こんにちは、ミッションスクールに通う女子高生です。 タイトルどおりですが、何を持ってすれば仏教徒と言えるのでしょうか? キリスト教の場合は洗礼を受けることですが、仏教にもそのような行いをするのでしょうか? 仏教にとても興味があるのですが、何しろ幼稚園の頃からキリスト教をずっと学んできたので知識に関しては手塚治虫の漫画を読んだことぐらいしかないです。仏教の中にも、いくつかの宗派?がありますよね、本当に簡潔でいいので教えてください! 質問が多くて本当にすみません。回答していただけると嬉しいです。
海外で死んだらその魂は何処へ行くのでしょうか 仏教徒であれば海外で死んでも極楽へ行くのでしょうか
子連れ離婚して数年たち、激しい後悔に押しつぶされそうになっています。これまで仕事と子育ての両立に必死で、それ以外のことは何も考えられなかったのが、元夫に同棲相手がいると知ったのをきっかけに、突然今までの人生を振り返り、一気にいろんなことに気づきました。 私は過保護過干渉な親に育てられ、幼少期から常に親の顔色を伺い、親にとっての「いい子」でなくてはならない、という潜在意識が強烈に植え付けられていました。それは無意識下に深く内在化されていたため、自分ではそのことに気づかず、親の意向に沿う事が親孝行であり、沿わないことは親不孝であり人間として駄目なのだと思いこんでいました。だから自分の気持ちも分からず、親の言うことが自分の考えでもあるかのように錯覚して、親が元夫を悪く言うたびにそれが自分の気持ちかのように思い込んでいました。 自分の本当の気持ちは元夫を嫌いになったわけでもなかったし、離婚などする必要無かったのに、長い間、元夫にも嫌な思いを我慢させてきていたことに気づき、気づいた今なら本当の自分の気持ちに素直に、夫を大切にしていけるのに、もう二度とそれが叶わないと思うと絶望しかありません。 初めて死に方の検索もしてしまい、でも子どものことを考えて踏みとどまるのに必死です。子どもの前で普通に振る舞おうとするだけで精一杯で、毎日毎日息をするのも苦しいです。過去は変えられない、今を生きなければならない、とは頭では分かっているはずですが、近い将来子どもも巣立って行くことを思うと、本当に自分は一人きりだという喪失感と孤独を突きつけられ、絶望してしまいます。 生き続けなければならないとはわかっていますが、でも後悔と孤独と不安で苦しくてたまらず、どうすれば生きられるのかわかりません。いい年をしていつまでも真の親離れができないまま、大切にすべきものを蔑ろにしてきてしまった私の自業自得でしょうか。 一日一日が苦しくて苦しくて生きていける自信がありません。どうすれば生きられるでしょうか。
はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません… 私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。 そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。 ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。 しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。 スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。 それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。 猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。 しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。 仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?
拝読下さりありがとうございます。 私には中絶の過去があります。当時は学生で経済力もなく、相手の男性も頼りにならず、泣く泣く中絶しました。今でも忘れることはありません。当時付き合っていた彼とは中絶が原因で別れています。 悩んでいるのはこの事実を今お付き合いしている彼に話すかどうかです。 付き合って半年ほどになります。とても誠実で優しくて素敵な方で、最近将来の話や結婚について話をすることが増えてきました。ただ、今の彼には中絶の過去を話していないのです。理由は、本心を言いますと、話すことで嫌われたくないという思いが根底にあると思います。でもそれだけではなく、話すことで、彼を悩ませ、傷付けたくないこと。彼に知ってもらった上で私を受け入れてほしいという思いはあるけど、私の過去の事なのだから私1人が胸の内にしまい、墓場まで持っていく必要があるのではないかと考えること。このように考えていたから今までは話しませんでした。 でも、彼が彼のご両親に私のことを話してくれたり、将来の話をしてくれたり、誠実に向き合ってくれればくれるほど、とても嬉しく、幸せな反面、中絶の過去を話していないことが、彼に対して不誠実なようでとても申し訳なくなります。考えたくはないけど、私の過去を知った上で私と別れる選択肢、権利も彼にはあると思ってしまうのです。でも、正直なところ、今彼がいなくなったら耐えられる自信がありません。 また、彼に話す必要があると思ったのにはもう一つ事情があります。私は母とうまくいっておらず、母に中絶の過去を不本意な形で彼に話されてしまう可能性あると考えたからです。そうなった時に、彼を必要以上に傷付けてしまう可能性と、「どうして話してくれなかったのか」となってしまうならば、私からきちんと話す必要があるのかな、と考えたからです。 中絶をした過去は消えるわけではないし、絶対忘れてはいけないことだけど、私1人が胸の内にしまいご供養をしていこうと考えていました。でも今の彼の素敵なところを知れば知るほど、自分への嫌悪感と後悔の念、彼に話していない罪悪感でいっぱいになってしまいます。自業自得なのは承知の上ですが、何かアドバイスを頂けると幸いです。。よろしくお願いします。
うつ病を患って、22年になります。 その間、離婚、両親の死、交通事故等、最近では、大阪北部地震にあい、被害を受けました。 今年の3月下旬ごろから、うつ病が悪化し、辛い日々を過ごしています。 身の回りの何もかもが、できなくなり、廃人のようになってしまっています。 お寺にお参りに行くのが好きで、動ける時は、お参りに行って、よい治療効果があるのですが、今は動けず、お参りにも行けません。 生きるのが辛くて、死ぬことも考えます。 離婚した時から、尼寺に入りたいと思っていましたが、その後、交通事故にあい、膝や腰が悪くなり、正座もできません。 年齢も50を超えていて、うつ病も患っていますが、心身を病んだ人間でも、出家得度はできるでしょうか? 心身を病んだ人間でも、受け入れてくれる、お寺を探しています。
回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?
お坊さんは絶望感に苛まれた事はございますか? 死んでしまおうと思われた事はございますか? そんな時、どのように乗り越えられたのでしょうか? お忙しいなか大変恐縮ですが、ご回答をよろしくお願い致します。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
長男が17歳で、遠い空へと旅立ってしまいました。自死でした。 あまりにも突然で、今だに受け入れられなくて… やりきれなくて、気持ちをはきだすところもなく、ネットで、自死という言葉を知りました。 何のために生きているのか、 生きていていいのか、、、 生きていることがつらくてつらくて、、、 次男にまた身内がいなくなる悲しい思いをさせたくないという気持ちだけで、毎日をすごしています。 口げんかをし、でも、そのあと、なんとか話をして、笑顔で出かけていった長男。 その5日後、戻ってくることはなく、旅立ってしまいました。 できることなら、口げんかをしてしまったあの日に戻りたい。 けんかしないで、もっと冷静に話をしていたら… おちこんでいた長男の気持ちに全く気づかす、 私がおいこんでしまったんだ… 夢だったら、どんなにいいかと願い、 毎朝目覚めるために現実とむきあい、 私がお母さんでごめんなさい、、、 と… 長男が自死したことは、わずかな身内しか知りません。 あまりにも突然で、気持ちが不安定で、 事実を受け入れられず… でも、実際は、周りにいろいろうわさされることに耐えられない… そんな、私の弱さなのかもしれません。 生きていることが、こんなに苦しい… 残された家族で過ごす時間。 そこに長男はいません。 でも、日常過ごす中、 少しずつ笑うときがあってもいいのですか? 何か食べたとき、おいしいと思ってもいいのですか? 自死した長男は、今でも苦しんでいますか? こんな私を長男は、いつか許してくれるでしょうか?
まず、私自身、障害者(身体内で出血があり原因不明の病気です。)であり、生保と障害年金で生活をしています。 月にすると約78000程で光熱費や家賃の不足分等を支払っています。 毎月残るのは45000程です。 家族、兄弟姉妹は居らず単身独居です。 母の妹が一番近い身内になりますが確執があり連絡を取ることを拒否されています。(障害者だということで嫌われています) 先日、お寺より寺費の請求がきました。 約13000円です。 生活で目一杯で払えずにいます。 このことをお寺の方にも伝えたのですが分かってもらえず困ってしまいました。 大切な家族が眠るお墓がある、お世話になっているお寺様なので払いたい気持ちは山々です。 しかし現実は困難です。 再来月には母の1回忌を控えており、その為にやっと僅かなお布施と花代を貯めました。 1月~3月までは生保が351円しかいただけず、暖房もつけずに一日一食、食パンを一枚だけ食べて過ごしました。 母の供養のお布施を使うわけにはいきませんし… 知恵をお貸しください。 また、トバの名前は私の名字になるのですが、元旦那の暴力で夜逃してきた為に籍は抜けていますが元旦那の名字のままです。(離婚後に暴力を受けました) この名字のトバをお墓に立てたくはありません。 事情を話し、旧姓でトバをお願いすることは出来るのでしょうか? お教え願います。 そして最後の質問というか悩みなのですが、母の妹である叔母との関係はどうしたらいいのか悩んでいます。 昨夜、親戚が亡くなっていたのを地元の友人と話していて知りました。 すぐに電話で連絡を取りお詫びをしたのですが、叔母に私へ連絡をするように頼んだそうです。 しかし叔母から連絡は来ていません。 正直に話し、私の連絡先を親戚には伝えました。(他の親戚にも伝えてもらえるようお願いしました) 何も出来ませんがせめて最期のお別れくらいは言いたかったです。 なぜ、障害者というだけでそこまでの仕打ちを受けなければいけないのか…納得いきません。 だからと言って、この事を叔母に伝えても夫婦揃って役立たずの障害者!お前は恥だ!と罵られるでしょう…。 好きで病気になったわけではありません。 このまま肩身を狭くして生きていかなければいけないのでしょうか? 法要の事もあり落ち着かずにいます。 支離滅裂な文章になってしまいすみません。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
まず、私がこうやってこのサイトにたどり着くことは前から決まっていたんですか? 運命って決まってるんですか? 運命を決めている人がいるんですか? このことが気になって勉強をする気になれません…
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
こちらのサイトを最近知り、毎日読ませて頂いております。 どの方の回答を見ても、納得するばかりで仏教の考え方にも大変興味があります。 私が昔読んだ本には、正しく生きるということが仏教の基本的な考えである。というようなことが書いてあった記憶があります。 それ以来、正しく生きるということはどういうことなんだろう?と常々考えて過ごしています。 例えば仕事。 人が面倒くさい、つまらないと思うような雑用を進んでやったとしますよね。 すると感謝はされますが、何となくあの人がやってくれるから。という雰囲気になり、いつもいつも同じ人がやるようになる。 そうなるとやはり人間ですから、私ばかりがなんで・・・という気持ちになってしまいます。 損得で考えてしまうんです。 正しいことをしているはずなのに、自分の心は荒んでいく。 それなら要領よく生きたほうが楽じゃないかと思ってしまいます。 が、要領よく人に押し付けたところで罪悪感に捕らわれてそれはそれでスッキリしない。 世の中には、うまく立ち回れる方がたくさんいますよね。 きっと皆いろいろ悩んで苦労もあるのだろうけど、私には幸せで賢く見えます。 子どもっぽく言ってしまえば、みんなすごいなぁ~。という気持ちです。 正しく生きよう。と思っても、過去にしてしまった罪は消えません。 何度も思い出しては、罪の意識にとらわれます。 なかったことにはできません・・・ これから先、どのように生きていくべきか。 気持ちの持ち方に悩んでしまいます。
先日父が亡くなり、通夜と葬儀を葬儀社からの紹介である導師にお願いしました。 葬儀の直前、葬儀社の方からの連絡で導師の控え室に参りました時少しお話しさせて頂きました。導師からは供養の仕方やお寺の合同葬のパンフ等頂いたのですが、私がネガティブな言葉で導師の言葉を遮ったり話の腰を折ったとの事で導師から不愉快だと言われ、そのお言葉に総早々に退散致しました。 時間になり導師が控え室から出て来られ皆が着席し、導師は開口一番長女の方と言い合いになりましたと仰ったのです。私は耳を疑いました。導師と言い合いなんてする訳もないです。導師に不愉快と言われたので、それではと席を立ったのです。 家族や親戚には何も話していなかったので、誰も理解できず反応もなかったからでしょうか、導師はそれ以上は何も言わず読経をされました。 でも、終わってから家族にあの意味は何だと聞かれました。私は大切な父の葬儀の時に導師を不愉快にさせてしまったこと、読経の前に導師に言われてしまったことで葬儀を台無しにしてしまい亡き父にも本当に申し訳ない思いで一杯で悲しくて涙が止まりませんでした。 葬儀もせめてもの親孝行だと、金額は張りましたが大手の葬儀会社に手配を依頼して抜かりなく、気持ち良くと思っていたのに情けないです。 葬儀社とお寺の住職の奥様から、導師に何でもご相談下さいとのお言葉に甘えてしまい、結局は導師を不愉快にさせてしまった自分自身が情けなく、葬儀も気持ち良く満足にあげられなかったと後悔の日々です。 ご相談したいのは、戒名を頂いたお寺の導師だから当然四十九日も同じ導師にお願いするべきとの意見が家族にあります。一方、親族に非があっても、導師が葬儀の時に持ち出す言葉ではなかったのではないかとの意見もあります。 私にしても導師が何も仰らなければ水に流して四十九日もお願いするつもりでおりましたが、葬儀をぶち壊しにされたような思いは残りますし、不愉快と仰られたので四十九日に出席する勇気はないです。 今後は亡父の出身の地方のお寺に納骨する予定です。そのお寺に問い合わせましたら四十九日法要、開眼供養、納骨供養など引き受けてもらえるとのことです。 同じ導師にお願いして私は欠席するべきか、或いは納骨して頂く地方のお寺に四十九日法要をお願いするべきか、悩んでおります。よろしくお願い致します。
こんにちは 初めて質問させていただきます この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました 言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか? 悟りの自覚は明確なものなのでしょうか? この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
私は、HSP(高感受性)の者で、霊は、見えないのですが、人の細かい感情や動物の気持ちも感じやすかったり、植物や大気のオーラを感じる事もあります。私は、見えないものに興味があり、死後の世界についてもよく考えるのですが、人生とは、魂を成長させる為の修行なのでしょうか? 死後の世界について、いくつかご質問したいと思います。お願い致します。 ①人は、体が死ぬと魂が体から抜け出て、人生を全うした善人であれば、現世への拘りが強く無く、死んだという自覚がある魂であれば、お迎えが来たり、来ない場合でも天国のような霊界に行くことが出来る。 ②現世への拘りが、強い魂や自分の体が死んだ自覚がない魂は、現世に留まり浮遊霊や地縛霊になって拘りがとれて、死を自覚するまで何年でも何千年でも現世を漂い続ける。 ③悪人(人殺しや自殺)をした者は、死後恐ろしいところや暗闇をさ迷い続けて生きていた時よりも苦しむ。 ④霊界で再度人間に生まれ変わる時は、霊界の偉い方と相談をして、どの体に入るか自分で選択する。そして、選択した体に魂を宿し、生まれてくる。体を選択するときには既に、その子どもとして生まれたら、どんな親の元で育てられ、どんな友人、恋人、結婚相手等と出会うのかわかった上で選んでいる。 ⑤霊には、私達と同じでお経の意味がわからないことが多い。 ⑥霊には、私達と同じ記憶と感情があり、精神は生きている者となんら変わらない。 ⑦霊は、生きている人と話せる。瞬間移動を出来る。軽いものを動かせる。電気機器などを動かせる。夢枕に立つ。体を生きている人と同じ見た目の姿に出来る。体に重量をつけれる。霊能力者と頭の中で会話が出来る。霊が見える人だけに憑依出来る。写真や映像に写り込める。 霊感の鋭い人には見えるが、普通は見えない人の方が多い。 ⑧地獄に鬼や閻魔大王はいない。死後の世界では、現世でのどの行いが良かったことで悪かったことか自分で解るようになる。死後の世界は、自分の心の現れでもある。 死後の世界は、精神世界で異次元空間。その空間は、現世と重なりあうように存在している可能性がある。 上記の①~⑧は本当でしょうか? 私が、死の世界について真剣に調べて、直感で感じたことです。長々と失礼いたします。ご意見お願い致します。
3ヶ月前から同棲をしています。 彼は前からお酒には弱く、2次会くらいまでいると連絡がとれなくなり、電車なども乗り過ごしてしまうほどです。 家で飲む分には、そこまで酔いません。 昨日、わたしの体調が悪く、はやく帰ってきてほしいと連絡したにも関わらず帰ってきたのは深夜2:00。 それも酔っ払いの後輩をつれて。わたしはあまりに自分勝手な行動に家には入れませんでした。 いつもは優しく、楽しい彼ですが、飲み会の帰りや飲み会になると本当に困ったことになります。 彼が連絡をくれたり、しっかり家に帰ってこれるようにするにはどうしたらいいでしょうか? こんなしょうがない質問で申し訳ございません。彼の飲み会について本当に悩んでいます。 よろしくお願いいたします。
昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか? 魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?