5年余りの闘病の末 62歳で主人が亡くなりました たくさんの病気を抱えながらの治療に 病院ドクター スタッフのみんさんには 細かい配慮も頂き 誠実に治療 対応して頂きました 病院で最期を迎えましたが 大量の吐血という その最期の姿が 余りにも壮絶で 今も 妻である私の頭から離れません 何度も恐ろしい 残酷な場面を思い出し 怖くて眠れません 結婚生活の中には しわせな事もいっぱいあったのに この最期の 悲しくかわいそうな姿に 今までの楽しい事も 全て奪われ消えてしまいそうです 病態のひとつであることは わかっています 精一杯ご尽力頂き 私も精一杯寄り添ってきたつもりです ですが 吐血をしながらも なにか言いたそうだったのに 言葉にもならず 私は聞きとることができませんでした 最期 主人が言いたかったことは なんだったのか 最期を看取ったのは 私だけだったのに 主人が言い残したかったことを 聞いてあげれなかったことが残念で 悔しくてなりません たくさんの方々に ご尽力頂き 大変大変感謝もしています 身体も限界で 充分がんばったとは思いますが もっともっと 生きたかったんだと思いますし 最期は 静かに迎えてほしかったです 壮絶な最期になってしまって 主人は成仏できるのでしょうか 大切な人を失うことを どのように捉えたらいいのか 妻である私は どのような心でいれば 主人は成仏できるのでしょうか どうかアドバイスをよろしくお願いいたします
初めての相談になります。 先日まで地方の方にいましたが、諸々の理由で実家に戻りました。 今は実家に引っ越し、健康を最優先にしながら、必要とあらば色々な仕事をしながら過ごしていますが、健康上の問題からの帰省なので、立場上実家では毎日息が詰まる想いです。 この先、自分が何をしたいのか。未だにヒントも見つかりません。というのも、高校受験を終えて、中学3年間のいじめから自由になり、友達も出来、順風満帆な高校生活を得たと思いきや、そう思った時点から僕自身が何かを頑張る理由が自分の中でなくなってしまいました。いわゆる、将来に対する夢や展望に興味がなく、毎日を退屈に過ごしています。 僕自身、お世辞にもまともな人の振る舞いが分かりません。自分で肯定するのもあれですが、かなり無礼で問題のある人間です。いつも人を操ろうとし、騙して嘘をついて、色々な人の好意や期待を裏切り続けて生きてきました。 しかし、そんな自分を変えたいという気はこれっぽっちもありません。それは結局、自分に嘘をつくことになるからです。実際、嘘や言葉遣い、演技で人を操るのは楽しいと感じる時がありますし、そんな本質を持つ僕が今更「人の幸せのため」に生きれるとも思えません。 ここまでの書き込みで分かる通り、僕は人が受け入れがたい考えの持ち主です。心を許せる人は、親兄弟含めていません。お金にもそれほど執着がなく、最近は初対面の人に身内の死にまつわる嘘を顔色一つ変えずに言えるぐらいになりました。 誤解のないように言っておきますが、一般的ないじめや仲間ハズレ以外は、僕のトラウマ的な出来事は特にありません。裕福な家庭で、優しい両親に育てられ、暴力も虐待もありませんでした。なのに、なぜ僕だけがまわりとこんなにも違うのだろう。僕は、いったい何のために生まれてきたのだろう。シリアルキラーかサイコパスにでもなれれば気持ちは楽だったのですが、どうやら僕にはその気はないようです。 なので、せめてその答えを見つけるまでは頑張って生きようと思うようになりました。でも、そのやり方が分かりません。 「僕は、何の為に、生まれてきたのか」。 その答えの探し方、具体的に説明できる方いましたら、何卒よろしくお願いします。 「ご自分の考え方次第です」とか、「生きていれば自ずと答えは出てきます」とかはいらないです。
上山春平・梶山雄一編 「仏教の思想 その原型をさぐる」 より 縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。 原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
3/6に母を亡くしました。酒を飲み吐いたものを詰まらせての窒息死、前日にはメールをして、亡くなる5日前には電話もしました。13日には会う約束もしていた突然のことに心が追いつきません。 母は仕事で遠方に行くことが多く共に過ごしたのは4歳まで、12歳までは2、3ヶ月置きに20日ほど、中学の3年間は共に過ごしましたが、15の頃事件に巻き込まれ両親は離婚、以降母とは別に暮らしていました。母には月に一回会いに行く生活でした。親子で過ごした時間はとても少ないと思います。 私が小さな頃に母は兄を自殺で、8年後父(私の祖父)を失っています。家事もして優しくて、けれど二人を失ってからは心のバランスを崩しがちでした。事件以来パニック障害とうつ病も持っていたことを、死後知りました。 私は酒を飲んでいる母が嫌で、つらいことがあるという事もわかろうとせず、冷たくしてしまうこともありました。 死後、家の整理をしていたところ母の履歴書がたくさん出てき、母が頑張ろうとしていた事も知りました。また母のメールから、母が男性に金銭面で援助してもらい、代わりに身体を差し出していた事、その中で暴力行為があった事も知りました。それが母の病状を悪化させたのではないか、知らなければよかったと苦しいです。 なぜ、もっと優しくしてあげなかったんだろうと後悔しています。 誰か一人、私だけでももっと優しくすれば、必要とされていることを母に伝えていれば、向き合って話を聞いていれば母は酒に溺れる事もなく、吐いたものを詰まらせて亡くなる事もなかったのかもと考えてしまいます。 母は依存症でしたが、私のことは常に愛してくれていました。毎月いつ来るかを聞く母は嬉しそうでした。残された沢山の私の写真、母の写真はほとんどありません。 ここ数年は一緒に写真も撮っていなかった、大切だと伝えていなかった、話をして共に出かけたかった、全てを後悔しています。 母の依存症で辛い想いはたくさんしました。普通の家庭がよかったと思う事もありました。 それでも母のことを愛しています。嫌いになったり割り切ったりできません。死後の世界でも、苦しみから解き放たれてほしいと思っています。 残されたものがくよくよしてはいつまでも然るべき世界に行けないと聞いたので前を向きたいです。けれどどうしたらいいかわかりません。 よろしければお言葉を下さい。
こんにちは。 生きるという事について幾つか質問させてください。 私は祖父母と両親に愛情を注いでもらい、22年間生きてきました。この4月からは家族が暮らす地元での就職も決まりました。家族にはとても感謝しており、これからは精一杯の孝行をしていくつもりです。 家族を守るためには強く生きていかなければならないと思うのですが、生きる意味や心構えについての疑問や不安が消えません。 私はこれまで生きてきた中で、辛い、悲しい、不安、怖いといった感情を抱く事が圧倒的に多かったです。今も、今後の事を考えると不安の気持ちが圧倒的に多いです。辛い事がある度に「何で生まれてきたんだろう」「何で人(私)は生きているのだろう」と考えます。 もちろん楽しい、嬉しいといった感情になる事も多くありました。特に、家族と過ごす時間や地元の豊かな自然に触れてのんびりする時には幸せを感じます。この時間が大好きです。 しかし、こうした楽しい、幸せだと思える時間がいつまでも続く保証がないと考えると不安で仕方がないです。人は昔から、いつ何が起こるか分からない環境で生活してきたので、それが普通だという事は分かっています。むしろ現代の日本は安全や生活面で本当に恵まれていると思います。ですが、これからを生きるという事に対する不安がどうしても消えません。自然災害、戦争などはいつでも起こり得るし、大切な人の死に向き合う事も避けられません。不安でいっぱいです。 考えすぎなのでしょうか。 今後の事を考えると不安で押し潰されそうです。 悲しみや不安を抱えながらも強く生きていくためには、どのような心構えを持つ必要がありますか? 拙い文章ではありますが、よろしくお願いします。
こちらに書き込むかどうかで逡巡しましたが、意を決して記すことにしました。ご教示下さい。長文になりますことをご容赦願います。 師僧との関係で悩んでいます。 お寺には師僧と私の2人です。先輩や事務員もいましたがそれぞれ辞めました。 私は前職も宗教関係だったのですが、物足らなさを感じて道を求めていたところ求人で現職のお寺を発見し応募しました。 足腰が少し悪く、過去につらいことがあり長く闘病していた期間があることが不安で、例えば学校などに行く勇気と経済的余裕はありませんでした。またいささか年齢も余裕がありません。 そういった事も踏まえた上で即採用でしたのでとても嬉しかったのです。当時は泣きました。 しかし先輩が辞めてからというもの法事や通夜やお彼岸のお参りほぼ私が行くようになりました。加行をしながらでしたので休みはなく、数回軽度の自損事故もしました。車は持ち込みなので自費で直しました。 一番つらいのは何かあると全て私のせいにされることです。お布施が合わないと言われ私が盗んだかのように言われました。結局お布施は数え間違いだったのですがそれから言及はありません。 先日は寺務所から机がなくなりました。修行僧に机はいらないとのことでした。ですが私しか事務をするものはいません。 私はお寺がとても好きです。知識も足りずあまり真面目な性格でもありませんし、俗っぽい人間ですが仏教が好きで、話や檀家さんとの付き合いも大好きですし得意なつもりです。 しかしながら師僧との関係に悩んでいます。周りに僧侶がいないため孤独です。修行とはこんなもんだ、お寺とはそんなもんだということなのでしょうか。 小さい頃から誰かに都合よく使われることばかりの人生だったので萎縮してしまい、唯一の希望であった道がこのような感じで絶望にくれています。支えてくれる人がいますが、自死すら頭によぎることがあります。 なんとか加行を終えましたがそのあとの沙汰はありません。なので辞めることも出来ません。耳に挟んだところによるとこのような行では他では通用しないとも聞きました。 とりとめなく書き連ねましたが、一体私はどうしたら良いのでしょうか。私自身は好きなこと得意なことで身を立てるのがこの形で生を受けた意味だと考えていますが、この道は諦めるべきなのでしょうか?
高校時代からの親友は長年白血病と闘っていたのですが、ある日音信不通になりました。 しばらくすると彼女の唯一の肉親である姉と連絡が取れ、本人の意思で本当のことを話すことはできないという事と共に彼女の死を暗に示す返信がありました。 それから4年間、行き場のない想いを抱えながら彼女に思いを馳せ生きていました。 しかし、先日当時の担任と再会する機会がありそこで衝撃の事実を知らされました。 それは、彼女の言動の全てが嘘だったということです。 彼女が抱えていたのは白血病ではなく演技性パーソナリティ障害という精神疾患で、闘病の様子や複雑な境遇など私が聞かされていた全てが嘘だったのです。 そして彼女は今も生きています。 私がやり取りしたと思っていた彼女の姉は、姉を装った本人でした。 彼女は白血病の他に脳腫瘍を併発、酒乱の父からは暴力を振るわれ母はガンで高3の時に亡くなったと聞かされていました。 今思うと少し行き過ぎています。 どこまでが嘘かは分かりませんが、担任の話だと母は生きているそうです。 一時、彼女が心肺停止となりしばらく意識がない間に彼女の姉と連絡を取りあったことがありますがそれも本人だったようなのです。 友人は非常に頭が良かったので、正確な知識を持ったエピソードと緻密な演出で説得力を醸し出すことができてしまったのだと思い、どこか腑に落ちる部分はありました。 注目をされたいという思いから始めた演技が成功する度エスカレートし、最終的には終わらせることしかできなくなってしまったのでしょう。 しかし、私は彼女を心から信じ病気と闘いながら懸命に前向きに生きる姿を応援し、いなくなった後も共に過ごした時間を大切にしながら今日まで生きてきました。 その全てが虚構だったという事実を、どう受け止めたら良いのか分かりません。 裏切られたというような怒りや失望はありません。生きていてくれて本当に良かったと思うことも事実です。 ただ、信じていたものが存在しなかった虚しさは消えず、何をするにも力が入らない毎日です。 彼女に再び会うことはないと思います。 きっと彼女も望まないし、全てを知った今彼女に会う勇気は私にはありません。 ですが、気持ちの落としどころが見つからず困っています。おそらく世の中でもあまり例のない話だと思います。 私はどのようにこの事実を受け止め、乗り越えたら良いのでしょうか。
はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。
こんにちわ、またまたご相談です。 現在、私は引きこもりのような生活をしています。理由としては人間関係で色々とあって、精神的にも疲れきってしまい人と関わるのが怖くなったからです。 親に「外に出ろ」と言われますが、私は何かを強制されるのが嫌いな部分があるので反発してよく喧嘩を起こしてしまいます。 今は落ち着いてきており、私もいけなかった部分があるんだろうなと思うようになってきました。だけど、そのせいなのか、前にご相談した通り自分の嫌な所ばかり思うかんで自己嫌悪に落ち込んだり、マイナス思考に落ち込んだりしています。 今度は地獄の次には輪廻転生について恐ろしく感じる様になりました。 もし来世があるとしたら正直に言ってもうこの世には生まれたくないという気分になっております。 昔にもそんな事を考えた事があって、死を怖がったり生まれ変わりがあるのなら動物になるのも虫になるのも嫌だなと思った事があり、人の事は言えませんが人間に酷い目にあわされている動物を見て気分が悪くなって、こんな目に合うのは嫌!怖い!と思ったりしました。 生まれ変わるのなら人間が一番いいと言われてますが、人間だって必ずしも平穏な環境で生まれるとは限らないし、人間同士だって諍いがあるし、人を人だと思わないような人間だっていますし。 転生してしまえば記憶がなくなって別人になると言われてますが、それも正直に言って怖い。今いる自分自身が消えてしまうと考えるととても怖くて仕方ない。 地獄も怖いけれど、転生も怖い。 今まで他人事のように感じていた物が急に恐ろしくなり、だからもし、死後の世界があるとしたら、転生などせずただ穏やかでありつづけたいと思い、本当に自分勝手だと思いますが、もし本当にお釈迦様がいるのなら、もう、この世に輪廻させないでください。苦しいのも怖いのも痛いの嫌です。自分が消えてしまうのが怖いですと言いたい気分になりました。 自分の人生の中には楽しい事もありましたし、生きていれば考え方など変わると思いますが、今はこういう考えをしてしまい気力が削れ恐怖心でいっぱいになったりします。 前に進まないといけないのに、前に進むのが怖くて仕方のない状態で自分の身勝手さになんだかなと思い、こう考えるのに何の意味があるのでしょうか。 私はなんで生まれて来たのかと悩みばっか思い浮かんでしまいます。
お世話になります。 以前にも息子の結婚の事でご相談しました。 あれ以来、落ち着くまでと疎遠にしてきました。(シングルマザーとの結婚で反対た件)。もう36歳ですから自分で結論出すと思って、静観してました。 そして昨年秋に息子から歩み寄って来たので話を聞いた所、彼女と話し合って、このままでは結婚できないと思い別れたと言ってきて、経済的にも、精神的にもきついと言ってきたので、フォローするから困ったら言ってきなさいと言って帰って行きました。しばらく連絡を取っていたのですが、それから暫らくたって、私の母が亡くなり連絡した所、息子から、冷たいかも知れないけどと言って葬儀に参列しませんでした。母も反対したからです。息子はお金があまりない子で経済には困窮してたので、子供さんが二人もいる人だと苦労するからという事と 血のつながりが無いのは後々大変というのもあり反対したしたのです。 母の死をきっかけにまた、こちらに対する恨みが甦ったようです。 でも私は葬儀に来なかった事もいっさい触れず、この一年連絡もせずにいましたが、最近主人が心臓手術をするので息子に連絡した所、もう何の感情もわかない、自分は色々疲れたんだ。と言ってきました。 そして小さい時の事とかで、父親が学校行事に出なかった事(土日に休暇が取れにくい仕事)で辛く寂しい思いとか、言ってきて、学校出たら家を早く出たかったとか言って来ました。彼女や子供たちとの別れの辛さとかこちらへの恨みとか訴えてきました。こちらも突然言われた事でショックでしたけど、それだけ結婚反対や今までの事を追い込んでしまったのかと、今本当に心苦しく、息子に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。息子には血の繋がりは関係ないのだと思いました。親は子供の幸せを願う物なのにそれが出来てなかったと強く反省しています。 息子には軽度知的障害の弟がいます(行政のお力で就職してますが)が、息子は 私たち(両親に)弟の事はあなた達の息子ですから面倒みてあげてくださいという表現をしました。その表現も本当にショックで今、私は立ち直れないでいます。 本当に息子に申し訳無いことをしてしまったと後悔しています。 これからどうしたらいいのかお知恵をお借りしたくご相談いたしました。 息子を傷つけてしまいました。 宜しくお願いいたします。
お坊さんに質問です。 お坊さんは禁欲的な生活をし、 少なからず仏教的なものを、 例えば瞑想や仏教に関する聖典などをお読みになられたり、 それを実践したり修行したりしていると思います。 そこで質問です。 仏教に関する全てのものを禁じられて、社会で生きなければならない、 となれば お坊さんは自ら命を断ちますか? 意味のわからない質問かもしれません。 しかし、とても疑問なのです。
自殺したら地獄にしかいけないという話は本当でしょうか。
家族に新興宗教の集会に連れて行かれ、幹部に浄土真宗の信仰をしようとしているという旨を話され、幹部に浄土真宗などという最低な教えをやる必要はない。枝葉の教えである浄土三部経などではあなたは救われない。と言われてしまいました。 挙句の果てにはお釈迦様などより新興宗教の教祖に従っていればいいなどと言い出す始末です。これは仏教ではありませんよね?そんなことを言われ私は何も言い返すことができませんでした。 私は親鸞聖人の現世利益和讃などを読んでも分かるように浄土真宗にも現世利益はあると思っていますが、間違っていますでしょうか? また、浄土三部経でもお釈迦様が説かれたのですからちゃんと仏にならさせていただけると思うのですが間違っていますでしょうか? また、今度集会に連れて行かれた場合、どのように言い返せばいいと思いますか?本来仏教徒であればこういった言い争いがなるべくしないほうがいいと思うのですが、浄土真宗のことを侮辱されたようで悔しいのです。どうぞお知恵をお貸しください。
先日、道端でヘビが潰されていました。 虫に食べられたり日光で干からびたりしてます。 私は最初潰されてるヘビを見たとき、かわいそうだと思って悲しくなりました。でも、虫に食べられて、生まれ変わって、別の人生を生きるのだと考えました。 まだヘビは道端にいて、殆ど無くなっています。 ヘビがこのままなくなったら、ヘビのことは忘れます。 ヘビはこれからどこに行くのですか? ヘビが潰されたことは悲しいことですか? 自分の中でうまく消化できません。 まだ、ヘビが潰されたことが悲しいです。
大学を卒業して、一年目の社会人生活を終えようとしています。 普段は住宅メーカーの飛びこみ営業をしております。 ここ最近仕事が嫌でしんどくて、会社に出社しようとするとお腹が痛くなったり、夜中に1人で泣いたりしています。 本当につらいときは、仕事中に泣いてしまうこともあります。 成果がないので頑張ろうとするものの、心のどこかで仕事が嫌になっている自分がいます。 社内の人間関係は悪くはないですが、あまり話さないことが多いです。 私以外男性社員で、営業だとほとんど社内にいることがないので、話す機会は少ないです。 休みが水日休みでなかなか大学の友達に会うことができず、相談もできません。 まだ一年目だしまだやめるのは早い 同期が受注し始めている 後輩が入ってくる 同じ支店の女子営業の同期がやめてしまって話せる相手がいなくなった など、不安要素がいっぱいです。 特に私をしんどくする言葉は、昔より働く環境がよかったという言葉です。 昔よりしんどくないから働けるでしょ?と云われている様で辛いです。 趣味でストレスを解消しようと思うのですが、趣味が旅行で水日休みでなかなか旅行にはいけません。 毎日がしんどいです。 私には明るい未来がやってくるのでしょうか。
最近飼っていたペットが亡くなりました。 異変に気づいてあげられたのが遅く、病院で何週間か処置していただきましたが助けてあげることができませんでした。 ペットの死後はどうなっているのでしょうか? 今まで幸せだったのだろうか? 天国に行って幸せになってくれているのでしょうか? 私たち家族が助けてあげることができず怒っていたりしているでしょうか?
死ね死ね団の歌をyou tubeで聞きました。胸がす~っとしました。死ね死ね団をご存じの方は少ないと思いますが…。七夕死ね!正月死ね!子どもの日も死ね!誕生日も死ね!夏休み死ね!クリスマス死ね!お花祭りも死ね!犯罪者も全員死ね!裏番長も死ね!偽善者も死ね! あっ…人が亡くなるとお坊様方が儲かりますね。
最近私は、もしも、母が認知症になって、私を忘れてしまったらと、考えてしまいます。それがとても怖いです。すこしでも楽になる考え方を教えてください。
現在無職です。 昔から仕事が長続きせず転職を 繰り返してきました。 大した学歴や職歴や資格もないまま 20代の半分を無駄にしました。 去年、頚椎椎間板ヘルニアを患い 最近はアスペルガー症候群と抑うつ状態だと診断されました。 他人より優れた能力など何一つ無く それどころか心身ともに欠陥のある自分は生きる価値がありません。 しかし自殺する勇気も無いのでこのまま 無意味に生きていくしかないのです。 誰からも必要とされず、愛されず、一人で無駄な人生を続けるしかありません。 生まれてこなければよかった。
先月、母が心停止で救急搬送され、一時間足らずで旅立ちました。糖尿病を始め、 乳がんなども抱えて、全ての治療を拒否するようになりました。家族で説得して みましたが、身近にがん治療でボロボロになった挙句に亡くなってしまった方が いたこともあり、本人の願いを尊重することにしました。 それから二年以上、見違えたように元気になり、大部分を穏やかな日常の中で、 暮らすことが出来ました。その旅立つまでの過程が、あまりに出来すぎていて、 偶然だとは思えなかったので、投稿させていただきました。 私個人の話ではありますが、このコロナ禍で、観光関連だった勤め先が業績の 不振から多くの解雇者を出し、9月に私も対象になりました。すぐに有休消化に 入ったため、最後の二ヶ月は母の側にいてあげられました。もっと前だったら、 転職してしまっていたかもしれません。 母は二階にいたため、一階の録画した番組を見ることはで出来ませんでした。 少しお金をかければ二階でも見られると話しても、もったいないと固辞する ばかりでしたが、どうしても気になって、中古で安いものを探して設置したら、 喜んで見るようになりました。録り溜めした分が無くなった頃に、その余裕が ないほどに悪化しました。 旅立つことになった当日、呼び出しブザーを押しても誰も来ないと言われて、 調べてみたら、受信機側のスイッチがOFFになっていました。こんなことは 初めてでしたが、そのおかげでより母と家族の会話が増えました。 息苦しそうな母に、少しでもマシになればと、加湿機能付きの空気清浄機を 買って設置したのも、その旅立つにことになった当日のことです。全ては、 偶然と言えばそうなのですが、心停止を起こした時はトイレへ行くために、 父に支えながら歩いていた時だったため、最後の意識が父の温もりの中で あったことが、何より良かったと思います。 後悔や自責の念は当然ありますし、出来なかったことより、してあげられた ことを思い出そうともしていますが、全てが噛み合ったような巡り合わせに 感謝したいと思います。 少し落ち着いて、今は自分の感情がどこか客観的で平坦である感じですが、 これもまた心が壊れないようにするための、何かの巡り合わせでしょうか。