母は私が幼いころに癌を患い、その後治療を続けていたものの半年ほど前に再発しました。今すぐに命に関わるという病状ではないのですが、身近な人間の死に関わりうる病気を通して死というものを考えることが増え、もうどうしていいかわかりません。 私と母とは30ほど歳が離れています。つまり、一般的な寿命を迎えることができても、私はいつか母がいない時間を30年も過ごさなければいけない。そのことが私には耐えられないことに思えます。私には妹弟はおりませんので、私は家族の中で最も長く生きる可能性が高いわけですが、自分の大切な人が皆亡くなってもなお生きていかなくてはいけないのでしょうか。頭ではそんなことわかっているのです。死は避けられない、身近な人の死も受け入れなくてはいけないし、皆そうやって受け入れて乗り越えて生きていると思うのですが、わたしにはそのことができないように思えます。親不孝の極みですが、母が死ぬ前に死ねたら幸せだなとすら思ってしまいます。 私が中学3年の時に祖父が亡くなった時のことを未だに忘れることができません。少し前まで生きていた、人が、生きてはいないということが受け入れられず、その恐怖を忘れることができません。昔見たドラマで、大量殺人を犯した犯人が、人をモノにするのが好きなんだと言っているものがありました。祖父の葬式の時に感じた、人がモノになったということが、私の中に恐ろしい記憶として残っています。祖父の死以来、刑事ドラマも不愉快で見ることができません。人の死を面白がって作っているように思えてしまうのです。私はどうしたらいいのでしょうか。受験期に入り、ストレスや疲れもも溜まっているのか、死ぬこと、母のこと、いつか大切な人が皆亡くなってしまった時のことなどばかりかんがえてしまいます。
私は21歳のフリーターです。今年の3月に美術系の学校を卒業後、その分野で食べていくためにアルバイトをしながら色々活動をしています。 今回相談させて頂いたのは、ありきたりでお恥ずかしいのですが、自分がいつか死んで消えてしまうということが堪らなく恐ろしく全身が粟立つほどの恐怖や発狂しそうな状態になってしまい、寝ても醒めてもそのことについて考えてしまい、これまで地道に続けていた活動に手もつけられなくなりこれからどうすれば良いのか、どうすればこの恐怖と折り合いをつけて前に進んでいけるのかがわからず呆然としています。 1ヶ月前までは全くこんなことを考えて囚われることなどなかったので自分が自分でなくなってしまったようで本当に怖いです 心療内科に行ったり外を散歩したり自然に触れたり瞑想してみたり仏教の教えを学んでみたり色々手を尽くしているのですが、ふとした瞬間に頭に恐怖が滑り込んで来てしまいどうしようもなく怖くなってしまいます。 心の底から以前のように楽しんだり笑ったりできないのかと思うと本当に怖いです。 ご回答いただけると幸いです。
いろいろ、いろいろ、思うことがあって、思うことがあり過ぎて溢れて、うまく文章に出来ないです。 死とは何か…医者は自然死を知らない 「延命治療」蔓延する日本と「自然死」選ぶ欧米 夕刊◯ジの記事は、良くも悪くも、日本人の「自然死」に対する考え、気持ち、心について、考えるきっかけを与えてくれているように感じました。 良いとか悪いとかじゃなくてです。 いろんな意見があります。 どの方の意見も分かります。 そうだね、そうだよね、と思います。 ただ記事にすると、意見の押し付けや行き過ぎた言葉が並んでしまいがちで… でも、それも仕方がないことで… 何せ人間が書いた記事ですからね… 意見の押し売りさえなければ、それも良しとするしかありませんよね。 私も自然死賛成、いや、自然死なんて嫌だ、延命治療はしたくない、いや、延命治療だって必要だ… どれも、そうだよね、と思います。 医療者の側からすると、治療拒否→治療しない、とは出来ない事情もあります。 それも仕方がないこと。 最近、腎臓の病気を患う患者さんに対して、人工透析をせず死なせた!という事件(?)が世間を騒がせたけれど… じゃあ…ただ人工透析を続けるのみ、人工透析の拒否を受け入れない医師が、良い医師、正しい医師、と言えるのか… 私がよく経験した話になります。 タクシーに乗った時に「◯◯大学病院までお願いします」と言うと、私がまさか職員とは知らず、見舞い客か何かと思って、こんな話をされたりするのです… 「僕の兄貴も腎臓悪して、ずっと◯◯大学病院で透析うけとったんや。でもな、しんどうてしんどうて、もうええ、透析はやめる言うてな、ホンマにやめて、死んでんけどな、やめて良かったわ、医者は反対してたけどな、やめて良かった…」 だから、透析どうこうは、そんな単純な話ではないと私は思うのです。 じゃあ、ケースバイケースだ!という人が正しいかと言えば、そんなこともないし、それだって言ってしまえば綺麗事であり他人事のように聞こえます。 正しい答えなんて、ない。 じゃあ、どうしら…? お坊さまたちは、人が人としとある最後の姿、亡くなった姿をたくさん見ている貴重な方々です。 自然死、延命治療、その他いろいろ… お坊さまの意見…?というか…お坊さまの心の中にある想いをお聞かせ願えませんか?
こんにちは。度々お世話になっております。 私は、高校時代に授業で餓鬼草子や、地獄絵を知り、その時から、とても怖いなぁと思っていました。 私は、やむを得ず悪いことをしたり、言ってしまったりしたことも多くあります。それをとても後悔していると同時に、地獄道など、恐ろしい世界に生まれ変わるのではないか、と考えてしまい、不安で夜も眠れなくなることがあります。 私は、来世でも人間として、人生を歩んでみたいです。そのため、地獄の恐ろしさという自分の感情を上手く受け止め、今をより良く生きる考え方があれば教えて頂きたいです。
人は自殺をすると地獄にいくのですか? 辛くて辛くて、でも逃げ場がなくて、死んで楽になれるって何の根拠もない考えにすがりついて、ある意味希望をもって、生きています。 まだ大丈夫、まだ大丈夫、いざとなったら死ぬっていう選択肢があるし、って思って生きていくのは甘いのでしょうか。 死んでも楽にはなれないのでしょうか? この世で苦しみながら、それでも皆さんのように頑張って、生きていくしかないのでしょうか?皆さんは辛くても、しっかり生きていて、すごいです。 死ぬな、とか、死んでも何も解決しない、とか、そんな言葉をきくと逃げ道はどこにもないように感じます。 そもそも逃げるという考えがだめなのでしょうね。 自殺をしたら地獄にいくのでしょうか?苦しみからは逃れられないのでしょうか? こんな幼稚な私ですが、お坊さんの考えを、お聞かせください。
先日、親友が亡くなりました。 何時でも逢えるだろうと思っていたのに、彼は亡くなりました。とても急な死でした。 亡くなる何ヵ月か前に同窓会があったのですが、その時の彼は元気だったそうなのです。私は仕事の後だったので疲れて家で眠ってしまっていました。 無理してでも会に出席していれば、そうでなくとも連絡だけでもとっておけば、何故そうしなかった。今はそう言う気持ちでいっぱいです。 彼とは、長い間逢っていませんでした。何時でも逢えるだろうと思い込んでいたからです。なのに、再会はお葬式になってしまいました。悲しくて、どうしようもありません。 後悔の念が、心に渦巻いています。私はこれからどうするべきなのでしょうか。 彼は、生前逢いに来なかった私を恨んでいるのでしょうか。
もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。
前にも質問にご回答頂けたのに再び質問することが恐縮ですが、質問させていただきます。 死後自分はどうなるのかをずっと考えてしまい、ここしばらく心穏やかではない状態が続いています。 その中でもし死後の世界があるのであれば、出来る限り死後が良いものになるように私は努力をしたいと思いました。ですが、死後を良いものにするために何をすればいいのか、何を信じればいいのか分かりません。 この死後の問題に対して様々な宗教が答えを出していますが、言っていることは宗教によって異なります。(様々な宗教の説く死後の世界の様子を見てますます、死後が怖くなりました。) 仏教の中でも宗派によって死後の考え方は異なることが分かりました。 どの宗教の教えで考えても救われるような生き方をするのは不可能ではないかと思いました。 このような質問をすでに仏教を学ばれているお坊さんの方々にぶつけるのも申し訳なく思いますが、一体私は何を信じて、何をすればいいのでしょう。 正直なところ、もう何かを信じて楽になりたい気持ちもあります...
死ぬことがとても怖いです。 死んだ後、こうやって今文字を打ってる、自分という存在はどうなるのかと考えると、怖くて仕方ありません。 死は逃れられないのだから、どうにか死を受け入れられるように、死というものに悲しいイメージを抱かないようにと、お釈迦さまの考えや、聖書など様々なものを読みました。 ですが、いざ死について考えた時、魂という存在や天国、地獄など、それらのものが無かったら?と考えてしまいます。 最近はニュースなどで殺人や自殺など誰かが亡くなってしまう内容を見ると、死は突然訪れるのだと強く感じ、とても苦しく、死にたくないと叫び泣いてしまいます。 こういう話を周りに相談すると、後悔の無いように生きることを全うする、考えても仕方ないのだから考えないようにするなどアドバイスをいただきます。 ですが、後悔の無いように生きても、私は死にたくないんです。死ぬ前に生きてて楽しかったな、なんて思える気がしません。 不老不死でいいのかと言われたら、それで構いません。私という存在が無くなることの方が怖いです。 死からは逃れられないという気持ちと、死ぬことが怖いと思う気持ちどちらも交互に出てきて、また教えやアドバイスを受けても、実際はどうなのか分からないじゃないかと考え受け入れることが出来ない、そんな自分はどうすればいいでしょうか。 まとまりのない文章となり申し訳ございません。お願いします、助けてください。
この歳になって色々考えさせられました。自分が老いていく事等。今までに必死に生きてきた。人が大っ嫌いだった。子供も3人。上の2人は私を知らん顔で出ていき1人残った子はまだ中学3。今の旦那は再婚でまた子供を殴る人。また失敗した。 私は現在、未破裂脳動脈瘤3mmいつ破裂するかわからない時限爆弾と、子宮頸がん異形成。いつガンになるかわからない。そして、心臓神経症であちこち痛くて寝るのままならない状態でうつ病再発。占いの人に今年は入院するとか、手術するとか言われて余計に不安になった。旦那と7年、5年前から家庭内別居、面倒見てくれてるのは子供。可哀想で。 でも、私は何もできない。体が痛くて時々死にたくなる。いつも子供が傍で見てくれてる。旦那はうつ病に金かかると。私がしっかりしたいのに何も出来ない。何故こんな理由のわからない病気ばかり。いつ死ぬかばかり考えて怖くなる。生きたい。でも、痛みで死にたい。仏様やご先祖さまに怒られる。早くに亡くなったお父さん。お父さんの愛情だけ知ってます。今は兄妹との連絡も繋がらない。母との連絡も取れない。友達はいない。孤独だ。子供しかいない。孤独だ。 誰も答えてくれない…… なんだよ……もういいよ さよなら
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
初めて質問をする者です。 よろしくお願いします。 当方、大学4年生で就活活動中です。 タイトル通りなのですが、 いわゆる自分はタナトフォビアなのだと思います。 きっかけは恐らく 幼稚園の頃に経験した祖母の死 小学生の頃に経験した祖父の死 高校生の頃に経験した母親の死 だと感じています。 身の回りにこれだけの身内の死を経験した人がいなく、あまり共感はされません。 仕方のないことだと分かっています。 避けられないことだとも分かっているのです。 しかし、怖いのです。最近時間があるせいか、毎日のように死んだらどうなるのか、これからの別れに耐えられるのか、生きる意味とは何なのか、そういうことばかり考えています。 何も手につかなくなってしまいます。 周りの人たちは、こういうことを考えず前向きに将来のことを語っているのに、今の私にはそれが出来ません。私も前向きに将来を語りたいです。 心配性なところもあり、果たして自分はいつまで生きることが出来るのか、考えても仕方がない未来のことを心配してばかりいます。 周りからは明るい人間だと言われるのですが、今はとてもそんな状態ではありません。 きっと母親の死が大きすぎたのですが、高校生活が忙しく、適切に処理出来ていなかったのだと思います(泣いたら駄目だと思っていました) 同じように悩んでいらっしゃる方をここのサイトで知ることが出来、私だけではないのだと感じることが出来たのですが、やはり心配性、恐怖は改善されませんでした。様々なQ&Aを見てきた中で、なぜ仏教を学ばないのかと不思議に思うことがあるという回答をしていらっしゃったお坊さんがいたのが印象的でしたので、初心者にもおすすめな本などがあれば教えて頂ければ幸いです。 避けられない運命を、せめて受け入れられる考え方、心得を教えてほしい、助けてほしい。 以上、長文にお付き合いいただきありがとうございます。
ご丁寧な回答もいただき、温かなお言葉もかけてくださいましたのに、本当に申し訳ありません。 私一人の都合で周りに迷惑をかけるわけにもいかず、かといって今の状況に耐えることはできなさそうです。 弁護士やその他のプロも私のために動いてくださっていますが、私の恩師に紹介してもらった方々なので、私が辛いからと調停を休ませてもらうこともできません。 私は、ただしたかったから母の介護をしていただけです。 誰かに評価されたり、ましてや姉夫婦に理解して欲しかったのでもありません。 ですが、介護の事実などなかったことにされて、母の元に泊まり込んでいた期間の家賃を払えなどと、理不尽なことを要求されたり責め立てられるのに、心がもう持たないのです。 ごめんなさい。本当に罰当たりなことだと思います。 でも、楽にさせてください。 少なくとも私がいなくなれば、もうこれ以上「○ね」とも言われないので、今よりは遥かに極楽だと思います。 一秒一秒が、身を引き裂かれるように辛いのです。 自死することで頭がいっぱいです。 ごめんなさい。でもどうやっても耐えられません。
薬の副作用で死にかけて入院しました。 死ぬことに恐怖を感じました。 それから死ぬのが恐ろしくなりました。 今まで鬱を患ったせいか、死に対してあまり恐怖を感じたことが無かったのですが、今は怖いです。 これは普通の感情ですか?
おはようございます。変な時間にすみません。眠れなくて、ここで相談させていただきたいと思いました。 お坊様方は、死の恐怖をどのように克服なさいますか?というのは現実的でない質問かもしれませんが、お坊様方の死の恐怖に対する考えを教えていただけると幸いです。 実は数日前に妹のお腹に腫瘍が見つかって、まだ良性か悪性かわからないけれど本人は悪性だとか末期だとか思いこんでパニックになっているんです。 例えばですが「こう考えれば死が怖くなくなるってお坊さんが言っていたよ」とか彼女に言っても全く効き目がないと思います。今は何を言っても聞かない状態で、背中をさすったり手を握ったりするくらいしかできることがありません。 それに、私も仏教の本を読んだり色々考えたりしてみたけれど、やっぱり自分が死ぬことを考えたら怖いものは怖いと認めるしかないし、結局死の恐怖を克服するなんてそれこそ仏になるまで無理なのではないかなと思います。 話がまとまらなくてすみません。完璧な解決法でなくてもいいんです。とにかく何か教えてください。お願いします。
誰にも知られず、ひっそりとこの世から消える方法があれば教えてください。 なるべく人に迷惑をかけずに、人を悲しませずに死にたいのですがどうすれば良いですか? 本当は存在を無かったことにしたいです。 こんなことを聞いてしまってすみません。
他の方のご質問で私の質問と同じようなものがあるのに、質問をしてしまい、申し訳ないです。 10日くらい前からずっと悩んでいます。 死後の世界が怖いです。自分が死んだ後、どうなるか分からないと思うと不安が止まらないです。 数日前からこのサイトで他の方のご質問とご解答をみて一生懸命仏教を学べば大丈夫だということが分かりましたが、それでも恐怖心は無くなりませんでした。 また、死後の世界があるのなら永遠もとても怖く思うようになりました。永遠に自分が存在し続け何かを感じると思うと、それもとても恐ろしいなと感じました。 本当はこのことを考え続けても結論は出ないとは思うのですが、それでも考えずにはいられないほど不安です。
3/6、54歳の母を突然亡くしました。アルコール依存症で、それでも普通の生活を取り戻そうと頑張っていた母です。 両親が離婚していたため離れて暮らしていました。 酒を飲んだ母が嫌で、辛いことをわかろうともせず冷たい言葉も投げかけたことがあります。 母が亡くなった今となっては、なんでもっと優しくしてあげられなかったんだろう、つらさをわかってあげられなかったんだろう、孤独を埋めてあげなかったんだろうと後悔ばかりです。 泣く回数は減りました。 けれど辛かったであろう母の晩年を想うと涙が出ます。 母の魂は救われるでしょうか? 生きているうちは恐らく辛いことだらけで、私がそれを除くこともできず、沢山寂しい悲しい思いをしたであろう母。 せめてあの世、浄土、言い方はわかりませんがその先では安らかでいてほしいと、毎日母に語りかけ仏様にお願いしています。 棺の中には「優しくできなくて、わかってあげられなくてごめん、大好きだよ」いうことを綴った手紙を入れました。私の気持ちは母に届けられるでしょうか? 手を合わせれば、気持ちは届くでしょうか? 49日が過ぎても、母に出来事を話したい、伝えられずにいた気持ちを伝えたいです。
皆様、よろしくお願いします。 膠原病という厄介な持病がある私が乳がんになってしまいました。 手術もして頂き、今、家にいます。手術したから終わりではなく、これからが大変なのだと思います。 でも良い気付きもあったんです。私が今、こうしていられるのも病院のスタッフさん達と主人の支え、すなわち私は本当に色んな方々に支えられていることを身に染みて知りました。(特に先生には本当にお世話になりました) でも持病を抱えながらのがん治療、私はこれから支えて下さった方々に尚負担をかけて生きていくのです。 それにもし今、私が死んだら、主人は暫く悲しむだろうけど、新しい恋をして人生やり直せるかもしれないのにと思うこともあるのです。 今、お世話になった方々への恩返しはどんな治療にも耐え元気になることが大切だと思います。でもその反面「いつまで生きることに執着してんねん!」という自責の気持ちで揺れています。 私がこう思っているなんて、周りの人は夢にも思っていないと思います。 本当に本当に本当に良くしてもらったというか、してもらってるんです。病院スタッフさんも主人もみんな優しいのです。 それなのに相反する気持ちで葛藤し、手術の傷跡の痛みも忘れるほど心が痛いのです。 私の心から「生きる罪悪感」に出ていってもらうためにはどうしたら良いですか?苦しいです。教えて下さい。お願いします。
昨夏、父が急逝しました。死の前日、父は「もうここ(病院)で終わり」と、つぶやいたのです。 母(2008年に末期の胃癌で死去)は、死の8日前に「須弥山」を見ているのです。と言っても、私の推測ですが・・・。 父が死んだ日、病院の昼食を「完食」したのを見届け、いったん実家へ。が、すぐ病院から「容態が急変したので緊急手術をする」と電話があり、呼び戻されました。結局「術中死」でした。 こんな最期だったので、なおさら「須弥山」が関係あるのかと、考えてしまうのです。 要領を得ない内容で申し訳ありません。まだ悶々としています。 私も両親と同様に、死ぬ前に「須弥山」を見るのでしょうか? ご回答頂ければ幸いです。