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hasunoha 問答検索結果 : 「幸せ」
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心願成就について

仏教の入り口に立ちなにやら分からなくなってしまったので教えて頂きたいのですが 仏教の到達点は苦しみから救われることだとの解釈をしていますが、どのお寺でも心願成就のご祈祷やお守りがあります。 望むこと自体が欲なはずなのに心願成就をお祈りして叶うのでしょうか。それともその心願自体が苦しみであるからその捉われから解き放つという意味なのでしょうか。 例えば、守るべき人の為に出世したいとか、好きな相手を幸せにすることが己の幸せ《救い》とか願ってはいけないことなのでしょうか。それすらも捉われであって身を任せなければならないのでしょうか。 で、あれば仏様に祈る心願成就とは何を祈るべきなのでしょうか。 現代社会の中では、祈ることも預けることも逃避と断ぜられることも多々あると思います。逃避とはいえ、仏の修行は果てしなく苦しい逃避なのではないかと。 人でなくても輪廻の中に生きる生物として その枠を越えて望むことは許されているのに、一人を幸せにすることは憚られることなのか。勿論、今世だけのスパンでないことは素人なりに理解しているつもりですが 失礼なことを書き連ねましたが 何卒、宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 44
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父が他界してからの心の穴

 私は3歳のころ母方のおばあちゃんの家に約一年間預けられて育てられました。そこでおばのやさしさとおじの厳しさに触れながら優しい子に育ったつもりです。しかしその後両親の家に戻り、両親に全く懐いてなかったせいもあってか、何事も兄優先でほめられたことなど一度もありません。何をやっても私には関心がなく愛されていないと確信したのも小学生のころでした。その後小学生中学生と人を悲しませる悪いことをしていましました。おばあちゃんの涙を見てしまったときから体の中に電撃が走ったような気持ちになり、このままではいけないと改心したのは中学生の時です。  高校になると部活動で誰にも負けたくなかったのでひたすら努力しました。勉強でもそれは同じです。しかしここで父親が登場します。私の努力をすべて無駄というかのような態度、言動をとってきたように感じました。父は敵。将来はお金をたくさん稼いでこいつを苦しめて、父が死ぬときは一番苦しい死を与えてやろう。愛されて育った兄が憎い。愛さなかった両親が憎い。死ぬ気で頑張って見返してやろうと努力をしてきました。  長くなりなりましたが本題です。大学一年の夏に父が急性心筋梗塞で他界しました。葬式で、父の亡骸をみてまた体の中に電撃が走ったような感覚に陥りました。父は、母は、私を愛していた。私が子供だっただけで何もわかってなかった。なのにわかったようなふりをしていただけのただのガキだったんだ。父が死んだのは私に対するストレスだ。なんてことをしてしまったんだ。罪の意識に苛まれたまま夏休みが過ぎ、ある決断をします。残った母を幸せにしてあげよう。そのためならどんな苦しいことでも頑張ると。  今まで私がとってきた態度のせいで母と兄からは邪魔者扱いされる日々です。すべて受け入れているのですが私の思いが通じなくてつらいです。  最近は何をしても楽しめません。母を幸せにする気持ちと父に対する罪を背負って生きていく覚悟は固まっているのですが、果たして本当に正しいのかもわかりません。どうやって生きていけばいいのですか。何をしても申し訳ないという気持ちしか湧いてきません。自分の幸せのために頑張ったことがないので自分の幸せを望むなど考えられません。いつも人と比較して負けないためか、相手を倒すためにしか努力をしたことがありません。こんな私でも自分の幸せを願っていいのでしょうか。

有り難し有り難し 21
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2025/08/06

どんな自分も受け入れるには

度々お世話になっています。何度かの相談後から「今ここ」を意識する、数分からの瞑想など、少しずつ練習を始めて相談前より嫌な妄想や侵入思考に囚われる時間が段々と少なくなってきました。 この事は自身にとっても嬉しい事ではあるのですが、同時に「本心でなくとも人として本当に最低すぎる愚かな事を考えてしまった、思ってしまった自分は今ある幸せを受け取って良いのだろうか」という考えや罪悪感が心の片隅にずっとあり、素直に今ある小さな幸せを感じようにも感じきれない時があります。 そこには自分が自分を許せず、こんな自分は自分じゃないと認めていない部分や、自信の無さ 自分が大事にしている事(どんな理由であれ人や生命を傷つけてはならない。それは言葉や思いであっても)を裏切られた怒りと悲しみが強くあり 又、人間誰しも良い部分と悪い部分があってバランスが大事と分かりつつも、常に清廉潔白でありたいという気持ちが強すぎるのだと思います。 そして、まだまだ「思考=自分」の考えが根深く残っており、思いをコントロールしたいという無理難題な気持ちも少なからずあると思います…。 でも、ずっと同じ所で堂々巡りの中、悩んで苦しんで生きていたくない。少しずつではあるけど、以前より前に進めているのだから進めている事実を見ていたい。今ある幸せをちゃんと感じたい。 そのためには、「どんな自分も受け入れる」事が大事だと分かりつつも中々難しく、またそこで悩んでしまいます。 どうすれば本当の意味で自分を受け入れる事ができるでしょうか。 毎度まとまりがなく、長々と申し訳ございません。

有り難し有り難し 6
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