お釈迦様が本当にいらっしゃっるのなら、いつまで苦しめば良いのですか? 私、何か悪い事をしたの? 悪い事をしたなら謝るから死なせて
お寺さんで働きたいです。出家希望ではなく、厚かましいのは重々、承知していますが、お給料発生で働きたいです。 お料理は食べられるものは作れます。掃除、洗濯、致します。他にもお申し付けいただければ、できる言葉致します。 働けるお寺さん、ございますでしょうか?
なんで仏様って皆様似たような髪型なんですか?
私には生きる意味がほぼありません。 弟が重度の自閉症の為、親はそちらにかかりきり、寧ろストレスの捌け口なのか何なのか暴力を受けて育ちました。身内からはそのような調子で、他人には変な奴の家族という目で見られ、陰口を言われたり石を投げられたり陥れられたりという幼少期でした。私に味方は誰一人いませんでした。 友達もいない、自分を好きでいてくれる人も誰もいない。 何なら話をする人も誰もいない。 成長して体つきが女性になると、弟は風呂を覗いて来たり私の服を着ようとしたり、体を触りたがったりした。親に訴えても笑われて終わり。最終的には体を触らせてやれないような優しくないやつはすぐ出て行けと家を追い出された。 それでも都合よく使いたい時は親だぞと偉そうにすり寄ってくる。 子供に金をかけたら親だといって威張れるものなのか、物扱いしてサンドバッグにして、でも産んで食べさせたらそれだけで偉いのか。 子供の頃はそれでもいつか誰か判ってくれると思えた。 いつか唯一人で良い、愛してくれる人に出会える。 愛されるというのはどんな気持ちなのだろう。 そうしたら幸せな家庭を築いて、私も思い切り愛するのだと。 成長して知識がつけばつくほど、世間を知れば知るほど希望は枯れた。 自閉症は遺伝する可能性がある。 こんな血を持った私は、正常な子供を産めない私は結婚はできない。 よしんばできたとしても、相手の家族に心から祝福はされない。 何より弟も問題だが親も問題で、弟を甘やかす事しか考えておらず自閉症なんだから仕方ない、周りが配慮すべきという迷惑な考えしか持てていない。 結婚するという事は家が繋がるという事。 好きになった人に、こんな家族と親戚になるという苦行は強いられない。 それでもなんとなく生きて、だから人と積極的に関わる事もしてこなくて、ただ食べる為だけに働いて、こんな調子だからどこで働いても同僚ともうまくやれなくて、孤立しながらも朝目が覚めるから生きてる。 大切な人が誰もいない。友人もいない。 それでも生きてるのは猫を飼ってるから。 私がいないと生きられない命を大切に守るのが今生きている意味。 この子は私より先に死ぬ。そうしたら私も死ぬ。 ただ自殺は死後苦しませられると聞いたことがありますが本当でしょうか? 一人きりで虐げられながら生きる苦しみと、死後の苦しみとどちらがマシでしょうか?
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
こんにちわ、またまたご相談です。 現在、私は引きこもりのような生活をしています。理由としては人間関係で色々とあって、精神的にも疲れきってしまい人と関わるのが怖くなったからです。 親に「外に出ろ」と言われますが、私は何かを強制されるのが嫌いな部分があるので反発してよく喧嘩を起こしてしまいます。 今は落ち着いてきており、私もいけなかった部分があるんだろうなと思うようになってきました。だけど、そのせいなのか、前にご相談した通り自分の嫌な所ばかり思うかんで自己嫌悪に落ち込んだり、マイナス思考に落ち込んだりしています。 今度は地獄の次には輪廻転生について恐ろしく感じる様になりました。 もし来世があるとしたら正直に言ってもうこの世には生まれたくないという気分になっております。 昔にもそんな事を考えた事があって、死を怖がったり生まれ変わりがあるのなら動物になるのも虫になるのも嫌だなと思った事があり、人の事は言えませんが人間に酷い目にあわされている動物を見て気分が悪くなって、こんな目に合うのは嫌!怖い!と思ったりしました。 生まれ変わるのなら人間が一番いいと言われてますが、人間だって必ずしも平穏な環境で生まれるとは限らないし、人間同士だって諍いがあるし、人を人だと思わないような人間だっていますし。 転生してしまえば記憶がなくなって別人になると言われてますが、それも正直に言って怖い。今いる自分自身が消えてしまうと考えるととても怖くて仕方ない。 地獄も怖いけれど、転生も怖い。 今まで他人事のように感じていた物が急に恐ろしくなり、だからもし、死後の世界があるとしたら、転生などせずただ穏やかでありつづけたいと思い、本当に自分勝手だと思いますが、もし本当にお釈迦様がいるのなら、もう、この世に輪廻させないでください。苦しいのも怖いのも痛いの嫌です。自分が消えてしまうのが怖いですと言いたい気分になりました。 自分の人生の中には楽しい事もありましたし、生きていれば考え方など変わると思いますが、今はこういう考えをしてしまい気力が削れ恐怖心でいっぱいになったりします。 前に進まないといけないのに、前に進むのが怖くて仕方のない状態で自分の身勝手さになんだかなと思い、こう考えるのに何の意味があるのでしょうか。 私はなんで生まれて来たのかと悩みばっか思い浮かんでしまいます。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
また、ご質問すいません。 前にアドバイスされた通り、祖父母の仏壇にお線香を供え、子供の頃のやらかしや失敗などを手を合わせながら「ごめんなさい」と謝ったりしました。 だけど、また自分の嫌な所ばかり思い出し今度は自分の死後の心配をするようになってきました。 まだ、二十代の小娘ですが、正直に言って地獄が怖いです。 子供の頃に子供特有の残酷さと好奇心で生き物を死なせたり世話をしないで死なせてしまった貰い物のカブト虫の事を思い出したり、謝れなかった事、嘘を付いたり間違いを犯したり人を馬鹿にしたり傷つけたり、悪口や心の中で悪態をつたいり、とんでもない事を考えたり、借りた物を返さなかったりと本当に悪い事をしてきたと思うようになったりしました こっぴどく叱られたり、私自身も嫌な思いをしたり物を返してもらえなかった事もありますし、人の役に立とうとしたり良い事もした事もあると思います。 でも、自分の悪い所を思い出しその後に地獄を思い出して怖くなってきました。 昔絵や絵本で見た地獄を本当に怖がり悪い事をしたら地獄に落とされるという事に怯えていた記憶があったと思うのに、でも、大きくなってそういった感覚が薄れていき人の死に対して無関心な部分が出てきたり地獄を題材としてを扱った漫画やアニメを見てもフィクションだと思って受け流す事もありましたが地獄に行った人が鬼に身体を斬られたり責め具を受けているのを見て怖くなって目を背けた事もあります。 それらを思い出し、また罪悪感が蘇り私が死んだ後に地獄に行く事になったら・・と考えたらとても怖くなり、しかも、本やネットでは相当長い年月を罰で苦しむと書かれていたので本当に怖いです。 正直に言って地獄に行きたくありません。むしろ幽霊になってずっと現世に留まっていた方がいいんじゃ・・でも、それはそれでどうなんだ?と思考がぐるぐるとまわりました。 自分勝手だと思いますが、生前の罪を償う為とはいえ死後も痛い思いや苦しい思いをするのが嫌でたまりません。 違う事も考えようとしましたが、結局また思い出して時に心の中で絶叫したり誰か助けてと思う事もありました。 楽しいと思える事も怖く感じる時もありこの思考を止めるには一体どうすればいいでしょうか?これらの事を思い出すのは何か意味があるのでしょうか? 地獄に落ちないようにするにはどうすればいいでしょうか?
先程の質問ではたくさんのご回答ありがとうございます。ひとつひとつ読ませていただきました。 私が経験したのが「悟り」であったかはさておき、お釈迦様への敬意は揺るぎないものとなり、さらなる修行を積む決意はできました。そこでお聞きしたいのが、「完全な悟りを得るためには具体的に何をすればよいのか」ということです。 無教養なので瞑想以外に修行方法を知らず、経典もさっぱりわかりません。 ご教授願います。
仏教は肉や魚などを食べてはいけないと聞きましたが、食事内容は米や野菜のみで構成されているんですか?
(こちらの質問は利用規約にもとづき一部編集しています) 僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました でも僕はそれをボーっと見てるんです 意識があるのかないのかもわからず 善悪の価値観があるのかないのかもわからず 自分であるのかないのかもわからず ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました そして瞑想やヨガのルーツを探ると ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?
何度も質問失礼いたします。 私は現在、毎朝念仏(浄土真宗の勤行)をしているのですが、最近座禅も少し始めるようになりました(座禅会に参加したことがあり、座り方はある程度心得ています)。念仏すると心がすっきりして良い気分になりますし、座禅をすると翌朝の目覚めがすっきりして、健康に良いように思います。 そこで質問なのですが、念仏と座禅は両方行っても構わないものなのでしょうか? それぞれの宗派の教えを勉強すると、念仏か座禅どちらかしか行わないようなので、両方やってもいいのか疑問に思い質問させて頂きました。 どうぞよろしくお願いいたします。
自力の念仏では阿弥陀さまは救ってくださいませんか?
教えてください。 般若心経読んでみました。 つまり般若心経は。 リラックスしようよ。 あなたが思っているようなことは 何も起こらないよ。 感情は浮かんでは消え川のように流れ、 大海に流れていく。 そして、 あなたは大海そのものだから、 決して溺れることも沈むこともない。 だから身を委ねてマントラ?を唱えましょう。 みたいなことですよね? 全てはひとつ。(ワンネス) と言っていても、 色と空は一つにできない って書いてありますよね。 そこらへんがわからない。 色と空がさっぱりなんですが、 そんなに深く考えなくてもいいところでしょうか?
浄土真宗勤行聖典を入手したんですが、お勤めで読み上げる部分がよくわかりません。ネットで探しても人によって違う… 三帰依文→正信偈→和讃→讃仏偈→重誓偈→十二礼→意訳勤行→阿弥陀経→御文章の順番でいいですか?
極楽に往生したのち、この世に戻ってきて衆生を教化する、とはどういう意味ですか?目に見えない形で戻ってくるのか、それとも人間として戻ってくるんですか?
こんにちは、 般若心経について詳しく知りたいです。 オススメのわかりやすい書籍などを教えてください。 いろいろと自分で読んで見たのですが、 基礎知識?がないとわからないことばかりで 正しくきちんと理解したいです。 一体どこから踏み入れれば、般若心経を 正しく理解を深められるのでしょうか。 私のいまの知識は 般若心経とは、 御釈迦様?の優秀な弟子が作ったもので その弟子の後輩に対して渡した、 「悟りっていうのはこんなことだよ。」的な要約レポートだと思っていて、 (これすら間違ってたらすみません。) ほんと、へんな知識しかないです。 中身が難しい。 この優秀なお弟子さん?もなんだか正体つかめないし、 般若心経は仏教上級者向けですか? ご回答よろしくお願いします
我が家は浄土真宗なのですが、最近お笑い芸人さんが般若心経について書いた本を読んで、般若心経に興味を持ち写経とかも、余計な事を考えないように、心を落ち着かせて集中するのには良さそうだな、、と思っていたのですが、 恥ずかしながら仏教のルール(?)を全然理解しておらず、浄土真宗では般若心経は唱えないと知ったのがほんのつい最近でした。普通に曽祖母の仏壇の前で般若心経を音読していた事もあったので、しまった!!と思いました。浄土真宗では何のお経がベストでしょうか?曽祖母のために読みたいなと思うのです。 色々仏教についてネットで調べているうちに真言(マントラ)というものも知り、これについても素人が唱えるのはやめましょうとか、出来れば唱えた方がいいとかネットの情報が錯綜していて、理解するのが難しかったです。 例えば我が家で言えば、御守本尊の一覧を見ると、私と父は阿弥陀如来様で一緒なのですが、母だけ不動明王様だったり、 そうなると、我が家は浄土真宗で私と父は御守本尊が阿弥陀如来様だから、真言も阿弥陀如来様の真言のみしか言わない方がいいのかな。 とか、でもブレない強い気持ちを持ちたいので、不動明王様の真言を唱えてみたい気持ちがあるのですが、それを私がすると良くないことなのか、、など、ネットの情報だと何が正しいのか分からなく、 本当に何も分かっていない自分が恥ずかしいのですが、こちらに質問させて頂きました。 それからせっかくお経や真言を唱えるにあたり、何か作法というか、これだけは、、というルールがあれば教えて頂きたいです。 あるサイトで○○の真言を唱える時は手をこのようにしましょう。とか祈り方まで書いてあったのですが、、ただ手を合わせる形じゃいけないものなのかな?と気になったので。 もっと仏教について色々知りたいです。 このサイトで色々読ませて頂けるのが楽しいです。 宜しくお願い致します。
何回かここで悩み相談をさせて頂いている者です。 厳しいながらも温かいお言葉を頂いて自分に決心がつき覚悟を持ってことに臨んでいきたいと思っています。 今回は悩みというより疑問に感じたことがあります。 過去の質問を見てい頂けると分かるのですが、私の母は、結婚に反対しており、彼女やそのご両親が合わないと感じ、後々私が苦労するだろうと直感し、ある仏教の信徒さんに相談しに行ったそうです。 信徒さん(母が言うには、神様のお告げ)の答えが母自身が感じてた通りの答えとなり、この結婚をないことにするためには、私と彼女が喧嘩別れをするのが良いと助言されたそうです。 神様のお告げの割には随分乱暴な助言だと思いました。話を聞くうちにその信徒さんは、真言宗の方らしいです。 真言宗には、十善戒という戒律があると知りました。その中で"不両舌:他人を仲違いさせない"という教えがありました。 私は、宗教の教えには疎いのですが、その教えを受けている筈の信徒さんがどうして十善戒の戒律に反するような助言を母にしたのか疑問に感じました。決して真言宗の方を批判するわけではないので誤解されないでください。 もしかすると何か本当の意味があるのかとも思いました。出家されていない信徒さんは、未来が見えたり、神様のお告げ聞けたり、相談に乗るということをするものなのでしょうか?
浄土真宗には五戒、十善戒が存在しないのですか?