hasunohaのお坊さんで、劣等感を持っている人はいるのですか?
私の実家は三重のお寺です。 跡継ぎがいなくて困っています。 私(女)は兄弟姉妹もいないのですが、両親は、私をお坊さんと結婚させて継がせるなどとは考えておらず、他のお寺さんからお坊さんを呼んで跡継ぎにする予定でいたため、私は小さい頃から「継がなくていい、好きに生きなさい」と言われてきました。 そして実際、父の先輩お坊さんのお弟子さんを迎え入れることになり、お盆やお葬式の時に手伝っていただいていました。 しかし、そこまで話が進んでいるにもかかわらず、その跡継ぎ予定の方と彼女さんの間に赤ちゃんが生まれ、その上彼女さんはお寺の奥さんになることを拒否しているようです。 父も、直接本人から上記の話を聞けている訳ではなく、どう切り出せばいいのやら、という状態らしいのですが、望みは大分薄そうです。 私もお寺に戻るつもりはありませんし、未来の結婚相手にお坊さんになってもらうつもりもありません。それは両親も同じ気持ちです。 そのため、三重のお寺に入ってくれるお坊さんを探しております。 彼女さんや奥さんがいらっしゃっても、お寺の奥さんになることに同意されているのなら大歓迎です。 どなたか、うちのお寺に入っていただけないでしょうか。もしくは、入ってくれそうな方をご紹介いただけないでしょうか。 よろしくお願い致します。
お坊さんになりたいという質問をしばしばさせて頂いてます、ハルソラと申します。 前回の質問で「お坊さん生活の実情を知った方が良い」とのご回答頂きました。 確かに私はお坊さん生活の実情を詳しく知りません。 過去にお寺が主催する宿泊込みの座禅修行、峰中修行に参加したことがある程度と、 ネット調べでは過酷な修行で肉体と精神が病むほどと書かれていました。 私も今年で40才。その様な過酷な修行に耐えられるのか?そもそも生活自体がなりたつのか?などわからない事が多いです。 その様な実情を知るにはどの様な方法が良いのでしょうか。 ちなみに出家するなら四国遍路した縁で「真言宗」か、よく参加する説法会の寺院が「臨済宗」なのでこの二宗派で考えています。 お坊さまのご回答よろしくお願い致します。
(編集部より。こちらの質問は規約により一部修正しています。) 私は現在、生活保護を受けております。精神障害をわづらっています。 またキリスト教徒です。 障害は、緩和したものの、生きるたつき、はございません。 お釈迦様の、云われる、事は、簡単な本を読んで、そうだな、と思いました。 厳しい道でしょうが、出家したいな、と考えております。 菩提寺は、日蓮宗です。 しかし、禅や、密教的な、修業によっていきやすくなるのでは、と思います。 私事ばかりで、僧侶になれるのでしょうか。 現実的に、いって、貯金もありません。
父が亡くなり葬儀社の紹介で、あるお寺の僧侶にお任せすることになりました。 四十九日も、一周忌も供養をしていただきましたが、高齢のためか(90歳近い?)お経も休憩を入れながら長時間にわたり、その後の法話(お説教)も同じことを何度も繰り返し、世間への愚痴や他の宗教への悪口を言われるので、聞くのがいやなのです。 途中でお断りして帰ったらいけませんか?早く二代目の僧侶に代わらないかと願っているのですが。
お坊さんの皆様、こんばんは。 以前ひっそりと質問をさせて頂いた者です。 あれ以来ほんの少しですが収入が増えたり、心配だった事が解消されたり、家族と楽しいひと時を過ごせたりといったラッキーな出来事が起こるようになり「これがハスノハ効果か!?」と驚いています(笑) ですが慢心はせず、これからも一生懸命働いていこうと思います。 思い切ってハスノハに書いてみて本当に良かったし心が救われた気がします。 ありがとうございました…!
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
こんにちは! 悩みでも何でもなくどうでもいい質問ですが、どうぞよろしくお願いします。 妄想ですが、お釈迦様が説法をしていた時にそこにいた誰かがすかしっ屁をし、あまりにも臭かったとします。そのときお釈迦様は、その臭いを観察するだけで無反応だと思いますか? また答えてくださったお坊さんは、どんな反応をなさいますか? 僕は家族がクッサイ屁をすると、キレそうになりながら違う部屋に行きます。なるべく怒りを生み出さないように心掛けていますが、まだまだですね...。
こんにちは(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) もうすぐゴールデンウィークですね 疲れが溜まってるので お休みが楽しみです。 私くしは、生きている間に戒名を頂きたいなと思って るんですが 理由は、、、亡くなってつけられて 自分の名前 わかるものか?と思ったり 自分の戒名 に納得してなくなりたいなって 思って ましたが、戒名って頂くのに 結構高いので どうしようかなと思ってます。 私くしは僧名を頂いてるんですが 戒名と僧名って 全然違うものなんですか? 無知ですいません。教えていただけたら嬉しいです。 (^人^)
僕は将来、曹洞宗の僧侶になりたいです。しかし、ネットで調べると曹洞宗では、得度というのは父母の恩などを断つもの、と書いてありました。曹洞宗の僧侶にはなりたいですが、恩などは断ちたくありません。どうすればいいですか?
僕は将来僧侶になります。なりたいと思った理由は、女性僧侶に憧れたからです。なので、自分もと思いました。なので、無理だとは思いますが、ラインでもカカオでもいいので、女性僧侶や尼僧の方と仲良くなって見たいです。僕の町には女性僧侶の方はいません。なるべく女性僧侶の方、回答お願いします
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
お坊様の修行と言えば滝に打たれて合掌し瞑想しているイメージですが その時は宇宙と心を一つにしているんでしょうか?
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
お世話になります。 社会人大学院生として、仏教とターミナルケアについて学んでおり、臨床宗教師・ビハーラ僧の活動に惹かれ得度したいと考えております。 終末期における死の恐怖に対して宗教は有効だというのがその理由です。 そのために所属寺を探しておりますが、このような理由で得度したいがために寺を所属する旨は許されるものでしょうか? お寺様に対して非礼であったり、何か問題がありましたらご指摘下さいませ。 なおビハーラ活動で生計を立てるつもりはございません。 (高齢化社会において、そうした体制作りは必要と感じてはおりますが) また、そのような特殊な活動は、僧侶としての基本を身につけた上であることも承知しております。 どたうぞよろしくお願い致します。
諸師家様方お疲れ様です。 さて、未だに安居も法戦もままなりませんが、愚禿はこの度漸く伝法(嗣法)、瑞世までの道程を考えて歩ける程度に法灯を賜りました。 そこでこの度安居に入る前に、一つ諸師家様方に「本師としての嗣法のリスク」をお伺いしたくございます。 と言いますのも、可能であらばどうしても嗣法をお願いしたい師がおり、僧堂に往く前にダメ元でも、送安後に、嗣法して欲しいと頼みたいのです。 ですが、背景として「結制していなければならない」だとか「多額に負担がある」だとか「住職後任として世話しなければならない・檀家に公表せねばならない」だとか易々とは行かぬこともあるのではと思ってしまうのです。 私はその師の寺の副住職になって養子になりたいだとかそんな気持ちは無いのです。只、その師を本師と仰げれば何よりであると思う迄であります。 もちろん、嗣法頂ければ、次代の方丈(例えば血縁の婿)が来た際、粉骨砕身して作務を檀務を支えるつもりであります。 そんな気持ちで嗣法賜ることを願い出てもよろしいのか、師家様方にお伺い致します。 どうぞ宜しゅう。合掌九拝。
お忙しい中ありがとうございます。 私には菩提寺は有りませんが、お釈迦様や祖師の方々は素晴らしいと思っていますし、仏教を心の拠り所にしたいと思っています。 以前は、仏教にも、お坊さんにも良いイメージが有りましたが、あるお坊さん達の言動や対応が酷かったので、イメージが悪い方にガラッと変わりました。 それから年月が経ち、将来、菩提寺になるお寺のお坊さんは尊敬したいと思うようになってきました。 お坊さんのイメージアップを図り、また尊敬できるようにしたいのでお尋ねします。 「皆さんが尊敬する、現代の日本のお坊さんはいますか?」 どんな方か、なぜ尊敬出来るのか、なども具体的に教えてほしいです。また、ネットにお寺やお名前がのっている方がおられましたら教えてください。 よろしくお願いいたします。
私は不動明王様が好きで、お寺や神社で仏像をお見かけすると励ましてもらっている気がしてとても嬉しい気持ちになります。 毎晩就寝前には1日の反省を兼ねてご真言を唱えるようにしています。 ですが最近真言を唱えている最中に、心配事や仕事のことなど余計なことを考えてしまいます。 雑念が入るのはまだまだ自分の意思や心が弱い証拠だとわかっているのですが、僧侶の方々はお念仏を唱えられる際どのようなことを心がけているのか、または集中するコツなどがあれば教えて頂きたいと思います。 情けない質問で申し訳ありません。