はじめまして。 我が家のねこさんが猫エイズを発症し、今にも消えそうな命に向き合っています。 治す方法のない病のため、先生も積極的な治療はこの子にとって辛く、苦しいだけなので進めませんと…。 発症したらどうなるのかは分かっていたことなので、それは私も同じ思いです。 殆ど食べることもできず、殆ど動くこともできない子。 もう楽にしてあげたいとも思ってしまいます。 でも安楽死という選択をすることは見ているのが辛い、可哀想、と思っている私が楽になりたいからなんじゃないかとも考えてしまいます。 安楽死という選択は、私が殺すことと変わらないのですよね。 やっぱりしてはいけないことなのでしょうか…。
母が亡くなって、早いもので8ヶ月が過ぎ、間も無く1周忌の準備を始める。 気丈にあれと、誰に言われるわけでもなく、いつも以上に行動的な日々を送り、疲れ、途方に暮れ、また気を取り直し、悲しくなり、明るく笑い。 もうあたしの心は、壊れてしまいそうです。作り笑いも、根っからの笑いと思えるものには紗がかかり。朝目覚めて毎日、ああ、母は居ないんだなと確認し。 実在していたことすら危うい自分の意識と、二度と会えない事実から自分の心を守ろうとしてかの回避行動としては、悲しみから意識を反らし、なるべく気にしないように、悲しいことになるべく蓋をして今まで来た。淡々と、仕方ない、思い出さない、写真もあまり見ない。感謝や後悔や、それらもなるべく頭から追い出して。 でも、体調の変化で毎月決まって悲しい波が押し寄せる。私は、自分のために自分を生きれていない。母のために生きてきたのだったろうと思う。今は子供と父のために。家族が居なかったら生きているか?自分が生きたいと思えて毎日を過ごせて居ない。仕事も毎日の日々も義務のようで、心が休まらない。いつも自分の頭の中の自分とモヤモヤ会話して。心が壊死してしまったような感じに至りました。 どうしたら、自分で自分を大切に自分のために生きられるのだろう?この喪失感は、いつか救われることはあるのだろうか? 時々猛烈に苦しくなる。 母が生きて居たことが信じられない。 母が居なくなったことも信じられない。 そして、全ての事実は理解している。 あたしの心は、大丈夫なのかな。
いつも有難うございます。 私の宝、唯一無二の存在である愛犬が、数週間前に亡くなってしまいました。 急性的な病気と言われましたが、もしかしたらずっと我慢していたのかもしれません。 点滴(6日間)に小さな体で頑張って通っていたのですが、 仕事帰りに迎えにいって抱っこしている帰路で、息絶えていました。 春の暖かい季節になるのを待たずに、私を置いて逝ってしまいました。 あまりに急な事で、ショックで仕事まで休んでしまい、 亡骸の横で、二晩撫でながら泣きながら寝て過ごしました。 火葬の時も、大泣きしていつまでも頬ずりしていました。 私が病気の時もいつも、寄り添ってくれ、私が帰るまで おしっこも我慢するような子でした。 12歳だったので、後何年一緒にいられるだろう・・・と思いながら 特にここ2年位は何かあればすぐ病院にも連れていっていました。 冬はいつもケージで犬小屋にあんかをいれて眠る子だったのですが 今年の冬は極寒だったためか、私の部屋に来て布団の上で眠っていました。 朝は凍えるような気温になるので、私も気にして毛布を掛けてあげたりしていました。 今思えば、自分の寿命を悟り、昼は一緒に居られないから、 夜寝る前だけではなく、眠る時も一緒に・・と思っていたのではないかと思うと もっと自分にできる事があったのではないか、と思ってしまいます。 自分がこの子の命を縮めたのでは・・・と思っています。 遺骨は持ち帰り、私の部屋で供養しています。 でも、気配を感じた事もありませんし、夢も見ません。 毎日毎日、写真や動画を見ては泣いてばかりの日々です。 私の生きる糧がいなくなり、最近またあちこち調子が悪くなってます。 私に必要な家族ほど、早く、しかもお世話をさせてくれずに 順に逝ってしまいます。 『次は私かな・・』とも思います。
私が動物看護師として病院に勤めていたいた時のことです。 私が勤めていた病院は鳥専門の獣医師がいて、毎日たくさんの鳥さんが来ました。 そして私たち看護師の役目は、鳥さんのいる酸素室の湿度が下がらないように定期的に蒸しタオルを鳥かごに被せること。 私もそれに従い蒸しタオルをかけたのですが、その子が熱中症で来院していたことを知らなかったのです。蒸しタオルの熱でその子は一分と経たない内に死んでしまいました。 私のせいです。 私が殺した。 私が殺した。 お前が殺した。 お前が殺した。 こんな言葉が頭の中を埋めつくします。 どうやったらこの罪を償えるのでしょうか。
ひと月前に17年間連れ添った愛猫を亡くしました。 愛猫は私にとって宝であり、人生において重要なファクターでした。あの子が私の心を作り、生きる方向を示してくれたと言っても過言ではありません。あの子は常に、私の中にも他者を慈しむ心があるのだという事を思い出させてくれました。 動物は極楽へは行かないし仏にもならないと言いますが、本当でしょうか?あの子はどこに行ってしまったのでしょうか。 あの子がどこへ行き何になったとしても、私のそばにいてくれると信じています。
私は人は死んだら無になると思っています。しかし無になるということを考えるだけで怖いです。私たちに生まれる前の記憶がないように、その頃の状態になるのかな?などと考えてしまいます。 私がまだ幼稚園か小学生低学年だった頃、NHKのニュースを見ていて「北朝鮮と日本がいつか戦争になるかも。そしたら自分も家族も死んでしまうかも。」などと幼いながらに考えてしまい、死が怖くなって、夜な夜な布団の中で泣いてしまい怖くて朝まで眠れなくなってしまったことがありました。それから月日が経ち、死を考えすぎてしまうことは無くなりました。 しかし最近夜になると死を考えて泣いてしまい眠れなくなってしまうことが再び増えてきました。1度考え出すと怖くて3時間は泣いてしまい気づくと眠れないまま朝を迎えています。 輪廻転生という考え方が好きで、その言葉を支えにしたいのですが、輪廻転生も所詮は生きている人が考えた言葉にすぎない。死んだら思考回路すら無くなるんだから、輪廻転生して再び自我が目覚めたとしても、それは新しい自分であって、昔の自分は消えてなくなる。結局人は無になるんだ。という結論にたどり着いてしまいます。 私の父は69歳、母は63歳、祖母は91歳。比較的高齢の家族ですが凄く元気です。ですがふと、この家族で過ごせる幸せな時間は永遠ではないんだと考え「あと何年?」と考え辛くなります。 最近は高齢な家族故に両親と過ごせる時間より、両親がいなくなった後の時間の方が長いのかもと考えて泣いてしまいます。私は両親のことが大好きなので、2人がいつかいなくなってしまう。「無」になってしまう。そんな日がくるのがとても怖いです。 そして今見ている景色、大切にしている物、現世で学んだ知識、死ぬ時は全て手放さなくてはならない、私も死んだら無になる、家族と家族だったことも無くなる、もうこの家族には会えない…どこまでもそのように突き詰めていってしまいます。 よく「(死を考えるくらいなら)今を楽しく生きよう」という言葉を聞きますが、そのような考え方に自分が対応できず、ただ死が怖いです。 本当に最近このような考え方に陥って泣いて眠れなくなることが多くて困っています。 何か少しでも心が軽くなるお言葉、そして仏教では「死」に対してどのような考え方を持っているのか、お話を聞かせていただきたいです。 よろしくお願いします。
おじいちゃんはいま病院で脳出血とがんで大変な状態です。 意思疎通もほぼできません。 おじいちゃんが必ず極楽浄土に行けるようにしたいのですが、自分には何ができますか?
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
久しぶりにお酒をのみました もう何もかも手放そう
自分はとても貧しい家で育ち貧乏が理由で小学生の頃からいじめられていました そこからずっと不登校で、中学生の頃ビニール紐で首を吊りましたが紐が切れました 定時制も1日すら通わず退学し精神もボロボロになり認知度の低い精神病にもなりました そして自分には兄弟が居なく、母親は寝たきりで父親と自分で介護をしています 何もない自分に唯一の親すらも死んでしまうと思うと震えてしまいます もう生きる事が辛いです自分は19年生きましたが十分だと感じています 今まで生きてて楽しいことなんてありませんでした これを苦に自殺しても救いは無いのでしょうか
馬鹿げた質問だと思われるかもしれません。 愛猫の顔を見る度に「あぁ...この子は近い将来、私の前から消えてしまうのだ」と思うと、とてもこわいのです。 いつ最後の日が来ても後悔しないよう、毎日愛猫には感謝を「ありがとう」の言葉と頭を撫でるという行為で伝えています。 他に、愛猫が近い将来死んでしまうという絶対的な事実に対する恐怖心を和らげる有効な方法はあるでしょうか? ほぼ毎日この恐怖に襲われ、困っています。 知恵を貸していただけると助かります。 よろしくお願いします。
もう10年以上うつ病や発達障害等のために療養生活を送っています。 最近は9か月間で10kg以上痩せてしまいました。 医師から精密検査を受けるように勧められましたが、お断りしてしまいました。 その理由は、毎日生きていることが苦しいですし、治療費を支払うことも厳しいので、検査を受けて治療をして頂きたいと思えないのです。 例えば、もし癌が見付かったとしても、もう積極的な治療を受けずに、そのまま死んでしまいたいのです。 わたしの病気(発達障害)は薬では治らないものです。 母は認知症で症状は段々酷くなってきています。 父は約3年前に亡くなってしまいました。 友達等の話し相手は一人もいません。 毎日が孤独との戦いです。 毎日寂しくて苦しくて悲しくて仕方がないのですが、誰も話し相手がいません。 私の携帯電話が鳴ることはないのです。 母は認知症ですので、もう普通の会話をすることはできません。 そればかりか、母のトゲのある厳しい言葉で苦しめられることが続いています。 そして、どんどん衰えていく母の姿を見ていると悲しくて、切なくなって、涙が出てきてしまいます。 こんな苦しい時に父がいてくれたら良かったのにと思うのですが、もう父はいません。 もう亡くなってから3年以上も経つのですが、父のことを思い出しては涙を流してばかりです。 「父さんだったら、こんな時にどんなことを言ってくれる?」とか、 「父さんが元気だった頃は、父さんと母さんと3人で自然が豊かな野山や河原に行ったり、温泉に行ったり、近所で散歩をしたり、ご飯を食べに行ったり出来たのに、もうそんなことをすることは出来ないね。」とかいうことを、お仏壇で父に話しかけては泣いています。 医師には「諦めないで」とか「希望を持って」とか「何か打ち込めるものを探して」等と言われます。 でも、もう何にも希望を持つことは出来ませんし、打ち込めることもありません。 楽しい、嬉しいという感情が無くなってしまいました。 苦しい、悲しい、寂しい、切ないという感情しか湧いてこないのです。 完全に人生を諦めてしまっています。 毎日生きていることが苦しすぎるので、早く死なせて欲しいと思ってしまいます。
死というイベントが良くわかりません。 死は所詮他人のイベントだと思うのです。 ご遺族が『後を追いたい』と言っても実行する方より生きている人の方が多いのでは無いでしょうか。楽しい思い出と時折思い出す悲しみはあるかとは思いますが、死に際の辛さは風化されていくように見える気がします。 また、亡くなられた際について周囲の方(ご遺族も含めて)の反応は 大往生された方には『立派』と褒め称えるように、 病気で亡くなられた方には『最期まで闘病して...』と勲章のように、 でも自死については世間に知られたく無い雰囲気が漂いますよね。 死にもランクがあるのでしょうか。私はランク付けされたくないです。 結局いくら周囲が『生きて、死なないで』と言ったところで、他人のイベントでしかない以上説得力がないと思っています。 このような考えの私はどこかおかしいのでしょうか?
いずれ寿命、病気、事故で死ぬ時がきますが死後の世界は現世の人の想像でしかないので死ねばおわりとしか思えません。死ねばうまれる前と同じでこの世に存在せず無になるだけという人もいました。 何度か火葬場でたちあいしたことありますが遺骨みると本当にさっきまで肉体あった人だったのにと思え何ともいえない気持ちになりました。自分も死ねばいずれ骨になるとはわかっていても火葬は数千度の高温でやくし嫌だなと今も思います。 日本は国土面積狭いので火葬が一般的ですが土葬できる場所もあり探しましたが管理者の話では白骨化するまで土にうまってるから火葬ほど骨もきれいに残らず土の下は苦しいですよといわれ気分が暗くなりました。猫ぐらいの大きさの小動物を土葬した場合の経過画像が掲載されたサイトがありみましたが人間より小さいのできれいに土に帰っていました。人間はそうはいかないのだろうなと思いますが。家族は皆火葬でいいといってますが私だけ土葬希望した場合一人だけの墓になります。死ぬ時は皆一人といいますが死後墓に一人というのは普通ですか。欧米のように土葬が普通ならかぞくの墓ではなく個々の墓になるので当然ですが日本は家族の墓という考えが普通なので。 多分20年後気がわりして自分も火葬でいいとなれば家族と同じ墓ですがやっぱり土葬希望だと自分で場所探し墓地購入しなくてはならないので先の話とはいえ気が滅入ります。土葬より凍結があればそれがいいですがその制度自体今はないので。 なぜ皆、火葬でいいといいきれるんですか。死ねば感覚も神経も死んでるので熱いわけないんですが数千度で焼くというのが私には火あぶりの刑と同じ残酷なことにしか思えず子供の時からずっと嫌だなと思ってます。 子供の時初めて火葬場へいった時、寒気と恐怖を感じたのを今でも覚えてます。
ずっとじわじわ脅迫感に襲われてしまい息が苦しいこのまま気が遠くなってどうにかなってしうどうしようもないパニック状態怖い苦しい 夢の中でも苦しい悪夢ばかりで起きているのも寝るのも怖い 親や自分が死んでしまったらどうしよう死んだらどうなってしまうのか怖くて生きているのも死ぬのも怖い死ぬことはかりいつもどうしても考えてしまって辛い 助けて下さい
死にたいけど、死ねない・・・どうしょう!
質問んが多い中、既出の質問でしたら申し訳ございません。 さて、人は死後あの世というところに行くそうで、そこにはすでに亡くなった方々がいると聞きます。 しかし、一方人は死後49日で再度生まれ変わる輪廻を繰り返すとも聞きます。 いったいこれはどう受け取ればいいのでしょうか? 私はおそらくだいぶ先とは思いますが死んだあと、尊敬し心の支えとしている亡父にあの世で再開し、“良く頑張ったな”と褒めてもらうこと、その他既に亡き人々に再開できることを本心から楽しみに(それ頃心の支えとし)、苦しい時を乗り切っているので、上の疑問を持った次第です。 亡くなった方々はあの世で待っていてくださるのでしょうか、ご回答をどうぞよろしくお願いいたします。
頑張ったけど、幸せになれない。 死にたいです。
初めて投稿させて頂きます タイトル通り、たまに無性に死ぬのが怖くなる時があります 以前、働いていた職場によくご住職がいらして居たので、人間は死んだ後どうなるのですか? と聞いたことがあります そのご住職は、「生きている間の行いによって、何に生まれ変わるかが決まる。良い行いをすればまた人間になるかもしれない。悪い行いをすれば一週間しか生きられない蝉になるかもしれない。」と、仰っていました。 でも、やはり無性に死が怖くなる時があります。 自分が死ぬときはどんな風に死ぬのだろう 苦しみながら死ぬのだろうか 死んだ後、体は火葬して骨だけになりますね でも、今のこの気持ちや感情はどうなるのだろう そんな、誰にも分からない事が怖くてたまらない時があります 自分が死ぬ時の事を考えると怖くて眠れなくなったりもします それは今が幸せだからなんだなって、常に思っています 二児の母でありながらこんな質問をしてお恥ずかしいのですが、まだ分からない死への恐怖の取り除き方や死んだ後の自分の気持ちはどうなるのか 明確ではなくていいので、知りたいです
松来未祐さんという声優であり、ラジオパーソナリティをされていた女性が一昨年、病気で亡くなられました。 穏やかな人柄でよく笑い、笑顔が素敵な可愛らしい女性でした。 私は松来未祐さんのファンだったのですが、彼女が亡くなられてから暫くは、その実感がありませんでした。 ですが、松来未祐さんの声を聴きたくて、彼女ののこした楽曲やラジオ番組を聴いていくうちに、もう彼女の言葉を聴くことは出来ないのだ、彼女にしてあげられることは何も無いのだという実感がこみあがって、とても哀しい気持ちになっております。 私は、この気持ちをどこに向かわせれば良いのでしょうか。 ご教示お願いいたします。