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hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2696件

不条理について教えて下さい。

人は 「真面目に生きていれば」「頑張っていれば」「悪い事さえしなければ」 「人の為に」「困っている人の為に」 と考え実行し生活をしている人も大勢いると思います。 又はそういう考えを持たなくても 自然とそういった生き方になっている方も少なくないと思います。 そういう生き方に対しては成果が出て欲しい、 成果が出なくともよくない事は最小限であって欲しい又はあるべきと そういう生き方ではない人達でさえも そう思うものではないでしょうか? しかしながら現実はそうではありません。 尊敬したくなるような方 普通の方 他人を蹴落としずる賢く生きる方 極悪非道な方 他様々な方 それらとは全く関係ないような事象が起き そのまま終わりを迎える事が多いように思えます。 例えば、生まれてから悪い行いもなく 逆に一生懸命血の滲むような努力を続けていても成果が出ないばかりか よくない事が多く、どうにもならなくなり力尽き 最後には苦しんで苦しんで人生を終える方も少なくないと思います。 それは本人も苦しいし周りにいる人も苦しい上に 本人が居なくなった後も周りの人は苦しみます。 これらを不条理とした場合、 子供にどう教えていったらいいのか難しいと思う事や 自分自身どういう考えを持ったらいいのか悩みます。 結局「努力をすれば」ではなく「成果の出る努力をしないと」になってしまうだけです。 これを前向きになれるような説明をするには 死後の世界・死後の魂・前世などを持って来ることが多いかと思うのですが それを信じる又は受け入れる事が出来ない人も少なくないと思います。 私自身そうですが、かと言って宗教思想を否定する考えでもなく 普段は仏壇に手を合わせたりお墓参りをして 形だけではなく心から敬う気持ちも持ち合わせます。 ただ先の事を考えると人生の最後は「無」になってしまいます。 そういう人に人生の糧をのようなものを見出させてあげる考え方が思い浮かびません。 仏教(ほかの宗教もそうだと思うのですが)は基本的には 死後の世界・死後の魂・前世など有りきの思想だと思うのですが それを無くして人に何かを見出させることは出来るものでしょうか? それとも死後の世界などを信じる事が出来ない時点で宗教思想を否定することになり そういう人との間には相容れないものなのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。

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浄土とは何か

お世話になっています。浄土真宗についての質問ですが、浄土というのは死後の世界だと解釈しているのですが、どうも死後の世界ではないと解釈している人もいるようです。浄土真宗は、この「浄土」というのが大前提の教えなので、この「浄土」が分からなければ教えが根底から変わってしまうのですね。そこが悩みところです。 浄土真宗の教義について僕の一連の解釈を書きます。 1本願に疑い無くなるのが信心 2しかし、本願を信じられない 3信じられないのは煩悩があるからだ 4阿弥陀仏は煩悩ある者こそ救う 5そこで、「自分にできることはなかった」と自覚する(機) 6阿弥陀仏の浄土に救うという「働き」(本願)のみがある(法) これが一連の僕の理解です。僕は「異安心」なのでしょうか?すごく不安です。これはあくまで「死後」を前提にした解釈です。 浄土真宗の救いは、「自分の姿が明らかになることだけだ」と言う人もいますが、それだけだと何のメリットもなく、ただただ自分に失望するだけだと思うのです。しかし、自分の姿を知り、「だからこそ、死後、阿弥陀仏に救われるのだ」と解釈すれば、煩悩を受け入れることができ、様々なメリットがあると思うのです。 僕が浄土を死後の世界と解釈する理由は、浄土が死後の世界じゃないと、死後の解決にはなりませんよね。 自然の理法(仮の阿弥陀仏の解釈)におまかせするのも、解決になるのではないかとも考えましたが、それは「死の解決」であって「死後の解決」にはなりません。だいいち、自然は何をするのか分かりません。地震を起こしたり、コロナを起こしたり、そんな自然におまかせするのは、余計恐怖でしかないように思います。 ただ、死後の解決には死後の世界は必要なのですが、仏教には「無記」というものがありますよね。死後があるのかないのかは人間には分からないから、今を生きなさい。という内容だと解釈していますが、これも一理あると思っていて、浄土の教えは死後を説いているのか、いないのか、どちらでもないのか、分からないのです。これは、浄土真宗の一番重要なものだと思うのです。皆さんは「浄土」をどのように解釈しているのか気になって書きました。詳しい方、回答していただけると有難いです。 南無阿弥陀仏

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死が怖いと感じてしまいます

長文で失礼いたします。はじめまして。 去年の8月頃から、死ぬということに対して過敏に恐怖を感じるようになりました。 ふと、母親がいなくなったら恐ろしいと感じ、そこから、いつか誰もが死を迎えるということに気がつき、自分もいつかそうなるのだと強く感じて、「死んだら自分はどうなってしまうの?」といった恐怖で常にいっぱいになるような状態になっていました。 怖がるだけではどうしようもないと感じ、友人や母に打ち明けて相談に乗ってもらい、一時的に恐怖から離れられることもありましたが、安心できる状態がしばらく続いた後、ふっと思い出し、どうにもならないという思考になってまた怖くなるような状態の繰り返しになってしまいました。 忙しくすれば忘れられるという親の意見を元にアルバイトを始めてみたりもしましたが、バイト中に恐怖心が押し寄せてくることもあります。 不安のあまり、SNSで同じような悩みを持つ人たちの投稿を見た時に、そこで「産まれなければよかった」など不安を掻き立てるような言葉ばかりの人を見てしまい、恐怖が押し寄せてくるような事もありました。 産まれることは自分の意思で選べないことであり、この世へ産まれた以上は死を迎えるまでは懸命に、楽しく生きたいと思っています。就職も迫っているので尚更この考え方が大事だと思います。それなのに、まだ死が恐ろしいと感じてしまう自分がいることが不甲斐ないです。 こんな状態が続いて苦しいです。私はどうすればいいのでしょうか?

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2023/01/31

真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

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どうか少しでも何かアドバイスを頂ければ幸いです。

お世話になります。 「中絶からの立ち直り方」と「水子供養の方法」についてアドバイスを頂ければと思い、御質問させて頂きます。 私は6年程前に中絶を行ってしました。 その頃、供養も行ってはおりましたが、平均そのお寺で供養するのは3年程で供養を終わらす方が多いと聞いたので、私も命日に1年に1度足を運んだきり3回行いその後放置しておりました。 そして当たり前ですが、年々、その自分のした罪の重さに、周りの友達が出産や子育てをしていく中で改めて取り返しのつかないことをした、親としての生きていく価値のなさ、この命の重さを年々理解し苦しくて苦しくて耐えきることができません。体が鉛のように重く、全身の硬直、手の震え、口から我が子の手が出てくるのではないかと思うほどの気持ちの悪さ、息苦しさ、怖さに押しつぶされだんだんと気力がなくなってまいりました。本当に闇の底にいるため、この世の人との差を感じまるで別世界で生きている気がしません。 安産祈願で有名な近所のお寺(中絶当初と同じところ)に再び足を運んでみましたが、夫婦仲良く妊婦姿、また子連れの家族の幸せそうなの中恥ずかしくく、また子供も違う所の方が喜ぶこではないか?水子さんが仲良くみんなで過ごせるお寺さんの方が良いのではないか?と思いもう一箇所別のお寺で供養を行っていただいてしまいました。 ところが「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えれば良いとお教え頂いたのですが、我が家は浄土真宗なのに何か違和感を感じる、先祖と違うところに行ってしまうのではないか…また我が子の霊は2箇所で供養もしてもらいさ迷っているのではないか…再びただただ罪を重ねているだけの自分に苦しく…また浄土真宗は三回忌すぎているし過去帳にも記載することができない…今後一体どうすれば良いのだろうか… 我が子の命の分までと精一杯人一倍生きなければと保育を勉強し試験を受けたりと、人の何十倍何百倍は努力して生きていこうと思い頑張ってきましたが、人間の体はやはり正直でもう気力がありません。死んでも償うことのできない罪を前にどのように前に進めばよいのか、立ち直り方がわかりません。自業自得ですが立ち直ることができません。 長々と本当に申し訳ございません。 またお忙しいところ申し訳ございませんが、お手隙の際にご回答頂ければ幸いにございます。 よろしくお願い致します。

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小学生女子殺害事件で考えたこと

痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。

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昔の彼氏を思い出して辛いです

10年前に別れた方のことをずっと考えてしまいます。 学生時代から5年程付き合った方です。彼の就職を機に私から気持ちが離れ、他の女性と関係を持った事が原因で別れました。 しばらく辛い日々を過ごしていましたが、夫と出会い結婚出産と充実した日々を過ごしています。 元彼は別れる原因となった方とは別の女性と結婚しました。 先月、家族で旅行に行った場所が元彼の地元であり「実家はこのあたりだったなぁ」と思い出してからというもの、元彼がずっと頭の中に浮かんできます。 順調に交際して結婚していたらどんな人生だったんだろう、あの時こうしていれば彼は離れていかなかったのか…奥さん羨ましいなぁ…と。 私に対してとても誠実だったとは言えない人です。別れ際も最悪でした。なのに、楽しかった思い出や大好きだったことばかり美化されて思い出してしまいます。 夫や今の生活にこれといった不満はありません。子供にも恵まれて、忙しい毎日ですが幸せだと思います。 なのに、元彼を思い出しSNSで検索したり今何をしているのだろうか、どんは風に歳をとっているんだろう…と考えてしまう自分が嫌でたまりません。 夫や子供に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。特に夫に対しては、毎日家族のために働いてくれているのに、妻である私が昔の彼氏を思い出しているなんて知ったらどんなに辛いだろう、何をしてるんだ自分!と腹立たしくなります。 結局は自分のことしか考えられずに、家族を幸せにできていない、ダメな妻でダメな母親な自分に自己嫌悪です。 この無限ループから抜け出すアドバイスをいただきたいです。

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最期に聞いてみたいです

僕は男性しか愛することができません。 幼稚園の頃から好きな人は男の人でした。 恋愛ができないということも辛いですが、本当の自分を話せない、話したところで理解をされない、だから人との関係を築けない、それが一番辛いです。 これだけ辛い思いをしてまで生きる意味があるのかとずっと思っていました。 中学生ぐらいの頃、母に死にたいと言ったことがあります。 そしたら、今はそう思っても10年後、20年後はわからないでしょう?楽しい未来が待っているかもしれないよと言われました。 その時から10数年間頑張って生きてはみたけれど、年々辛いと感じるばかりで、幸せが待っているとはどうしても思えません。 あの時に死んでおけばこれだけ長いこと苦しむこともなかったのになと思います。 この世界に生まれて良かったと思えたことは一度もないけれど、それでも母だけは好きだったので、悲しませたくないといままで自殺ができないでいました。 自分が死んだら悲しむ人がいるというのは、素敵なことかもしれないですが、だから死んではいけないとずっと神様に人質を取られているような気分でした。 でも、最近はもうそれさえもどうでも良いかと思います。 母を悲しませることになっても楽になりたい。もう何も考えたくない。 自分の幸せになれるかもしれない道は全て試せたように思います。 もう全てを諦める覚悟ができました。 それでも最期に聞いてみたいのは、人が生まれて死ぬということには意味なんてあったのだろうかということです。 魂の修行みたいな話を聞いたりしますが、この世の中汚いものばかりな気がします。こんな世界にいなければもっと清らかに人にも優しくできたように思えます。心を汚して、心を殺して、自分に嘘をつかなければ生きてなんていけませんでした。 人が生きる意味ってなんだったんでしょうか? 人が死ぬことや生まれることに何か1つでも意味があったのでしょうか? 最期にご意見を伺ってみたいです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 40
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