こんにちは。 最近、浄土真宗の僧侶と籍を入れ僧侶の嫁として奮闘中です。 夏、冬用、自宅での黒衣の洗い方やお手入れの仕方はそれぞれだと思いますが、どの様にしたら良いのでしょうか? 白衣や襦袢は主人から教えてもらったので出来るのですが、 黒衣を洗ったり手入れをした事がなく… 衣替えの季節でもありますし、そろそろ…と思っております。 クリーニングに出すという方法をお義母さんはしているらしく自分で洗う方法は知らない、また、主人も長い間黒衣に関してはお義母さんに任せていたのできちんとしたやり方を忘れてしまった様で… 教えていただけると有り難いです。 宜しくお願い致します。
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
坊さんのこと考えると 「こんのくそ坊主が!」 と激しく憤る自分がいます。 どういうことなんでしょうか。特に坊さんと会ったことなんてないですけどね。
世間では犯罪者、加害者、受刑者には厳しい目が向けられます。 お坊さんもそうなんですか。 上記の様な人間は問答無用で死ねと思いますか。 刑務所では宗教が更生の手段となってるとのことですが
自分のことについてはこちらを読んでいただくとありがたいです。 https://hasunoha.jp/questions/17526 https://hasunoha.jp/questions/18461 非常にまずい状況です 今は離れて暮らしてますが、ちょくちょく「よし、殺しに行くか」など 母親の殺人について具体的に考えてしまいます。 それはやっぱり自分には更生が無理なのか。何かに見捨てられたような時に起こるのです この手の投稿は何度かしましたが、今日これはやばいと感じました すごい冷静に考えしまうんです、こういうことを。なんとか別のことを考えたり、まあそう思うのもしゃあないよな。とか考えたりしてしのいでます。 たとえ離れて暮らしてるといっても、会いに行けないわけじゃないです。同じ国にいるわけですから。 以前の投稿で母親との記憶に関して話しましたが、具体的ではありません。そのあとよくよく考えてみると、僕はすっかり過去の記憶を思い出せないことに気づきました。なにせ、直前のことまで忘れるのです。うそでしたらごめんなさい。 過去の記憶はほんの一瞬の光景が思い出せるか思い出せないかなのです。それもわずかな。 描き忘れてしまいましたが、事件が起きたとき、罪の意識を感じましたので警察のほうへ自分で出頭しました。そのあと何人かの警官があつまり事情聴取となりました。聞かれたことは動機と過去に虐待があったかどうかです(これは受けてないと答えました)そのあと事件で起きたことを説明となりました。 処分に関しては母親が「犯罪歴をつけたくないから」ということ、警察のほうも「今回は注意」とのことで放免。知らせを聞いた父親につれてかれるというので終わりました。 現在は警備員のアルバイトをしています。 しかし現在母親に強い恨みを持ってるのも事実なのです 僕にはもう、僕がよくわかりません。助けてください
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
お寺の小僧さんの生活について教えてください。 得度前の小僧さんは、どのような生活をされているのでしょうか。 下座行とはお掃除以外にもありますか。 朝の勤行などお坊さんのお勤めは、得度してからですか? ごはんの前にお経を唱えたりとか、夜もまたお勤めしたりとかあるのでしょうか。 得度前、あるいは得度後(一人前になる前)の小僧さんの暮らしについて知りたいです。 どうぞよろしくおねがいします。
正座をされたまま畳に置かれたお茶を取るなど腰に響く動作が多いように思われます。 例えばお坊さんから「腰痛なんですよ」と言われた時などは 脚付きのトレーなどでお茶をお出しした方がよいでしょうか? お膳でお茶とお菓子というのも大層な気がするのでちょっと高さが出るお盆などがいいかなと思ったのですが、やはり畳に置くのが一般的でいいのでしょうか?
お正月に地元のお寺へ初詣に行きました 。 出入り口で鈴を鳴らしながら丼を持って立っているお坊さんがいて、丼に皆お金を入れていました。 私は出入り口前で用事を済ませたので、すごく込み合っている本堂に入ってお賽銭をあげるならここでと思い、用意していた千円札を三枚握りしめ、いざお坊さんに並んでいる列に入ったのですが、 前に並んでお金を入れている人は皆小銭を入れていた為、当方ジャージ姿ということもあり急に恥ずかしくなってしまい、列を抜ける訳にもいかず、結局丼にお金をねじ込むように入れた後プイと逃げるように立ち去ってしまいまいた。 恥ずかしかったですが今年はちょっと奮発したので気分が良かったです。 ちゃんと手を合わせなくてすいませんでした。
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
以前、アルコール依存性の母から息子を守りたい と相談した者です。 あれから 兄弟、親戚にこれまでの事や、息子の状態など全てを解ってもらう為ではなく、知ってもらう為だけに、ただただ話し 息子を連れて 母から逃げました。 母から離れて約一年が経ち、息子は、中学2年になり 人並みに反抗期もありますが以前よりもずっと歳相応の子供らしく思える様子がみえるようになりました。 まだテレビなどでアルコール依存性の人の番組を見たり、実家の近くに近づいたりすると 頭痛・嘔吐など拒絶反応をしめしたりはしますが 嫌な体験ではありますが 他の人より色々な経験を積んだ息子が誰よりも人の気持ちや、辛さをわかってあげられる強い男になれる気がします。 ハスノハに相談したあの時、私自身の精神的限界でした。毎日が辛く 母を殺めようと考えた瞬間もありました。でも母を私が殺めてしまえば残された息子が更に苦しむと考え 息子を殺めて私も自殺を… そんな事ばかりローテーションの様に考えてしまっていました。 ですが、なごみ庵 浦上様からの回答で本当に救われました。考え方を変えることができました。 今、こうして無事 ハチャメチャな反抗期中の息子とケンカできているのも 桜が咲いたと眺められるのも 何もかも普段の当たり前の様な生活の中な何もかもがあの時、なごみ庵 浦上様からの回答の一つ一つの言葉のおかげです。 お礼を伝えたくてこの場をお借りします。 本当にありがとうございました。
はじめまして。 私は、近い将来 大谷派で得度したいという目標を持っています。 在家であり、妻帯者であるため、お寺に入ることは無理でしょうか ら、どこかの寺院にお世話になりながら、活動できたら、という思 いでいます。 しかしながら、地元を離れ、縁も ゆかりもない土地に住む私にとっては、頼るお寺が見つかりません。 近くのお寺の報恩講や法話会に参加しても、なかなか、深い話ができないまま、一年近く過ぎています。 そもそも、ご住職のお力添えなくして、得度が出来ないことはわかりますが、弟子をとって得度するようなことを親族以外の人にも行ってくれるのでしょうか。 また、その場合、一般的に謝金等は礼儀として必要なのでしょうか。師匠と弟子の関係というものが、一般家庭で育ち、サラリーマンとして働く私にとっては、なかなか想像がつきません。 ついつい、逆の立場で考えてしまうと、一般の人の面倒を見て、得度させたところで、メリットがあるのだろうか・・・など考えると、なかなか深い話が出来ません。 何かしらアドバイス頂けたら幸いです。
こんにちは、相談させてください。 よく行くお寺のお坊さんに一目惚れをして、よかったら連絡を下さいという一言を書き、連絡先を書いた手紙を渡しました。 人生で初めてのラブレターでした。 待つ事、早1ヶ月お返事が来ません。玉砕です。 返事がないことが返事。 とわかっているし、覚悟はしていましたが、やはり気になってしまいます。 それに加え、嫌がられるかなとか、そのお寺中の噂になっていたらと少し怖くて、そのお寺にも行けなくなってしまいました... 全てはわたしが決めてした事なので、仕方がないですが、もう一度そのお寺に足を運んでもいいと思いますか? 避けられたり、嫌がられたりするのがとても怖くて、悩んでいます。
ハスノハ初心者です。 殆どのお坊様方の下さるご意見は温かく時に厳しいものもあり、大変親身になってお答え下さっているのだと感じます。 しかし先ほど私の質問に対してではないのですが、ショッキングな回答を見かけてしまいました。 あるお坊様が「結婚は女性向き」「結婚制度は女を守る為のもの」等と回答に書かれておられたのです。 要約すると、女は自分に見返りを求めたがる傾向が強いからこそ結婚すべきだし、女は結婚により守られる存在だ、といった感じです。 このお坊様以外にも「子供を作らないのは身勝手」だとか 「男女には向き不向きがあるからこうした方がよい」等と仰るお坊様方もおられました。 男女は対等な存在であり、結婚は支えあい愛する為にするもの。 女だからといって弱くて至らない存在として守ろうとするのは対等ではなく見下しているのと同じ。 子供は授かりもので、その選択も夫婦の自由意思によるもの。 男女に性差はあるがあくまで傾向でしかなく、腕力等ハッキリ違いがあるものを除いて「向いている向いてない」と決めつけるものではない。 私はこう考えています。 そして当たり前のことではないでしょうか。 とても前時代的なお坊様がおられること、そしてこんな書き方はしたくありませんでしたが差別的な発言をされる方が少なからずおられることにショックを受けております。 こんな風に思う私はおかしいのですか? ハスノハの印象が変わってしまいました。
こんばんは。 少しだけ心がしんどいなあ、というときにいつも開くhasunoha。皆様方の問答に共感しては時に涙し、頑張って前を向いている方々を見ては自分を奮起させるきっかけにさせていただいております。 今回は心の葛藤などの悩みではなく、お坊さんの敬称についての質問です。是非お教えください。 お坊さんの敬称で、「和尚様」「お坊様」というのは正しいのでしょうか。流派によって違うものですか? また葉書の宛先などは、 〇〇寺 住職 △△様 で失礼に当たらないでしょうか。 △△の後に続く特別な敬称等あれば是非お教えください。 いつもお世話になっている方ですので、出来るだけ失礼のないようにしたくこちらで質問させて頂きました。仕様もない質問で申し訳御座いませんが、お答え頂けますと幸いです。
お坊さんの1日のスケジュールはどんなものか気になります。 やはり朝は早く起きて、夜遅くに寝てらっしゃるのでしょうか? お寺によって様々な催し物も開催されているようなので、お坊さんとはとても活動的な人達なのでは、と思っているのですが...。 hasunohaで様々なお坊さん達の取り組みを知り、質問してみたくなりました。 よろしくお願いします。 (前の質問、自殺をしたら地獄へ行くの?では多くの方々から回答を頂けたのにも関わらず1人1人にきちんとしたお礼ができず申し訳ありませんでした。一度お礼を書いてしまうと、後から書いてももう反映されないみたいですね...?参考になりました、ありがとうございました。)
私の母が1年前に亡くなり、一周忌にお寺のお墓に納骨することになって、まだ生きている90歳の父がすっかり体が弱ってしまい、遠いお墓にお参りできないので、母の遺骨を分骨し自分の近くのお墓に埋葬したいと申しましたので、その旨お坊さんに申し出ました。 お坊さんは一周忌の時に、やっと小さな骨壺に分骨し、兄が持って来てくれましたが、いざこちらの霊園に埋葬しようとしたら分骨証明がないと埋葬できないと言われ、お坊さんに分骨証明を書いていただくことをお願いしましたが、当山では分骨は認めていないと言って、書いてくれません。 火葬場に火葬証明の再発行をお願いしても今となってはその分骨した遺骨が母の物である証明ができるのは、そのお坊さんだけなので、こちらではできませんと言われ、でもその時にお寺の監督をしているのは保健所なのでそちらに相談してみるようにと教えていただき、保健所に連絡しましたら、保健所の方が分骨証明は遺族の求めに応じ書かなければいけないという法律があることをおっしゃって、お坊さんに「指導」の電話を入れるとおっしゃて下さいました。 ところがその後保健所から連絡がなく、結果を聞くのが怖くてお電話できずにいます。お坊さんは母の遺骨は父が持っていればいい、父が亡くなったら、戻すようにとおっしゃって分骨は認めないし、どうしてもと言うなら墓じまい、とまで言ってきて、脅されています。 法事は長男である兄がしますし、父亡き後の墓守も兄が檀家としてするので、お坊さんの生活を脅かすようなことはありませんし、父はただただ母の墓参をしたいだけなのです。母の分骨墓地は無宗教の共同墓地で、法事もありませんし、父の居場所から数百メートルの場所のバイアフリーで車いすの父にもお参りのできる墓地なのです。お坊さんとは人を助ける人、そう思っていましたが、心身共に弱り、いつ亡くなるかわからない人(父)にどうしたらこんなひどいことができるのか理解できません。教えていただきたいことは、保健所の指導でも分骨証明を書かいていただけない場合、今後どこに申し出れば良いでしょうか?このままでは母の分骨はどこにも埋葬されず、父が可哀想すぎてみていられません。 どうか老い先短い父を助けて下さい。親戚が絡んでいることや父が高齢なので父を矢面に立たせる裁判は避けたいと思います。
はじめまして´`* 私は仏教系の女子校を卒業して現在は短大でいけばなをしています。高校では毎週宗教の授業が嫌ほどあり、頭が悪いのか何なのか、なぜか宗教だけ成績が一番良かったです( ̄∇ ̄)ですがそこまで宗教に興味がありませんでした。高校3年になると得度を受けないとみんな卒業させないと言われたので仕方なく受けた感じでした。 卒業してからは短大でいけばなをしています。いけばなは仏前供花が元になっているので現在でも仏教的思考は少なからずあると思います。いけばなの歴史などを勉強しているうちに仏教にも興味を持つようになりました。 いけばなや仏教を勉強しているうちに、ふとこんな言葉を思い出しました。〝人間になるな、人になれ〟です。 これは得度をした時に学校の先生(お坊さん)が言った言葉です。当時は意味がわからず流して聞いていましたが、今でもわからず日々考えていますが、なかなか答えにたどり着きません。 〝人間になるな、人になれ〟とはどういう意味なのでしょうか?ぜひお坊さんの力を貸して下さい!