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「死について」を含む問答(Q&A)一覧

ひき殺しても尚

私の父親は、今71歳。最近、運転免許証の更新に行きました。 ゴールド免許です。 でも、父は64歳の時、仕事中に50代の女性をひき殺した過去があります。 法律上、父のせいではない、その女性が飛び出したのが事故死の原因である、ということに。 しかし、私にはどうしても父の心が分かりません。 父は悪くなかったのかも知れません、でも、1人の尊い命が失われたのは事実なのです。 それでも、今回は70歳を越えていましたので、高齢者の講習を受け、見事合格し、新しい免許証も手に出来ました。 それからです。父がやたらと赤信号で突っ走るようになりました。 私が「赤!赤!危ないでしょ!」と言っても、「ワシは国が認めた優良ドライバーなんや!ゴールドなんや!」と危ない運転を繰り返します。 父は、自分が人間を跳ね、ひき殺したときの「感覚」「感触」を忘れてしまったのでしょうか。恐怖に苛まれることはないのでしょうか。 ゴールド免許証になってから、スゴい自信過剰になっているように感じます。 はねて、ボンネットに乗り上げ、窓ガラスがバリバリに壊れる程のひき方をした、その時の「ドンときた生々しい音」「目の前で人が潰れた光景」…私なら怖くて、二度と運転出来なくなりそうですが…どうも父は違うようです。 いつかまた、人をひき殺すのではないか、という不安が頭をよぎります。 最近の荒々しい運転は、酷い。横暴過ぎます。 確かにゴールドです、運転するな!とは言いません。 でも、人の尊い命が1つ失われた(奪った)事実を認め、決して忘れないでいて欲しい。 お坊さま、どういう言葉をかけたら、父が「安全運転」をするようになると思われますか? 時には過去と向き合う必要があると、私は思うのですが… 何を言っても「ゴールド」を主張する父に、私から、あと何を言ってあげることが出来るのでしょうか?

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納得のいく死

先日、最愛の母を癌で亡くしました。 癌だと判明してからたった二ヵ月足らずで逝ってしまいました。 本人には事実を告げられないまま… 本人も治ると…必ず治す!というつもりで頑張っていました。 人は誰しも自分の『死期』は分かりません。 自死の方は別かも知れませんが、皆さん『納得のいく死』 が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も 『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。 殆どの人が『無念』な思いで逝くのではないでしょうか? やり残した事、言いそびれた事、気になっている事… 色んな思いを抱え、それらが『後悔』や『恐怖』となって 本当に『辛く』『悲しく』時には『怒り』となって たった一人で心細く無念に旅立っていくのではないでしょうか? そんな『無念』な思いで旅立った魂は、本当に 心安らかに『成仏』が出来るのでしょうか? 残された家族が一番心を痛める事… それは どんなに辛かっただろう どんなに無念だっただろう どんなに怖かっただろう… 話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい… 今、どう思っているのか聞きたい… でもそれが出来ないから苦しいのです…。 教えてください。 自分が『死んでしまう』とは思ってもいないのに 治そうと、治ると思って頑張っていたのに 何の心構えも準備も出来ていないまま 人生を終わりにしなくてはいけなくなった時 人はどんな事を思うのでしょうか? 四十九日までは、魂はこの世に居ると聞きますが どんな気持ちで、どこでどのように 過ごしているのでしょうか? そんな事ばかり考えて、辛くてたまりません…。

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母の死を受け入れられません

私の生き甲斐であった母が、先月急に亡くなりました。 今までひと月に一度のペースで大きな病院にもう十数年もかかっておりましたし、普段の通院でも特に問題ないとの事でしたので、いつも自分の事(痛い苦しい辛い)を殆ど口にしない母が珍しく異変をうったえる事もあったのですが、年齢的なものもあるのだろうと思っておりました。後で考えてみると昨年秋頃から『しんどい』という言葉も増えてきていたように思います。でもその時も、主治医に『この数値でしんどいはずはない。大丈夫!気のせいや。』と言われ、その言葉を信じ特に検査をする事もなく日常過ごせておりましたし、4月のお誕生日には家族で旅行も行きました。 GWが明けて念の為にと受診したところ、末期の癌でもう手の施しようがなく余命二ヵ月と告げられました。 その二ヵ月を満たずして母は亡くなりました。あっという間でした。 母の病院関係や健康管理、身体の事に関しては本当に今まで心配で心配で異常なほど気を配ってきたのに…こんなに大切にしていた人の、これほどまでに最愛の人の、見る見る弱っていく姿を、病に侵されて苦しみ息絶えていく姿を、手を打つ術もなくただただ見ている事しか出来なかった日々は、この脳裏から消える事はなく日に日に罪悪感と喪失感に押しつぶされそうになり、このまま後を追えたらと思っています。 普段偉そうに『母さんの健康は私が守る!』と母の思いは二の次で自分の思うように引っ張て来た…結果がこれかと…。どうして母の信号に気付く事が出来なかったのか…。私を信じ、私に遠慮をしてなかなか自分の意見を言う事もなく身を任せてくれていた母に、最期まで事実を伝える事も出来ず頑張らせてしまった…。最低な親不孝者だと思います。昔からあまり贅沢をしてこなかった母を喜ばせたい一心で生てきました。これから親孝行が出来ると思っていました。 家族での旅行や外出をする度に『いつか罰があたる。』と言っていた母の心意も気になります。母の意思と反して私が勝手に母に色々してきた事が、その私の『欲』が『罰』となって、何かを悟っていた母が連れて行かれたのでしょうか…。そのように思えて仕方ありません。 母は今どう思っているのでしょうか…。 これほどまでの地獄はありません。母と同じくして、私自身も死んだも同然です。 『死』とは何でしょうか…。どうかご教示ください。

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PURIFICATION

15年程前に遡ります。私は、ある医療ミスを発見しましたが、圧力に負け、揉み消されるがままに、私も口を閉ざしてしまいました。ご遺族に真実を伝えたい、そう思い、上層部がゴチャゴチャしている間に、集められる限り全ての被害者の医療情報をかき集め、内部告発を覚悟に、準備を着々と進めていきましたが、外部の、信頼できる医療関係者に、事実を公表すべきかどうか相談したところ、「あなたがこの世界に二度と戻れなくなる」→「事実を伏せるべき」との結論を、結果的に飲み込む形になりました。もし、その後ご遺族の方が、「何かおかしい」と真実を求めてきたならば、私は事実を公表しよう…。そう思っていましたが、案の定、告発されるようなことはなく、ごく限られた職員のみが、その医療ミス=死亡事故を「知っている」「黙認している」状態で「なかったこと」になってしまいました。私は、口を閉ざしたと共に、心も閉ざしてしまいました。その事件が、今の私の病気の始まりになります。「浄化されたい」その思いから、毎日、下剤を110~160錠…。当時は、cleanse the intestines → cleanse my soul(腸内を浄化する→私の心・精神を浄化する)しか考えられないような日々。摂食障害、うつ、脅迫性障害など、次々と病気が私を襲いました。今は、完全に下剤も絶ち、精神面も随分落ち着いてきましたが、悶々とした気持ちは消えることはありません。亡くなられた方やそのご遺族に対して、無言を貫いたことを謝りたい…しかし、今更…というのもあります。生と死の狭間に立ち続け、生と死の重さを感じ続けながら、生きていくしかありません。学生の頃から、「死」と直接向き合うような様々な活動を、1人で積極的に行ってきましたが、社会人になり、たった1か月程で、私は地に落ちました。落下してしまいました。今でも学生の頃の「信念」は変わらないのに、死を見逃す…まさに衝突、逆行しています。真の『浄化』とは?今の私に何が出来るでしょうか?ご意見賜りたく存じます。

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検体になる

私は、私自身が脳死状態になった時、臓器移植希望で、使える臓器は必要な方にお譲りしたいと考えております。しかし、両親が(私の)臓器移植に反対なので、今はまだ免許証の裏などの記入欄は空白にしている状況です。仮に年の順に行けば、ですが、両親が亡くなった後は、私の意思のみで臓器移植可能だと思うので、年齢的な部分をクリアするなら、是非とも私の臓器を使っていただければと思っております。他にも、いろいろ考えております。身内が肝臓を悪くすれば、生体肝移植をしたい。腎臓は2つあるので、差し上げても構わない。骨髄移植のドナーになるのも良い。最近では、今で1年と9か月、髪を切らずにいるので、このまま伸ばし続けてヘアドネーションするのも良いアイデアではないかと思っています。私自身、病気を患っていて、毎日、大量の薬を飲んでいるので、どこまで世の皆様の助けになれるか分かりませんが、病気なら最後の手段は、医学生の解剖学の検体になることぐらいしか思い付かないなぁ…と考えております。一番身近な献血は、今の状態では無理なので、回復次第、貢献出来ればと思っております。病院の輸血部という部署にい、たくさんの血液製剤を扱うクセに、自らが献血が出来ない、というのは非常に情けなさを感じてしまうところです。「生」に執着がなく、「死」をとても身近に感じている、私。将来、「最終的には検体に」という考えは、仏教ではどのように捉えられるのでしょうか?お教えいただきたく存じます。

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死について漠然とした不安があります

 またまた質問よろしくお願いします。 死について漠然とした不安があります。 最初は小学生のころでした。特に何かあったわけではありません。 ただふっとした時に「死にたくない~」と思い泣いていたのを記憶しています。 ヲタクなので、漫画やらアニメやらドラマやらメディアでは死について想像したり見たりします。 ですが、身近な親戚や、友人知人の死に直面したことはありません。 同級生がひとり自殺されたという話は聞いたのですが、同級生との関わりが縁遠くなってしまっているので、実感がありません。 両親の祖父母は健在ですし、自分の家で生活できています。 東北在住なのですが、近くにいる親しい人が震災で被害にあったということもありませんでした。 自身もですが、親戚、家族、友人知人が大病を患い入院しているということもありませんでした。それ自体はとても幸運なことだとは理解しています。 外にいて空の高さや雲の重なりなんかを見て地球や宇宙を感じるとき。 妊婦さんを見かけたりした時。自分が生きてたり生命があるという事を感じます。 今でもふとした時にとてつもなく死に恐怖を感じます。 これからさきどうなるんだろう?まだ20代なのですが、30代に差し掛かるし、求職中で独身です。 死より将来に漠然とした不安を感じているのかもしれません。 これから先も地球や日本は続いていくけど、私は死んだらどうなるんだろう?死んだら終わりだし真っ暗で何も感じられないんだろうと考えると怖くて怖くて堪りません。自分の人生がいつか終わるのが不安で恐怖に感じています。 別の質問で書きましたが、危ない運転をしてしまったことがあります。 それでも生きているけど、いつ死ぬかわからないよね。 と感じたことがあります。そして身近な人の死に耐えられるかわかりません。 自分でも身近な人でも死が怖くて堪りません。 死の恐怖とはどのように向き合っていったらいいのでしょうか? 20代後半でこんなことを考えているのは可笑しいでしょうか?ご教授よろしくお願いします。

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浄土真宗の死後とは

私は浄土真宗です。 死んだら浄土に行くと聞いていましたが、南無阿弥陀と唱えるのは、死後のためではなく、今を生きるためだとも聞きました。 どうしたら念仏することで今を生きるという感覚になるのでしょうか。 死んだ後は浄土にいくのではないならどうなるのでしょうか。 病気でなかなかお寺で聞法できないのでよく分かりません。 浄土には病気が無いとイメージしていたのですが違うのですか? 生きている時「私は私で良かった、あなたはあなたで尊い」と思たらその心こそ浄土と教わったこともありますがうまくつながりません。 10年間以上、生まれつきの要因が大きい病気で体が思うように動かず、学ぶのも働くのも結婚するのも十分にできなくて、その間ずっと「どうしてうまくいかないの」「どうやったらうまくいくの」と考えてきました。 でも、すぐ死ぬ病ではないため、残りの人生おそらく何十年も あると思いますが、ずっと「どうして」と過ごすのかと思うと馬鹿らしくなってきて、段々、「考えて解決しないことなら考えるのをやめよう」「己の身体的限界を受け入れた方が肩の力が抜けてむしろ楽なのでは」という気になりました。 もうこれ以上は個人で考えて結論が出せるものではなく、宗教を学んで信じることで、余計なことに悩まず、残された力を使い、やれることをやるしかないように思い至りました。 それで急に浄土とはどんなものか、死後についてどう考えるべきか、知りたくなってきました。 健康のために具体的に食事睡眠運動に気をつけるのは最善を尽くせているので、その病気になった人にして体調はマシな方ではあります。 ただ、もう気持ちの面で嘆くのは嫌です。 教えて下さい。 よろしくお願いします。

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死と宗教について

私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。 学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。 ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。 仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。 しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。 古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。 天の国を悟りと考えたいのかもしれません。 邪道と言われる方もいると思いますが、 父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、 僕がキリスト教で育つことになったのですが、 今の両親は、無宗教に近いです。 既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、 ぼくも似ています。 しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、 家族の意見ががバラバラだったのです。 親も老いてきて考えると、 仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、 キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、 違うものであってほしくないと思ったのです。 母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。 父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。 キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。 これをどう思われますか? これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。 死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。 それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。 考えて行こうと思いますが、 何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。 1人の凡夫として諭していただけたら 本望かと存じます。

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死も永遠も怖いのですがどう向き合えば良いですか

初めまして。 10代の頃から気持ちが落ちている時や寝る前に死や永遠について考えるようになりました。 そして先日祖母が老衰で近いうちに亡くなるかもしれない話を聞き最近では毎日考えています。 死んだら二度と会うことができないのがとてもとても悲しいです。 だから死後の世界が存在して欲しいと思います。 自分も死んだら亡くなった人と再会することができると考えれば少しは楽になるからです。 でも死後の世界で過ごすのもいつまで続くのかと怖くなります。 地球がなくなって太陽がなくなって宇宙がなくなってその後は…と。 そんな世界を見続けること、何もかもなくなってしまった後はどうなってしまうのか、わからなくて怖いです。 死んだら無になるという話を聞いたことがありますが、自分が消えるというのも怖いです。 亡くなった人と会えないことにもなります。 考えても考えても未知な世界なのでわからなくて、わからないから怖いのもあるかもしれません。 生きているからには必ず死が訪れるので、家族や友人、自分の死とも向き合わなければいけなくなります。 死は辛いです。 考えるだけで涙が出てきます。 だからといって永遠に生き続けるのも怖いです。 これから訪れるたくさんの死と生きている祖母の前で泣かない為にもどう向き合えば良いのか教えてください。 乱文失礼しました。

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死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い

現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。

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両親が老い、いつかは死ぬということが受け入れられない。

この春進学し、家から2,3時間のところで下宿を始めました。 初めて両親と離れて暮らすということもあり、友達は出来たものの、心に穴が空いたようで、両親が月に数回のペースで遊びに来てくれる日以外の、誰もいない夜は特に寂しいです。 私は一人っ子で、両親の愛情が他の兄弟に奪われることに対する嫉妬を経験したこともありません。 小学校高学年から中学生にかけて、親に反発することも多くありましたが、両親とはずっと良好な関係です。 新生活が近づくにつれ、40手前で私を産んでくれた親と会える時間は自分にどれだけ残されているのだろうかと考え込んでしまって、泣きそうになることが多くなりました。 私の親は大病をしたことがなく、今の時点では健康面で全く心配はないのに、親が少しうっかりしていたり、怒りっぽくなった日があると(昔からそうだったかもしれませんが、前以上に心配になります)親と親が老い、死んでいく想像をしてしまいます。 この悩みを友達に打ち明けても納得のいく答えが返ってくる気がしないし、親にこの歳で子供みたいに甘えたことを言うのも恥ずかしいです。 就職にしても、現時点で私のやりたいことと地元での仕事はズレているにも関わらず、親との時間をもっと増やしたいと言う気持ちから、地元就職に傾いて来ています。しかし、地元で就職した場合も、いつまでも親とくっついていたいという気持ちから逃れられない気がして怖いのです。 親は私に自立して欲しいと考えていると思いますが、私の心の中ではうまくいかず、とても辛いです。 親に守られている自分が、いつかは親を守る立場に変化していくというのも怖いです。私はどう親の変化をを受け入れていけばいいのでしょうか?

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どこにも母がいないという事実が心を壊死させる

母が亡くなって、早いもので8ヶ月が過ぎ、間も無く1周忌の準備を始める。 気丈にあれと、誰に言われるわけでもなく、いつも以上に行動的な日々を送り、疲れ、途方に暮れ、また気を取り直し、悲しくなり、明るく笑い。 もうあたしの心は、壊れてしまいそうです。作り笑いも、根っからの笑いと思えるものには紗がかかり。朝目覚めて毎日、ああ、母は居ないんだなと確認し。 実在していたことすら危うい自分の意識と、二度と会えない事実から自分の心を守ろうとしてかの回避行動としては、悲しみから意識を反らし、なるべく気にしないように、悲しいことになるべく蓋をして今まで来た。淡々と、仕方ない、思い出さない、写真もあまり見ない。感謝や後悔や、それらもなるべく頭から追い出して。 でも、体調の変化で毎月決まって悲しい波が押し寄せる。私は、自分のために自分を生きれていない。母のために生きてきたのだったろうと思う。今は子供と父のために。家族が居なかったら生きているか?自分が生きたいと思えて毎日を過ごせて居ない。仕事も毎日の日々も義務のようで、心が休まらない。いつも自分の頭の中の自分とモヤモヤ会話して。心が壊死してしまったような感じに至りました。 どうしたら、自分で自分を大切に自分のために生きられるのだろう?この喪失感は、いつか救われることはあるのだろうか? 時々猛烈に苦しくなる。 母が生きて居たことが信じられない。 母が居なくなったことも信じられない。 そして、全ての事実は理解している。 あたしの心は、大丈夫なのかな。

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