いつもお世話になっております。 先ほど位牌を壊してしまったと質問した者です。 * 私たち浄土宗檀信徒は、 「念仏信徒のところには阿弥陀如来が25菩薩を従えて臨終の夕べに迎えに来てくださり、次の瞬間には極楽の蓮の上に『不退転の菩薩』として生まれ変わらせてくださる。」と教わっています。 * これはつまり、 「生前どんなにひねくれていても、意地悪だった人も、極楽に往生すれば慈悲深い性格になる」 「鏡でもって生前の行いを全て見せられた後、意地悪や虐待を心から深く反省、懺悔、後悔し、優しい菩薩さま、仏さまになる」 ということで間違いありませんでしょうか? * ですが、どうしても私は法的かつ生物学的な親たちを好きになることができません。毎年お盆が来るたびに同じことを考えてしまうことが想定されます。何度位牌を作り直しても意味はないでしょう… どうかご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 単刀直入に申し上げます。毒親の位牌焼きましたっ!スミマセン!! 迎え火に投げ込んだら、ジジイの方は融けて真っ二つ、ババァの方は表面塗装が剥げました。 ✳︎ もう一つ、バブルの夢にどっぷり浸って威張り散らしていたジジババへの仕返しとして、 今日は現場のトイレをいつもの倍本気だして掃除してやりました。おまけに電車の中でお子さんのお守りもしてやりました! 仏様を信仰していたと思いきや実際は祟り信仰、根本教義である慈悲利他に真っ向から刃向かって、近所の皆さん、店子さんや道端の人に平気で迷惑かけたりdisったり、その上八方美人な両親への、今までできなかった最高の反抗です!! ✳︎ 私の心もスッキリ!晴れ晴れしました。 と、ここまではいいんですが、これって立派な悪心出仏血罪ですよね? 過去にも苦しんでた時期に阿弥陀様のお像の手足を折ってしまっています…。反省してますが。 ✳︎ 大丈夫ですよね?地獄落ちませんよね? くだらない質問とバカなことして本当にごめんなさい…でもこうでもしないと収まらないんです。 ここでも以前にこの手の質問をしましたが…やっぱり私に先祖供養は難しいというか、無理です! ✳︎ こんな私でも、阿弥陀様は極楽へ連れて行ってくれますか?教えて下さい、お願いします…
いつもお世話になっております。 ネットで地獄絵図を見ていたら 地獄の中に白い観音様が立ってるものを見つけたのですが、これは、観音様が地獄に来て亡者を助けるという意味があるのでしょうか?
托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
お坊さん自身がご自身が好きな仏様がおられたら教えて下さい。また理由があれば教えて下さい。 題が自分にぴったりの仏様という題ですが ぴったりというのは受験や仕事など目的に向かってというのもあります。 何か分からないけどご縁? かも知れないものがあるような感じがします。
坐禅をなさる宗派のお坊さんは1日にどの位、坐るのでしょうか? また、接心の間は辛くはないでしょうか? 素朴な質問ですみません。 よろしくお願いします。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
お遍路巡礼してますが、本堂と大師堂がありますが、両方とも般若心経唱えるものなのですか?大師堂には弘法大師のお姿が見えるお寺もあって、私は弘法大師の優しいお顔をじっと見て、心の中にある邪気とかお願い事をつぶやいてますが、これではダメなのでしょうか?巡礼してる人それぞれ違ってて、私はこれでいいのかな?と、思うところがあります。もちろん、ロウソクとお線香は立ててますが…。
初めまして、私はタイ国からです。早速ですが、ご質問いたします。和尚という言葉がよく理解できませんので 意味を教えていただきたいと思います。因みに、お坊さんと和尚には同じ意味ですか? 日本語はまだ十分ではありませんので ご遠慮なく、どんどん教えて下さい。
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
宗教のあり方について 私は祖母の代から仏教を信仰しており、 団体にも所属し、毎日お経をあげたり、 イベントなどに参加してきました。 友達や周りの人には進めたりしておらず (所属していることも誰も知りません) 誰にも迷惑をかけずにやってきており、 小さい頃からの習慣でしたので 今迄宗教に対して嫌悪感はありませんでした。 最近その宗教のイベントがありました。 イベントの開始が早い時間だったので、早起きが 必須なのですが前日仕事だったこともあり 正直もっと寝ていたいと思いました。 でもそれと同時に、 参加しないと悪いことが起きるんじゃないか という気持ちが湧いてきました。 今迄には感じたことのない気持ちで、 すごく驚き、嫌悪感を感じました。 結果その日は参加するのをやめました。 その日の夜に自分自身のことで悪いことが起きました。 すると、今日参加しなかったから悪いことが起きたんだと勝手に心が感じたのです。 思い返すと、お経とあげたりイベントに参加すると いいことがある。と大人たちに言われてきていたので 逆に参加しないと悪いことが起こると自分の中で 心の仕組みができていたんだと思います。 それからというものの、宗教に対する強迫観念がすごく、いいこと悪いことどちらがおきても結びつけてしまいます。 生まれてから当たり前にやってきた宗教活動が すごく怖く感じています。 自分はこの先宗教とどう向き合っていけば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
仕事で落ち葉の掃き掃除をする時に、小さな虫やアリが落ち葉についていています。 仏教でも、生き物を殺すのはいけないことと聞きますし、そのまま掃いてしまうのがいけない気がして、虫を見つけては取り除き、、としていました。 しかし、なかなか掃除が進みませんし、他の同僚たちの目も気になり、どうすれば良いかわからなくなりました。 ゴミ袋に入れた落ち葉の中に、間違えて虫も入れたのではないかという不安で、仕事中も考えたり、人の目を盗んで手を合わせて虫に謝ったりしています。 掃除をするのが怖いです。どのような気持ちで、どのように掃除をしたらよいのでしょうか。 よろしくお願いします。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。
心の眼で見るとは、どういうことなのでしょう。どうすれば見ることが出来るのでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
職場で、感謝の気持ちを込めて手を合わせて 「ありがとうございます」 を伝えていたところ、 私、仏様じゃないんだけど!!! と二人の方に別々に注意されてしまいました。 勿論、誤解されてまでその方たちに行おうとは思いませんが、 一般的にその様な合掌は正しくないのでしょうか。 インターネットで検索しても、 外国の人が間違ってしてしまっているおかしな日本の文化だ! 若い人がするのを見るとイラっとする! 等あまりよく思われていないようです。 私にとっては、お寺さんやお墓、仏様で手を合わせることも、 いつもご先祖様や私たちを守ってくれている仏様やご先祖様達へ感謝と尊敬の気持ちで行なっていましたし、 ご飯のいただきますの合掌も、 食材や食卓に並ぶまでの多くの人たち、 食事を頂けるということへの感謝と尊敬の念を込めてすると教わり、 そうした気持ちで手を合わせてきました。 お坊様の丁寧なお辞儀と手を合わせたありがとうございます、の仕草が暖かさを感じ好きだったこともあります。 いつの頃からか、 ありがとう感謝します、有難いことです。 を伝えるジェスチャーとして、度々使っていたため、 ちょっとショックでした。 合掌のそのような使い方は正しくないのでしょうか? お坊様のそうした合掌とはまた違ったものなのでしょうか? 本来、合掌の意味とはどんなことなのでしょうか?
自死で子供に先立たれた親です。 いのちの集いに参加したい気持ちがありますが、仏教でも宗派には拘らずに出向いていいものでしょうか? 私自身それほど仏教に詳しいわけでもないのですが。 気になりましたので、一応質問させていただきました。 ご回答いただけると助かります。
梵我一如と入我我入の違いってなんですか?
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47