今まで、とてつもない重いものが乗っかってるような気分で生きてきました。 それが、心のsosだとわかって、向き合い、受け入れるようにしてきて少しずつ、気分が晴れて軽くなり、視界も広がってきたような感じもします。 一人では決して、自分と向かい合えなかったと思います。 回答してくれたお坊さんに、感謝
今、お坊さんを題材にしたものを描きたいと思っています。 まったく想像もつかない職業でキャラを作ったのですが 青年誌向けの雑誌なのでリアリティーを出すために 一つ質問があります。 お坊さんで言葉で説くのが下手くそで 行動で示すお坊さんは「あり」でしょうか?
55歳を過ぎ、子育ても仕事も一段落した現在、これからの人生は仏教に関する行いを通じて、世の為・人に為に人生をささげようと考えております。 僧侶とまではいかなくとも、仏法対話ができる能力までになりたいです。 僧侶になるには、どのようなステップがありますでしょうか? 高卒で就職したものですから、仏教系の大学も出ておりません。先祖は日蓮宗を信仰しております。 そもそも僧侶になりたい・・など、甘くみてはいけない!と𠮟られるかもしれませんが。
私が住む住宅地に霊園が造成されています。県(担当は保健福祉事務所)の許可を得ているという申請者は、登記上は日蓮宗の寺になっています。 知り合いの工務店の社長が色々調べてくれて、寺の代表は、ここから70キロメートルくらい離れたところに住む不動産業者であって、曹洞宗の檀家の世話役をしているということです。 単立の寺で、信者なし、本堂なしというところだそうです。不動産業者の地元の中小企業経営者団体の会合では、僧侶として、般若心経について講演したと聞いています。テレビのぶっちゃけ寺という番組で、出演する僧侶が一斉に般若心経を唱える場面がありましたが、日蓮宗の僧侶だけは、唱えませんでしたので、その寺の代表が本物の僧侶ではないと疑っています。 県庁の宗教法人グループに確認依頼をしたら、いろいろな形の宗教法人があるので、自分たちは関与できないと、つれない回答でした。私の疑問は、杞憂なのでしょうか。
質問というか。 在家出身のお坊さんって大変じゃないですか?お坊さんとしての仕事はほとんどゼロという方が多いのでは? 個人的な推測ですが。
こんばんは。 お坊様の着る衣装ってどうなっているのか、画像を検索したりしてるんですが、私が思うほど単純じゃ無さそうで細かいところがよくわかりません。 ひょっとして宗派によってデザインが違うんでしょうか? お坊様の好みで選んだりもするのでしょうか? 何種類ぐらいあるんでしょうか? 着るのもきっと難しいんでしょうね。
先代のお坊さんはとても良い方で、人徳者でした。 しかし、今代のお坊さんがとてもよくないです。 葬儀をあげるとき、1週間以上待たせたり、お布施をたくさん要求したり、話もなく勝手にお坊さんを余所から呼び、その分割増しにしたり、檀家を辞めたいという方に金銭を要求したり… 常に多くの金銭を要求してきます。 お坊さんになる修行もどうやら袖を通して早めに切り上げた等、悪いうわさしか聞きません。 お寺は田舎にあり、小さいお寺なのでそのお坊さん一人でおります。 代々そのお坊さんの家系が継いできたのですが、このお坊さんをお寺からいなくなって貰うことはできるのでしょうか? また、新しいお坊さんに来ていただくことは可能なのでしょうか?
愚問でありましたら 申し訳ありません 両親の葬儀からのご縁で 浄土真宗本願寺派のご寺院に法要法話にお伺いさせていただいております 家には お仏壇もお迎えしております ご住職さま 門徒の方々みなさんご親切にしていただいております 両親が亡くなり一人になった私にはいろいろな先生のお話を聞け 法要法話にお伺いするのが楽しみなのです。 法要法話の時に門徒の皆さん 式章をされていまいして お聞きしますと 法要法話に 寺院にお参りする時の正装 とお聞きしましたので 素人考えだったのですが ご寺院に失礼の無いようになのと まだ小さな信仰心から 京都 本願寺様の売店で購入し 式章をつけて法要法話にお伺いするようにしておりました ただ 私まだ帰敬式も受けておらず正式に門徒に なっておりません。 色々な思いからなのですがまだ釈の法名をいただく気持ちに なれないのです。 いつかは釈の法名をいただくつもりなのですが。 いまさらながらに考えますと正式に門徒でない人間が 式章をつけて法要法話に参加しているのは ご住職や門徒の方たちにかえって失礼な事だったのでしょうか? 決して悪気ではなく 正しく参加させていただこうと思った気持ちなのです。 ご住職さまや門徒の皆さんからも注意されたことは無いのですが 質問をお読みいただいた お坊様皆様 のご寺院に正式に門徒 檀家で無いものが そのような正装をして参加しているのは良くないことなのでしょうか? ご意見をお聞きできましたらありがたいです。
こんにちは。 最近、浄土真宗の僧侶と籍を入れ僧侶の嫁として奮闘中です。 夏、冬用、自宅での黒衣の洗い方やお手入れの仕方はそれぞれだと思いますが、どの様にしたら良いのでしょうか? 白衣や襦袢は主人から教えてもらったので出来るのですが、 黒衣を洗ったり手入れをした事がなく… 衣替えの季節でもありますし、そろそろ…と思っております。 クリーニングに出すという方法をお義母さんはしているらしく自分で洗う方法は知らない、また、主人も長い間黒衣に関してはお義母さんに任せていたのできちんとしたやり方を忘れてしまった様で… 教えていただけると有り難いです。 宜しくお願い致します。
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
坊さんのこと考えると 「こんのくそ坊主が!」 と激しく憤る自分がいます。 どういうことなんでしょうか。特に坊さんと会ったことなんてないですけどね。
世間では犯罪者、加害者、受刑者には厳しい目が向けられます。 お坊さんもそうなんですか。 上記の様な人間は問答無用で死ねと思いますか。 刑務所では宗教が更生の手段となってるとのことですが
自分のことについてはこちらを読んでいただくとありがたいです。 https://hasunoha.jp/questions/17526 https://hasunoha.jp/questions/18461 非常にまずい状況です 今は離れて暮らしてますが、ちょくちょく「よし、殺しに行くか」など 母親の殺人について具体的に考えてしまいます。 それはやっぱり自分には更生が無理なのか。何かに見捨てられたような時に起こるのです この手の投稿は何度かしましたが、今日これはやばいと感じました すごい冷静に考えしまうんです、こういうことを。なんとか別のことを考えたり、まあそう思うのもしゃあないよな。とか考えたりしてしのいでます。 たとえ離れて暮らしてるといっても、会いに行けないわけじゃないです。同じ国にいるわけですから。 以前の投稿で母親との記憶に関して話しましたが、具体的ではありません。そのあとよくよく考えてみると、僕はすっかり過去の記憶を思い出せないことに気づきました。なにせ、直前のことまで忘れるのです。うそでしたらごめんなさい。 過去の記憶はほんの一瞬の光景が思い出せるか思い出せないかなのです。それもわずかな。 描き忘れてしまいましたが、事件が起きたとき、罪の意識を感じましたので警察のほうへ自分で出頭しました。そのあと何人かの警官があつまり事情聴取となりました。聞かれたことは動機と過去に虐待があったかどうかです(これは受けてないと答えました)そのあと事件で起きたことを説明となりました。 処分に関しては母親が「犯罪歴をつけたくないから」ということ、警察のほうも「今回は注意」とのことで放免。知らせを聞いた父親につれてかれるというので終わりました。 現在は警備員のアルバイトをしています。 しかし現在母親に強い恨みを持ってるのも事実なのです 僕にはもう、僕がよくわかりません。助けてください
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
お寺の小僧さんの生活について教えてください。 得度前の小僧さんは、どのような生活をされているのでしょうか。 下座行とはお掃除以外にもありますか。 朝の勤行などお坊さんのお勤めは、得度してからですか? ごはんの前にお経を唱えたりとか、夜もまたお勤めしたりとかあるのでしょうか。 得度前、あるいは得度後(一人前になる前)の小僧さんの暮らしについて知りたいです。 どうぞよろしくおねがいします。
正座をされたまま畳に置かれたお茶を取るなど腰に響く動作が多いように思われます。 例えばお坊さんから「腰痛なんですよ」と言われた時などは 脚付きのトレーなどでお茶をお出しした方がよいでしょうか? お膳でお茶とお菓子というのも大層な気がするのでちょっと高さが出るお盆などがいいかなと思ったのですが、やはり畳に置くのが一般的でいいのでしょうか?
お正月に地元のお寺へ初詣に行きました 。 出入り口で鈴を鳴らしながら丼を持って立っているお坊さんがいて、丼に皆お金を入れていました。 私は出入り口前で用事を済ませたので、すごく込み合っている本堂に入ってお賽銭をあげるならここでと思い、用意していた千円札を三枚握りしめ、いざお坊さんに並んでいる列に入ったのですが、 前に並んでお金を入れている人は皆小銭を入れていた為、当方ジャージ姿ということもあり急に恥ずかしくなってしまい、列を抜ける訳にもいかず、結局丼にお金をねじ込むように入れた後プイと逃げるように立ち去ってしまいまいた。 恥ずかしかったですが今年はちょっと奮発したので気分が良かったです。 ちゃんと手を合わせなくてすいませんでした。
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。