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検索結果: 2922件

この先、生きていける気がしないです

生きたくないです。 現在高3なのですが、何をやっても長続きしません。ちょっと嫌なことがあればとことん逃げて、諦めて、避けての繰り返しです。色んな人が応援してくれてるのに、手を貸してくれるのにいつも期待を裏切ってしまいます。そんな自分が中学生の頃から大っ嫌いでした。変わろうと決めてもあれこれ余計な事を考えてなかなか行動できなくて一向に嫌いな自分から変われませんでした。なりたい自分に程遠くて毎日自分に嫌気がします。 私にはなんの取り柄もありません。色んな人を巻き込んで心配させて、困らせる、存在してるだけの無意味な人間です。 親にも仲のいい保健室の先生にも死にたいと相談しましたが、理解して貰えませんでした。叔母からは家族を納得させてから死んでと言われました。学校のカウンセラーの先生に相談したところどうやったら死ぬ事をみんなに認めてもらえるか一緒に考えようと言われました。 私は死が悪い事だとは思いません。自分の人生ですしその先、生きる意味がないのであればそこで終わらせていいと思います。でも私の性格上みんなを納得させてから死にたいです。死はなぜいけないことなのですか?生きなければなりませんか? 高3まで来ましたが全然学校に行かずに、家にこもってばっかりです。大学に行くにしろ、職に就くにしろ、バイトするにしろすぐ辞めるのが目に見えているので行動できません。こんな人間、この先の人生やっていけないと思うんです。

有り難し有り難し 35
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2024/04/23回答受付中

亡くなった後も意識はありますか?

こんばんは、夜分遅くに失礼いたします。 昨年末、とても大好きだった愛犬が虹の橋を渡りました。 皮膚の病気を長年患っていて、ある年からは50匹に1匹と言われる珍しい病気にもなって嘔吐する時、同時に倒れてしまうような病気でした。 最期はその病気による誤嚥ですぐにかかりつけの動物病院に連れて行って、その日の昼過ぎに仕事で他の家族はおらず私だけが看取りました。11歳と3ヶ月でした。 もういなくなってから早くも4ヶ月が経とうとしているけど、未だにあの日を思い出して心が痛くなります。 そして最近耳に入ったとある方の曲を聴いていて、ふと思ったことがあります。 死んだ人やペットに意識のようなものはあるの? 今まで私は死んだらどうなるんだろう?とか死の先には何があるんだろう?とぼんやりと考えてことはあっても、きっと死んでしまえば何も考えなくなるのかも、と考えていました。 けれど最近聴いたその曲の歌詞を見た時、もしも死んだ側に意識のような何かがあるのだとしたら、その死んだ誰かにも大好きで大切に想う誰かがいて、その誰かの傍にいるのなら死を悲しむその誰かに語りかけているかもしれない。と思ってしまい、それが虹の橋を渡った愛犬だったらと考えた時、とても苦しくなりました。 マイペースで甘えるのが下手な子だったけど、とても甘えんぼなあの子がもし私たち家族の近くにいてずっと話しかけてたら。私たち生きてる者には見えないし、声を聞いてあげることもできないのに、ずっとずっと近くで話しかけてたらどうしよう…と堪らなく悲しくなりました。 もし、死後も意識があってあの子が私に話しかけてるのに気付けないせいで寂しい思いをしてたらどうしたらいいのでしょう。

有り難し有り難し 12
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罪を犯しました。

罪を犯してしまいました。それも、私がこれから志すつもりであった道に関する罪です。 法の遵守を訴えてきた法学生が法を犯すような、医者は人道的であれと主張する研修医が人を殴ったような、そんな罪です。 遅ればせながら罪に気づき、謝罪すると、被害者の1人は「謝らなくてもいい」と言ってくれます。しかしそれは気を遣っているのでしょう。彼女がその時抱いた恐怖は、消える事はありません。私が罪を犯したという事実も、一生残ります。私が今の学問の道を続けるなら、尚の事、何かにつけて思い出すでしょう。 加害したことがここまで苦しいと思いませんでした。自分が加害者だと認める事がこんなに怖く、苦しく、恥ずかしい事であるとは。しかし、罪を犯し人を苦しめたことは(それも致し方のない罪ではないのです。すべて私が悪いのです。悪意すらなく、人の領域を自分の欲の為に踏みにじったのです。)何をしても償えません。私が罪を忘れず苦しむ事が、まっとうな罰だと分かっています。それなのに、救われたいと思ってしまうのです。一生この罪を背負うと思うと怖くてたまらない。彼女に許しの言葉をかけられたいとすら願ってしまいます。私の学ぶ道すら汚してしまったことも、私を苦しめます。これから実績を積み、表に立つほどに、私は過去の罪に怯え、人に罪を隠し、綺麗事を吐いて生きるのでしょうか?そんな不誠実、耐えられません。しかしそれがいやだからといって、罪を告白して生きる事も怖いです。親友や家族にさえ言えません。どれだけ失望されるだろう。言い訳や弁護の余地がないほど、私が全て悪いのです。日頃から学び、やってはいけないと知っていたはずの罪を犯した私を、軽蔑しない者がいるでしょうか。恐ろしくて震えます。 彼女に負わせた傷をさしおいて、こうして自分の身ばかり考え、自分の苦しみばかり訴え、救われたいなどと思っている自分の愚かさに一層深い苦しみに囚われます。救われるべきではないのに、罪と向き合い背負うべきなのに、怖くて苦しく救いを求めてしまう私を、叱咤してください。そして、今の学問を続け生きていく上で、大切な人々に罪を告白し、加害当事者として批判を受けながら進むべきか、隠して1人後悔と罪悪感を抱えるべきか、どちらが正しいのかお教えください。

有り難し有り難し 93
回答数回答 1

仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 243
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女なのか、男なのか。

女なのか、男なのか、はたまた別の生き物なのか。 僕は女として生まれました。 幼い頃は女であることに疑問はありませんでした。 (と云うか、女とも男とも思ってなかったのかも?) 周りの女の子たちに生理がはじまり、胸の膨らみがあらわれるようになった頃です。 僕は僕に疑問を持つようになりました。 僕は女じゃない。 でも、男でもない。 定まらない性が、今も僕を苦しめます。 スカートもいつしか嫌いになっていました。 心の中で男っぽい服装の時は男装と言い、女っぽい服装の時は女装と言っていました。 女で生まれた以上、それを捨てることはできません。 胸も膨らんでいれば、生理もあります。 それがとてつもなく辛い。 胸を切り落とし、腹を切り裂いてやりたい。そう思うこともあります。 これが生きているのが辛い理由でもあります。 両親にはほぼ何でも話すので、このことも知っています。 一人称はその時によって違います。どれもしっくりしません。 僕、私、ウチ、おいら、自分、俺、色々ですが、まだ僕がマシなので今回は僕にしました。 一人称を定めたいという訳ではないです。 男とか女とか別にして、一人の人間として生きればいいというのは分かっています。 でも、この体でいるのが辛いのです。 何かアドバイスを頂けると嬉しいです。

有り難し有り難し 46
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お布施とは?

お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。

有り難し有り難し 34
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万人受けしない自分を認めたい。認められたいです。

「理解されない」という惨めな気持ちが、年々強くなります。 音楽をやっており、私は比較的マイナーな楽器を主に演奏します。 華やかな楽器を演奏し、いつも目立っている女性から、以前馬鹿にされたように笑われたことが、未だに傷ついて頭にこびりついています。 その人はどんどん人前に立ち、どんどんきれいに、みんなから人気を集めています。 それに比べ私はどんどん人前から遠ざかり、楽器も手にしなくなりました。 理由は自分でもハッキリとはよく分かりませんが、欝っぽくなって「どうせ私なんか」と自分を責めたり「どうせこんな人たちなんか」と周りのせいにしたり、し始めた頃からです。 なのに、昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと音楽が得意で皆から褒められていたという過去の栄光に、どこかですがっています。 「私は上手なのに皆は私を理解してくれない」などと、物凄く醜く卑屈な考え方をします。 人前で演奏しないから上手かどうかなんて誰も知らないのは当然で、何も努力せず理解してもらおうなんて、甘いにもほどがある…それでこの春から気持ちを切り替え、練習を再開したりしているのですが、どうしても、華やかな人と自分を比較してしまうんです。 たぶんこのままだと、もし自分が以前のように人前で演奏するようになっても、他者と自分を比較しては惨めになる繰り返しで、一生悩まされる気がします。 みんな違ってみんないいはずと言い聞かせてみても、「でも私の周りの人は、目立つ人、万人受けする人の事しか褒めない。周りの人に認められなかったら何の意味があるのか」という思考がすぐに打ち消してしまいます。 なぜ年を経るごとに酷くなっていくのかは分かりません。 子供っぽい悩みのようで、周りの人に相談することもなかなかできず、投稿させていただきました。

有り難し有り難し 54
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おじいちゃんが無事に天国へ行くためにできることはなんですか

こんにちは。たくさんの質問があるなか、お忙しいとは思いますが、ひとつお尋ねさせていただきます。 先日、祖父が亡くなりました。 優しくてユーモアがあって大好きな祖父でした。 私にとって身近な人が亡くなるのは初めてで、自分が想像してたよりも遥かに人の死というのは悲しくて寂しく、また、綺麗な死に顔を見たことや骨だけになってしまったこと、死という全てが衝撃的でした。 1ヶ月ほど前、元気な姿で会った祖父は一体どこへ行ってしまったのでしょう。 骨になったら全てが終わりなのでしょうか。 祖父がいまどうしているのか気になり、ネットで自分なりに仏教について調べてみました。 そこで、49日間かけて故人は裁判のようにひとつひとつ過去の行いを審査されそれをもとにその後の行き先を判断されるというお話を知りました。 祖父はまだ初七日も迎えていない状態です。 もしかすると祖父はいま、行ったこともない道を一人で寂しく歩き、不安な気持ちで審査を受けてるのではないかとおもうと、心配でたまりません。 祖父は1人で寂しくないでしょうか? 祖父が無事に天国へ、もしくは安心できる地へ、祖父の先に亡くなった家族が待っている元へいくために、私にできることはありますか? 手を合わせて、想いを込めるだけでも力になれますか? 祖父のことが心配です。 もし今の私にできることがあれば、教えてください。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 24
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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

有り難し有り難し 83
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男遊びがやめられません

このままで良いのか、 ご意見を伺いたくご相談申し上げます。 僧侶の妻ですが、男遊びがやめられません。 出会い系を利用して知り合い、 お付き合いは基本お一人の方とですが、 やりとりは数名おられてキープしているような状況です。 お相手には寺院の者であることは秘密にしています。 そもそもはセックスレスだったからなのですが、 そのほかにも寺院以外の事業展開のストレス、拡大に伴い夫である住職がほぼ不在、義母の入退院と介護、義妹との不仲などが同時にのしかかり、ある日プチンと切れてしまいました。 いろんな男性に刹那的にでも優しくしてもらえることで、精神のバランスをとっているような状態です。 うつになり死にたくなるよりはマシ、と正当化しています。 不邪婬戒を侵していることは自覚しています。 毎日の本堂でのご奉仕中に心が痛むこともあります。 それでも仏様はわたしを見ていてくださる、と思いながら、表の顔と裏の顔をそれぞれ生きています。 性欲を満たすために始めたことなので、 とてもやめる気持ちが起こりません。 夫は全く気づいておらず、わたしも積極的に夫とスキンシップはしています。 このようなわたしに、ご意見をいただけますでしょうか。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 74
回答数回答 4

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