悟った立派な人と、悟らぬ凡夫という具合に分けていたのです。 今、私には凡人も別格の人もおらず、ただその人が見えます。誰にも鎖など、ついていません。既に救われております。 大海という土壌の上に波が立ち、風という縁で波という僕らが生まれて、やがて波の一つ一つも大海という仏に還る、といった具合に考えていたけれども、それは大間違いで、 僕らは初めから、波などではなく、大海どころではなく、どこまでも際限のない無限の広がりそのものであり、陽光が照らす花そのものだった。 宇宙に比べて人間は、ちっぽけである。と人は言うが、あなたが宇宙そのものだとしたら、どうか?今から目指して成るのではなくすでにそうなってあるのだと、今、世界中で起こっている争いに限らず、僕らの苦しみが、世界中のいわゆる悲劇は、ほんの些細な勘違いによるものだとしたら、なんと悲しく哀れに思う。自惚れているかもしれませんが、僕は、仏法以外に人の世が、救われる方法は、ないと思います
いつもお世話になります。 般若心経について質問させていただきます。 先日、いつもお世話になってるお寺で般若心経の経典をいただき般若心経を唱えているのですが、一つ引っかかる点が出てきました。霊能者やその類の人が言うには、般若心経には、悪霊や無縁仏の霊を寄せ付ける力があるので、僧侶でないものが唱えるのは危ないと言ってる人がいます。正直こんなことを言う人がいるとやりづらいです。どうしたらいいでしょうか?
実家の菩提寺が先祖代々浄土宗です。教義を理解していないのですが、父や伯父の葬儀のときに、心のこもった美しいお経を、長時間にわたり、読んでいただいたことがとってもありがたく、気持ちが救われました。 最近『うちのお寺は浄土宗』という本を読んでいて、次は、浄土三部経か選択本願念仏集について書かれたものを読んでみたいと思っています。どちらを先に読んだら良いでしょうか?この著者のものがいい、その前にこれを読んだ方がいいといったおすすめはありますか? 「浄土宗」や「浄土宗 本」でhasunoha の問答の検索をしてみたのですが、同じような問答は見当たらなかったので、質問させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?