電車通勤をしている者ですが、たった今これから托鉢をなさるだろう若いお坊様3人が同じ駅で降りました。 その後は別方向へ分かれたので彼らの行先はわかりません。 托鉢というのはあちこちでなさるものなのですか? あと、修行しているお寺からこの日にどこそこへ行け、と言われてるのか或いは自らなさってるのか。 いずれにせよ、hasunohaで托鉢の意味を知った私としては見かけたら少しですが入れさせていただく所存ではあります。 あの駅にいれば、ですけど・・・
托鉢とはどのような行なのですか? 駅前に立っているお坊様がおられるので 見たらお布施をしています。 大概私もお坊様も無言です。顔も見ません。 たまに「ありがとうございます」と顔を見ておっしゃるお坊様もいてびっくりしますが 私がありがとうございます。とお金を入れるのが礼儀なのでしょうが、 意味もわからず、ありがとうございますというのも変なので 意味や托鉢について教えて下さい。
以前の職場近くで、出勤時間(9時前)に托鉢をされてるお坊さんたちをたまに見かけることがありました。 5mおきくらいに一人ずつ並んで声を出しながら鈴(?)を鳴らしながら歩かれてました。 そういえば近くにお寺がありました。 当時は自分には関係のないことだと思ってたのと出勤中だったこともあり素通りしていましたが、こちらのサイトを見て、お坊さんが人の心の支えになってくださってることを理解しました。 もしまた托鉢をされてるお坊さん(もしかしたらこちらで相談に乗ってくださる方の卵かもしれない)に会ったら何かしたいのですが、何をどうすればいいのでしょうか? お金?食べ物? たまにバッグの中にプチとかカントリーマァムとか持ってるんですがお菓子とかもOKですか?(もちろん未開封です) 私がお見かけしたのは何人も並んで歩かれてたのですが、そのうちの一番近い一人だけに何かをするより、公平に皆さんにするべきなのでしょうか? 後で合算(?)するんだと思いますが、誰が一番多く貰えたかで揉めたりしませんか? あと、たまにお坊さんを装って托鉢サギをする人たちもいると聞きました。 サギと本当のお坊さんの見分け方はありますが?
以前、托鉢をされている方を見ました。 その人は、お店の入り口の 前で、杖のようなもの?で、音をだしているのを見かけました。 お経も唱えてましたが、怖すぎて逃げました。 しかし相手は、お坊さん・・・。 お坊さんは、お世話になっているので、大好きなのですか、初めて怖いと思いましたが、逃げ出すのは、良くなかったかなと、今更ながら思います。 都会は、怖い
こんにちは 托鉢について質問させて下さい。 1、托鉢のお坊さんを時々出かけた先(繁華街など)で見かけます。 私はこれも縁と思い、時々わずかですが、お金を差し上げるのですが、最近知人から托鉢のお坊さんにも「偽物」がいるらしいと聞きました。 何か見分け方はあるのでしょうか? それとも、たとえ偽物でも、お布施する事がわずかでも私の心の修養(?)になるのでしょうか? 2、「高野山」と書かれた茶色の着物を着た、托鉢のお坊さんを10月と2月に、それぞれ別の場所で見かけました。真言宗でも托鉢する事はあるのですか? 3、托鉢のお坊さんのお椀にお布施する時、周りの目が気になって、無言で近づき、お金を差し上げ、手を合わせてそそくさと逃げ去ってしまうのですが、何か作法のようなものはあるのでしょうか? せっかくの機会ですので、教えて頂きたいです。 些細な質問で申し訳ないです。 いつもこのサイトでお坊さん方の暖かい回答を読んでは勉強させていただいています。ありがとうございます。
昨年得度した曹洞宗上座でございます。 私は、安居までの娑婆暮らしの間、自己研鑽の為に月に二度程托鉢に出ております。托鉢の次第や作法等はよくお世話になっている和尚に教えて頂いているのですが、なんとなしに前日托鉢をしていて気になったことがございます。 何処の宗派ともない袈裟を身に付け托鉢に似せた者が金銭を乞い(この中に万が一にも"私度僧"の意志で修されている方がいれば大変失礼な表現なのですが)、世間での托鉢僧の印象を下げている中、例えば宗門の袈裟を被著している血脈ある僧侶の托鉢というものは素人目には前者と同じものに見えます。これは時に「軽犯罪法の乞食」として警察の方に所謂職務上質問等を受けることはあるのでしょうか?私は托鉢の最中、何度か警察の方とお会いしてことはございますし、警察署の前を通ることもございますが、そういった経験はありません。ですが警察の方も個人それぞれの仕事の仕方をされてるでしょうから、或いはそういったことも有るものかな、とふと気にかかった次第でございます。 もし、一人や二人での托鉢で警察の方に声を掛けられたことがあるという師がいらっしゃいましたら、そのお話を聞かせて頂けたら嬉しいです。宜しくお願い致します。 合掌
冬場の午前中、駅で1人お鈴(と言う名称で合っていますか?)を持った若いお坊さんが立っていました。 托鉢僧に対して、どう接したら良いのか分からず、いつも素通りしていた事が今でも心に引っかかっています。 無言で立っている姿は、ちょっと近寄りがたくもあります。 お坊さんの為ではなく、私達の為に立って下さっているんだ。と、思うのですが、気恥ずかしさもあり近寄る事すらためらってしまいました。 何を渡そう?お金ならいくら?そんな事を考えると、今日は無理だ。今度にしよう。となってしまった意気地なしです。 托鉢僧の目的は何となく分かるつもりですが、作法や心構え等あれば教えて下さい。 今もまだ居るかは分かりませんが、托鉢僧の偽者と本物の見分け方等はあるのでしょうか?
最近ふと思った事です。「そうだ。次に四国遍路に行ったら托鉢でもして巡ってみようか」と。 でも確か托鉢するには宗派ごとの決まり事や、許可が必要だと聞いた事もありますので一般人がしたら問題ありそう。 托鉢と言っても人様の家に訪問したりはしません。街頭に立ってお経を唱えるくらいです。 ちなみにお金に困っている訳ではなく、それも修行になるかもしれないと思ったからです。 どうなんでしょうか? お坊さまのご回答よろしくお願い致します。
以前、難波駅近辺でとても若いお坊さん(外国人のお坊さんもいた)が お経を読みながら托鉢をレてました でも凄い気合いで誰もちかずけない恐ろしい才ーラがあり… 近ずく人はいません。 しかしっ 私は お金を入れてみたくて仕方なく 勇気を絞り込んで 遠めから 腕をいっぱい伸ばした! チャラン … 五百円 入れましたら お坊さんが 頭を下げて私にお経を唱えてくれました(*_*) でも 家に帰って思ったんです あんな凄い気合いでしてたのに お金を入れる人がいた事は近ずいた人がいた事で… 寺に帰ったお坊さんは怒られたんじゃないかって… 教えて下さい 托鉢の修行とかあるなら お金を入れる人がいたら 気合いが足りなかったとかで怒られたりしませんか? ずっとお20年くらい気になってしまっているので宜しく返信お願いします(>_<)ヽ
3年ほど前にスッタニパータを読んで以来仏法の素晴らしさを知り、日に何度か座禅を組むようになりました。けれど、いつまで経っても睡魔にすら打ち勝てず、煩悩もちっとも減らず(減るものでもないのでしょうけど)、日々の生活に虚しさが募るばかり。主要な大乗経典も大方読みましたが、知識として蓄積するだけで、実行が伴いませんでした。 私は早々に聖道を諦め、凡夫であることを受け入れて阿弥陀如来に帰依しました。 弥陀の誓願の有り難さをひしひしと感じながら、日々念仏を称えています。 ただ、どれだけ念仏を称えても、日頃の生活の内で多くのことに囚われ、信仰を忘れます。 私のように下生下品の愚人は、在家のままで信心決定などあり得ないのでしょう。 いずれは遍歴して、そこで念仏申すだけの路傍の石のような身でありたい。 そうしてその姿が、誰かの仏縁になるかもしれないという淡い希望もあります。 勝手に出家して、私度僧として托鉢で暮らすのはお寺に迷惑になるでしょうか? 布施がなかったり、病に掛かったりで死ぬこと自体は全く怖くないのです。 ただこの何処へ向かうとも判らない迷った心のまま、ふと死を迎えるのが恐ろしいのです。 決して一時の考えではありません。 どうか智恵をお貸し下さい。
私は京都に住んでいたことがあり、よく「ほ~~~~~(?)」と声を上げながら、数人というよりもっと大勢で托鉢(?)されているお坊さんをよく見かけました。 思い込みでてっきり禅宗の方かと思っていたのですが、浄土真宗の別院の近所に住んでいる知人は浄土真宗の方もされていると言います。 テレビでは密教の方も托鉢をなさるというのを見かけました。 私がいつも見ていたお坊さん方は、どの宗派の方だったのでしょうか? 当時の住まいは右京区でした。
托鉢でしょうか、お坊さんが円錐の藁の帽子みたいなのを被って、おわんみたいなのを持っていらっしゃいました。 どうすれば良いのか分からなかったのですが、おわんの中にお金を入れれば良いのでしょうか? どうすれば良いのか分からなかったので通り過ぎてしまいました。 私にできる事がありますか?
こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……
子供の頃愛知県名古屋市北区のダイエーの付近で托鉢をしていたお坊さんにあえてゴミを渡してしまったことを後悔しています。 その人に謝りたいのですが方法はありますか?
曹洞宗僧侶です。 真言宗、特に高野山真言宗の先生にお伺いしたいことがございます。 先月、10年以上、日々托鉢と托鉢行で縁のあった方のご法務のみで、如法に生活されていた高野山真言宗の僧侶が遷化されました。(この話でどなたかお分かりの方もおられるかもしれませんが、詮索はされないようお願い致します) 私も現在、お寺に身を置き法務を主軸に生活はしているものの、暇があっては托鉢は極力欠かさぬよう行っておりますが、今日そのように行乞に歩めるのは、その真言宗の先生が、托鉢の先達として現代社会での(道場ではなく個人での)托鉢の在り方を、言葉や姿勢で示して下さったからこそにあると思っております。 件の先生とは、私が托鉢を始めてから間もなくご縁があり、以来、宗派こそ違えど同じ托鉢を行う比丘として垣根なく接して下さりました。 その先生なくしては、私は今日まで托鉢を継続することは出来なかったことでしょう。 その報恩感謝を示したく、遷化より四十九日に当たる日に件の先生が托鉢されていた地にて、ささやかながら亡僧諷経をお勤めさせていただこうと予定してております。 そこでなのですが、当日はその先生のお位牌をご用意し、お経をお勤め致したく考えておるのですが、真言宗の亡僧位牌の書き方が分からず、真言宗の先生方にそのご教示を頂きたいのです。 曹洞宗の場合ですと上から「【〇〇第〇世比丘(住持職の場合)】【道号】【法名】【僧階】」となりますが、今回は【道号】に当たる部分は分からず【僧階】についても、以前僧籍簿の写しは拝見したことがあるのですが、正確な僧階が分からない為(一応、住持職に付ける最低限の僧階とは仰ていました)、遷化された真言宗の先生に対する適宜な尊称にて代えさせて頂ければと思うのですが、どのような尊称が相応しいと思われますでしょうか。 周囲の高野山真言宗の先生方にもお伺いしようと考えておりますが、これは同じ宗派でも地域や法流によって様々であるかと思われますので、ひとつでも多く参考になるご教示があれば幸甚でございます。 何卒宜しくお願い申し上げます。 合掌九拜。
会社員をやっています。 毎日毎日働いているのにほとんどが税金で持っていかれ、日々物価高等に悩まされても政治家は私腹を肥やしているようにしかみえなくて、こんな連中に国を任せて大丈夫なんだろうか?と思う日々です(とはいえ他の政党の良さがわからず自●党に入れるしかないんですが。。)。 なぜ仏さまは富めるものと貧しきものに差をつけられるのでしょうか? 正直者はいつだって馬鹿を見ているような気がします。 托鉢の逸話も知っていますが、貧しいものはいつまでも貧しいままなのでしょうか? 誰かにこの気持ちをぶつけたくて当たりたくて仕方ない心を必死にとどめていますが、このままでは心が持ちません。助けてください。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
いつも大変、お世話になっております。今日は質問ではありません。 先日、都内で電車に乗っていた時の事、旅支度のような姿をしたお坊様に出逢いました。私は初対面にも関わらず、すくっと立ち上がりお坊様の所へ行き、ご挨拶をさせて頂きました。そのお坊様は臨済宗の修行道場で修行をしてお坊様になられたそうで、ご自坊は九州だそうです。鎌倉の建長寺さんとは違う流派だそうです。一人で修行を続けているとおっしゃっていました。私はすかさず「托鉢中ですか?」とお尋ねして、ほんのお気持ち程度しか手持ちがありませんでしたが、お坊様にお気持ちをおわたししました。 お坊様とお話をすると何故か清々しく、心洗われた気持ちになりますね。私は現在は年に二回、曹洞宗の老師様のご法話を聞きに行っております。やはりお坊様に直接、お目にかかると身が引き締まります。私の実家も嫁ぎ先も浄土真宗お西なので仏壇やお墓参りをする時には南無阿弥陀仏をお唱えしています。
先日同い年の友人と話していた時に収入のお話になりました。 私よりも友人のほうが収入がよかったです。なんだか悲しかったです。自分もこんなに働いているのにどうして?という気持ちになりました。 こんなことを考える自分も嫌です。その友人とこれからどうやって付き合っていけばいいですか?会う度に私よりも収入がいいんだ、と思いがよぎったり、一緒にでかけても友人にとっては、安い買い物なのかな、、と思ってしまいます。 どうすればいいですか。