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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

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もう少しお坊さんとの会話が欲しい

今まで全く宗教とは無縁だった訳ではなくごく普通のかと思いますがいつも法事などでお寺に行ってもお坊さんの説法を短時間聞くのみでいろんな宗教的な悩みなど聞いてもらえる場所がなかったです。 普段は特別故意にしているお寺がある訳でもなくただお参りして帰ってくるのみで、何かの節目があれば特別にお祓いなどしてもらうだけです。 もっと気軽にお坊さんと宗教の話ができる機会ができる場所はないのでしょうか? ただ新興宗教のような信仰の亡者にはなりたくなく、普段仏壇にお参りするだけではなくもっと生活の中に溶け込んだ宗教が欲しいです。 それともっといろんな宗派がありますがその教えを一方的に説法などで聞くだけではなく質問や詳しい話を聞きたい場所を提供して欲しいといつも思っていますがなかなかそのような機会や場所はないです。 実際の所、先祖や親がやっていたので自分も同じ宗派と言われてもどうして良いか全くわからずじまいです。 例えばお経一つとっても何を言っているのかさっぱりわかりません、他宗派のは意味はわからなくても言葉はわかるのもあります。 あなたの修行が足りないと言われても修行の仕方すら誰も教えてもらえないです。 般若心経は解説等たくさんありますがそのほか話目にすることはありません。 もう少し誰にでも平易にわかりやすく教えてもらいたいといつも思っていますが。 日本の仏教界はこんなものなのでしょうか? お坊さん忙しいのでそんな暇はないのでしょうか?

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仏教徒に対する疑問パート3

お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね  それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです  それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし  釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか  釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし  出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか  それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです  それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで  究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして

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輪廻転生について

 こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。  立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。  日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。  そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。  このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。

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縁起論争

上山春平・梶山雄一編  「仏教の思想 その原型をさぐる」 より  縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。  原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。

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死んだ猫の供養について仏教の考え方は違う?

ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?

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