5月の25日に、娘が亡くなりました。 7月に四十九日を行います。 日蓮宗のお墓に入ります。 私は、娘のお骨の一部を手元に置こうか悩んでいます。 彼女の死は受け入れています、しかしさみしく思い、分骨を考え ています。 しかしそれが、彼女にとって良いのか解りません。 私の思いは、彼女に早く生まれ変わってほしいと願っています。 どのような形でもいいのでもう一度逢いたいです。 そもそも人は亡くなったら、どのような道を進むのでしょうか。 この年になってお聞きするのはお恥ずかしいのですが、どうかお答えください。
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
ある仏教は、踊って念仏を唱えれば極楽往生ができるとかなんとか。 ある仏教を考えた人は苦行をするなといってるのに、ある人達は千日回峰◯をやり。 ある仏教を考えた人は欲を断念してこのクソ(この世界はクソです死も欲も病も苦しみも弱肉強食というルールもうえつけたクソな存在が作ったクソな世界)にまみれた世界から逃れようと考えた。 しかし今いる仏教の人達は、結婚もして死んだ人にお経を唱え、大金をもらい。 そして無知な人達は、それをありがたいと思い仏教をますます勘違いさせる。 仏教は政治に使われ、金儲けに使われ。 ナンジャコリャって感じ。 いや仏教道を貫いたとして、この世界の理をわかる仏教の偉い人はいないし、みんなを幸福にしてくれたり教えたりする仏教の人もいません。 例えば、説教みたいな形で君は考えが甘いとか言われてしまいます。その甘い考え(脳や思考回路の伝達物質やらなんやら)を作ったのはその仏様じゃね?と思うのです。 またじゃあ知能が低くて仏教すらわかんない存在に生まれた健常者って苦しむだけ?人間界に生まれたのに解脱できずに苦しむの?って感じです。 私は仏がもし存在するのなら私の全存在をかけて恨み通します。それだけ極悪非道な存在だと思います。 結局仏教って、一部の恵まれた人しか心理には辿り着けず、一部の生まれてきた親が仏教系の人が金儲けのために仏教を難しいことにして他人を説教して世の中のおかしな所をみてる若者に対して考えが甘いとかいって批判するのが仏教?
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
仏教の修行というのは色々あると思いますが、特に孤独に修行に励むタイプの人たちって心が壊れたりしないんですか?逆に心が壊れない程度の修行だったら生温いのかなと思ったりもしますが、自己の内面においてどういう所まで行けば変化が生じるのだと思いますか? 世の中にはギリギリの精神状況で死んでいく人たちがたくさんいますが、阿弥陀如来を目指すような仏教徒たちというのはそういう人々の苦しみを理解すべく自らも苦しみと孤独の中に身を置いて修行しているのだと思いました。そうでなければ真に人生一般の普遍的な、かつ苦楽の深みみたいなところに到達できないと思ったのですが。
漠然とした質問で 申し訳ありません。 私が今生きてる 意味が分からないのです。 今は夫と2人暮らしですが 夫も寛解こそしているものの再発が心配だし 私自身も色々病気持ち もし夫が先に居なくなってしまう事を思うと 不安で一杯になってしまいます。 こんな気持ちで 過ごしたくないのに こんな話ですみません。 よろしくお願い致します。
こんばんは、般若心経について質問させて頂きます。 幾つかの本や、ネットで般若心経の意味を調べました。この世の全ては「実体がない」という事は分かりました。しかしその「実体がない」という事が何なのかが、どうしても分かり切る事ができないのです。私達が見ているもの感じているもの、そして私達自身、世の中のあらゆるもの、実体がないとはいえここに私の身体はあります。 「実体がない」とはどういう事なのでしょうか?このような疑問も実体がないのでしょうが、どうか教えて頂きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?
初めて投稿させていただきます。 供養やお墓参りについて教えてください。 昨年結婚したのですが、入籍前の同棲期間から主人の怪我や事故が頻繁に起きていて心配です。 怪我か事故が毎月、それが半年以上続いており、主人も不安がっています。 一緒に暮らし始める前は全くありませんでした。 主人は、数年前に事故で同乗していた友人を亡くしています。 また、主人の実家はご先祖様を想う(お墓参りなど)もないようです。 ご先祖様に関しては、地域性の違いもあると思いますので 仕方ないことかと思います。 私の考えすぎかもしれませんが、亡くしてしまった友人は、幸せになる主人を恨んでいたりするのでしょうか。 気持ちの持ちようだとわかってはいるのですが、自宅で可能な範囲ででも、 私が勝手にお線香をあげたり花をあげても良いのでしょうか。 私の地元ではご先祖様を大切にするよう言われていたため、 結婚報告を兼ねてお墓参りをしましたが 主人のご先祖様にはご挨拶もしていないのが心残りです。 それも含め、私がどこまでして良いものか教えて頂きたいと思います。 宜しくお願い致します。
今31歳になりました。会社員です。 20代は仕事を駆け抜け、30代になり、仕事を通しての自分のあり方を深く考えるようになりました。自分は生涯何を残したいのか?最近常にこの軸に自問自答しながら、仕事をしています。 35歳までには自分のビジョンを達成する為に、起業を考えてます。 いろいろなタイミングや経験から 生涯何を残すのか?自分の使命とは?がより明確になってくると信じています。 明確なものが、私に見えてくるのでしょうか? どうせ一度の人生なら、仕事を通して使命をまっとうしたいです。
現在、高校一年です。 入学してすぐに、黄檗宗のお寺の息子さんとお付き合いするようになり、今で8カ月になります。 とても仲良くしてるのですが彼の性格上、ケンカをすると口いっぱいに文句を言われます。 お前と俺の住む世界は違う。とか、お前に俺の家の事のなにがわかるねん。とか、とにかく理不尽な理由でキレられ、毎回私が謝って仲直り。みたいな感じです。 とにかく、口いっぱいにまくし立てて言ってくる彼の性格をかえてあげたいのですが、彼は以前、周りの顔色ばかり見て心を病んだ過去があるらしく、思いっきり言い返すこともできません。 私が言ったことで、病んでしまったらどうしようという思いがあります。 別れる事も考えましたが、私が居ることで精神安定している。と彼が言っていた事を考えると、別れる事を考えるより、彼の性格を何とかしてあげたい。と、言う気持ちになりました。 どうしたらいいでしょうか? 彼の家は、男3人兄弟の長男でとてつもなく、期待をされてるみたいで、デートをしても朝早くから遊んで、4時には帰る。夜まで一緒にいた事もありません。お父さん、お母さんの言う事にとてつもなく忠実で、右向け右の状態で自分の意思は家では無いみたいです。 どうしたらいいですか?
お坊さんになりたいという質問をしばしばさせて頂いてます、ハルソラと申します。 前回の質問で「お坊さん生活の実情を知った方が良い」とのご回答頂きました。 確かに私はお坊さん生活の実情を詳しく知りません。 過去にお寺が主催する宿泊込みの座禅修行、峰中修行に参加したことがある程度と、 ネット調べでは過酷な修行で肉体と精神が病むほどと書かれていました。 私も今年で40才。その様な過酷な修行に耐えられるのか?そもそも生活自体がなりたつのか?などわからない事が多いです。 その様な実情を知るにはどの様な方法が良いのでしょうか。 ちなみに出家するなら四国遍路した縁で「真言宗」か、よく参加する説法会の寺院が「臨済宗」なのでこの二宗派で考えています。 お坊さまのご回答よろしくお願い致します。
はじめまして この度、早産で子供を亡くしたのを期に、義父と夫とでお墓を建立する事になりました。 義父母は遠方に住んでおりまして墓は私達世帯の近く(都内)に建立したく探しています。 義父の実家(本家)のお墓は曹洞宗のお寺にありますが、今回候補に挙がっているお寺は天台宗です。 私の実母は、霊園でなく寺墓地なら同じ曹洞宗にしたほうがいいと言い、私もそれはそう思うのですが、義父母は全く信心がないので、私と母の意見に耳を傾けてくれません。もし、改宗するのであれば、何か儀礼的な事をすれば良いのでしょうか? 紆余曲折してようやく話が纏まりかけているので、早く納骨をしてやりたいと思います。 お忙しいところ恐縮ですが、アドバイスいただければ幸いです。
日蓮宗のお寺の住職である父親が急死して、まだ高校生である長男がお寺を継ぐ為に修行する事になりましたが、周りの方にいいお坊さんにならなければだめだと言われました。いいお坊さん?どんなお坊さんがいいお坊さんなんだろう?檀家さんなどとうまくコミュニケーションがとれるお坊さん?お経、作法などが完璧でなんでもこなせるお坊さん?人間的に器の大きい優しくどんな時でも冷静な判断ができるお坊さん?色々考えてもわかりません。私は母親ですが、私も的確なアドバイスができませんでした。どんな風に言ってあげたら良いでしょうか? また、もしおわかりになったら教えていただきたいのですが、日蓮宗 清澄寺での度蝶交付式は来年の1月の何日に行われますか?来年の事でなくても今年の1月は何日に行われたかでも結構ですのでお願いします。
はじめまして。 今年女の子の双子を出産し、生後3ヶ月で1人を亡くしました。 妊娠中から様々なトラブルに見舞われ、緊急帝王切開で早く産まざるを得ませんでした。 かなりの早産だったため、2人とも1000g満たない小さな赤ちゃんでした。 出産直後は誕生してくれた喜びよりも、こんなに小さく産んでしまった自分を責め、この子達は無事に大きくなれるのだろうかという不安でいっぱいでした。 2人ともNICUでしばらくお世話になったのですが、長女はすくすくと大きくなり2ヶ月ほどで退院することができました。 次女はなかなか思うように大きくなれず、手術も何回も繰り返し、結局NICUを出ることなく亡くなってしまいました。 次女が亡くなった直後は、生きている長女のためにも頑張らなくちゃという気持ちで無理をしていたのかもしれません。 しかし、四十九日を過ぎたあたりから実感が湧き始め、慰めのつもりでかけられる言葉が胸を突き刺さるようになりました。 今では人に会うことが怖くなり、外に出ることもできなくなってしまいました。 元気に育ってくれている長女のためにも、一生懸命生き抜いた次女のためにも、私はしっかりとこの世を全うするつもりです。 しかし、毎日次女を思っては涙が止まらないんです。 何で他の赤ちゃんではなく次女だったのか。 私には2人を育てる器量がなかったのだろうか。 何でもっとお腹で大きく育ててあげれなかったのか。 一人で寂しくしていたらどうしよう。 いつも私たちと一緒にいてくれてるのだろうか。 また会えるのだろうか。 こんなことばかり考えてます。 次女を亡くした悲しみを乗り越えるつもりはありません。 乗り越えたいとも思いません。 ただ次女がどうしているか知りたいんです。 お願いします。
こんにちは。 友人が死にたいと言っており、なんとか思い留まるように説得していますが、友人の決意は固いようで困っています。 その友人は、ある国家資格を取るために勉強をしています。資格取得の試験は年に一度しかなく、もう6回も落ちています。 その資格を取るために残業のない仕事に転職し、昼間働いて夜は学校へ、という生活をもう6年以上しています。学費と生活費と両親の借金の返済で、ギリギリの生活をしているので、とにかく資格を取得して、たくさん稼ぎたいとのことです。 今年も試験が終わりましたが合格の可能性は低いようで、私に、今年合格しなかったらもう死ぬ。もうこれ以上頑張れないから。と言います。 親の借金を返済しながら、少ない給料での長年にわたる受験勉強に疲れ切っているのです。 私は友人の頑張りをずっと見てきました。なので毎年試験に落ちる度に励ましてきたつもりです。 しかし、今回は説得しても私の言葉は伝わらないようで、自分は結婚もしてないし、金もない。親の借金まで背負って、生きていてもいいことなんか何もないから死ぬんだ。もういいから、と言うばかりなのです。 どうしたら、どう言葉をかけたら友人は自殺を思い留まってくれるでしょうか。 何もしてあげられない自分がもどかしく、こちらに投稿させて頂きました。 よろしくお願い致します。
質問んが多い中、既出の質問でしたら申し訳ございません。 さて、人は死後あの世というところに行くそうで、そこにはすでに亡くなった方々がいると聞きます。 しかし、一方人は死後49日で再度生まれ変わる輪廻を繰り返すとも聞きます。 いったいこれはどう受け取ればいいのでしょうか? 私はおそらくだいぶ先とは思いますが死んだあと、尊敬し心の支えとしている亡父にあの世で再開し、“良く頑張ったな”と褒めてもらうこと、その他既に亡き人々に再開できることを本心から楽しみに(それ頃心の支えとし)、苦しい時を乗り切っているので、上の疑問を持った次第です。 亡くなった方々はあの世で待っていてくださるのでしょうか、ご回答をどうぞよろしくお願いいたします。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。